はじめの一歩 Beyond Glory   作:紅乃 晴@小説アカ

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青春の風(1)

 

 

あれは……俺と青木がまだ、喧嘩しか取り柄がなかった頃の話だ。

 

同級生から「ヤベぇ!今、北高の奴らに囲まれてる!」って電話が来た。しかも相手は六人。俺と青木は即座にバイクに飛び乗って、ファミレスまで直行した。

 

店のドアを開けた瞬間、視線が一斉にこっちに向く。奥の席で、うちの学校の仲間がテーブルに押しつけられるみたいにして座ってて、その周りを北高の六人が囲んでた。

 

全員、目がギラついてる。

……ああいう目は、俺も青木も見慣れてる。

やる気満々の目だ。

 

「行くぞ、青木」

 

「ああ。全部ぶっ潰して――」

 

その時だ。

 

「喧嘩をするのは別にいいけど、ここは飯を食う場所だ。やるなら外でやれ」

 

背後から低い声がした。

振り向くと、制服姿の男が一人、俺たちの後ろに立っている。リーゼントでも金髪でもない。ただ髪は無造作に後ろへ流し、目はやけに落ち着いてる。

 

年上っぽい雰囲気だったが、最初は“ただの真面目そうな兄ちゃん”ぐらいにしか思わなかった。

 

けど、北高の反応が異常だった。

 

「し、獅子御……誠司……さん……!」

 

まるで幽霊でも見たみたいに声が裏返り、全員が立ち上がる。

 

「すいません!ここにいるなんて知らなくて……!すぐ出ます!」

 

店中の客が振り返る中、六人全員が小走りで会計を済ませ、外へ逃げるように出て行った。残された俺と青木は、毒気を抜かれたみたいに一瞬動けなかった。仲間もポカンとしてやがる。

 

「……なんだ、今の」

「さあな」

 

その時にはもう、そいつ……獅子御は俺たちに背を向けて、自分の席に戻ろうとしていた。先にある席には参考書のページは開いたまま、シャーペンまで置きっぱなしだった。

 

そのまま行かれるのを、青木が見逃すわけがない。

 

「おい待てや。北高の連中追い出してヒーロー気取りか?おかげでカチコミのタイミング逃したんだよ。どう落とし前つけんだ」

 

「なら外でやってこい。さっきも言ったが、ここは飯を食う場所だ」

 

その落ち着き払った口調が、逆にカンに障ったんだろう。

青木の眉間に皺が寄り、肩がピクリと震えた。

 

「……テメェ、ふざけんなよッ!」

 

怒鳴るよりも先に、青木は右拳を全力で振り抜いていた。

まるで頭の中の安全装置が外れたみたいに、加減も何もない。

俺の目には、その拳が空気を切り裂いて伸びていく瞬間がスローに見えた。

 

だが――

 

パシッ。

 

乾いた音と共に、その拳は顔に届く前に片手で受け止められた。

 

「なっ……!」と青木が顔を歪める。

 

軽く添えられただけに見えるのに、青木の腕は石に挟まれたみたいに動かない。むしろ、握られたところから体温が吸い取られるようで、俺の背筋まで冷えていく。

 

「お前たちの鬱憤バラシに付き合う暇はない。……さっさと消えろ」

 

低くもよく通る声だった。怒鳴っているわけじゃないのに、耳の奥まで響く。その目は……冷たいわけでも、怒ってるわけでもなかった。ただ真っ直ぐ、芯の奥まで見透かすみたいに、俺たちを射抜いてくる。

 

言葉よりも、あの視線の方がよほど怖かった。

 

「これ以上踏み込めば、お前は終わる」――そう告げられている気がした。

 

全身が、一気に氷水に突っ込まれたように冷えた。

頭に血が上っていたはずの俺も青木も、気づけば踵を返していた。

外で待っていた北高の連中の顔が見えた瞬間、妙に安心したくらいだ。

 

……あれは勝負を挑むとか、そういう発想が吹き飛ぶ目だった。

 

後で知った。

 

「鷲と獅子」――俺たちの世代で伝説になっていた、無敗の二人組。

 

名前を出せば、どこの不良でも顔色を変え、その武勇伝は半ば怪談みたいに語られていた。鷲が鷹村守なのは前から噂で知っていた。

 

