エレンの妻です   作:ホワイト3

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17:母親として

 物事に完璧はない。人が完璧でないのに、人の行うことが完璧であるはずがない。

 

 エルディア復権派の集会は常にその危うい真理の上で成り立っていた。彼らがマーレ官憲の目を掻い潜って密会を重ねられるのは、ひとえに『フクロウ』――エレン・クルーガーの存在あってこそ。彼がマーレ治安局から横流しする巡回リスト、それこそが復権派の活動を支える生命線だった。

 

 リストに記された空白の時間と場所を縫うように、復権派は情報や物資を共有し、革命の炎を静かに燃やし続けていた。

 

 だがその日、完璧なはずの歯車はほんの些細な異物によって狂い始めた。

 マーレ治安局に配属されたばかりの新入りが、勘違いでリストにはない場所を巡回した。それはほんの偶然、誰にでも起こりうる小さなミスだった。

 しかし、そのミスが引き起こす波紋はあまりにも大きかった。

 

 不幸はさらに重なる。その新入りは夫の部下だった。本来であれば報告は夫の手で握り潰され、復権派の存在は闇に葬られるはず……だった。

 だがその新入りは、何を考えているか分からない無口な上司を恐れ、普段から目をかけてくれる気さくな上官に「相談」という形で打ち明けてしまった。

 

 一つの勘違いと、一つの人間的な弱さ。その二つの異物によって、復権派という組織の存在がマーレ当局の知るところとなった。

 

 話を出産直後に戻そう。

 

 私は産後間もない体のまま、どこかぼんやりとした意識で、すやすやと眠る赤子の温かい重みを腕の中で感じていた。

 この小さな命がエレンとの間で出来たという事実が、また現実味を帯びない。夢でも見ているような気分で、我が子をあやしていた。

 

 私は表向き「過労で倒れた」ことになっており、出産の事実は革命軍の同志以外には伏せられている。自宅宛には見舞いの手紙が無数に送られてくるらしく、あの無表情なエレンすら露骨に処分を面倒がっていた。

 送ってくれる同僚や軍関係者――特にセラには、申し訳なさで胸が潰れそうだった。彼らの善意が、私の嘘をより一層際立たせた。

 

 復調した私を病院で出迎えたのは、やはりと言うべきか、涙でぐしゃぐしゃになったセラだった。手紙でもあれほど入院先を問いただしてきた彼女は、私の肩を掴むと鬼の形相で言い放った。

 

「もう二度と、ぜっっっっっっっったいに無理しちゃダメですからね!」

 

 そのあまりの迫力に、その時はただ首を縦に振らざるを得なかった。

 

 私はある日の午後、研究室をこっそりと抜け出した。軍病院の庭に出て、久しぶりに吸う外の空気にようやく全身の力が抜けていくのを感じる。

 愛弟子のセラがもたらした、過保護という名の不自由からの解放。なんとも滑稽な話だ。

 

 きっと後でまた、あの鬼の形相で叱られるのだろう。そんなことを考えながらのびのび羽を伸ばしていると、建物の壁の隅で震えている小さな背中を見つけた。ジークだった。

 

 彼は久しぶりに会う私を見るなり、一瞬だけその表情をぱっと明るくさせたーーが、すぐに堰を切ったように大粒の涙をこぼし始めた。

 嫌な予感が私の胸をよぎる。

 

「どうしたの、ジーク」

 

 彼はぽつり、ぽつりと語り出した。

 

 先ほど廊下で、マーレ兵たちの話を聞いてしまったこと。近日中にエルディア復権派が一斉摘発されること。

 そして彼の両親がその中心人物であり親族全員が「楽園送り」になるかもしれないということ。

 

 ジークは全てを諦めた人間に宿る、恐ろしいほど静かな瞳で事情を語ってくれた。

 

「優しくしてくれてありがとう、ジル先生。巨人になっても時々思い出すからね」

 

 その言葉に全身の血が凍りついた。原作で、クサヴァーさんがジークだけでも助けるためにマーレへの密告を助言したあの場面。

 

 まさかその役目が、私に回ってくるとは。運命の残酷な皮肉に眩暈がした。

 

 一瞬、悪魔的な思惑が心をよぎる――もし、ここでこの子を見殺しにすればどうなるのだろうか?

