エレンの妻です   作:ホワイト3

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13:運命

 一年ぶりに吸うレベリオの空気は相変わらず石炭と鉄の匂いがした。ヒィズルの澄み切ったそれに慣れた肺には少し堪えるが、不思議と安堵にも似た懐かしさが込み上げてくる。

 故郷の匂いとは、こういうものなのだろうか。

 

 マーレ軍中央病院の門は相も変わらず厳しくそびえ立っていた。だが一歩足を踏み入れると、明らかに空気が違っていた。

 以前まで院内を支配していた派閥争いの緊迫感は鳴りを潜め、代わりにどこか乾いた、それでいて規律だった熱気が満ちていた。

 

 しかし、それは古い淀みが完全に払拭されたことを意味しない。廊下の隅々から投げかけられる視線には敗者の燻るような光があり、新たな秩序への無言の反発が肌を刺した。

 

(……変わらないわね)

 

 ヒィズル国からの後押しと、新たな血液検査法の発見という手土産によって帰還は驚くほどスムーズに進んだ。あれほど私を目の敵にしていたマイヤー院長がどう出るか一悶着あると覚悟していただけに、この表面上の平穏はかえって不気味ですらあった。

 

 私が感慨にふけっていると、見知らぬ軍属の男が近づいてきて、硬い口調で告げた。

 

「クルーガー女史ですね。お待ちしておりました。院長がお呼びです」

 

 院長、という言葉にマイヤーの顔が浮かび、眉をひそめる。

 だが男は私の内心などお構いなしに、慣れた足取りで先導を始めた。案内されたのはマイヤーのかつての執務室ではなく、最上階の、以前は使われていなかった区画だった。重厚な扉には、真新しい『院長室』というプレートが掲げられている。

 

 男に促されるまま扉を開けると、その主の席には改革派として知られる壮年の医師が座り、その傍らには予想だにしなかった人物が腕を組んで立っていた。

 

「よく戻った、クルーガー女史。長旅ご苦労であった」

 

 テオ・マガト。先の戦争で私を評価し、利用価値を見出した男。軍人である彼の存在が、この病院が単なる医療機関ではなく軍の思惑と深く結びついていることを物語っている。

 更にその彼の隣にはヒィズルで一緒だったホフマンがバツの悪そうな顔で控えている。

 

 私がヒィズルにいる間に軍内部の政争は改革派の勝利で決着がついていた。巨人の力に固執する旧態依然の保守派は一掃され、その筆頭であったマイヤーも汚職の嫌疑をかけられ失脚したという。

 

(なるほど、道理で……)

 

 帰国を阻む最大の障害が自滅していたとは。運が良いと喜ぶべきか、あるいは、軍の掌の上で踊らせることになると嘆くべきか。

 

「貴官がもたらした研究成果は、国防上極めて重要だ。軍の全面的なバックアップを約束しよう。早急に新たな血液検査法を完成させ、国内に蔓延るこの馬鹿げた疑心暗鬼を収束させてくれ」

 

 マガトの言葉は労いの響きを含みながらも、有無を言わさぬ命令だった。私はただ「承知いたしました」と短く応える。

 院内の実権がどちらに移ろうと、私のやることに変わりはない。研究を進めながら革命軍としての任務を遂行する。為すべきことは山積していた。

 

 その日から私の戦場は研究室へと移った。

 与えられたのは病院の最上階にある最新設備が揃った特別研究室。軍の監視の目が光る中、ヒィズルの薬とエルディア人の血液を組み合わせ、安定した検査結果を導き出すための地道で気の遠くなるような作業が続いた。

 

 膨大なデータを分析し、仮説を立て、検証を繰り返す。インクと薬品の匂いが混じり合う部屋で、白衣を脱ぐことも忘れ、来る日も来る日も顕微鏡を覗き込む。

 肩は石のように凝り固まり、目の下の隈は日に日にその色を濃くしていく。

 

(――これが本当の社畜というやつか。)

 

 前世の記憶が自嘲気味に囁いた。

 

 だが、この息の詰まる日々に思いがけない光が差し込んだのは、帰国から一週間が過ぎた日のことだった。

 