けど……まさか、あの“獅子”が、獅子御だったとは。

 

あのとき青木や俺が、何もされずに済んだのは腕前や立ち回りじゃない。

 

本当に、ただの運――いや……違う。

あれは逆に、運がなかったのかもしれない。

 

なぜなら、あの瞬間に俺たちは、確実に“目”に留まったからだ。

 

捕食者が草むらの中から獲物を覚えるみたいに、獅子御の記憶に刻み込まれた。

 

そして後日――俺と青木は、その記憶のせいで、地獄と熱にまみれた特訓を課せられることになる。

 

あの夏、吐くほど走り、サンドバッグを叩き、汗が目に染みて前が見えなくなっても休ませてもらえなかった。

 

当時は恨んだ。

泣き言も山ほど言った。

 

でも……今思えば、あれはただの特訓じゃなかった。

 

“逃げ場のない檻”の中で、獅子に睨まれ続けるような時間だった。

 

それから色々あって、俺たちは退学になった。

鷹村との因縁が始まり……流れ着いた先が鴨川ジムだった。

 

……振り返っても、あれは俺と青木にとっての“分岐点”だった。

 

 

 

 

 

ツッパリの象徴だった俺のリーゼントは、この時すでに過去の遺物だ。青木も剃り込みを隠すために髪をストレートに戻していた。

 

見た目なんてどうでもいい。俺たちにあったのは、ただひとつの意地。

 

鷹村守に一発入れる。

それだけが全てだった。

 

ジムに足を踏み入れて間もなく、俺たちはトレーナーを紹介された。

 

「トレーナーの篠田だ。そしてこっちが……」

 

「補佐の獅子御だ」

 

その名前を聞いた瞬間、背中を冷たいものが這い上がった。目の前の男……その顔も、あの時の視線も、絶対に忘れられるわけがない。

 

「……っ、テメーは」

 

俺と青木が同時に低く唸った瞬間、リングでスパーしていた鷹村さんの視線が、ちらりとこっちを向いた。何かを思い出したような顔をしていたが、その時の俺たちはそんな意味深な表情に気づきもしなかった。

 

「なんだ、知り合いか? 獅子御くん」

 

篠田トレーナーの問いに、獅子御は俺と青木を順番に見た。その目はあの時と同じだ。見透かすような、逃げ道を塞ぐような。だが、次に吐き出した言葉は、わざとらしく肩透かしだった。

 

「……知り合いじゃないですね。今はまだ」

 

忘れたふり。

いや、絶対に覚えてる。

わかってやってる。

 

青木のこめかみに青筋が浮かび、俺の額にも同じものが走った。

 

「ふーん。じゃあ任せるよ、獅子御くん」

 

篠田トレーナーはあっさり別の選手の方へ歩いて行った。どうやら俺たちの面倒を見るのは、この獅子御って男らしい。

 

青木はすぐさまガンを飛ばした。

 

「てめぇが、あれこれ俺らに指導するってか?」

 

俺も鼻で笑って便乗する。

 

「ケッ、貧相すぎて頼りにならねぇよ」

 

その挑発を受けても、獅子御は相変わらずニコニコしていた。

 

ただ、その笑顔が妙に引っかかった。

 

怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ余裕を含んだ笑み。まるで「これからお前らに何が起こるか知ってるぞ」と言わんばかりだ。

 

そして、ポケットから一枚のメモを取り出した。

 

「まぁまぁ、そう言わずに。はいこれ」

 

差し出された紙には、街をぐるりと回るようなコースが手書きで描かれていた。

 

ただのジョギングじゃない。

 

坂道、川沿い、繁華街の裏通りまで網羅していて、見ただけで足が重くなる。これは学校の長距離走なんかと比べものにならない。

 

「このコースを指定した時間以内に走れるようになること」

 

「指定時間って……」

 

俺が訊ねようとした瞬間。

 

「ちなみに、俺様は三十分切ってる。まぁ小物のてめーらには無理だろうがなぁ!」

 

リング上から鷹村の声が降ってきた。ニヤニヤとこっちを見下ろしている。その目は、あからさまに俺たちを挑発する色を帯びていた。

 

