頬を撫でる街の匂いはレベリオのそれとは全く違っていた。
石炭と鉄の無機質な匂いではなく、微かな磯と木材の乾いたような甘い香り。耳に届くのは硬い革靴の音ではなく、カラリ、コロリと軽やかに響く木製の履物の音。
(……懐かしい)
その感傷が予期せず胸の奥から込み上げてきた。反りのある屋根が優美な曲線を描いて連なる街並みは明治初期の日本を見ているみたいだ。
前世でも写真や映像でしか見たことのない景色。それなのに、どうしようもなく懐かしさを感じる。
ここは故郷ではない。断じて。そう自分に強く言い聞かせなければ、郷愁の念で溺れそうになった。
私たちが派遣されたのは首都の中枢にそびえる中央病院。そこはマーレを手本にしたであろう近代的な設備と、この国独自の伝統が不思議な調和を保ちながら同居する場所だった。
「これは……凄い。これほどの種類が……」
壁一面を埋め尽くす、無数の引き出しが並んだ木製の棚。そこに貼られた札には、我々には読めぬ文字で薬草の名が記されている。
ハンスはその体系化された伝統薬学の規模に、ただただ圧倒されていた。彼の真面目な性格が未知の医療技術への純粋な探究心を燃え上がらせているようだった。
「キヨミ様、これらは全て薬として?」
ハンスが尋ねると、案内役を務めるキヨミさんは穏やかな微笑みをたたえて答えた。
「ええ。我が国で独自に発展した伝統医療に用いるものです。古来よりヒィズルでは万物を構成する要素の調和を重んじてきました。人の体もまた小さな宇宙。その均衡が崩れた時に病が生じると考え、自然界にあるものを用いてその歪みを正すのです」
「なるほど……では、こちらの鍼のようなものは?」
「鍼で合っていますよ。体の『気』の巡りが滞っている
キヨミさんは鋭い銀の鍼を指先でつまみ上げ、悪戯っぽく目を細めた。
「こう、ズブっと」
生まれてこの方マーレ大陸を離れたことのない使節団の面々は、馴染みのない東洋の治療方法にひっと息を呑んで後ずさる。
鍼治療、そして幾種類もの薬草を調合する薬学。
それらは前世の日本で私が触れた東洋医学の知識と重なる部分が多く、決して非科学的な
マーレの近代医学が体を「機械」として捉え、壊れた部品を修理・交換するのに対し、ヒィズルのそれは体を「自然」の一部として捉え、全体の調和を取り戻そうとする。
アプローチは違えど、目指す場所は同じなのだ。
しかし、その価値を理解できる者はマーレの使節団の中に私しかいなかった。
「なんだそれは!そんな鍼や草の根で病が治るなど、非科学的にも程がある!」
ホフマンは薬草が並ぶ調剤室を胡散臭いものでも見るかのような目で見回し、あからさまな嫌悪感を露わにする。
彼のマーレ至上主義的言動は理解の範疇を超えた文化を全て「未開」と断じることで、かろうじてその自尊心を保っているように見える。
外交問題に発展しかねないという発想にならないのか、一周回ってこの男の思考回路が気になった。
「あら?」
キヨミさんは心底不思議そうに小首を傾げた。その唇には静かな笑みが浮かんでいる。
「仕組みは未解明でも、そこに効果があるのなら何の問題もないと思いませんか?あなた方の国でも、巨人化のメカニズムを解明せぬまま戦争の道具としてお使いでしょう?」
「それとこれとは話が違う!」
彼女の言葉は氷のように冷たく、それでいて絹のように滑らかだった。ホフマンの顔が怒りで赤く染まる。
……本当に肝が座ってるな、この人。流石原作でパラディ島と外交を結ぶ決断をしただけはある。
「し、しかしキヨミ様……実証データに基づかない医療行為は、我々の知る医学とはあまりにも……」
ハンスが珍しくホフマンに同調し、困ったように頬を掻く。彼の生真面目さが経験則に基づいた医療を前に、思考停止させているらしかった。
キヨミさんはそれ以上我々を追及することなく、気分を害した様子も見せずにすっと表情を切り替えた。