 いつものように冷めきったパンをかじりながら顕微鏡を覗き込んでいると、研究室の扉が遠慮がちにノックされた。軍の者だろうかと無機質に「どうぞ」と応えると、そこに立っていたのは湯気の立つマグカップを両手に抱え、満面の笑みを浮かべたセラだった。

 

「ジル先生!!!」

 

 鼓膜を震わせたのは太陽のように明るく、そして何よりも懐かしい声。

 弾かれたように顔を上げた私の目に、彼女の姿が飛び込んでくる。その瞬間思考が止まった。

 

 ここはマーレ軍の中枢。一般病棟とは何もかもが違う。なぜ、彼女がここに?

 

「……セラ? なぜ、あなたがここに……?」

 

 かろうじて絞り出した声は、驚きと戸惑いで自分でも情けないほど震えていた。彼女はデスクにそっとコーヒーを置くと、胸を張ってそれはもう誇らしげに言った。

 

「先生がヒィズルに行かれている間、私も先生のお役に立てるよう必死に勉強しました!それで、その熱意を伝えて何度もお願いしてこの病院に異動させてもらったんです!」

 

 胸の奥が熱くなる。私がいない間、この少女はただひたすらに私を追いかけて、こんな場所まで来てくれたのか。その一途な想いが乾いた心に沁み渡る。

 

「今は先生の研究に必要な血液を集めるのが、私の大事な任務なんです!」

 

 セラの言葉にはっとさせられる。

 そうだ。この研究を完成させるには、数多くのエルディア人兵士の血液サンプルが不可欠だ。

 ただでさえマーレ人医師を警戒している彼らから、協力を得るのは困難を極めるだろうと頭を悩ませていたところだった。

 

「大丈夫です、先生!兵士の皆さん、最初は凄く嫌がってましたけど、この採血がジル先生のためだとお話ししたら『あの白衣の女神様のためなら』って、少しずつ協力してくれるようになったんです!」

 

 セラは悪戯っぽく笑うと、採血リストがびっしりと書き込まれた手帳を広げて見せた。彼女が忙しい看護業務の合間を縫って、ただひたむきに一人一人と向き合い、私のためにこのリストを埋めてくれたのだ。

 その事実が、どんな言葉よりも雄弁に彼女の想いを物語っていた。

 

 差し出されたコーヒーを一口飲む。温かくて、少しだけ甘いその味が凝り固まった心と体を、芯から解きほぐしていくようだった。

 

「……ありがとう、セラ。あなたがいれば百人力だわ」

 

 心の底からそう思った。この打算と陰謀に満ちた世界で、彼女の純粋さがどれほどの救いになることか。

 

 セラの笑顔に背中を押され、再び顕微鏡を覗き込む。もう孤独な戦いではない。隣には誰よりも信頼できる子がいるのだからと、自分を鼓舞させる。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 セラとの再会がもたらした束の間の安寧――そんな私の都合などあの老人が考慮するはずもなかった。

 夜更け、研究室の扉を叩く無遠慮な音が響く。革命軍の若者だった。その強張った表情だけで、長老からの有無を言わせぬ召集命令だと悟る。

 私は重い体を引きずるようにして、レベリオの裏路地に広がる闇へと再び足を踏み入れた。

 

 湿ったカビの匂いが鼻をつくアジトの一室で、長老は一人揺らめくランプの灯を前に佇んでいた。その背中は小刻みに震え、抑えきれない興奮が澱んだ空気を満たしている。彼の放つ異様な熱気が、この息苦しい空間をさらに歪ませているようだった。

 

「来たか、ジルケ!」

 

 振り返った彼の顔は、狂信的な熱に浮かされていた。その瞳は爛々と輝き、もはや現実ではなく彼の内なる理想の幻影だけを映している。

 

「ついに我らの元へ、真の王家の血を引く御方がお越しになられたぞ!」

 

 ダイナ・フリッツが無事に到着したのだ。ラルスの手腕は見事という他ない。

 だが長老の口から、私やラルスの一年間にわたる労苦をねぎらう言葉は一言もなかった。ヒィズルでの諜報活動、アズマビト家との関係構築、そして王家の血筋の発見と保護。その全てがこの男にとっては盤上の駒が予定通りに動いたに過ぎないのだろう。

