エレンの妻です   作:ホワイト3

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12:ヒィズル国③

 王家の血――始祖ユミルを動かす唯一の鍵がこのヒィズルに存在するかもしれない。

 ラルスが残した言葉は、小さな棘のように私の心に突き刺さったままだ。

 

 その痛みとは裏腹に、ヒィズルでの生活は穏やかに過ぎていく。派遣任期が近づくにつれ、院内では任期満了を惜しむ声や、故郷への想いを語り合う声が交わされるようになった。

 

 もっともこの派遣は片方の当事者からの申し出で延長が可能であり、アズマビト家は是非とも延長したい旨をマーレに報告済みだ。

 そしてマイヤーが院長である限り、他の面々はともかく私の帰国は認められないだろう。この異国での長期滞在はもはや避けられない運命に思えた。

 

 季節は移ろい、ヒィズルに赴いてから一年近くが経とうとしていた、そんなある日のことだった。いつものように現地の医師たちへの講習と回診の準備に追われていると、背後から不意に声がかかる。

 

「クルーガー先生。少し、お時間をいただけますか」

 

 振り返ると、ラルスが貼り付けたような人好きのする笑みを浮かべて立っていた。

 昼間に、しかも人の往来がある廊下で彼から話しかけてくるなど、あり得ないことだった。互いの正体を隠すため、私たちはこれまで必要最低限の接触すら避けてきたはずだ。

 

 胸にじわりと嫌な汗が滲む。私は周囲に聞こえぬよう、声を潜めて尋ねた。

 

「……どうしたの。何か、緊急の用?」

 

「ええ、まあ。ぜひお伝えしておきたいことがありまして」

 

 ラルスは笑顔を崩さぬまま、私の耳元にそっと口を寄せた。その声はいつもの軽薄な響きが嘘のように、研ぎ澄まされた刃物のような冷たさを帯びていた。

 

「例の件で進展があった。先日話した王家を名乗る老人……その行方を知る人物を見つけ出した。エルディア人街の診療所を虱潰しに当たった甲斐があったよ」

 

 その言葉に、息が止まる。

 

「その医者の話じゃあ、老人は死期を悟り、己が血の『証』を子孫に託した、と。――その子孫はエルディア人街で一軒の茶屋を営んでいるそうだ」

 

 伝えられた店の名前に心臓が大きく跳ねた。キヨミさんたちと訪れた、あの店だ。

 

「なんだ、知ってたのか。なら話が早い」

 

 ラルスはそこで一度言葉を切った。その目はもはや笑ってはいなかった。夜の港で見る、冷徹なスパイの瞳だ。

 

「王家の末裔と接触するぞ、同志ジルケ」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 とある日の午後。私とラルスは埃っぽい労働服に身を包み、エルディア人街の雑踏に紛れていた。

 

 ごわつく生地の感触が非常に不快だ。わざわざ用意したカツラも蒸れて、エルディア人であることを示す腕章が罪人の烙印のように重い。

 だが、諜報活動で顔が割れている可能性があるラルスと、一度あの茶屋を訪れている私とでは、これくらい徹底しなければなるまい。素性がバレるようなことはあってはならない。

 

 ひび割れた石畳の道から、生活の匂いがむわりと立ち上る。その道すがら、ラルスが人混みに紛れるように声を潜めて言った。

 

「昨夜本国から手紙が届いたが、マーレの『エルディア人狩り』がますます酷くなってるらしい。もはや扇動を主導した政府ですら統制できていない、とな」

 

「民衆の集団ヒステリーほど、恐ろしいものはないわね」

 

「ああ……肝心の血液検査の精度が低いから、その結果を待つ者などもういないらしい。疑わしきは罰しろとばかりに、エルディア人だと決めつけられて吊るされる始末だ。まったく、あの国は狂っている」

 

 心の底から吐き捨てるような声だった。抑えきれない怒りと、遠い同胞への憐れみが滲んでいる。

 

