エレンの妻です   作:ホワイト3

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16:赤子

『愚息をお世話いただきありがとうございます。ほら、ジーク。お前も礼を言いなさい。礼儀もなっていないようではマーレの戦士には到底なれないぞ?』

 

『――ええ、分かっておりますとも。この子に過度な期待をかけるなと、そう仰りたいのですね?ご忠告痛み入ります。お恥ずかしい話ですが、夫婦待望の一人息子ですから、つい期待を寄せてしまうのかもしれません』

 

『この子が持つ大きな可能性を、親として最大限に引き出してやりたい。それが、マーレと我々エルディア人双方の明るい未来に繋がると信じておりますので。この子はきっと我らマーレとエルディア人を真の勝利へ導いてくれるでしょう』

 

『戦士候補生の選定権など持っていないから媚を売らなくてよい?ははっ、軍医殿は手厳しいな。私は本心を述べたまでですよ』

 

『でも、いつか……私達の思いをジークは分かってくれるはずです』

 

 研究室の窓から差し込む朝日は気怠く、私の思考を鈍らせた。

 昨夜対面したグリシャ・イェーガーは柔和な印象の男だった。理知的かつ物腰柔らかで、その笑顔には人を惹きつける何かがある。

 

 なるほど、確かに若くして復権派を指導するだけはある。

 

 だがーー彼の過去を知る私には分かる。その瞳の奥に宿る、マーレへの不信感と消えない憎しみの色を。

 そして、あの穏やかな言葉の端々から滲み出るジークへの過剰な期待は、私の胸を悪くさせるには十分だった。

 

 セラが淹れてくれた温かいコーヒーを一口含み、ふうと長い溜息を吐いた。

 

「私、聞いちゃいましたよ!」

 

 不意に、背後でセラが弾むような声を上げた。この澱んだ空気の中では場違いなほどに明るい声だ。

 

「昨日、先生がジーク君の手を引いてわざわざ収容区まで送っていったって!もう病院中の噂です!やっぱり先生は本当にお優しいんですね、私も見習いたいです!」

 

 その純粋な称賛に、私は気恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。余計な注目を浴びてしまったか。

 事を穏便に済ませたい私の思惑とは裏腹に、『白衣の女神』の物語は本人のあずかり知らぬところで新たな一節を紡いでいく。

 

「そういえば先生、ご結婚されてもう長いですよね?お子様とか、欲しくならないんですか?」

 

 何の気なしにセラが尋ねてくる。そのあまりに無邪気な問いが、私の心の奥底に沈めていたはずの重い蓋をこじ開けた。

 

『子を産み、増やし続けろ。ユミルの民の血を絶やしてはならぬ』

 

 長老の最後の言葉が呪いのように蘇る。

 

 エレンと、子供を。考えたことがなかったと言えば……嘘になる。

 だが、その度に思考は行き止まりの壁に突き当たった。

 

 『進撃』を継いだ夫の命はあと一年と少しで尽きる。それは誰にも、どうすることもできない絶対の呪い。

 革命軍の中でも彼の次の継承者を決める動きがあったが、夫の「もう決めている」の一言でそれは立ち消えになった。「情報漏洩の危険がある。継承の儀の直前まで名は明かさん」と彼はもっともらしい理由を口にしたが、私には分かる。

 

 彼はグリシャに継承させるつもりなのだ。原作のように復権派がマーレに捕えられなくとも、夫はそうするに違いないという確信があった。

 

 ともあれ、エレン・クルーガーは近い将来必ず死ぬ。継承したその日から死ぬ日は決まっている。

 彼はまるで余命いくばくもない自分と私が親密になりすぎないよう、常に壁を作っていた気がする。転生して間もなかった頃の私も、その壁の向こう側へ踏み込むことを避けていた。

 

 でも、今は――。

 

「あ、すみません!すごく失礼なこと聞いちゃいました!お子様は授かりものですから、私がどうこう言う話じゃなかったです……」

 

 私の長い沈黙を気まずく思ったのだろう。セラが慌てて頭を下げる。

 