 まあ、この男にそんな気遣いを期待するだけ無駄か。

 

「ダイナ――いえ、フリッツ王家の末裔はどこに?」

 

「おお、我らが主は長旅の疲れもおありだろう。今は安全な場所でお休みいただいている」

 

 我らが主、ね。

 長老は、大陸に残された王家の末裔の身を心の底から案じ続けていた。その姿は時に滑稽ですらあったが、彼の揺るぎない信仰心の源泉でもあったのだろう。

 

 失われた栄光の象徴、エルディア復権の唯一無二の鍵。その積年の思いが今、堰を切ったように溢れ出している。彼の目にはダイナ・フリッツという一人の女性ではなく、生きた神か、あるいは救世主の姿が映っているのだ。

 

「フフ……フハハハ! 壁の王から始祖を奪い、我らが主に献上する時が来た! 真の王家がお戻りになられた今、マーレや奴らに媚びへつらうタイバー家の如き裏切り者どもが築いた偽りの平和など、砂上の楼閣に過ぎん!皆の者、運命の日は近いぞ!!」

 

 長老は、積年の憎悪を吐き出すようにそう叫んだ。

 

「エルディアの復権のためにも我らが主には子を成していただき、その血を未来永劫繋いでいかねばならん。そして、ゆくゆくは――」

 

 恍惚とした表情で語る長老の言葉に、私は吐き気を覚えた。相も変わらずダイナ・フリッツという一人の人間を見ているのではない。ただ、王家の血を継ぐための「器」としてしか見ていない。一年ぶりに会うからか、以前より長老の醜悪さを敏感に感じ取るようになった気がする。

 

「当面は、どうなさるおつもりです?」

 

 私は夢想を現実に引き戻すように、冷静に問いかけた。

 

「うむ。マーレの豚共に嗅ぎまわられても面倒だ。しばらくは革命軍のアジトに留まっていただき、いずれその高貴な血筋にふさわしい身分を用意しよう。我々もその血の純潔が損なわれぬよう、我らが主を外界から丁重にお守りせねばなるまい」

 

 それは暗にダイナを一人の人間としてではなく、ただ血を繋ぐための道具として幽閉することを意味していた。反吐が出る。だが、彼の言葉は神託も同然。この狂信者の前では、誰も異を唱えることはできない。

 

(――待てよ。長老はダイナをレベリオ収容区へ送るつもりはない……つまり、彼女はグリシャ・イェーガーと出会わないということ……?)

 

 そうだ。原作では、二人は収容区の地下組織で出会い、結ばれるはずだった。だがこの男の計画が実行されれば、その未来は永遠に閉ざされる。

 

 私は怖かった。ヒィズル国で静かに生涯を終えるはずだったダイナを外の世界に連れ出す遠因となったのは、間違いなく私なのだから。

 

(――ジーク・イェーガーは生まれない?)

 

 それは原作からの大幅な逸脱を意味する。

 

 しかしそんな淡い期待はすぐ木っ端微塵に砕け散った。まるで悪魔が人間の浅慮をあざ笑うかのように。

 

 ある日、革命軍の若い連絡員が血相を変えて研究室に駆け込んできた。「同志ジルケ……!一大事です!」と語る顔には、焦りと困惑が色濃く浮かんでいる。

 彼がもたらした報告は、私の思考を凍りつかせるのに十分すぎた。

 

「我らが主ダイナ様が……『同胞たちが最も苦しんでいる場所で私も共に戦いたい』と、収容区の地下組織へ身を寄せることを強く希望されております!」

 

 長老たちが必死に説得したものの、ダイナの意志は鋼のように固く、覆すことはできなかったという。収容区の過酷な現状を何度説明しても、彼女は『だからこそ王家の血を継ぐ私が行かねばなりません』と、静かに首を横に振るだけだったと。

 

 戦いから目を背けた王のようにはなるまい、と自らに言い聞かせているようだった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 重い足取りで自宅のドアを開ける。帰国してから数週間経つが、この家が安息の地として機能するのは当分先になりそうだ。

 

