エレンの妻です   作:ホワイト3

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マーレ編【819~832年】
01:エレンの妻です


 ひっきりなしに呼び鈴が鳴り続ける。それに急かされるようにして、石造りの冷たい廊下を白い制服の裾を翻した医師や看護師達があちらこちらへと駆け抜けていく。

 

 ここは戦場だ。比喩でも何でもなく、生命が削られていく最前線なのだ。

 

「先生、五番寝台の患者、呼吸が弱くなっています!」

 

「四番寝台の方は炎症部分が化膿しています!」

 

 飛び交う声に、私はほとんど無意識に身体を動かす。思考はとうに麻痺していた。

 ただ、目の前の命を繋ぎとめるためだけに、この身体に染み付いた知識と前世で培った技術を、まるで操り人形のように引き出し続ける。

 

 その時だった。けたたましい音を立てて処置室の扉が乱暴に開かれ、担架が滑り込んできた。

 

「荷馬車に轢かれた! 呼びかけに応じない、腹からの出血が止まらない!」

 

「子供じゃないか……まだ十にもなっていないぞ!」

 

 担架の上でぐったりと横たわる、あまりに小さな身体。その姿に、私の心臓が嫌な音を立てて軋んだ。

 

 どんな世界であれ、子供が苦しむ姿に胸が痛まない人間がいるものか。 駆け寄り、その小さな身体の状態を確かめようとした私の目にそれが焼き付いてしまった。

 

 血に汚れた服の袖口から覗く、九つの尖った星が描かれた腕章。

 

 途端にそれまで張り詰めていた現場の空気が、奇妙な音を立てて弛緩する。

 

 いや違う。それは弛緩などではない。もっと冷たく、粘りつくような淀みだった。

 あからさまな舌打ち。隠そうともしない侮蔑の視線。先ほどまで必死に声を張り上げていた医師の一人が吐き捨てるように言った。

 

「……なんだ、悪魔の末裔か。なんでここにいやがる」

 

「収容区の診療所にでも運んでやれ。我々の貴重な手をこんなことに煩わせる必要はない」

 

 その言葉に数人の医療従事者が無言で頷く。それがこの世界の常識であり、正義であるとでも言うように。

 

 だが、私の倫理観が……生命に携わってきた者としての矜持がそれを断じて許さなかった。

 

(――ふざけるな)

 

 声にならない怒りが腹の底から突き上げてくる。目の前で子供が死にかけているんだぞ。その腕にどんな印があろうと、流れている血の色が何だと噂されていようと、命の価値に違いなどあってたまるものか。

 

「私、やります」

 

 自分でも驚くほど静かで冷たい声が出た。 反論しようと口を開きかけた医師を私は視線で射抜く。

 

「腕章の有無で患者を選ぶほど、この病院は落ちぶれたのですか? 文句があるならこの子の命を救った後でいくらでも聞きましょう。セラ! 手術の準備を!」

 

 私の気迫に圧されたのか、それ以上口を開く者はいなかった。ただ、遠巻きに突き刺さる冷ややかな視線が、私の背中を焼いていた。

 

 幸い、子供の容態は見た目ほど絶望的ではなく、手術は迅速に進んだ。損傷箇所を確認し、出血点を的確に塞いでいく。

 

 無駄のない、流れるような手つき。それは私の意志というより、この身体の持ち主が持つ驚異的な才覚と、前世の経験が融合しそうさせた。

 

 最後の一針を縫い終えた時、張り詰めていた手術室の緊張の糸が、ぷつりと切れた。

 

「……さすがです、先生!」

 

 助手を務めてくれたセラが、汗を拭いながら心からの尊敬を込めた声で言った。その瞳はきらきらと輝いていて、まるで英雄を見るかのようだ。

 

  私はそのあまりにまっすぐな称賛に、ただ力なく笑うことしかできなかった。 人助けをしただけだ。医療に携わる者として、人として、当たり前のことをしたに過ぎない。

 

 それがなぜ、これほど特別なことになるのか。この世界の歪みを改めて全身で思い知らされた気がした。

 

 その後は地獄のような事務仕事が延々と続いた。インクの匂いが先ほどの血の匂いを上書きしていく。 窓の外が白み始めた頃、私はようやくペンを置いた。

 

 なんで、こうなったんだっけ。

 

 忙殺されていた思考がふと我に返る。私は、ごく普通の日本人として生きていたはずだ。

 

 それが、ひょんなことからこんな差別と暴力が渦巻く異世界で生きていくことになった。

 