 

  復権派が壊滅し、夫が死に、グリシャが『進撃』を継承する流れは変わらないかもしれない。

 

 だがジークという『地鳴らし』の引き金さえなければ、世界は破滅を免れるのではないか?私と我が子は、静かに生き延びられるのではないか?

 

 この子の死で人類の八割が救われるのなら――許されるのではないか。

 

 だが、その身勝手な思考は目の前で静かに涙を流す少年の姿によって容赦なく打ち砕かれる。

 彼はただ、両親に愛されたかっただけなのだ。英雄でも救世主でもなく、七歳の子供として。

 

 かつて私は、一人の少年を励ましたいという独りよがりな善意で、結果的にその子を死に追いやった。そして今、私は『地鳴らし』を防ぐという大義のために、この子を見捨てようとしている。

 

 自宅のベビーベッドですやすやと眠る、娘の無垢な寝顔が脳裏に浮かぶ 。あの子と夫と、三人で生きたい。ただそれだけを願っていたのに。

 

 でも、復権派の歪んだ理想に振り回され、救世主という重すぎる役割を押し付けられた、ただの無力な子供――その小さな背中を見捨てるなんてこと、母親になった今の私にはとてもじゃないが出来なかった。

 

 運命が決まる音が聞こえた気がした……しかし、迷いはない。

 

「ジーク、よく聞いて」

 

 私は彼の肩を掴み、その青い瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「あなたが助かる道は一つしかないわ……お父さんとお母さんをマーレに告発しなさい」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 まだ腹部の膨らみは目立たず、私自身ですらこの身に新しい命が宿っているという実感を持てなかった頃。私は子供の処遇をどうしようか思い悩んでいた。

 

 生まない、という選択肢はなかった。夫の余命は残り僅か。復権派の未来も、この世界の行く末も闇に閉ざされている。そんな地獄に新たな命を産み落とすことが、果たして許されるのか。頭では分かっていた。

 

 でも、これは私のエゴだ。私とエレン・クルーガーという男が生きた証を、温もりを、どうしても残したかった。

 

 だが、感傷とは別に考えねばならない。もしこの先原作通りに歴史が進むのならば、復権派は確実に露見する。グリシャとダイナは捕らえられ、夫は――その最悪の未来がほぼ確実に訪れる。

 

 その時、私とこの子はどう生きればよいのだろうか。

 

 マーレから逃げ続ける? 軍部に身を置く私だからこそ、それがどれほど絶望的な営みか、その道程でどれだけの数のエルディア人が巻き添えを食らうか理解している。

 革命軍に託す? 論外だ。かつてのジルやジークのように、何も知らない子どもがまた復讐の道具に変えられるだけだろう。

 

 私一人だけなら……恥も外聞もなく、生き延びる手立ては確かにある。

 

 でも、我が子には何不自由なく育って欲しかった。マーレに追われることも、復讐の道具になることもなく、胸を張って生きて欲しかった。

 

 時が経ち、お腹の膨らみを隠せなくなって入院してからも、その思いは頭の中を回り続けた。

 

 そして子が生まれ、革命軍の同志たちからささやかな祝福の声が浴びせられる最中――

 

「優しくしてくれてありがとう、ジル先生。巨人になっても時々思い出すからね」

 

 最悪の未来は唐突に現実のものとなった。

 

 窓の外ではレベリオ特有の潮風が砂塵を巻き上げている。自宅のソファに深く身を沈めながら、私は腕に抱いた赤子の寝顔を見つめていた。

 幸運の名を冠した我が子が、その名を体現するような人生を歩めるのだろうか。

 

 私の指を握り返す、小さく頼りない手。この温もりを手放さなければならない時が、もうそこまで来ている。

 

「夜分遅くに失礼します。先生、折り入って相談があるとのことですが、どういったご用件でしょう?わざわざご自宅にお招きいただくなんて」

 

