はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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宮田親子から見た獅子御(2)

 

 

(くそ!くそ!くそっ!!)

 

当たらない。

全然当たらない……!

 

打ち出す拳はすべて空を切り、かろうじて届いたとしても、パーリングで軌道を逸らされる。掠めた感触があっても、それはまるで「触ってもいい」と言われたお情けのような無意味な接触だった。

 

「ごっ……!」

 

迂闊に踏み込めば、電光石火のパンチが飛んでくる。

 

しかも一発じゃない。

 

返し、返し、そのまた返し……二発三発と容赦ない追撃が、皮膚の奥にまで食い込んでくる。

 

距離を取っても無駄だ。

 

獅子御さんのリーチと間合い感覚は異常だ。遠いと思ったはずの間合いからでも、躊躇なく拳が飛んできて、俺の動き出しに刺さる。

 

「うっ、ぐぅ……!」

 

やっとの思いで防御に徹する。だが、グローブ越しに感じる衝撃の重さが、徐々に感覚を狂わせてくる。丸まるしかない。そうすることでしか、殴られるリズムを乱せなかった。

 

何より致命的だったのが、パンチの軌道が見えない点だ。 開始点と到着点を瞬間移動するようにまっすぐ飛んでくるそれは、俺にとっては未知の領域だった。視界に映った拳の大きさが急激に膨らんだと思えば、気づけば遥か後ろに引いている。

 

距離と時間の感覚まで狂ってくる。

 

(全然、自分のリズムで……ボクシングが……できない……!)

 

心が焦りに飲まれていく。

このままじゃ何もできない。

戦ってる実感さえない。

 

「くそったれがぁああ!!」

 

怒鳴って、前へ出た。脳裏に浮かんだのは父さんの教えでも、父が教えてくれたカウンターでもない。

 

ただ打ち合いたかった。

ここで引いたら、自分の存在が、全部嘘になる気がした。

 

(打ち勝つしか……!!)

 

「ーーーっ!」

 

次の瞬間、鳩尾を深く抉るボディーが突き刺さった。肺の奥から息が抜ける。声にもならない呻きが、口から洩れた。

 

攻め気は根こそぎ刈り取られ、前のめりになった身体を、どうにか足で支えるのがやっとだった。

 

気づけばゴングが鳴っていた。

いや、たぶん鳴っていたのだろう。

耳に入った記憶はない。

 

ただ、リングに上がった父が間に入り、獅子御さんが動きを止めたことでそれを察したに過ぎない。父さんがリングに上がってきたのが見えなければ、今が休憩なのかすら、わからなかった。

 

足元が震えている。

手が痺れて、グローブの中で指先がじんじんと痛む。脇腹には焼けるような痛みが走っていた。

 

ヘッドギアとボディプロテクターがなければ、一週間……いや、二週間はまともに過ごせなかったかもしれない。

 

それほどの衝撃だった。

 

まるで鋼の塊が拳に宿っていたような、鈍い爆発音が身体の奥で響いていた。

 

「喋らなくていい。とにかく呼吸を整えろ」

 

父の低く落ち着いた声が、遠くで鳴る鐘のように耳に届く。ああ、ちゃんと見てくれていた。そんな実感が、ほんの一瞬だけ胸に灯る。

 

(冷静になれ……焦るな……呼吸を整えるんだ……)

 

頭では分かっていても、身体がついてこない。肺が焼けついたように熱く、汗が頬を伝うのさえ煩わしかった。

 

それでも、一郎は必死に自分を立て直そうとする。今この瞬間に崩れては、何も得られず終わってしまう。

 

「……一郎」

 

呼吸を整えながら、目を閉じていた彼がそっと目を開ける。視線の先には、変わらぬ厳しさをたたえた父の顔。

 

「父さん……半端じゃないよ、獅子御さんは」

 

「だろうな。リングの外から見ていたら、なおさらよく分かる」

 

どこか呆れたようで、それでいて確かな評価のこもった声だった。

 

「目立った息切れもしてない……人間じゃないよ、あの人」

 

実際、月並みな感想しか出てこなかった。

 

本気のスパーリングだったとはいえ、こちらは防具付き、相手は16オンスのグローブ。

 