 窓の外に広がる煤けた灰色の空を眺めながら、私は記憶の扉をゆっくりと開いた。

 

 すべてが始まった、あの日のことを。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 目を開けた瞬間、飛び込んできたのは知らない天井だった。

 

 塗装の剥げかけた白。木枠の割れ目から覗く煤の痕。それらすべてが古めかしく、まるで大正……いや、ともすると明治時代にタイムスリップしたようだった。

 

 違和感が脳をざわつかせる前に、鼻先をかすめたのは埃と消毒液が混ざった特有の匂い。ああ、これは知っている。ここは――病室だ。

 

 だが、おかしい。確か昨日は夜勤から帰って自宅のベッドで寝ていたはず。いつも通りスマホ片手にYouTube流しながら。

 

 それが次に目を開けたら、これ。いったいどこの歴史資料館に迷い込んだんだ、私は。

 

 身体を起こそうとして思い知る。腕がやけに細い。肋骨の浮いた影がシャツ越しに分かるほど痩せている。

 

「……え?」

 

 思わず出た声が自分のそれじゃなかった。妙に澄んでいて、ちょっと低い。寝起きとは思えないほどはっきりしている。

 

 さらに言えば、見慣れないグレーの髪が肩をかすめた。指で掴むと、ウェーブがかった動きのある感触。いつもの茶色がかった髪じゃない。

 

  鏡を探して部屋の中を見渡す。小さな手鏡を見つけた。枕元の木製サイドテーブルにぽつんと置いてある。

 

 恐る恐る覗き込むと——息が止まった……知らない女がこっちを見ていた。

 大きな青色の瞳。顔色は悪く、目の下にくっきり隈がある。が、妙に整っていて目を逸らせない魅力を感じさせる。不健康さを売りにしたインフルエンサーみたいな顔だった。

 

 誰だこいつ。ていうか私の身に何が起きてんの?

 

 頭の中が混乱のピークを迎えているところに、外から足音が響いてきた。ぱたぱたと、急ぎ足というよりもほとんど小走りで。

 それが病室の前でピタリと止まり、勢いよく扉が開いた。

 

「ジルケ先生……っ!起きたんですね、よかった……!」

 

 ジルケ。その名に聞き覚えはなかった。

 

 看護師はドア枠につかまりながら、少し息を弾ませて立っていた。その顔はほっとしたような、泣き出しそうな笑みで満ちていて。にっこり、じゃなくて、ニコッだ。妙に歯が白い。

 

「どうです?頭は痛くありませんか……?落下物にあたって昏睡したって聞いた時は……ほんと心配しましたよ。もう三日も寝てたんですよ!」

 

 落下物?昏睡?なにそれ初耳なんですけど。

 

「……なんだか、いつもと違う話し方をされるので不思議な感覚です。まだ混乱なさってるようですね……まあでも、意識が戻って本当に良かったです!」

 

 看護師は朗らかな雰囲気で、こちらを見る目がどこかきらきらしていた。まるで尊敬する師匠を見つめるような、そんな憧れの眼差しだった。

 

 何が彼女をそこまで親切にさせるのか、最初は分からなかった。でも、その理由はあとになって分かる。私はただの患者じゃなかった。

 

「先生が倒れたって聞いたとき、ほんとに病棟中がざわついてたんです」

 

 包帯を巻き替えながら、看護師(セラというらしい)がぽつりと言った。

 

「研修医の皆さん、どれだけ先生に頼っていたかこの三日間で痛いほど理解した、と言ってました。私も全然仕事に手がつかなくて……。先生がいないだけで、こんなにも変わるなんて思ってもみませんでした」

 

 どうやらこの宿主は病院で最年少の指導医だったようで、随分と頼られているらしい。こんな不健康そうな顔で医者ができるなんて、はなはだ不思議だった。

 

 頭の包帯を巻き直してもらいながら、ふと窓の外に目をやる。

 低い建物が続き、遠くに工場のような煙突が見えた。空はどこか鈍く濁っていて、風が吹くたびカーテンが揺れる。

 

 埃っぽさのなかに微かに油と煙の匂いが混じっていて、この国の空気が私の知っている日常とは根本的に違うことを告げていた。

 

 混乱しながらも、しかし私はこの身体に宿る新しい名前――ジルケ、という響きだけは少しずつ馴染んでくるのを感じていた。

 

 時折訪れる見舞客は私の顔を見るなり「ようやく意識が戻った」と安堵し、私もそれっぽく応対する。そんな繰り返しの中で、薬指の指輪が寂しそうな輝きを見せていた。

 