「ううん、全然気にしてないわよ。セラこそ良いお相手はいないの?」

 

「私の恋人は仕事ですから!」

 

 セラは悪戯っぽく笑った。もう結構いい歳のはずなのに、その屈託のなさは呆れるのを通り越して少し羨ましくもある。

 

 そんな雑談をしていると、医務室のドアが静かに開き、ジークが一人で入ってきた。不思議なことにどこにも傷を負っていない。

 

「ジークじゃない。訓練はどうしたの?」

 

 私の問いに、彼は俯いたままか細い声で答えた。

 

「『やる気のない者は去れ』って……僕みたいなエルディア人に『我が国の巨人を委ねられるわけがない』ってマガト隊長に言われて――」

 

 私は顔を顰める。どこかで聞いたことのあるセリフ。それは原作の記憶か、それとも転生してからの記憶か――。

 

「もう僕はおしまいだ……」

 

 絶望に染まったその声が、忘却の彼方に葬り去ろうとしていた記憶が不意に顔を覗かせた。

 

『何をしても無駄なんじゃないかって。そう思ったらなんだかもう……』

 

 もう何年も前のことだ。なのに未だ寝ても覚めてもあの光景は消え去りはしない。人間としての尊厳を奪われ、化け物へと成り果てた少年の最後。

 私のせいで死んだヒルフェンの姿が、目の前の少年が重なる。

 

 この子もまた、身勝手な大人たちの犠牲者だ。そしてその大人たちの中には、紛れもなく私自身も含まれている。

 込み上げてくるのは自己嫌悪と、このどうしようもない現状への静かな怒りだった。

 

「無理はしなくていいのよ。君は君のペースでやればいいんだから」

 

「でも……お父さんとお母さんの期待に応えないと……」

 

「昨日ご両親の隣で何を聞いてたのよ……良い?無理な時は無理だって言いなさい。それに、マーレの戦士になることが本当に君の望み?」

 

 私の問いにジークはびくりと肩を震わせた。まるで核心を突かれたかのように。彼はしばらく逡巡した後ぽつりぽつりと語り始めた。

 

「僕が……僕が戦士になって、エルディア人の皆を救わないとダメなんです」

 

「それは本当に君の言葉?それともご両親の言葉?」

 

「……わかりません」ジークはか細い声で首を横に振った。

 

「でも僕がやらなきゃ……お父さんとお母さんが、悲しむから……」

 

 彼のそばに膝をつくと、その金色の髪をそっと撫でた。

 

 それは母親が子に向ける、ごく自然な愛情の発露さながらだ――なんて、子供のいない私が言っても一笑に付されるだけかもしれないが、少なくともジークにはそう感じられたのだろう。

 

 彼は一瞬だけ驚いたように目を見開くと、やがて堰を切ったように青い瞳から大粒の涙をこぼした。嗚咽を漏らしながら、私の白衣を小さな手で強く握りしめる。

 

「ジル先生……っ!」

 

 しゃくり上げる背中を撫でながら、私は凍てつくような自問に囚われていた。

 

 私はまた同じ過ちを繰り返すのだろうか。

 目の前の少年に中途半端な希望を見せ、その光で彼の身を焦がすのだろうか。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 その夜のダイニングは、息が詰まるほどの静寂に支配されていた。

 

 ランプの灯りが落とす影の中で、向かいに座る夫の表情は窺い知れない。私がジークに肩入れしていることを、この男が知らないはずはなかった。彼が何を思い、何を言わんとしているのか。

 カトラリーが皿に触れる乾いた音だけが、二人の間に横たわる重たい空気に癒えぬ傷跡のように刻まれていった。

 

「ジークを戦士にするには、俺の後ろ盾だけでは足りん。あの子自身が好成績を収める必要がある」

 

 食事を終えたクルーガーが唐突に切り出した。その声には何の感情も乗っていない。ただ冷徹な事実を告げる響きだけがあった。

 

「ジークはどうだ。やれそうか」

 