「本題に入りましょうか」
応接室に通され、上質な茶が振る舞われる。その繊細な香りが、ささくれ立っていた場の空気を幾分か和らげた。
「改めてこの度はご来訪いただき心より感謝申し上げます。我が国としても超大国マーレの先端医療を学べることを、大変喜ばしく思っております。当初の取り決め通り、先生方の講義や実演習を通してマーレの医療技術と知見をご提供いただければと思います」
マーレ本国で聞かされた内容と相違はない。確認が取れたので「こちらこそ、よろしくお願いいたします」と差し出されたキヨミさんの手を取り、固く握り返す。
儀礼的な挨拶が終わった、その時だった。キヨミさんはふっと声を潜め、その涼やかな瞳で私だけを真っ直ぐに見据えた。
「ここからは私個人の願いとしてお聞きください、クルーガー先生」
その場の空気がぴんと張り詰める。
「我がアズマビト家は現在この国の近代化を推し進めております。医療もその一つ。ですが、私たちはマーレの技術をただ享受したいわけではありません。その技術を、このヒィズルの地で我々自身の手で根付かせたいと考えています。具体的に申しますと、マーレの持つ高度な医療機器や特効薬の製造技術……そのライセンス供与、あるいは技術提携による合弁会社の設立をご提案できないかと」
彼女は単なる医療技術の提供ではなく、その先にある産業と経済の発展までを見据えている。技術を学ぶのではなく技術を生み出す土壌そのものを手に入れようとしているのだ。
「もちろんこれは企業・国家間の正式な交渉が必要となる、途方もないお話です。この場でどうこうという訳ではありませんのでご安心を」
「存じております。ですが、なぜそのようなお話を一介の医師に?」
「クルーガー先生。あなたならば、この提案の持つ意味をご理解いただけるのではないかと思い、お話しいたしました。あなたはエルディア人の命すら積極的に救う慈悲深い方として名を馳せていますから」
(なるほど……)
彼女の言葉の裏にあるしたたかな計算を読み取り、私は内心で舌を巻く。原作で「女狐」と評された片鱗が、その涼やかな瞳の奥に確かに見えた。
これは壮大な計画というより、もっと現実的で抜け目のない投資なのだろう。マーレで顔の売れている私という利用価値のある「駒」が目の前に現れた。ならば、たとえ成功の確率が低くとも交渉の種を蒔いておいて損はない。
そんなアズマビト家の、あるいはキヨミさん個人のあらゆる機を逃さずリソースを投下する商人的なしたたかさ。その手腕には感嘆すると同時に、背筋が冷えるような思いがした。
おかしいとは思っていた。いくらマーレからの客とは言え、たかが医師の使節団にアズマビト家の要人が顔を出すなんて。
利用できるものは何でも利用する。その冷徹なまでの合理性に、彼女という人間の底知れなさが垣間見えた気がする。
ともあれ現状、何かを求められる事もあるまい。壮大な交渉の第一歩などと身構えず、事務的に返答しておくだけだった。
なるべく言質を与えないように。
「……大変興味深いお話です。私如きに何かできるとも思えませんが、両国の発展に向けて共に頑張りましょう」
「ええ、よろしくお願いします」
キヨミさんの握る手が少し強くなったような気がした。
そんな腹の探り合いのようなやり取りとは裏腹に、ヒィズルでの日々は驚くほど穏やかに過ぎていった。
指導医としての講義や実演の合間、私はまるで学生に戻ったかのようにヒィズルの伝統医療の知識を吸収していった。
薬草の匂いが満ちる調剤室、気の流れを読み解く鍼療士との対話、そして自ら体験した鍼治療の、痛みを伴いながらも体の芯から何かが解き放たれるような不思議な感覚。
前世で聞き齧った東洋医学の断片的な知識が確かな体系となって目の前で息づいている。その知的な興奮はマーレで擦り減らした心を少しずつ癒していくようだった。