 彼の言う通り、現行の血液検査は欠陥だらけだ。法外な費用がかかるくせに精度は低く、エルディア人を見逃すことも逆にマーレ人を誤ってエルディア人と判定することも少なくない。その不信感が、疑心暗鬼という名の火に油を注いでいる。

 

(エレンは大丈夫……よね)

 

 たたでさえ嫌われがちな治安局員のうえ、彼はマーレ人の振りをしたエルディア人だ。何かの拍子で、その狂乱の渦に巻き込まれるようなことがあれば……。

 考えたくもない想像が頭をよぎり、帰国の念が焦りのように胸を焼いた。

 

(あの研究があれば……ただ、あれは劇薬にもなり得る)

 

 特定の薬草に含まれる成分がエルディア人の血液に微細な変化を加えるという、あの発見。あれを応用した新たな検査法が確立すれば、この狂った魔女狩りを収束させられるかもしれない。無実のマーレ人が吊るされることも、エルディア人が理不尽に怯えることもなくなる。

 

 だがそれは同時に、潜伏する同志たちを危険に晒す諸刃の剣でもあった。精度の高い検査は革命軍にとって最大の脅威となりうる。

 

 私はこの葛藤を胸に隠したまま、ラルスに探りを入れることにした。あくまで「思考実験」として彼の反応を慎重に見極めるために。

 

「ねえラルス。もし……もっと精度の高い検査法があったらどう思う?」

 

「どう、とは?藪から棒に何だ」

 

「今の検査よりもずっと正確で、安価に、誰でも簡単に判別できる技術よ。そんなものが開発されたら、今の混乱は収まるかもしれない。けれど、我々にとっては脅威にならないかしら」

 

 私の問いにラルスは一瞬だけ足を止め、訝しげな視線をよこした。それから、まるで馬鹿げた冗談を聞いたかのようにふっと鼻で笑った。

 

「誰でも簡単に判別できる、ともなればかなりの脅威だろうよ」

 

「その心は?」

 

「今は専門の設備と知識を持つ人間が検査に介在するから、マーレ人に成りすました医師が結果を改竄する余地がある。いくら正確かつ安価な検査法でも、人間が間に挟まる構図なら当分は安泰だろう。だが、将来的に――それこそ試薬一つで、誰でも五分で調べられるようになれば、俺たちのやり方も通用しなくなる」

 

 その冷静な分析力に、私は内心で舌を巻く。

 

「ま、そんな技術が生まれるのは何十年も先の話だろ。それまでにエルディアの復権を成し遂げりゃいい」

 

 ラルスはそう言って話を打ち切った。

 

 やがて目的地の茶屋が見えてきた。古びてはいるが、清潔に保たれた店構え。いつの日かキヨミさんたちと訪れた、あの店だ。

 客を装って店に入り、茶を注文する。幸い、店主の老夫婦は私の顔を覚えていないようだった。

 

「おや、あんたたちは……この辺じゃ見ない顔だねぇ」

 

 茶を運びながら、老婦人が柔和な笑みを向ける。

 

「ええ。俺たち夫婦はマーレの収容区から移り住んできたばかりでして」

 

 ラルスが人の好い笑顔で答える。老主人が興味深そうに身を乗り出した。

 

「ほう……マーレから。あちらでの暮らしは、さぞ大変だったろう」

 

「ええ……ここではとても口にできぬような扱いも日常茶飯事でした。配給だけでは腹は満たされず、マーレ人のご機嫌一つで、昨日まで隣にいた者が消えることも……」

 

 ラルスが語る収容区の日常は、事実でありながら、老夫婦の同情を引くための巧妙な芝居でもあった。二人ともは深く眉間に皺を寄せ、その顔には隠しようのない憐憫が浮かんでいる。

 

「そうか、そうか……同胞が遠い国でそんなに苦しんでおるとは……。ここではマーレのように肩身の狭い思いをすることもあるまい。ゆっくりしていくとええ」

 