「ま、せいぜい誠司に迷惑かけないこった!」

 

……カチン、ときた。

 

青木も同じだったようで、口元がわずかに吊り上がっている。

 

「や、やろう……!」

 

「上等じゃねぇか」

 

俺たちが挑戦を受けると、獅子御は相変わらずにこやかに、そして軽い調子で言った。

 

「じゃ、俺も一緒に走るからよろしく」

 

こうして俺たちは指定されたコースを走り出した。

 

そして、スタートから二十分。

 

すでに息は荒く、足は鉛のように重い。額から垂れる汗が目に入ってしみる。足元のアスファルトが妙に遠く感じるたび、「まだ半分も来てねぇのかよ」と心が折れかける。

 

……と、そのとき。

 

「左失礼」

 

背後から軽やかな足音が近づき、あっという間に俺たちを追い抜いていく影。見ると、さっきまで姿が見えなくなっていた獅子御だ。

 

涼しい顔のまま、一定のリズムで足を運び、呼吸も乱れていない。そして抜き去ったかと思えば、はるか前方でまた小さくなる背中。

 

あれは人間じゃない。

 

走るたびに距離じゃなくて“実力差”を見せつけられている気分だった。

 

「あ、アイツ……もう走り切って……俺らを抜いたのか……!?」

 

「ん……んなわけ……ぜぇ……ないだろ……はぁ……きっと……どっかで……ずるして……」

 

息はもう炎みたいに熱く、足の関節ひとつひとつがきしむ。ふくらはぎはパンパンで、心臓が耳の奥で爆竹みたいに鳴っている。

 

ジムにたどり着くと、篠田トレーナーが腕を組んで待っていて、ジムの中ではもう汗も乾きかけた獅子御が他のジム生相手にパンチミットの相手をしていた。

 

「一時間五分……」

 

篠田の口調は、あまりにも無慈悲であっさりしていた。

 

「全然話にならんな」

 

「ち……ちきしょぉ〜……」

 

そこに、パンチミットの相手を終えた獅子御の声がすっと割り込む。

 

「ま、守くんならもっと早いね」

 

耳が勝手にその名前に反応した。

 

「……はぁ?」と俺。

「なんだとコラ」と青木。

 

獅子御は悪びれず、むしろ楽しそうに続ける。

 

「いや、あの人なら多分、こんなコース二周しても息一つ乱れないんじゃないかな。あぁ、もちろん君たちには無理だけど」

 

「誰が無理だっつった!」

 

青木の声が一段跳ね上がる。

俺も同時に噛みつく。

 

「テメェ、比べんなよ!」

 

「比べてないよ。ただ、守くんと比べると……そうだね、ハムスターとサラブレッドくらいの差があるかな」

 

「ハ、ハムスター!?」

「ふざけんな!!」

 

獅子御はにこにこと笑うだけで、怒鳴り声も挑発も涼しい顔で受け流す。それがまた火に油を注いだ。

 

「……ま、明日の朝も走るからさ。せいぜい頑張って、俺の足音くらいは聞けるようになったらいいね」

 

その言い方は「どうせ無理だろ」と言ってるのと同じだった。挑発だと分かっているのに、心臓の奥がギリギリと音を立てる。

 

「やってやらぁ!」

 

「次は抜かせねぇ!」

 

俺たちが吠えると、獅子御は小さく肩をすくめてみせた。

 

「はいはい。楽しみにしてるよ、ちっちゃい猛獣さんたち」

 

その瞬間、もう汗も疲労も忘れて、頭の中は「次は絶対にぶち抜く」の一点しかなかった。

 

 

 

 

 

入門からちょうど2ヶ月が経った。

 

「ほらほら、全然当たってないよ」

 

獅子御は淡々と、的確なヒットポイントにパンチングミットを構えながら、拳を振るう俺にそう声をかけてくる。パンチを当てると景気のいい打撃音がジムの壁に響き渡り、汗と混ざり合って空間を満たしていた。

 

俺たちのパンチは、喧嘩慣れしているとはいえ、ただの勢い任せだった。それを見た獅子御は、喧嘩殺法で培われたパンチのくせや悪い点を、丁寧に、そして確実に矯正していった。

