はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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今回は冒頭ですが短いです


熱中時代
少し後の話を


 

 

「ボクシングを始めた理由だぁ?」

 

木村さんと青木さんの試合から数日後。

二人はどうにか勝ちはしたものの、怪我は深く、まだ動くのもつらそうだ。

 

見舞いのために訪れたのは、木村さんの実家である木村園芸。

 

花の甘い香りと湿った土の匂いが漂う店先を抜け、ギシギシと音を立てる階段を上っていく。

 

2階の一番奥が、木村さんの部屋だった。

 

窓からは柔らかい昼下がりの光が差し込み、壁には色褪せたポスター。端のハンガーラックには練習着が並んでいるが、どれも少し皺が寄っている。

 

ベッドの壁際にかけられたボクシンググローブ。その横には小さな本棚があり、漫画とトレーニング雑誌が無造作に突っ込まれていた。

 

木村さんはそのベッドに腰を下ろし、氷の浮いた麦茶を飲んでいる。

隣には青木さん。片足を投げ出しながら、同じくコップを傾けていた。

 

鷹村さんは部屋の隅に腰を落ち着け、僕は持ってきたスポーツドリンクや雑誌を置いていく。

 

「お?こいつはいいモン見つけたぜ」

 

鷹村さんがニヤリと笑い、棚の奥から厚みのあるアルバムを引っ張り出した。表紙は擦り切れ、端が少しめくれている。

 

パラパラとページをめくると、そこに写っていたのは、僕の知っている二人とはまるで別人だった。

 

リーゼントにサングラス、バイクに跨り煙草をくわえた木村さん。横には、シャツの襟を立て、今の倍は鋭い目つきでカメラを睨みつける青木さん。

 

写真越しにも、汗と油の混じったような空気が伝わってくる。

 

「不良がボクシング始めるなんてよくある話だよなぁ」

 

木村さんが鼻で笑いそう言った次の瞬間、腹を抱えて転げ回るほど爆笑し始めた。

 

「ククク……小物が粋がってやがる!映画の端役にいそうだぜ!ギャハハハ!!」

 

「笑うなぁ!」

 

木村さんが枕をつかんで、座ったまま全力で投げつける。青木さんは顔を真っ赤にし、手をワナワナと震わせるが、挑めば返り討ちに遭うのはわかっているのか、歯ぎしりだけで堪えていた。

 

笑いそうになる口元を押さえたまま、ふと部屋の隅に置かれた赤いボクシンググローブに目をやった。表面は少し擦り切れ、拳の付け根には細かいほつれ。

 

きっと木村さんと青木さんが流した汗や、殴り合った時間がそのまま刻まれているんだろう。

 

腹を抱えて笑っていた鷹村さんは、ふっと息を吐くと急に真顔になった。

 

「そうか……もう5年か」

 

「……あっという間だな」

 

木村さんは天井を見上げ、枕を頭の後ろに差し込む。

 

「お前ら、アイツの実験台になってたもんな」

鷹村さんのその一言で、さっきまでの軽い空気が一変した。

 

「ゲッ……思い出させないでくれよ……」

 

青木さんは眉をひそめ、顔を引きつらせる。

木村さんも苦笑しながら額を押さえた。

 

鷹村さんが言った“アイツ”――僕はすぐに察した。

 

獅子御 誠司。

 

かつて鴨川ジムでトレーナー補佐を務め、現役のトップ選手すら怯ませる実力を持った男。

 

「あの日々はマジで地獄だったからな……」

 

木村さんは吐き捨てるように言った。

 

(会長のシゴキも十分すごいと思うけど……)

 

僕がそう思う間もなく、二人は首を横に振った。

 

「お前のはまだマシだ」

 

「こっちは命の保証がない感じだったからな」

 

それは、目標を最大限利用したスパルタの極みだったらしい。ミット打ちのはずが、いきなり本気のカウンターが飛んでくるスパー。ロードワークの途中、何の前触れもなく山道ダッシュに切り替え。