にもかかわらず、ほとんど何もさせてもらえず、状態もグロッキーだ。

 

何度もパンチを貰い、バランスを崩し、気付けば足が止まり、意識が遠のきかけていた。

 

(本気で殺されるかと思った……)

 

鷹村さんが「あいつと打ち合いたい」と言っていた理由がようやく分かった。

 

常人ではない。

あれは「バケモノ」だ。

 

そんな相手に真っ向からぶつかれる人間は、自分の知る限りで鷹村守ぐらいしかいない。バケモノにはバケモノを、という理屈。思い返すと馬鹿らしくて、つい笑みがこぼれる。

 

「……どうする、一郎。今のままじゃ、また1ラウンドと同じく、いいように殴られるだけかもしれんぞ」

 

父の言葉は静かだが、言葉の奥に「見極め」がある。

 

このまま続けて何か得られるのか、それともただ潰されるだけなのか。

 

その判断を、一郎に委ねていた。

 

「やるよ、父さん」

 

その目に、まだ光があった。痛みや恐怖に押し潰されてなお、意志だけは消えていなかった。

 

「こんな圧倒的な相手、滅多にいないんだ。やれることだけは……やり尽くすつもりだよ」

 

父は少し目を細めた。

それは滅多に見せない、誇りの滲んだ表情。

 

「あぁ……そうだな。頑張れよ、一郎」

 

「……オーライ!」

 

力強く返したその声に、もう迷いはなかった。

リングに立つその姿は、もはや“挑戦者”ではない。

 

一人のボクサーとして宮田一郎は闘おうとしていた。

 

 

 

 

さて、どうしたものか。

 

1ラウンドで、一郎くんの動きはおおよそ掴めた。

 

2ラウンドは少し抑えて、彼に自由なボクシングをさせてみるか?

 

……そんな甘い選択肢、最初から論外だ。

 

優しさなんてものは、このリングには不要だ。

 

ボクサーに許されているのは、ただ勝つか、負けるか。その二つだけだ。

 

劇的な逆転劇が存在するのは確かだろう。だが、それは奇跡じゃない。そのすべては、“何を積み上げてきたか”で決まる。

 

生ぬるい情けを今ここで彼にかければ、それは彼の成長の妨げにしかならない。

 

大人気ない?

手加減してやれ?

 

そんな言葉は、リングの外にいる連中の戯言だ。

 

一郎くんは、真剣にボクシングと向き合っている。

だからこそ、彼の拳には確かな意思が宿っていた。

 

「中途半端なままでリングに立っているくらいなら、ボクシングなんかやめてしまえ」

 

彼の拳はそう語っていた。

 

だが、俺は辞める気はない。

 

強さを持て余し、マネージャー志望だなんてうつつを抜かしているように見えるかもしれない。だが、遊び半分でここに立っているわけじゃない。

 

俺がここにいる理由は、一つ。

 

道を作るためだ。

 

鷹村守という男が、俺に“世界”という背中を見せた。ならば俺は、その背中を、間違いじゃなかったと証明しなければならない。

 

……たぶん、きっと、俺が何もしなくても、鷹村は世界を取る。

 

無茶をして、無理をして、理不尽を喰らって、壊れながら。それでも、あの男は突き進むだろう。

 

己の魂すら削って、ボクシングにすべてを捧げて、ボクシングに恩を返し、あの男は世界に届く。

 

だけど俺は、そんな彼の背中に道を敷く者でありたい。拳で世界をひっくり返す彼の姿が、たった一人でも多くに届くように。

 

その道の途中で朽ち果てたとしても、それでいい。

 

だから、俺には、まだやるべきことがある。

 

一郎くんにそれを理解してほしいとは思わない。

 

けれど、拳で伝えることはできる。

俺がここにいる意味を。

 

俺が、獅子御誠司がここにいる理由を。

 

2ラウンド目。

 

さぁ、そんなに見たいのなら見せてやるよ、一郎くん。

 

これが、俺の答えだ。

 

 

 

 

2ラウンド目が始まって、私は思わず目を細めた。

 

(……変わったな、一郎)

 

まるで別人のようだった。

 

ゴングが鳴ると同時、一郎はためらいなく前に出た。迷いがない。構えも、ステップも、踏み込みも、まるで若い獣のようだった。

 

「っらあああああッ!!」

 

叫び声と共に、一気に懐へと飛び込んだかと思えば、そこから怒涛の連打だ。上下左右、角度もリズムもズラしながら、まるで雨のように拳を降らせる。

 

(連打だ。とにかく打って、打って、打ちまくって、相手を圧倒する気か……!)