 その言葉は、心からのものに違いなかった。

 だが、私は彼らの姿に違和感を覚えていた。長年の苦労が刻まれた皺。日に焼け、節くれだった指先。客に対して少しへりくだるような猫背気味の姿勢。

 

 そのどれもが、この街で地道に生きてきたごく普通の庶民のものだ。

 

(本当にこの人たちが……?とても王家の血を引いているとは思えない)

 

 私が内心で訝しんでいると、店の奥から「ただいまー!」という、鈴を転がすような澄んだ声が聞こえた。

 

「おや、お孫さんですか?」

 

 ラルスがとびきり明るい声で尋ねる。老夫婦は「うちには勿体ないほどの、自慢の孫なんですよ」と、嬉しそうに目を細めた。

 

 やがて、その娘が「お待たせしました」と私たちの席に注文した茶菓子を運んできた。その姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。

 

(ダイナ・フリッツ……!)

 

 彼女の存在は、この慎ましい茶屋の中で、あまりにも異質だった。

 ただの町娘ではない。背筋は天を指すようにすっと伸び、その歩みには一切の無駄がない。茶菓子を置くその指先までが、まるで舞を舞うかのように洗練されている。

 そして何より、その瞳。ただ澄んでいるだけでなく、深い知性と強い意志に満ちていた。

 

 内心の動揺を押し殺し、私たちは当たり障りのない世間話を続けた。

 ダイナは、私たちが語る収容区の過酷な状況に何度も顔を歪ませ、悲しげに瞳を伏せた。その同情の深さが彼女の気高さをより一層際立たせる。

 

 やがて、彼女は絞り出すように呟いた。

 

「……それもこれも、すべては戦いを放棄した王のせいです」

 

 その言葉と共に、彼女は胸元で静かな光を放つネックレスを強く握り締めた。その瞳には深い悲しみと、それを上回る烈しい怒りの炎が揺らめいていた。

 

 茶屋を後にし、茜色に染まった家路につく。ラルスの横顔もまた、どこか確信に満ちていた。もはや隠し立ては不可能だろう。

 

「彼等こそ王家の末裔よ」

 

 私が断言すると、ラルスはゆっくり頷き、それから興奮を抑えるようにゴクリと喉を鳴らした。

 

「……何故そう言い切れる? あの老夫婦は、ただの人の好い爺さん婆さんにしか見えなかったが」

 

「胸元のネックレス。あの蒼く光る石は、氷爆石よ」

 

「氷爆石……。巨人の力で作られたという伝承の鉱石か……長老に聞いたことはあるが、まさか本物だと?」

 

「ええ。あの独特の輝きと形状から見て、間違いないわ。そしてあの石はパラディ島でしか採れないはず。つまり、あれを持っていることこそが王家の血を引く何よりの『証』よ」

 

 ダイナ・フリッツは見つかった。この情報はすぐに本国の革命軍へ伝達され、彼女をマーレへ送るよう指示が下るだろう。

 

 そして原作通りの悲劇が繰り返される。

 

 マイヤー院長がいる限り、私が自由に動くことは難しい。

 だが、このまま彼女をマーレに送るわけにもいかない。私が間に入ることでたとえばダイナにマーレ人としての身分を与えれば、グリシャと出会うこともなく、少なくともジークの誕生は防ぐことができる。

 

「ねぇ、提案なんだけど――」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 派遣期間の満了が間近に迫った、とある月夜。私はキヨミ様の私室の前に立っていた。

 深呼吸一つ。意を決して扉を叩く。

 

 ややあって静かに扉が開かれ、キヨミ様が穏やかな表情で私を迎えてくれた。

 

「夜分に失礼いたします」

 

「構いませんよ、ジル先生。さあ、お入りになって」

 

 促されるまま部屋に足を踏み入れると、そこは彼女の性格を映すかのように華美な装飾は一切なく、ただ静謐な気品に満ちていた。空間に満ちる伽羅の香りが、張り詰めていた私の心をわずかに解きほぐす。

