はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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白熱のリングの後に

 

 

ーーーはっ。

 

意識が浮上した瞬間、天井の蛍光灯の白い光がぼやけて見えた。

 

気がつけば、俺はジムの長椅子に横たわっていた。身につけていたヘッドギアも、ボディプロテクターも、グローブも外されている。額や首筋には冷えた濡れタオル。微かに消毒液と汗の混じった匂いが鼻を刺した。

 

タオルを手でどけ、上体を起こそうとした途端、全身に鈍い痛みが走る。肋骨のあたりが特に重く、息を吸うたびに内側から押し広げられるような違和感があった。

 

視線を落とすと、プロテクターを着けていたはずの胴が、あちこちで青く染まっている。皮膚の下に広がった打撃の痕跡が、さっきまでの戦いを物語っていた。

 

「目が覚めたか、一郎」

 

低い声がして顔を上げると、父がバケツを片手に立っていた。

 

その表情は一見淡々としているが、目の奥には“よく生き延びたな”とでも言いたげな色がある。

父も獅子御さんの攻撃力の底知れなさを、肌で感じ取っていたのだろう。

 

差し出された水を口に含み、吐き出す。

バケツの中で、水が赤黒く変色していく。

固まった血がゆっくりと溶け、試合の余韻のように揺れていた。

 

「どうだった、お前から見て」

 

少し考えてから、口が勝手に動いた。

 

「あれでまだ底が見えないって……冗談だろ?鷹村さんから粗暴さと野獣性を抜いて、そのぶんテクニックと理性を何段も積み上げたような相手だったよ」

 

父は笑った。

 

「はっはっはっ、そりゃあ強敵だな。外から見ても、あのレベルのボクサーは日本の現役世代でも滅多にいない。鷹村とは違う意味で……世界を狙えるボクサーに違いない」

 

「狙える、じゃない。世界を取るボクサーの間違いだよ、父さん」

 

言葉に迷いはなかった。

途方もない才能と、そこに乗る実力。それを前にして、心を折られるどころか、むしろ俺は燃えていた。

 

届かない壁じゃない。

届かせるために、ここから何を積み上げるか。

それが俺の戦いだ。

 

父はそんな俺をじっと見て、何も言わず、ただ口元をわずかに吊り上げる。

ジムの空気は静かだ。外の車の音や、壁時計の秒針の刻みがやけに耳につくほどに。

それでも胸の奥では、あの嵐のような連打の余韻がまだ暴れ続けていた。

 

だが……どうしてだ?

獅子御さんの力を誰よりも認めているはずの父が、「世界を取る」と言わず「世界を狙える」と言った理由が分からない。

知らず知らずのうちに、不満げな視線を父に向けていた。

 

父は首を振り、静かに言った。

「獅子御くんは、世界を取ることもできるだろう。だが、彼には決定的に欠けているものがある」

 

「欠けている……?」

 

「野心や野望──世界を取るという強い意志だ」

 

その言葉が、じわりと胸に沈んでいく。

世界を取る力と、世界を取る覚悟は別物。

そう言われてみれば、獅子御さんは常に涼しい顔で、勝利や栄光を渇望するようなギラつきは見せない。

勝つために全てを捨てる、そんな危うさがない……いや、あえて持たないのか。

 

考えかけたその時、ロッカールームの方から爆音のような怒声が響き渡った。

 

「宮田とスパーやっただとぉぉ!?俺様との誘いを蹴りまくってるくせに、どういうつもりだテメェー!!」

 

ジムの空気が一瞬でかき乱される。まるで野生の獣が檻を破って飛び出してきたみたいだ。

 

「あー、うるさいうるさい。一郎くんが寝てるんだから静かにしてよ、守くん」

 

その声は、あの獅子御さんのものだった。

 

振り返れば、まさに鬼の形相を浮かべた鷹村さんが、拳を握りしめて獅子御さんに詰め寄っている。

対する獅子御さんは、相変わらずの気だるげな笑みを浮かべ、はいはいと手をひらひらさせて受け流す。

 

「鷹村さん、帰ってきたんだ」

 

「ついさっきな。私もジム生や篠田さんたちに口止めをしておいたんだが……一郎の姿と獅子御くんの気配を感じて、すぐに看破したみたいだね」

 

「獣かよ……」

 

呆れた言葉が口をついて出る。

今回ばかりは、俺も父と同じ感想だった。

 