使節団の面々の反応は相変わらずだ。
「こんな草の根を煎じた汁が薬だと?気色悪い!」
ホフマンが顔を顰めれば、ハンスが「ですがホフマン先生、この生薬の組み合わせによる鎮痛効果は臨床データでも……」と真面目に反論し、ラルスが「まあまあ異国の文化体験ってやつですよ」と飄々と笑う。
そんな光景も今ではすっかり日常の一部となっていた。
マーレ軍中央病院で感じた、息の詰まるような政争や差別の空気はなかった。ここでは皆、目の前の患者に向き合うという一つの目的に向かっている。
純粋な医者として患者と向き合える日々。それは、私が心のどこかでずっと渇望していたものだったのかもしれない。
◇◇◇◇
ラルスから奇妙な情報がもたらされたのは、アズマビト家主催の催しへの参加をキヨミさんに呼び掛けられた日の夜だった。
なんでも、アズマビト家の急進的な近代化政策に反発する旧財閥の残党が水面下で不穏な動きを見せている、という。
報告すべきか一瞬ためらった。だが私の立場は、あくまでマーレから派遣された医者だ。迂闊な発言は余計な疑念を抱かれかねない。
結局重い沈黙を選び、その事実は胸の内に深くしまい込んだ。
マーレとヒィズルの友好を祝う催しはアズマビト家の広壮な屋敷で執り行われた。夜の闇に、幾百もの提灯が幻想的な光の川を作り出し、ヒィズル独自の弦楽器が奏でるどこか物悲しくも美しい旋律が夜風に溶けていく。
慣れないスーツに身を包み、ヒィズルの料理に舌鼓を打つ。美味しい。
レベリオの海産料理も絶品だが、ヒィズルのは郷愁の念を思い起こさせる。特に魚料理は、前世の日本で食べたそれと何ら遜色ない。
革命軍の重責も、マーレの息苦しさもここにはない。この穏やかな時間がずっと続けばいい。柄にもなくそう願った。
だが、ラルスの報告がこの煌びやかな夜景の裏に潜む冷たい影の存在を思い出させ、胸の奥をざわつかせる。
事件が起きたのは催しが佳境に入り、キヨミさんが招待客を前に挨拶を始めた、その瞬間だった。
ヒュッ、と。夜の空気を切り裂く鋭い音がした。
聴衆の喧騒を突き抜け、それはキヨミさんの隣で微笑んでいた女性の華奢な首筋に深々と突き刺さった。
一瞬の静寂。次いで絶叫が夜空に響き渡る。
祝宴は凄惨な悲鳴と怒号の渦に呑まれ、会場は大混乱に陥った。
(あの位置はーー頸動脈に近い!まずい!)
周囲の騒ぎを遠くに聞きながら、私の目は矢の刺さった箇所が致命傷になり得ると断定していた。
加えて変色していく傷口。間違いない、毒矢だ。
警備兵たちが即座に会場を封鎖し、招待客の間に緊張が走る。私はスーツの裾が乱れるのも構わず人垣をかき分け、倒れた女性のもとへ駆け寄った。
ようやくたどり着くと、そこには顔面蒼白のキヨミさんが血を流すその女性を抱きかかえていた。
いつもの凛とした態度は見る影もなく、ただ震えている。
「ク、クルーガー先生……! 妹は……妹はどうなってしまうのです!?」
「落ち着いてください。すぐに矢を抜き、毒を処置しましょう。彼女を安全な部屋へーー」
「ふざけるな! 我々を疑うというのか! 無礼だぞ、ヒィズルの者ども!」
ホフマンの甲高い怒鳴り声が、私の意識を引き戻した。見ればマーレからの使節団を複数の警備兵が殺気立った目つきで取り囲んでいる。
特に、日頃から尊大な態度でヒィズルの文化を見下していたホフマンへは抜き身の刃のような視線が突き刺さっていた。
外交問題に発展しかねない一触即発の状況。だが、私の思考にそんな政治的な駆け引きが入り込む余地は一ミリもなかった。
「皆さん、手を貸してください!彼女を治療するために別室に運びます!」
「待て、クルーガー!まずはこの無礼な奴らをーー」
ホフマンがなおも続けようとした言葉を、私の怒声が遮った。