 

的を絞らせず、パーリングやカウンターを封じる。それしかないと判断したのだろう。

 

その姿は、まるでボクシングを始めたばかりの頃のように、無心にサンドバッグを叩き続けていた、あの頃の一郎だった。

 

勝ち負けもテクニックも関係なく、ただボクシングが楽しくて、拳を振るっていた頃の、あの目だ。

 

だが。

 

(それでも、届かない……のか)

 

獅子御くんは、そんな一郎の全力を、真正面から受けて立った。

 

全弾を躱したわけじゃない。腕で、腹で、肩で、頬で受ける。だが、それが致命打になる前に、ほんの一歩ずつ、姿勢を崩さずに処理していく。

 

あの受け方。

普通のプロボクサーなら、あんな防ぎ方はしない。

 

(……やはり、彼は喧嘩で生きてきた男だ)

 

そう確信できた。

 

獅子御くんの防御は、グローブ越しのボクシングではなく、素手での実戦から生まれている。

 

間合い、重心、払う角度、すべてが理にかなっている。だが、それは教科書的ではない。あくまで生存のために研ぎ澄まされた技術だ。

 

(鷹村との“喧嘩”の噂が本当なら、あの時すでに……)

 

生きるか死ぬかの殴り合いの中で、完成した防御。だからこそ、ここまでの連打を前にしても、獅子御くんはわずかに眉すら動かさない。

 

そして。

 

次の瞬間、獅子御くんが一歩、踏み込んだ。

 

「ーー!」

 

一郎の動きが、一瞬だけ鈍った。

 

その鈍りを見逃さない。左肩を小さく揺らすフェイント。視線が釣られた瞬間、低く鋭く差し込むボディブロー。

 

「ぐっ……!」

 

明確に効いた音が、私の耳にも届いた。

 

一郎はたまらず後退する。

だが、それでも引かない。

歯を食いしばって、前へ出る。

 

(……倒れないか)

 

ボディを食らっても尚、拳を振るう。

息子は止まらない。

 

その姿を見て、獅子御くんの瞳が静かに揺らいだのを私は見逃さなかった。

 

あれは、情だ。

技術でも、感情でもない。

人間としての、魂の震えだ。

 

(感じ取っているのか。一郎の思いを)

 

一郎の中に燃える「魂の熱」を。

 

冷徹に徹していた目が、今や心の底から拳を振るっている。勝ちたいのではない。彼も、そして息子の一郎も、ボクシングが、好きで好きで、たまらないのだ。

 

一郎の純粋な情熱が、獅子御 誠司という怪物の拳に火を灯したのかもしれない。

 

(遊びじゃない。だからこそ、応えたのか……)

 

このスパーリングは、もう“教える”とか“測る”とかいう次元ではない。

 

ボクシングがどれほど残酷で、熱く、そして“生きている”か。

 

拳で語る、二人の“本気”の殴り合い。

 

たとえ、ヘッドギアやボディプロテクターを着けていたとしても、関係なかった。

 

このスパーリングには、もはや安全だとか練習だとか、そんな甘い感覚は存在しない。

 

二人にとって、これは紛れもなく“試合”だった。

 

一郎は拳に迷いがなかった。打って、打って、打ちまくる。その攻撃は、まるで魂を燃やしているかのように真っ直ぐだった。

 

そして、それを受ける獅子御もまた、遊びの構えではなかった。すべてを受け止め、間合いを計り、冷静に、けれど本気で応戦している。

 

試合と何も変わらない。

 

いや、それ以上だった。

 

リングの上にいたのは、若き挑戦者と、それに応える“先を知る者”。

 