 簡素な設えの中、私の目はふと床の間に置かれた白磁の花瓶に吸い寄せられた。そこに生けられていたのは、凛とした佇まいの紫の花だった。

 

「その花は、タチアオイと申します」

 

 私の視線に気づいたキヨミさんが、柔らかな声で教えてくれる。

 

「ヒィズルの国花であり、かつてこの国を統べた将軍家の紋章でもあります。天に向かって真っ直ぐに伸びるその姿になぞらえ、遠い地へ渡られた主君の帰りを待ち続けるという、忠君の象徴とされております」

 

「帰りを待つ、ですか……」

 

 その花から目が離せない。

 なんて健気な話だろう。今の私の胸に深く突き刺さる内容だった。

 

「素晴らしいお話です。私にも――帰りを待ち続けてくれる人がいます。本日は、そのために参りました」

 

 そう切り出すと私は居住まいを正した。雑談はここまでだ。

 

「夜分に突然押しかけ申し訳ございません。キヨミ様に二つほど願いがあって参りました」

 

 私は覚悟を決め、茶を勧めようとする彼女の動きを制するように、その黒曜石のような瞳をまっすぐに見つめ返した。

 

「この度私はーーこのヒィズル国での研究において、エルディア人の新しい血液検査方法に繋がる大発見をいたしました。つきましてはその旨をマーレ本国に報告させて頂きたく存じます……この発見はアズマビト家が所蔵する古文書と、この国に自生する薬草の知見なくしてはあり得ませんでした。アズマビト家のご意向を伺わぬまま事を進めるのは、筋違いかと思いまして。これが一点目のご依頼です」

 

 私の言葉にキヨミさんの柔和な表情がすっと真顔に変わる。

 彼女は淹れかけた茶器を静かに置くと、射抜くような鋭い視線を私に向けた。

 

「……それは初耳ですね。それほど重大な発見を、なぜ今まで黙っておられたのですか?」

 

 試すような眼差し。ここで拙い嘘を弄すれば、これまで築き上げた信頼関係は砂上の楼閣と化すだろう。私は一度目を伏せ、慎重に言葉を紡いだ。

 

「きっかけは、キヨミ様のご厚意で閲覧を許された書庫の一角で見つけた古文書でした。私自身、初めは伝承の類いだと半信半疑でおりました。そこにはある特定の薬草を用いることで、ユミルの民を識別できると記されており……」

 

「ただの迷信かと思っていましたが……まさか」

 

「その、まさかです。ご存知の通り、マーレはエルディア人問題を巡り酷く混乱しております。不確かな情報をハンスたちに話し、万が一にも誤った形で祖国へ伝われば、かえって事態を悪化させると危惧いたしました。ですが研究を重ね、その記述が紛れもない事実であると実証できた今、祖国へ報告する決意を固めた次第です」

 

 キヨミさんはまだ納得しきれないというように黙り込んでいる……まあ当然か。自分の預かり知らぬところで、怪しい研究されてたのだから。

 

 理屈だけでは、この疑念は晴らせない。相手の心に訴えかける言葉が必要だ。

 

「……私事で恐縮ですが、夫のことが案じられまして」

 

 エレンを心配する気持ちに嘘はない。

 ピクシス司令も言っていたじゃないか。上手い嘘のつき方は、時折事実を混ぜて話すことだ、と。

 

「私の夫はマーレの治安当局に籍を置いております。ご存知の通り、取り締まる立場の者はいつの世も敵意を向けられやすいもの。その上、現状の不正確な血液検査によって無辜のマーレ人がエルディア人として断罪される悲劇が頻発しています。その憎悪の矛先が夫へ向かってはいないかと……先日祖国から届いた手紙を読み、この事態を一刻も早く収束させねばならないと心を固めたのです」

 