八木さんや篠田さんですら「これ……大丈夫なんですかね……」と不安そうに呟いたほどだ。

 

(……そんなに厳しい日々だったんだ)

 

僕は、あの人……獅子御さんのことを思い出していた。

 

実際に顔を合わせた時間は、指で数えられるほどしかない。でも、宮田くんのお父さんや篠田トレーナー、八木さんまで、いろんな人が彼の話をしてくれた。

 

ミット打ちでプロを泣かせたとか、ロードワークで全員を置き去りにしたとか……それが誇張じゃないってことは、二人の反応を見ればよくわかる。

 

木村さんと青木さんは、あの人の名前が出た瞬間、肩がわずかに強張っていた。

 

尊敬と畏怖。

その両方を混ぜたような、複雑な空気が部屋に広がっている。

 

「宮田のやつも、誠司にくっ付いてアメリカに行っちまったからなぁ。今頃、何やってんだか……」

 

鷹村さんは天井を見ながらつぶやいた。

僕は、その言葉に少し胸がざわついた。

 

地下で二回目となったスパーリングが終わってからすぐ、ジムを辞めてアメリカに行くことを宮田くんは告白した。

 

宮田くんのお父さんは鴨川ジムに残り、彼はただ一人で旅立った。向かった先で待っているのが獅子御さん。

 

宮田くんは、ずっと「獅子御さん」と呼んでいた。僕とは違う距離感だったけれど、その声は尊敬と信頼が入り混じった響きだった。

 

僕が新人王を取った後、届いた葉書にはただ一言。

 

【こっちのジムに入った。獅子御さんと一緒に本場でやってる】

 

それだけだったけれど、噂では、獅子御さんはアメリカでスポーツ医学やトレーニング理論を学んでいて、そこで“ミゲル”という名トレーナーや、“ホーク”という恐ろしく強いファイターに出会ったらしい。

 

そして、宮田くんもその環境に身を置くことになった……と。

 

「ボクは……獅子御さんとは、あまり関わる機会がなかったんですが、すごい人だって話はよく聞きました」

 

僕がそう言うと、青木さんと木村さんが即座に声をそろえた。

 

「すごいなんてもんじゃねーよ」

 

「あれは正真正銘のバケモンだったぜ……」

 

鷹村さんがニヤリと笑って、胸を張る。

 

「ま!俺様の生涯の宿敵だからな!当然だな!」

 

……でも、僕は知っている。獅子御さんのアメリカ行きが決まったとき、鷹村さんが「勝ち逃げは許さねぇぞ!!」と大揉めに揉め、最後は「アメリカでやることを終えたら、必ず決着をつける」という約束で手打ちになったことを。

 

(鷹村さんが唯一負けた相手って……ほんとなんですよね)

 

そう思った瞬間、木村さんがジロッと僕を見た。

 

(一歩、命が惜しいならその話は絶対に出すなよ)

 

低く押し殺した声は、笑いを一切含んでいなかった。僕は慌てて、その話題を胸の奥に封じ込めた。

 

畳の上に置かれた古びたアルバムは、まだ開かれたまま。僕は正座した膝に少し力を入れ、空気を変えたくて口を開いた。

 

「ふ、二人がボクシングを始めた頃って……どうだったんですか?」

 

木村さんは布団にもたれながら、顎をかきつつ「ん、んー……」と歯切れ悪く答える。

 

青木さんはベッドに腰掛けたまま、視線を部屋の隅に泳がせ、「それは……」と口ごもった。

 

「教えてくださいよぉ」

 

正座のまま、僕はぐっと前のめりになって二人の顔を覗き込む。まるで子どもが昔話をせがむみたいに。

 

「おい青木、お前から話せよ」

 

「いや木村が先に言え」

 

「なんだよ、俺かよ……」

 

二人は微妙な距離を保ちながら、互いに押し付け合う。外から差し込む午後の日差しが、二人の照れくさそうな表情を斜めに照らしていた。

 

ついさっきまであったピリついた空気は、少しずつほどけていた。

 

 

 

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