 その問いは私の胸を鋭く抉る。これはただの問いではない。革命軍の指導者としての冷徹な判断を、妻である私に突きつけているのだ。

 分かっている。それでも脳裏に焼き付いて離れない。重圧に押し潰され、私の腕の中で泣きじゃくったあの小さな少年の顔が。

 

「……もう、終わりにしない?」

 

 ぽつりと、祈るように言葉がこぼれた。

 

「私達大人が好き勝手するのはまだ良い。でも、ジークは違う。あの子はただ両親に愛されたいだけなのよ。エルディア復権のための道具じゃない――私はもう、この終わりのない戦争に、何も知らない子どもが巻き込まれるのを見ていられない」

 

「お前が復権派を抜けるのは勝手だ」

 

 夫は私の言葉を遮った。その瞳は凍てついた湖のように静かで、どこまでも底が見えなかった。

 

「革命軍に危害を加えない限り、組織はお前を追わん。だがお前が何と言おうと、俺は進み続ける。ジークが駄目なら次の手を考えるまでだ」

 

 彼の言葉は、私の最後の希望を打ち砕くには十分すぎた。あくまで彼は王家の血を引くジークによる始祖奪還を目論んでいる。

 

 しかし私は知っている。『不戦の契り』によってジークが始祖を継承してもその真価を発揮することは出来ない、と。

 全ては徒労。いや、それどころか、血も涙もないマーレや何をしでかすか分からない狂信者たちが始祖の力を手にすることの方がより大きな悲劇をもたらすかもしれない。

 

 それでも。この男は進み続けるのだろう。いつか来ると信じる「復権」の日まで、己の命を薪のように燃やし尽くしてでも。

 

「……あなたは、やっぱり止まらないのね」

 

 失望と諦めが胸に広がる。けれど、その奥底に沈んでいるのは怒りではなかった。もっと鈍く、この十二年という歳月が静かに降り積もらせた名付けようのない感情だった。

 

 不意に、壁に飾られた一枚の写真が視界の端に入った。転生して初めてこの家に帰ってきた時に見た、海の写真。

 それを皮切りに、言葉のない日々が蘇る。

 

 二人きりの食卓。最初の数年は、食器の音だけが響く息の詰まる時間だった。それがいつからか、私が前世の記憶を頼りに作った見慣れない料理に、彼が「……美味いな」と短く呟くようになった。

 そのたった一言だけで、どうしようもなく嬉しかったことを覚えている。

 

 たまの休日に、目的もなく二人でレベリオの街を歩いた日もあった。会話はほとんどなく、互いに一歩分の距離を保ったまま。

 港で錆びた手すりに寄りかかり、ただ遠くの水平線を眺めただけの午後。盛り上がるでもなく、笑い合うでもない。それなのに家に帰る頃には心の空洞が不思議と満たされていることに気づき、ひどく戸惑った。

 

 レベリオ市立図書館の、高い天井まで続く書架の森。その片隅で私たちは肩を並べて座ることもあった。

 彼は硬質な歴史書の世界に、私は難解な医学論文の海に、それぞれ深く沈み込んでいく。そこにあるのは古びた紙の匂いと、時折ページをめくる乾いた音だけ。

 言葉を交わすでもなく、ただ隣にいるという事実だけがランプの柔らかな光の中に浮かび上がる。そこで共有する静寂が、何よりも心地よいものになっていた。

 

 そうやって少しずつ、少しずつ。偽りの夫婦は、互いの孤独の輪郭をなぞり合うようにして、呼吸を合わせてしまったのだ。

 

「私は……あなたにも生きてほしい」

 

 自分でも驚くほど声が震えていた。これは懇願ではない。告白でもない。別れの予感に押し出された、最後の情の残滓だった。

 

「あなたのエルディア復権にかける思いは分かっているつもりよ……でも……それと同じくらい――いいえ、それ以上に最後まであなたと過ごしていたいと思っているわ」

 

