はじめの一歩 Beyond Glory 作:紅乃 晴@小説アカ
(くそ!くそ!くそっ!!)
当たらない。
全然当たらない……!
打ち出す拳はすべて空を切り、かろうじて届いたとしても、パーリングで軌道を逸らされる。掠めた感触があっても、それはまるで「触ってもいい」と言われたお情けのような無意味な接触だった。
「ごっ……!」
迂闊に踏み込めば、電光石火のパンチが飛んでくる。
しかも一発じゃない。
返し、返し、そのまた返し……二発三発と容赦ない追撃が、皮膚の奥にまで食い込んでくる。
距離を取っても無駄だ。
獅子御さんのリーチと間合い感覚は異常だ。遠いと思ったはずの間合いからでも、躊躇なく拳が飛んできて、俺の動き出しに刺さる。
「うっ、ぐぅ……!」
やっとの思いで防御に徹する。だが、グローブ越しに感じる衝撃の重さが、徐々に感覚を狂わせてくる。丸まるしかない。そうすることでしか、殴られるリズムを乱せなかった。
何より致命的だったのが、パンチの軌道が見えない点だ。 開始点と到着点を瞬間移動するようにまっすぐ飛んでくるそれは、俺にとっては未知の領域だった。視界に映った拳の大きさが急激に膨らんだと思えば、気づけば遥か後ろに引いている。
距離と時間の感覚まで狂ってくる。
(全然、自分のリズムで……ボクシングが……できない……!)
心が焦りに飲まれていく。
このままじゃ何もできない。
戦ってる実感さえない。
「くそったれがぁああ!!」
怒鳴って、前へ出た。脳裏に浮かんだのは父さんの教えでも、父が教えてくれたカウンターでもない。
ただ打ち合いたかった。
ここで引いたら、自分の存在が、全部嘘になる気がした。
(打ち勝つしか……!!)
「ーーーっ!」
次の瞬間、鳩尾を深く抉るボディーが突き刺さった。肺の奥から息が抜ける。声にもならない呻きが、口から洩れた。
攻め気は根こそぎ刈り取られ、前のめりになった身体を、どうにか足で支えるのがやっとだった。
気づけばゴングが鳴っていた。
いや、たぶん鳴っていたのだろう。
耳に入った記憶はない。
ただ、リングに上がった父が間に入り、獅子御さんが動きを止めたことでそれを察したに過ぎない。父さんがリングに上がってきたのが見えなければ、今が休憩なのかすら、わからなかった。
足元が震えている。
手が痺れて、グローブの中で指先がじんじんと痛む。脇腹には焼けるような痛みが走っていた。
ヘッドギアとボディプロテクターがなければ、一週間……いや、二週間はまともに過ごせなかったかもしれない。
それほどの衝撃だった。
まるで鋼の塊が拳に宿っていたような、鈍い爆発音が身体の奥で響いていた。
「喋らなくていい。とにかく呼吸を整えろ」
父の低く落ち着いた声が、遠くで鳴る鐘のように耳に届く。ああ、ちゃんと見てくれていた。そんな実感が、ほんの一瞬だけ胸に灯る。
(冷静になれ……焦るな……呼吸を整えるんだ……)
頭では分かっていても、身体がついてこない。肺が焼けついたように熱く、汗が頬を伝うのさえ煩わしかった。
それでも、一郎は必死に自分を立て直そうとする。今この瞬間に崩れては、何も得られず終わってしまう。
「……一郎」
呼吸を整えながら、目を閉じていた彼がそっと目を開ける。視線の先には、変わらぬ厳しさをたたえた父の顔。
「父さん……半端じゃないよ、獅子御さんは」
「だろうな。リングの外から見ていたら、なおさらよく分かる」
どこか呆れたようで、それでいて確かな評価のこもった声だった。
「目立った息切れもしてない……人間じゃないよ、あの人」
実際、月並みな感想しか出てこなかった。
本気のスパーリングだったとはいえ、こちらは防具付き、相手は16オンスのグローブ。
にもかかわらず、ほとんど何もさせてもらえず、状態もグロッキーだ。
何度もパンチを貰い、バランスを崩し、気付けば足が止まり、意識が遠のきかけていた。