ロッカールームの入口から現れた二人。とくに鷹村さんは、ドア枠を片手で思い切り押し開けて入ってきた。目はギラギラ、鼻息は荒く、肩の筋肉が怒りで膨らんでいる。その視線は真っすぐに獅子御さんに突き刺さった。

 

「おいコラ誠司……お前、なんで宮田とスパーをやったぁ……!?」

 

獅子御さんはタオルで首筋を拭きながら、面倒くさそうに顔を上げる。

 

「うん、やったけど? なんか問題でも?」

 

「問題しかねぇんだよッ!!」

 

鷹村さんがズカズカと間合いを詰める。踏み込むたびに床が軋む音が響き、ジム全体の空気がピリッと張り詰めた。

 

「いつもいつも“今は気分じゃない”だの“調整中だから”だの、ぐだぐだ言って俺様のスパーは全部蹴ってんだろうが!それがどうして宮田とはやる!?あぁ!?説明しろやコラ!!」

 

獅子御さんは、鷹村さんの剣幕にも一切動じず、タオルをベンチに置くと、ポケットに片手を突っ込んだ。

 

「だーかーらー、守くんとやっても今は面白くないって言ってるでしょ」

 

「なーんーだーとぉおおーー!?」

 

鷹村さんの声は、ほとんど獣の咆哮だった。

俺の鼓膜がビリビリと震える。

 

「だって守くん、全力でやったら潰しちゃうでしょ?それじゃつまんないじゃん。もうちょっと本気を出せる相手になってから、遊んであげるよ」

 

鷹村さん相手になんて挑発だ。同じジムの訓練生や所属選手がハラハラと二人のやりとりを見ているのがわかる。

 

獅子御さんは淡々とした声で言い放つが、その口元にはほんのり笑みが浮かんでいる。

 

もう煽ってるのか、本心なのか、判断がつかない。

 

「潰すだと……!?おいテメェ、今すぐリング上がれ!俺様が口の利き方ってもんを拳で教えてやる!!」

 

鷹村さんが拳を握り、ゴリッと骨が鳴る音が聞こえた。

 

「今は疲れてるし、パス」

 

獅子御さんはあくまで軽くかわす。

だが……本気を出せばこの人もまた、化け物だ。

そんな火花が散る空気を切り裂くように、奥から雷鳴のような声が響き渡った。

 

「うるさいぞ貴様ら!!怒鳴りあう元気があるなら、さっさとロードワークに行ってこんかぁああ!!」

 

鴨川会長だ。

杖を突きながらの歩みはゆっくりなのに、迫ってくる圧は現役時代のジャブにも負けていない。

視線ひとつで、ジム中の空気が一瞬で凍る。

 

「うるせぇジジイ!!こちとら事件なんだよ!!!!!!」

 

鷹村さんが吠える。

声のボリュームと迫力は、会長にも一歩も引かない。

 

……その“事件”ってやつの当事者は、俺なんだけどなぁ。

 

獅子御さんは、そんな鷹村さんの剣幕を受けても表情ひとつ変えず、むしろ肩をすくめて口角を上げた。

 

「じゃあ、ロードで俺より早く走り帰ってきたらスパーのこと考えるよ」

 

挑発とも条件提示ともつかないその一言に、鷹村さんの眉間の皺が深くなる。

 

「おう、言ったな? 言いやがったな!?今日こそてめーの前を走って帰ってきてやらぁ!その後にスパーだ!忘れんなよ!!」

 

「俺が勝ったらスポドリ奢りね。こないだの試合でファイトマネー入ったんだろ?」

 

「うるせぇバーカ!俺様が勝つんだからそんなもんやるかってんだ!!」

 

言葉と同時に、お互いの鼻先が触れそうな距離まで近づく。周囲のジム生は固唾を呑んで見守っているが、二人の空気感はまるでリングのゴングが鳴る前のようだ。

 

しばらく睨み合うと、二人は「行くぞ」とでも言うように視線を交わし、入口の方へ向かって歩き出した。

 

引き戸の扉を開き、次の瞬間には二人揃ってロードワークに飛び出していく。去っていく背中を見送りながら、俺はぼんやりと考えていた。

 

……冷静に考えたら、鷹村さんの無尽蔵なスタミナを前に、前を走って帰って来れるなんて、やっぱり獅子御さん、化け物だ。

 