 私の声のかすかな震えに気づいたのだろうか。キヨミさんの厳しい表情が、わずかに和らいだ。

 彼女の瞳から『まだ腑に落ちない』という色は消えていない。だが、私の覚悟の一端は伝わったようだった。

 

「……事情は分かりました。報告が遅れたことは少々気にかかりますが、ジル先生のお気持ちも理解できます。それで、もう一つのお願いとは?」

 

「はい。キヨミ様からマーレに対し、私の帰国を許可ないしは後押ししていただきたく存じます」

 

 その言葉に、キヨミさんは怪訝そうに柳眉をひそめた。

 

「あまり意図が掴めませんが……要するにマーレへ帰りたい、と。先生の任期や帰国を決定するのはマーレ本国の問題。我々アズマビト家が介入すべきことではないように思いますが」

 

「おっしゃる通りです。ですが、その。お恥ずかしながら……お恥ずかしながら、私は本国の上層部と折り合いが悪く。たとえ正式な召喚命令が出たとしても、その者の一存で握り潰される恐れがございます。キヨミ様の前で申し上げるのも失礼な話ですが、このままでは私は祖国の土を踏むことすら叶いません」

 

 私は、改めてキヨミさんの目をまっすぐに見た。

 

「先ほど申し上げた研究の進展は現状、医学と巨人化学に精通し、ヒィズルの薬学を学んだ私にしかできません。騒乱の祖国に身を置く夫や友人たちのためにも、私は本国に戻って研究を完成させたい。そのための後押しを、ここヒィズルから正式にお願いできないでしょうか」

 

 私の話を聞き終えたキヨミさんは、しばし瞠目した後、ふっとその表情を緩めた。

 その瞳には先ほどまでの探るような色ではなく、極上の逸品を見つけた商人のような、したたかな光が宿っていた。

 

「ジル先生のお願い、しかと理解いたしました。その上で、こちらから三つ条件がございます」

 

 キヨミさんは白魚のような指を一本、静かに折り曲げた。

 

「一つ。先生が発見なされた薬草の種類、そしてその成分について我々にもご教示願えますか。もちろん、その技術を盗むなどという野暮な真似はいたしません。これはあくまで未来への投資。ビジネスの文脈です」

 

「……新しい血液検査が確立すれば、将来的にその薬草の需要が飛躍的に高まる。今のうちに供給路を確保ないしは量産体制を整えておきたい、ということですね」

 

「ご明察、感謝いたします。話が早くて助かります」

 

 さすがはアズマビト家の次期当主。抜け目がない。

 内心で舌を巻きつつ、私は頭を回転させる。情報を渡すリスクは? ヒィズルが独自に検査法を確立し、マーレを出し抜く可能性は?

 ……いや、それには巨人化学の知見が不可欠だ。一朝一夕で追いつけるものではない。

 

「断る理由もございません。そもそもヒィズルの優秀な医師の方々とアズマビト家の寛大なるご協力のお陰で、此度の発見に至ったのですから」

 

 そう言った途端、キヨミさんの口の端から一筋の涎が垂れたのを私は見逃さなかった。

 

「ありがとうございます。では二つ目。こちらからもマーレへ人材を派遣し、最新の知見や技術を持ち帰りたい。先生にはその窓口となって頂きたいのです」

 

 これも当然の要求だろう。アズマビト家はマーレをはじめとする先進諸国に追い付くため、医療だけでなく軍事や工業などあらゆる分野で急速な近代化政策を進めている。初めて会った時に打診された、壮大な計画の念押しというわけだ。

 

「承知いたしました。問題ございません」

 

「ありがとうございます。最後の条件ですが……」

 

 キヨミさんはそう言うと、私の手を両手で優しく包み込んだ。

 その所作はこれまでのビジネスライクなものとは全く異なり、驚くほど温かかった。

 

「いつになっても構いません。いつかまた、必ずこのヒィズルへお越しください。私たちはいつでも、大恩ある貴女を歓迎いたします」

 