(本気で殺されるかと思った……)
鷹村さんが「あいつと打ち合いたい」と言っていた理由がようやく分かった。
常人ではない。
あれは「バケモノ」だ。
そんな相手に真っ向からぶつかれる人間は、自分の知る限りで鷹村守ぐらいしかいない。バケモノにはバケモノを、という理屈。思い返すと馬鹿らしくて、つい笑みがこぼれる。
「……どうする、一郎。今のままじゃ、また1ラウンドと同じく、いいように殴られるだけかもしれんぞ」
父の言葉は静かだが、言葉の奥に「見極め」がある。
このまま続けて何か得られるのか、それともただ潰されるだけなのか。
その判断を、一郎に委ねていた。
「やるよ、父さん」
その目に、まだ光があった。痛みや恐怖に押し潰されてなお、意志だけは消えていなかった。
「こんな圧倒的な相手、滅多にいないんだ。やれることだけは……やり尽くすつもりだよ」
父は少し目を細めた。
それは滅多に見せない、誇りの滲んだ表情。
「あぁ……そうだな。頑張れよ、一郎」
「……オーライ!」
力強く返したその声に、もう迷いはなかった。
リングに立つその姿は、もはや“挑戦者”ではない。
一人のボクサーとして宮田一郎は闘おうとしていた。
▼
さて、どうしたものか。
1ラウンドで、一郎くんの動きはおおよそ掴めた。
2ラウンドは少し抑えて、彼に自由なボクシングをさせてみるか?
……そんな甘い選択肢、最初から論外だ。
優しさなんてものは、このリングには不要だ。
ボクサーに許されているのは、ただ勝つか、負けるか。その二つだけだ。
劇的な逆転劇が存在するのは確かだろう。だが、それは奇跡じゃない。そのすべては、“何を積み上げてきたか”で決まる。
生ぬるい情けを今ここで彼にかければ、それは彼の成長の妨げにしかならない。
大人気ない?
手加減してやれ?
そんな言葉は、リングの外にいる連中の戯言だ。
一郎くんは、真剣にボクシングと向き合っている。
だからこそ、彼の拳には確かな意思が宿っていた。
「中途半端なままでリングに立っているくらいなら、ボクシングなんかやめてしまえ」
彼の拳はそう語っていた。
だが、俺は辞める気はない。
強さを持て余し、マネージャー志望だなんてうつつを抜かしているように見えるかもしれない。だが、遊び半分でここに立っているわけじゃない。
俺がここにいる理由は、一つ。
道を作るためだ。
鷹村守という男が、俺に“世界”という背中を見せた。ならば俺は、その背中を、間違いじゃなかったと証明しなければならない。
……たぶん、きっと、俺が何もしなくても、鷹村は世界を取る。
無茶をして、無理をして、理不尽を喰らって、壊れながら。それでも、あの男は突き進むだろう。
己の魂すら削って、ボクシングにすべてを捧げて、ボクシングに恩を返し、あの男は世界に届く。
だけど俺は、そんな彼の背中に道を敷く者でありたい。拳で世界をひっくり返す彼の姿が、たった一人でも多くに届くように。
その道の途中で朽ち果てたとしても、それでいい。
だから、俺には、まだやるべきことがある。
一郎くんにそれを理解してほしいとは思わない。
けれど、拳で伝えることはできる。
俺がここにいる意味を。
俺が、獅子御誠司がここにいる理由を。
2ラウンド目。
さぁ、そんなに見たいのなら見せてやるよ、一郎くん。
これが、俺の答えだ。
▼
2ラウンド目が始まって、私は思わず目を細めた。
(……変わったな、一郎)
まるで別人のようだった。
ゴングが鳴ると同時、一郎はためらいなく前に出た。迷いがない。構えも、ステップも、踏み込みも、まるで若い獣のようだった。
「っらあああああッ!!」
叫び声と共に、一気に懐へと飛び込んだかと思えば、そこから怒涛の連打だ。上下左右、角度もリズムもズラしながら、まるで雨のように拳を降らせる。
(連打だ。とにかく打って、打って、打ちまくって、相手を圧倒する気か……!)