「あんたのプライドと彼女の命と、どちらが重い!答えろ!」
「……っ!」
有無を言わせぬ気迫に、ホフマンも警備兵も、渋々と道を開けた。
キヨミさんの妹君は、屋敷の一室に運び込まれた。私が外科器具の準備を整えるより早く、アズマビト家お抱えの医師団が駆けつけ、手際よく処置を始める。彼らは解毒作用があるという薬草を練ったものを傷口に塗りつけ、さらに負傷者の身体に次々と銀の鍼を打っていく。
「非科学的だ!そんな
着いてきたホフマンが、彼らの肩を掴まんばかりの勢いで怒鳴りつけた。だが私は冷静に、しかし力強く彼を制止した。
「待ってください」
「クルーガー! 貴様までこの野蛮な真似を肯定するのか!」
なおも食い下がるホフマンの腕を、今度は私が掴み返していた。その手は自分でも驚くほど強く震えていた。
「よく見てください! 矢の周りの皮膚の変色がそれ以上広がっていない! 彼らの処置が、毒の巡りを食い止めているんです! あなたも医者でしょう!目の前の事実から目を逸らさないでください!」
鍼によって血流が巧みに制御され、毒の全身への拡散が遅延している。それは
「だ、だが、この傷はどうする? 神経が集中する危険な場所だぞ。ヒィズルの連中に任せるというのか!?」
「私がやります。このような傷、戦場でたくさん見ました」
私はホフマンからキヨミさんへと視線を移した。彼女はしばし瞠目し、やがて覚悟を決めたように、深く頷いた。
「ーーすべてクルーガー先生にお任せします」
ヒィズルの医師たちが鍼と薬草で毒の進行を抑える間に、私はメスを握る。全神経を指先に集中させ、寸分の狂いもなく毒に汚染された矢じりとその周辺組織を摘出していく。
彼女の未来にこの夜の悪夢が影を落とさぬよう、細心の注意を払って。
夜を徹した治療の末、空が白み始めた頃、キヨミさんの妹君はか細いながらも確かな呼吸を取り戻していた。
「……心より感謝します、クルーガー先生」
夜明けの光が差し込む部屋で、キヨミさんは私の手を取り、深く頭を下げた。その手はまだ微かに震えていた。
「貴女のおかげで、あの子の命は救われました。……うちの医療班もあの縫合なら傷跡もほとんど残らないだろうと驚嘆しておりました。あの子が将来この傷のことで心を痛めずに済む……。それが、どれほど救いになるか……」
女傑と称される彼女は、まるで少女に目に涙を浮かべながら続ける。
「妹は私のたった一つの光なんです。生き馬の目を抜くようなこの時世で、次期当主として常に張り詰めていなければならない私にとって唯一心を許せる存在……。もしあの子を失っていたら、私は……」
そこまで言って、彼女は再び私に向き直った。その瞳にはもうこれまでの探るような色はなかった。ただ一人の人間としての、揺るぎない信頼と感謝だけが宿っていた。
「アズマビト家を代表してーーいえ、キヨミ・アズマビト個人として、貴女に心からの感謝を。この御恩は生涯忘れません」
その真っ直ぐな瞳を私はまともに見返すことができなかった。彼女の感謝の言葉が鋭い棘となって胸に突き刺さる。
貴女は知らないだろう、キヨミさん。私が事前に危険を察知しながら、己の保身のために沈黙したことを。
やがて犯人はヒィズル当局によって、アズマビト家に恨みを持つ旧財閥の残党と断定された。
ラルスの報告を伝えていれば、キヨミさんの妹君は傷付かずに済んだかもしれない。だが私は、我が身可愛さにそれをしなかった。もし同じ状況に再び陥っても、きっと同じ選択をするだろう。
私は彼女の感謝に値するような人間ではないのだ。
しかし私の内なる罪悪感とは裏腹に、この日を境にしてヒィズルにおける私の立場は決定的に変わった。私はもうただの厄介払いされた存在ではない。
この異国の地で、新たな活路を確かに見出し始めていた。
本作の鍼治療は毒に効きます。毒タイプが鋼タイプに無効みたいなものです。