拳で語り、拳で問う。そして、拳で応える。

 

防具など、ただの形式に過ぎない。

 

そこにあるのは、拳と魂のぶつかり合い。

 

リングの四角い空間の中にあるのは、紛れもなく“真剣勝負”そのものだった。

 

 

 

 

正直に言えば、気に食わなかった。

 

アドバイスはいつも的確だし、試合を控えた選手に対してのサポートやミット持ちも的確。

けれど、肝心の自分は戦わない。

 

冷めた目でボクシングを見つめて、傍から見れば“強いけどやらない人”。

 

……なにをやってんだ、って思ってた。

 

どこか逃げているように見えた。

だから、気に食わなかったんだ。

 

たぶん、その感情は拳に出ていた。俺は、そういうやつだ。拳で語るしかできない。

 

でも、もうそんな感情はどうでもいい。

今はただ……この人、強すぎる。

 

プロテクターがなければ一分もリングに立っていられない。

 

緊張感、この重圧。

 

ヘッドギアもボディプロテクターもしているってのに、殴られたところは今にも腫れ上がりそうだ。

 

獅子御さんは、化け物だ。

 

だから、こちらは打つしかない。

嵐のような連打。

打って、打って、打ちまくる。

 

これが俺の全力。

この手数で、撹乱して、パーリングもカウンターも封じ込める!

 

(いける……いけるぞ!)

 

そう思った矢先だった。

俺のジャブに合わせて、獅子御さんの右手が絡んでくる。

 

(!?)

 

カウンターじゃない。攻撃ですらない。

ほんの一瞬、俺のジャブを制し……その瞬間、流れが変わった。

 

「……っ、なに……」

 

目の前で、オーソドックスの構えがスイッチする。

サウスポー……!?

こんなタイミングで、スイッチで構えを変えるだと!?

動きは滑らかで、まるで最初からサウスポーがスタイルだったみたいに自然だ。しかもフェイントじゃない。自然体で、完全に切り替えてきてる。

 

(なんなんだよ……どこまで引き出しがあるんだ……!)

 

俺の中にあった「気に食わない」という感情が、完全に砕けた。

 

この人は、逃げてなんかいなかった。

冷めていたわけじゃない。

ただ、俺が気づけなかっただけだ。

 

ずっと、積み上げてきたんだ。

鷹村さんの傍で、喧嘩だろうが、スパーだろうが。

血を吐くような時間を、あの人は黙々と歩いてきた。

 

俺は、そんなことすら知らずに。

勝手に線を引いてた。勝手に測ってた。

 

「やらないくせに、偉そうにしてるだけ」

 

……そんな目で見てた自分が、今は恥ずかしい。

 

この人は、ずっと本気だった。

ボクシングから逃げてなんかいなかった。

 

ただ、それに気づけなかったのは、俺の目が曇っていただけだ。その強さが、拳から、足から、視線から――すべてから伝わってくる。

 

魂が、震えていた。

 

(それでも……!)

 

拳を構え直す。

スタンスが変わった?

構えがオーソドックスからサウスポーになった?

だから、なんだってんだ。

 

(俺は前に出る!俺のボクシングを、ここで出し切るだけだ!)

 

左腕が解放される。動く!

まだやれる!

 

……そう思った瞬間だった。

 

獅子御さんは、さらに一歩踏み込んでくる。

 

「っ……!」

 

完全に射程距離に入っている。

それだけでゾクリとする。

このまま撃たれる。本能の防御反応が、足を勝手に動かす。

でも、もう遅い。

 

(……すげぇ……)

 

俺は、すごいものを見ている。

 

鮮やかとしか言いようがないステップ。

まるで舞うような足運びから、鋭く、直線的に、利き手のジャブ。

 

ドンッ!

 

衝撃が、顔面を貫いた。

視界がブレる。脳が揺れる。

 

ジャブで距離を測ったあとの“間”。

 

それが何を意味するか、俺は一瞬で察した。

 

小脇に添えられていた、あの右手。

 

爆発するような一撃。

突如として巨大化したように見えた、グローブが目の前にくる。

 

「──あ、」

 

俺の記憶は、そこで途絶えた。

 

 

 

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