的を絞らせず、パーリングやカウンターを封じる。それしかないと判断したのだろう。
その姿は、まるでボクシングを始めたばかりの頃のように、無心にサンドバッグを叩き続けていた、あの頃の一郎だった。
勝ち負けもテクニックも関係なく、ただボクシングが楽しくて、拳を振るっていた頃の、あの目だ。
だが。
(それでも、届かない……のか)
獅子御くんは、そんな一郎の全力を、真正面から受けて立った。
全弾を躱したわけじゃない。腕で、腹で、肩で、頬で受ける。だが、それが致命打になる前に、ほんの一歩ずつ、姿勢を崩さずに処理していく。
あの受け方。
普通のプロボクサーなら、あんな防ぎ方はしない。
(……やはり、彼は喧嘩で生きてきた男だ)
そう確信できた。
獅子御くんの防御は、グローブ越しのボクシングではなく、素手での実戦から生まれている。
間合い、重心、払う角度、すべてが理にかなっている。だが、それは教科書的ではない。あくまで生存のために研ぎ澄まされた技術だ。
(鷹村との“喧嘩”の噂が本当なら、あの時すでに……)
生きるか死ぬかの殴り合いの中で、完成した防御。だからこそ、ここまでの連打を前にしても、獅子御くんはわずかに眉すら動かさない。
そして。
次の瞬間、獅子御くんが一歩、踏み込んだ。
「ーー!」
一郎の動きが、一瞬だけ鈍った。
その鈍りを見逃さない。左肩を小さく揺らすフェイント。視線が釣られた瞬間、低く鋭く差し込むボディブロー。
「ぐっ……!」
明確に効いた音が、私の耳にも届いた。
一郎はたまらず後退する。
だが、それでも引かない。
歯を食いしばって、前へ出る。
(……倒れないか)
ボディを食らっても尚、拳を振るう。
息子は止まらない。
その姿を見て、獅子御くんの瞳が静かに揺らいだのを私は見逃さなかった。
あれは、情だ。
技術でも、感情でもない。
人間としての、魂の震えだ。
(感じ取っているのか。一郎の思いを)
一郎の中に燃える「魂の熱」を。
冷徹に徹していた目が、今や心の底から拳を振るっている。勝ちたいのではない。彼も、そして息子の一郎も、ボクシングが、好きで好きで、たまらないのだ。
一郎の純粋な情熱が、獅子御 誠司という怪物の拳に火を灯したのかもしれない。
(遊びじゃない。だからこそ、応えたのか……)
このスパーリングは、もう“教える”とか“測る”とかいう次元ではない。
ボクシングがどれほど残酷で、熱く、そして“生きている”か。
拳で語る、二人の“本気”の殴り合い。
たとえ、ヘッドギアやボディプロテクターを着けていたとしても、関係なかった。
このスパーリングには、もはや安全だとか練習だとか、そんな甘い感覚は存在しない。
二人にとって、これは紛れもなく“試合”だった。
一郎は拳に迷いがなかった。打って、打って、打ちまくる。その攻撃は、まるで魂を燃やしているかのように真っ直ぐだった。
そして、それを受ける獅子御もまた、遊びの構えではなかった。すべてを受け止め、間合いを計り、冷静に、けれど本気で応戦している。
試合と何も変わらない。
いや、それ以上だった。
リングの上にいたのは、若き挑戦者と、それに応える“先を知る者”。
拳で語り、拳で問う。そして、拳で応える。
防具など、ただの形式に過ぎない。
そこにあるのは、拳と魂のぶつかり合い。
リングの四角い空間の中にあるのは、紛れもなく“真剣勝負”そのものだった。
▼
正直に言えば、気に食わなかった。