 ダイナ・フリッツの選択が頭を過る。

 ヒィズルで会った時、確かに彼女は同胞を深く憂う様子を見せていたし、エルディア復権への意欲も並々ならぬものがあると感じていた。だが、ヒィズルでの穏やかな暮らしやマーレ人としての偽りの身分を捨ててまで、収容区での生活を選ぶだなんて。

 

 彼女の覚悟を私は甘く見ていたようだ。

 

(なんで……なんで自分から地獄に進みに行くの――)

 

 歴史が変わる瞬間……その僅かな光が、他ならぬ王家自身の高潔さによって打ち砕かれるというのか。

 運命は、なんと皮肉な形で人の希望をへし折るのだろう。

 

「おかえり、ご苦労だったな」

 

 リビングのソファから掛けられた簡素な労いの言葉。薄暗い部屋の中、ランプの灯だけが新聞を読む男の横顔を照らしている。

 

「研究の方はどうだ」

 

「……まだまだかかりそうかしら。でも、そう遠くないうちに新しい検査方法は確立すると思う」

 

 嘘偽りなくそう答えると、エレンは「そうか」と短く頷いた。新聞をめくる音が、やけに大きく部屋に響く。

 

「検査の信頼度が上がれば、医師の権威も増す。革命軍にとっては追い風だ。お前には助けられてばかりだな」

 

 遠回しな感謝に、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じる。

 しかしその熱はエレンの次の言葉で急速に冷めていった。

 

「お前がヒィズルから送ってくれた書物も役に立ったよ。口にこそ出していないが長老もお前には感謝している」

 

 書物? 困惑する私をよそに、エレンは続けた。

 

「あれはどうやって手に入れた?」

 

 彼の唐突な問いに心臓が嫌な音を立てて跳ねる。

 確かに私は、アズマビト家から譲ってもらった書物を幾つか本国に送ったことがある。しかし、どれも歴史的価値しか取り柄のない、何か実利的な繋がる書物はなかったはず。

 

「ええと……アズマビト家の書庫にエルディア帝国時代のものがあってね。無理言っていくつか譲ってもらったのだけど……あれがどう役に立ったの?」

 

「復権派の戦意高揚には最適だったよ。あれのおかげで、収容区の連中も随分と活気づいた」

 

 そう言ってエレンが告げたのは、エルディア帝国時代に初等教育で使われていた、子供向けの歴史教科書の名だった。

 長老のご機嫌取りも兼ねて送った一冊が私の意図しない形で、過激な炎を燃え上がらせる薪になっていた。

 

「収容区の復権派は……今どうなっているの? あなたが『フクロウ』として導いているのでしょう?」

 

 私の問いにエレンは静かに新聞を畳んだ。初めて私に真っ直ぐな視線を向ける。

 その瞳は(フクロウ)のように静かで、底が見えない。その奥に渦巻く感情を、私は読み取ることができない。

 

「お前も知っての通り、復権派はマーレ人に成りすます我々革命軍とは違う。収容区の中から反マーレの炎を燃やすための、いわば火種だ」

 

「ええ……ヒィズルへ発つ直前にあなたが組織したわよね」

 

「そうだ。そしてお前の不在の間、ある男が組織に加わったことで復権派は急速に規模を拡大させた。件の歴史書ーーお前に言わせれば子ども向けの教科書を読み解き、連中を扇動したのも奴だ。お前も、いずれ関わることになるかもしれん」

 

 エレンは静かに立ち上がった。窓の外の闇を見つめながら彼はその男の名を告げる。

 

 その声は、世界の終焉を告げる響きを帯びていた。

 

「男の名は――グリシャ・イェーガー」

 

 鳥肌が立った。私のささやかな介入もすべて無意味のように思えた。この世界は、まるで自らの意志を持つかのように物語をあるべき場所へと引き戻そうとしている。

 

(……これが運命か)

 

 抗いがたい巨大な奔流が、全ての些細な抵抗を飲み込み、定められた結末へと向かっていく――ある一つの血塗られた『道』へ向けて。嫌な予感が、冷たい蛇のように私の背筋を這い上がっていった。




ダイナ……ガンギマリすぎて怖い……
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