 三日目の朝も、四日目の昼も。その指輪の送り主――おそらくジルケの配偶者だろう――は現れなかった。

 そして五日目には、私は時折意味もなくカーテンを開けたり閉めたりしていた。誰かが訪れる気配を期待していたわけじゃない。ただ――身体の持ち主(ジルケ)が何を思ってこの指輪をはめたのか、それだけが妙に気にかかった。

 

「……ご主人、お仕事忙しいんでしょうね」

 

 セラがフォローしてくれるけれど、その度に頭を振って否定したくなる。会ったこともない人が来なくても別に寂しくなんてない。

 

 そうして六日目の午後。

 

「先生、ようやく!ご主人がいらっしゃいましたよ!まったく……奥さんより仕事を優先するなんてエレンさんは相変わらず何考えているんでしょうね。なんで先生はあんな方を選んだんですか」

 

 妙に辛辣な言葉は私に届かなかった。たった一つの単語――エレンが耳をつかんで離さなかった。エレン?エレンって……あの、エレン?

 

 カーテンが開けられる音とパチンという留め具の音とともに、誰かが一歩部屋に入ってくる。

 

 空気が変わった。窓から差し込む風が止まり、病室の静けさが妙に濃くなる。まるで、何かが始まる前の一瞬を世界そのものが息をひそめているようなそんな感覚。

 

 古びた軍帽。深く被った帽子の下、目元は隠れている。でも、その姿には見覚えがあった。

 

 間違いない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。まるで夜の森に棲む(フクロウ)のように、瞳が帽子の陰で暗く光っている。

 

 記憶が静かに溶けて流れ出した。

 

「奥さんほったらかして何してたんですか、まったくもう」

 

 セラの毒舌が炸裂する。私の時とは打って変わったような物言いだ。

 

「遅くなってすまなかった、ジル。()()()()()()()()()()()()

 

 抑えた声が私の中をすべてを繋げてくれた。

 同胞の復権を願いながら同胞の指を切り落とし続けたこの男を、私は知っている。

 名前。年齢。暮らし。顔も、声も、匂いも。すべてが私の頭の中に刻みつけられていた。

 

 私はジルケ・クルーガー、通称ジル。そして薬指の指輪の主――それはエレン・クルーガーだった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 ここはレベリオ。マーレ大陸北東部に築かれた港町で、皆大好きライナーやアニ達の故郷だ。ファンとしては驚きと興奮のはずなのに、今はひたすら胃が痛い。

 

 私を乗せた馬車が町の外れにあるエルディア人収容区の脇を抜けていく。車窓から外を眺めた私は、ひどく現実味のない風景に言葉を失った。

 

  拒絶するように高くそびえ立った壁がマーレ(こちら)エルディア(あちら)を明確に隔てている。

 壁をひとつ越えた先には色鮮やかな看板や整備された並木道があるというのに、収容区内は石畳の亀裂から草が伸び、どこか打ち捨てられたような空気が漂っていた。

 

 ふと視線を落とすと路肩で一組のカップルが『悪魔の末裔』だのなんだのと青年の集団に罵られていた。腕につけた腕章はあちら側である何よりの証拠だった。

 彼らの足元には荷物が散らばっていたが、誰も拾おうとしない。それどころか通り過ぎる人の視線は冷ややかで、どこか遠巻きだった。

 

 ……朝から本当に気が滅入る。

 

 溜め息を一つついて、私は窓から視線を切った。エルディア人の扱いを分かっているつもりだったが、ここまで酷いとは思わなかった。

 

 これが壁の外か。

 

 ジルケ・クルーガー。この世界での私の名前らしい。そして今、無表情で無口な男――エレン・クルーガーと馬車で帰宅中である。

 

 ここは『進撃の巨人』の世界。しかも壁外の世界であるマーレ。

 

 クルーガーと視線を交わしたとき、すべてが蘇った。二つの記憶が頭の中で混ざり合い、そして交差した。

 

 一つは、日本の病院で看護師として働いていた記憶。特筆すべき業績もなければ、SNSのフォロワーも二百を超える程度。

 職場ではそれなりに真面目で、それなりに気を遣って、それなりに好かれていた……と思いたい。飲み会ではたまに『進撃』の話を熱く語っては空回りする、そんな人間だった。

 

 そしてもう一つはこの身体――ジルケ・クルーガーとしての記憶。二十余年間、彼女が歩んできた人生が皮膚の下にしぶとく沈んでいる。

 

「ジル。うちについたぞ」

 