 計算ずくの交渉の最後に、まさかこんな言葉をかけてもらえるとは。この人は、ただのしたたかな商人ではない。

 不意を突かれた私の胸にじわりと熱いものが込み上げてくる。

 

「……はい!」

 

 その温もりに応えるように、私は力強く頷いた。

 

 交渉は終わった。キヨミさんの私室を辞した私は安堵からか、わずかに震える足で夜の廊下を歩く。

 月明かりが、静まり返った庭の木々を白く照らし出していた。

 

 まだ帰れると確定したわけではない。だが、道筋は見えた。この発見をマガトに報告すれば軍は必ず動くはず。そしてヒィズル国からの正式な協力要請という大義名分があれば、マイヤー院長とて私の帰国を握り潰すことはできなくなるだろう。

 

 帰れる。あの息の詰まるようなマーレへ。夫の待つ、あの家へ。

 

 私はパンドラの箱を開けたのかもしれない。私の発見はマーレを覆う狂気を終わらせるかもしれない。しかし同時に、エルディア人をより確実に識別する術をマーレに与えることにもなる。

 

 だが、もう迷いはない。

 ただ「疑わしい」というだけで無辜の民が悪魔として断罪される無秩序な狂気より、たとえマーレを利することになろうとも、確かな「秩序」をもたらす方が遥かに良い。

 

 それがこの地獄のような世界で、私が見つけ出した唯一の答えだった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 後日研究成果の報告書がマーレ本国に届けられると、すぐさま緊急の帰国命令が下された。軍もアズマビト家も、それぞれの思惑のために迅速に動いてくれたようだ。

 

 出航の日。港には、見送りのためにハンスとラルスが来てくれた。帰国するのは研究の主担当者である私と、もともと任期が一年のホフマンの二人だけだった。

 

「ジル先生!俺、いつか二つの国の架け橋になってみせます!また必ずお会いしましょう!」

 

 別れ際、ハンスは太陽のような笑顔でそう叫んだ。純粋な彼の言葉が胸に温かい。

 隣に立つラルスはただ静かに頷いている。彼にはダイナ・フリッツを密航させるという、我々の未来を左右するほどに重大な任務が残されている。

 その重圧を思うと、軽々しく言葉をかけることなどできなかった。結局、最後まで彼に頼ってばかりだ。

 

 マーレへと向かう船の甲板で潮風に吹かれていると、不意に背後から声がかかった。

 

「……クルーガー女史」

 

 気まずい表情をしたホフマンが私の隣に来る。彼と二人きりになるのはこれが初めてかもしれない。

 

「ヒィズルでの日々は俺に新しい価値観をもたらした。何事も、実際に体験してみなければ分からんものだな」

 

 海を眺めながら、彼はぽつりと呟く。その横顔は、以前のような刺々しさが嘘のように、どこか穏やかだった。

 

「あんたのこともマーレにいた頃は噂でしか知らなかった。白衣の女神などと持て囃され、エルディア人に媚びを売る恥知らずな女だとそう思っていた。だが、この一年あんたの仕事ぶりを見て分かった。あんたは……驚くほど普通の、ただ懸命な人間だ」

 

 彼はそこで一度言葉を切り、ばつが悪そうに顔を逸らした。

 

「……これまでの数々の非礼、すまなかった」

 

 その不器用な謝罪に、思わず笑みがこぼれそうになるのを必死に堪える。

 ――普通の人間、か。エルディア革命軍に身を置き、世界を欺いている女が聞いて呆れる。

 

 そんな内心を悟られぬよう、私はただ静かに首を縦に振った。この愚直な男に、不思議な好感を抱いている自分に気づきながら。

 

 対話など無意味だと、そう切り捨ててしまうのは簡単だ。だが、こうして心が通う瞬間があることもまた事実なのだ。

 その僅かな可能性に懸け続けたアルミンやハンジの気持ちが、ほんの少しだけ分かった気がした。

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