アドバイスはいつも的確だし、試合を控えた選手に対してのサポートやミット持ちも的確。
けれど、肝心の自分は戦わない。
冷めた目でボクシングを見つめて、傍から見れば“強いけどやらない人”。
……なにをやってんだ、って思ってた。
どこか逃げているように見えた。
だから、気に食わなかったんだ。
たぶん、その感情は拳に出ていた。俺は、そういうやつだ。拳で語るしかできない。
でも、もうそんな感情はどうでもいい。
今はただ……この人、強すぎる。
プロテクターがなければ一分もリングに立っていられない。
緊張感、この重圧。
ヘッドギアもボディプロテクターもしているってのに、殴られたところは今にも腫れ上がりそうだ。
獅子御さんは、化け物だ。
だから、こちらは打つしかない。
嵐のような連打。
打って、打って、打ちまくる。
これが俺の全力。
この手数で、撹乱して、パーリングもカウンターも封じ込める!
(いける……いけるぞ!)
そう思った矢先だった。
俺のジャブに合わせて、獅子御さんの右手が絡んでくる。
(!?)
カウンターじゃない。攻撃ですらない。
ほんの一瞬、俺のジャブを制し……その瞬間、流れが変わった。
「……っ、なに……」
目の前で、オーソドックスの構えがスイッチする。
サウスポー……!?
こんなタイミングで、スイッチで構えを変えるだと!?
動きは滑らかで、まるで最初からサウスポーがスタイルだったみたいに自然だ。しかもフェイントじゃない。自然体で、完全に切り替えてきてる。
(なんなんだよ……どこまで引き出しがあるんだ……!)
俺の中にあった「気に食わない」という感情が、完全に砕けた。
この人は、逃げてなんかいなかった。
冷めていたわけじゃない。
ただ、俺が気づけなかっただけだ。
ずっと、積み上げてきたんだ。
鷹村さんの傍で、喧嘩だろうが、スパーだろうが。
血を吐くような時間を、あの人は黙々と歩いてきた。
俺は、そんなことすら知らずに。
勝手に線を引いてた。勝手に測ってた。
「やらないくせに、偉そうにしてるだけ」
……そんな目で見てた自分が、今は恥ずかしい。
この人は、ずっと本気だった。
ボクシングから逃げてなんかいなかった。
ただ、それに気づけなかったのは、俺の目が曇っていただけだ。その強さが、拳から、足から、視線から――すべてから伝わってくる。
魂が、震えていた。
(それでも……!)
拳を構え直す。
スタンスが変わった?
構えがオーソドックスからサウスポーになった?
だから、なんだってんだ。
(俺は前に出る!俺のボクシングを、ここで出し切るだけだ!)
左腕が解放される。動く!
まだやれる!
……そう思った瞬間だった。
獅子御さんは、さらに一歩踏み込んでくる。
「っ……!」
完全に射程距離に入っている。
それだけでゾクリとする。
このまま撃たれる。本能の防御反応が、足を勝手に動かす。
でも、もう遅い。
(……すげぇ……)
俺は、すごいものを見ている。
鮮やかとしか言いようがないステップ。
まるで舞うような足運びから、鋭く、直線的に、利き手のジャブ。
ドンッ!
衝撃が、顔面を貫いた。
視界がブレる。脳が揺れる。
ジャブで距離を測ったあとの“間”。
それが何を意味するか、俺は一瞬で察した。
小脇に添えられていた、あの右手。
爆発するような一撃。
突如として巨大化したように見えた、グローブが目の前にくる。
「──あ、」
俺の記憶は、そこで途絶えた。