そんなことを思いながら、俺もクールダウンのためにシャワールームへ向かった。

 

 

 

 

 

ジムの2階にある会長室。

 

壁に掛かった古びた時計の秒針だけが、一定のリズムを刻んでいた。

 

つい先ほどまで、あの嵐のようなスパーの音が響いていた場所とは思えないほどの静けさだ。

 

「そうか……宮田と獅子御がスパーをやったか」

 

鴨川会長の声が、その静けさをやわらかく切り裂いた。

 

低く、しかし耳の奥まで響く声だ。

現役時代、リングの上で相手を射すくめた視線と同じ圧を、いまだにその身にまとっている。

 

その視線が私に向く――感想を求めていた。

 

「……すごいなんてものじゃありませんでした」

 

私は一拍置いて言葉を選んだ。

 

「あれは途方もない実力です。鷹村と、負けず劣らず」

 

口にしてみて、改めて自分でも驚く。

 

あの鷹村と肩を並べる、と断言できる選手が現れるなど、予想もしてなかった。

 

反射神経、判断力、そして攻防の切り替え……どれも一流。だが、それだけではない。

 

まるで、相手の未来の動きを読んでいるかのような間合いの取り方をしていた。

 

会長は目を細め、静かに息をつく。

 

「……それを見抜けなかったワシも、歳を取ったということじゃのう」

 

その言葉には、自嘲とも、諦観ともつかない響きがあった。しかし、私は即座に否定した。

 

「いえ、それは違います」

 

会長の片眉がわずかに上がる。

 

「彼には、世界を取る気概や、チャンピオンになる野望や執念……そういった“熱”がないんです。

そしてそれは、ボクサーとして決定的に欠けている欠点です」

 

私はスパーを見ながら、何度もその事実を突き付けられた。あれほどの身体能力と技術を持ちながら、その瞳には飢えがない。

 

倒しに行く時の、あの一瞬の“殺気”が、彼には薄い。まるで、勝敗よりも「試合そのもの」を楽しんでいるように見えた。

 

会長は深くうなずいた。

 

「なるほど……勝つ、相手を倒す、頂点に立つ気概がないのなら、見抜くことなど到底できんわな」

 

会長は顎に手をやり、ほんのわずかにうつむいた。

その姿は、長年の勘と経験を頼りに数多の才能を見極めてきた男が、自らの目を省みる瞬間だった。

だが、その背中には、まだ老いきってはいない炎の気配がある。

 

私は言葉を継いだ。

 

「――今日、私は新たなボクシングの可能性を見ました」

 

自分でも意外なほど、声ははっきりしていた。

 

「あれは、これまで私が知っていたボクシングとはまるで違う……新たな道が、目の前に開けたように思えます」

 

会長の片眉が、わずかに動く。やがて口角がほんの少しだけ吊り上がる――それは、何かを面白がるようだった。

 

「それほどまでか……ならば、鷹村とぶつけるのもいいのかもしれんな」

 

会長の低い声が、どこか楽しみと期待感に満ちている。だが、私はその勢いを断ち切った。

 

「獅子御くんからの言伝ですが……鷹村とのスパーは、まだやるつもりはないそうです」

 

会長の目がわずかに細まる。

 

「なぜじゃ?」

 

「まだ会長の教えるボクシングに浸かり切っていないから――」

 

私は息を吸い、彼の言葉をそのまま伝えた。

 

「つま先から頭のてっぺんまで、鴨川会長のボクシングに染まってから。その後でいいと」

 

しばし沈黙が落ちる。

 

その短い間に、会長の目が微かに輝きを帯びた。

それは、かつて若き鷹村を初めて見たとき、あるいはもっと昔、自らの拳に夢を託した頃と同じ、ボクシングにかける熱に満ちた目だ。

 

「ふん……青二才がいいよるわ」

 

口に出た言葉は、あくまで挑発めいていた。

だが、その声色には、抑えきれない愉快さと、次に訪れる戦いを待ち望む熱が混じっていた

 

何十年もボクシング界に身を置いた私には、それがはっきりとわかった。

 

会長は視線を窓の外へとやる。

 

そこには、夕陽に焼けた赤い空が広がっていた。

その色は、まるでリングの上で交わされる熱い拳のようだった。

 

 

 

 




次回から、青木と木村編です。
泥試合ファイターの強化フェーズです。
生き残れるといいなー!!
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