 彼がぼそりと告げる。にこりともしないその顔を見て、感慨なく私は頷いた。

 

 家の扉を閉め、鍵が回る音を背に受けると、私はなんとなく自室へ足を向けた。しかしドアノブに触れたところで思い直し、引き返す。生活感のある部屋をのぞく勇気はまだ出なかった。

 

 ダイニングのテーブルに座ると、クルーガーが向かいに腰を下ろした。その間に、ほんの少しの沈黙が流れる。

 

 沈黙の最中、壁に飾られた一枚の写真が視界の端に入った。海を背景に、クルーガーと隣り合っている写真だ。

 だが彼の表情はまるで石のように固く、ジル――いや、私も写真慣れしていないのか、死んだ魚ような目でぎこちない笑みを浮かべていた。とても結婚したての新婚カップルには見えない。

 

「――手筈通り」

 

 クルーガーが突然口を開いた。

 

「先代から進撃の巨人を継承した。ここで大きくなるわけにもいかないが……巨人の力はこんな風に使う」

 

 そう言って己の掌をナイフで切り裂いてみせる。鮮血が流れるが、次の瞬間には傷口から蒸気が立ち昇った。治癒は一瞬だった。

 

「いいか、ジル。我々の復権の灯を絶やしてはならない。この力はその狼煙だ」

 

 未だ掌に煙を燻らせながらクルーガーが私の前に写真を二枚差し出す。その瞬間、私の心拍数が跳ね上がったが、動揺を表に出さぬよう必死に堪えた。

 

 写真には見慣れない男が映っていたが問題はそこじゃあない。

 

「退院したばかりで悪いが……早急にこの二人の結果をいじってくれ」

 

 原作でも指摘されたように、マーレは巨人の力を背景に各地で侵略行為を繰り返していた。巨人の咆哮と蹂躙の記録が大陸各地に刻まれるにつれ、マーレの版図はどんどんと広がっていく。

 

 勝者の栄光は、常に他国の憎悪を呼ぶ。そして、その憎悪はマーレ政府よりも先に、巨人になることができる民族――すなわちユミルの民に向かうのが常だった。

 

 マーレへの敵意と、それをはるかに上回るエルディア人という悪魔の血への憎しみ。そうしたエルディア人排斥の潮流を科学の光が加速させた。

 

 反マーレを掲げる国家の研究機関が、ある種の血液的傾向によってユミルの民を判別する技術を発表したのだ。

 それ以降世界中で、労働・婚姻・移住――あらゆる場面において、血液検査を導入するシーンが激増した。たとえその精度が完全ではなく、検査コストが法外であっても、それを望む声は尽きることがなかった。

 

 皮肉なことにマーレ自身もまたその検査制度を導入していた――清潔な血を守るために。

 

 エルディア人の力で栄えながらその血を混ぜまいと隔離する。マーレとはエルディア人による恩恵と彼らへの憎悪が同居する不可思議な国だった。

 

 そしてジルケ・クルーガーはエルディア革命軍の一員だった。医者という立場を利用し、マーレ各地の組織に仲間を送り込む役目を担っていた。エルディア人であることを隠して。

 

 進撃ファンなら、ジルがどれほど危ない橋を渡っているのか想像はつくはず。この不正によって課せられる罰は、ある意味死より恐ろしい終身刑――楽園送りなのだから。

 

 喉がひりつく。目の前の紙切れが地雷のように見えた。

 

「了解」

 

 言葉は短くても責任は重かった。

 口をついて出た「了解」がいっそ別人格の仕業だったらどれだけ楽かと思うくらい、冷たく響いた。

 

 断る選択肢は用意されていなかった。裏切り者のレッテルを張られた人間の末路を、ジルは嫌と言うほど知っている。

 そしてこの身体に染み付いた記憶がこの悪事への抵抗感を減らしていた。

 

 クルーガーは黙って頷くだけだった。この男の中には、信頼でも情でもないもっと別の静かな圧があった。

 妙に穏やかな顔で、生死をかけた作業を「いつものこと」として差し出してくる。タチが悪いったらありゃあしない。

 

 私は視線を逸らさなかった。この時代、この国で、背中を向けたら最後だ。

 エルディアの復権を願う過激組織の一員であるという事実と、絶対に死にたくないという思い。その両方を引きずったまま、これから私はジルケ・クルーガーとして生きていくのだ。

 

 職業:医者。副業:反体制派工作員。ついでに……エレン・クルーガーの妻。

 

 進むも地獄、戻るも地獄。どうやら私は茨の道に転生してしまったようだ……




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