大事件の始まりは、ほんの些細な事から始まることが多い。
極東の地「ノモンハン」で起きたソ連軍と日本軍の武力衝突もまた、当事者は誰一人として大事になることを予期していなかった。
1939年5月11日、「満州国」と「モンゴル人民共和国」の国境に位置するノモンハンにて40人規模の満州国軍とモンゴル人民軍の戦闘が発生した。
この地域は国境線が明記されてなく、ハルハ川までを領土とする満州軍と、レミゾフ高地までを領土だと主張するモンゴル軍との間で幾度か数人規模の戦闘が行われていた。
満州国とモンゴル人民共和国、この二つの国は形式上は独立国ではあるが両国とも隣接する思想の強い国家の傀儡となっていた。
満州国を裏で操るのは東洋の帝国「大日本帝国」であり、満州国内には関東軍という大日本帝国陸軍の組織を置き満州国国境線の守備をするという名目で実質的な占領政策を行っていた。
対するモンゴル人民共和国を指揮するのは赤き帝国と畏怖されていた最大の社会主義国家「ソヴィエト社会主義共和国連邦」略して「ソ連」である。
共産主義において権力者の言うことは絶対であり、各地に建国された共産主義国家は、ソ連の言いなりそのものになっていた。
モンゴルにおいても例外でなく、ソ連はコミンテルンという組織を介して城内平和の名目の下に多くの軍を駐屯させていた。
天皇という欧州で言う所の国王を国家主権とする日本と、王族という身分を一切に認めず労働者によって建国されたソ連が対立するのは容易に想像できた。
さらにソ連は前身であるロシア帝国時代、日本との戦争「日露戦争」にて惜敗を喫した。
これは、近代史において黄色人種が白色人種に初めて勝った例であり、以降ロシアは他の白色国家に蔑んだ目で見られる-これは当人達の被害妄想なだけかもしれない-ようになり、何時の日か憎々しい黄色人帝国を打倒せんとそのときを虎視眈々と狙っていた。
そんな険悪な関係にある帝国に挟まれた二つの傀儡国家での戦闘は、思いもよらない規模に達していく事になる。
戦闘の報告を受けてノモンハンの北側にある「ハイラル」に駐屯する第28師団長、大田中光裕(おおたなか みつひろ)中将は指揮下にある清水怜(しみず れい)中佐率いる清水支隊に出撃を命じた。
清水支隊は主に索敵、捜索を主な任務とする偵察部隊でそのほとんどが歩兵連隊、騎兵連隊で構成されていた。
一方、モンゴルの「タムスク」に駐屯するソ連第1軍集団司令官、ゲオルギー・ジューコフ中将はこの動きを素早く察知し、3個自動車化歩兵旅団や2個機械化旅団を主力する第27軍軍団を派遣。
ソ連軍戦車は性能はそこまで高くないが大量に生産、兵員も大量に徴兵し得意の人海戦術で日本軍を一気に殲滅を図ろうとした。
5月13日早朝、両軍はノモンハンから20kmほど西方に位置する「ハルハ川」付近にて戦闘を開始した。
緒戦は清水支隊が前方に展開するソ連歩兵を次々に薙ぎ倒していった。
しかし、後方の戦車部隊が到着すると状況は一変する。
大田中はソ連軍の侵攻は無いと見ていたため、清水支隊に対戦車兵器を持たせていなかった。
対戦車兵器を持ち合わせていない清水支隊は大型の45mm砲を備えたソ連軍戦車「BT-5」の格好の的となった。
戦場で死ぬことを兵士の誉れとする日本兵は手榴弾片手に戦車に突撃し自爆。
極東に広がる青々とした草原は一瞬にして日本兵の血が滲むことになった。
その日の夕方に支隊長清水中佐は戦死、副長の芝浦智治(しばうら ともはる)大尉は隊長の死を確認すると総軍撤退命令を出した。
300人いた捜索隊のうち脱出できたのはわずか28人であった。