 偽りの夫婦。上辺だけの関係。そのはずなのに、この不器用で孤独な男の存在が、いつから私の心に深く根を張ってしまったのだろうか。

 

 どこか遠くへ行って最期の時を静かに過ごそう。原作でミカサが望み、拒否した願いを私は口にした。

 

 クルーガーの表情は変わらない。だが、その瞳の奥がほんのわずかに揺らいだのを私は見逃さなかった。その一瞬の揺らぎが私に最後の賭けをさせる。

 

「……あなた、次の継承者を……グリシャにしようとしているのでしょう?」

 

 彼の目がわずかに見開かれる。

 狂人だと思われてもいい。もう、失うものなどない。

 

「ねぇ――もし私が未来を知っていると言ったら、あなたはどうする?」

 

「――知っているさ」

 

 今度目を見開いたのは私だった。

 エレンはこともなげに言った。ただ、絶対の確信だけをその瞳に宿して。

 

「なぜかは分からない。だが、そんな気はしていた」

 

 『進撃の巨人』の力。未来の継承者の記憶を垣間見える能力が彼に私の秘密を漠然と理解させていたのだろうか。

 未来はどうなっている?もしかして原作と異なる道を進んでるんじゃ――

 

「……十二年前」クルーガーは遠い目をして続けた。

 

「『進撃』の力を継ぐはずだったのはお前だった」

 

 その言葉に私の思考が停止する。

 

「知っての通り、革命軍は身内の裏切りに遭い、多数のメンバーがマーレに焼き殺された。その犠牲者の中にジルの両親もいた」

 

「一体、なんの話を……」

 

「だが、革命軍をマーレに売ったのはお前の両親なんだ。もっとも、そいつらも用済みとばかりにマーレ当局に処刑されたがな。まだ幼かったお前には真実が伏せられていたが――長老はその罪を忘れなかった。子であるお前に償わせるため、『進撃』を継承させる予定だった」

 

「それって……」

 

 ジルケ・クルーガーの人生とは何だったのか。両親の死をマーレへの憎しみに変え、復讐を誓ったはずの人生が根底から覆される――結局はすべて茶番だったのか。

 

「だが十二年前……継承の直前、お前は倒れた。あれは不慮の事故なんかじゃない。俺がやった」

 

 思考が今度こそ完全に停止した。この人が(ジル)を昏倒させ、(ジル)の運命を捻じ曲げた張本人だというの?

 混乱と、裏切りともつかない感情が渦を巻く。私は乾いた唇から、かろうじて言葉を絞り出した。

 

「……危うく死ぬところだったんだけど?」

 

 それは非難というにはあまりに力の抜けた、心底呆れたような響きを帯びていた。

 本末転倒も甚だしい。私を守るために、私を殺しかけるとは……そのあまりに不器用で極端なやり方に、私は怒る気力さえ失っていた。

 

「なんでそんなことを……」

 

「さあな――」

 

 彼は私の言葉を遮るように、短く答えた。

 

()()お前に生きていてほしかった。ただ、それだけだ」

 

 迷子の子供のような瞳。初めて見る表情だ。

 

 復讐の鬼として生きてきた男が唯一己の意志で運命に抗った瞬間。それは私を地獄から救うための自己犠牲だった。

 

 これまで私を縛り付けていた最後の枷が、音もなく外れるのを感じた。

 私は立ち上がり彼の元へ歩み寄る。彼も私を拒まない。ただ静かにその身を委ねた。

 

 言葉はもう必要なかった。夜明け前の最も深い闇の中で、私たちは互いの孤独を確かめるようにただ静かに体を重ねた。それは絶望の淵で寄り添う二つの魂の交わりだった。

 

 季節は巡り、彼の命の灯火がいよいよ尽きようとしていた。最後の十三年目が終わる、その少し前――

 冬の始まりを告げる冷たい空気の中、一つの新しい命が産声を上げた。

 

 私の腕の中で、小さな赤子が眠っていた。幸運の名を冠するその赤子は、エレン・クルーガーがこの世に遺した最後の形見だった。

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