 

ミットを受け止めながら、わざと俺たちのムラっけや癖を修正。正確なパンチじゃないとインパクトが生まれないような位置に誘導する。

 

その技術はまるで調律師のようで、細かな手の動きとタイミングに合わせて、俺と青木のリズムが少しずつ変わっていった。

 

篠田トレーナーもその調整方法を見て、唸るほどだった。鴨川会長や篠田さんにも真似できない、獅子御独自のパンチの精度の向上術。

 

だが俺たちは、そんな計算されているとは夢にも思わず、ただただ拳をぶつけ続けていた。

 

「くそぉおおーー!」

 

怒りのままに拳を振り抜くが、あえて獅子御はステップアウトで拳を躱し、大きく空を切る。まるでミットをもつ獅子御に嘲笑われているかのようだった。

 

「がむしゃらに拳を出せばいいってもんじゃないよ。喧嘩じゃないんだから」

 

そばで見守る篠田トレーナーの言葉が耳に入るが、まだ真意はわからない。

 

ミットを手にする獅子御は、平日は高校でジムにはいないが,朝と夕方にいくロードワークは必ず一緒に走っているし、休日の土日は地獄のような基礎練習も付きっきりで俺たちの相手をしてくれている。その冷静な佇まいが余計に俺たちの焦りをあおった。

 

「このやろう……!ぶへぇ!!」

 

感情に任せて振り回した拳に合わせて、獅子御は鋭く俺の顔面にミットを突き出す。

 

ミットだから痛みはない。しかしその完璧なタイミングに、体が思わずのけぞりバランスを崩す。

 

拳に込めた力がそのまま自分に返ってくる感覚は、まるで自分の拳が自分にカウンターを食らっているようだった。

 

「もう、そういうやり方はダメなんだって!俺に変われ、木村ぁ!手本を見せてやる」

 

青木がついに焦れ、交代を申し出た。

だが、その勢いもリングに立てばみるみる薄れていき、硬くなった表情のままパンチを繰り出す。

 

「足が止まってるぞ!」

 

獅子御の声が突き刺さる。

 

「軌道が甘い!幻惑ができないなら、手数で攻めろ!」

 

その言葉は冷静だが、まるで鋭い刃のように青木の欠点を切り裂いていく。返す刀で獅子御のミットは、青木の拳をことごとく受け流し、隙を見ては反撃の圧を叩き込んでくる。

 

それはボディーブローのように、体ではなく心を削る圧だった。

 

結果は、俺と変わらず青木もボコボコ。

 

肩を落とす青木の背中には、悔しさと、負けん気が入り混じった熱が渦巻いていた。

 

二人でミットに挑むたび、もがき苦しむたび、篠田トレーナーと獅子御の厳しさが骨身に沁みていく。だが不思議なことに、毎日の積み重ねの中で、少しずつパンチの軌道が整い、呼吸のリズムが乱れなくなっていくのを感じていた。

 

喧嘩慣れした俺たちの無駄な力みや癖を、本人たちも気づかぬうちに削ぎ落とし、正確なパンチとリズムを植え付けていく。

 

「俺たち、少しはマシになってきてるのか?」

 

「わからん……でも、手応えは確かにある」

 

疲労と焦燥の中、わずかながら自信の光が差し込む。しかし、心のどこかでは「本当にこれでいいのか?」という疑念が燻っていた。

 

そんな時だった。

 

「おう、お前ら――リングに上がれ」

 

ロープを背中でしならせながら、鷹村が俺たちを見下ろしていた。

その口元には、挑発の色を隠そうともしない笑み。

 

「相手してやっからよ」

 

その視線は俺たちに向けられているようで、なぜか隣の獅子御にも鋭く突き刺さっていた。

獅子御はそれを受け、ゆっくりとニヤリと笑い返す。その一瞬のやり取りに、場の空気がピリついたのを俺は感じた。

 

だが、そんなことはどうでもよかった。

挫折も不安も押しのけ、胸の奥に確かに芽生えていた熱。

 

鷹村のむかつく顔面に、一発でも叩き込んでやる。

 

その思いは、悔しさを燃料にして、俺の中でますます勢いを増していった。

 

 

 

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