 ノックと共に顔を覗かせたセラは、いつもと変わらない屈託のない笑顔を浮かべていた。だが、彼女の視線が私の腕の中の小さな存在を捉えた瞬間、その笑顔は驚愕に染まった。

 

「せ、先生……その腕の中の、赤ちゃんは……?」

 

「ええ、あなたの想像通りよセラ」

 

 努めて平静を装い、彼女に椅子を勧める。セラの大きな瞳は、腕の中の赤子と私の顔を交互に見比べ、混乱に揺れていた。

 

「実はね……子どもができたの」

 

 その一言にセラの瞳からぽろりと涙がこぼれ、次の瞬間には満面の笑みへと変わった。

 

「本当ですか!? おめでとうございます!」

 

 彼女は椅子から飛び上がらんばかりの勢いで心からの祝福を叫んだ。その純粋な喜びに満ちた声が、私の罪悪感を容赦なく抉る。ありがとう、と返す声は自分でも情けないほどに小さく、くぐもっていた。

 

 ――心に決めたはずだった。この子の未来のため、これしか道はないと。

 

 だが、腕の中で安らかに眠る娘の寝顔と目の前で無邪気に喜ぶセラを見ると、決意は音もなく揺らぐ。

 

 これから私がしようとしているのは母親として、人として、許されざる行為に他ならないのだから。

 

「というか、いつの間に出産なさったんですか? つい最近まで入院なさって――まさか、過労は嘘だったんですか?」

 

「そうね。そのあたりも含めて、セラには話さないとね」

 

 私はセラの真っ直ぐな瞳を見つめ返した。これから告げる言葉がどれほど彼女を傷つけ、彼女の人生を狂わせてしまうのか。その重みに耐えるように、一度固く唇を結ぶ。

 

「……私はね、セラ。エルディア人なの」

 

「え……?」

 

 絞り出した声は静かに部屋の空気を震わせた。

 セラの笑顔が凍りついたように固まる。状況が飲み込めず、ただ困惑した表情で「冗談ですよね」と言ってほしそうな視線を私に向けた。

 

「いやいやいや、何を言ってるんですか先生!産後の疲れで、情緒不安定になっちゃったんですか? びっくりさせないでくださいよ、もう!」

 

「……こんな事、突然言われても信じられないわよね。でも……ごめん。本当のことなの」

 

 私は彼女に全てを話した。革命軍の一員であること。夫であるエレン・クルーガーが『進撃の巨人』の継承者であり、その命が長くないこと。

 そして、夫が影から操るエルディア復権派が近日中にマーレ当局に摘発されることを。

 

 セラの顔から血の気が引いていくのが分かった。彼女はわなわなと唇を震わせ、かろうじて言葉を絞り出す。

 

「……冗談、ですよね……? だって先生はマーレ人で……」

 

「ごめんなさい……今までずっと、あなたを騙していて」

 

 私の瞳に浮かんだ涙を見て、彼女はこれが紛れもない事実なのだと悟ったのだろう。その場に崩れ落ちそうになるのを、必死に堪えているようだった。

 

 そんな彼女に追い討ちをかけるように、私は最も残酷な願いを口にした。

 

「セラ……お願いがあるの。私に代わって、この子を育ててほしい」

 

 腕の中で我が子が小さく身動ぎする。ミルクの甘い匂いが漂い、すうすうと聞こえる穏やかな寝息が聞こえる。

 この世の何よりも愛おしいこの存在を、私は自らの手で手放そうとしている。その途方もない喪失感に、心臓が握り潰されそうになった。

 

「しょ、正気ですか!?なんで私が母親代わりになる必要があるんです!?」

 

「……私じゃ駄目なの。夫は復権派のエルディア人に『進撃』を継承させて死ぬつもりよ。その騒動でマーレが私に疑いの目を向けることはほぼ確実……そんな中で私はこの子を守り通せる自信がない」

 

 言葉を紡ぐ声から段々と力が抜けていく。

 

「それなら最初から……この子と私は何の関係もないとした方がいい。私が原因でこの子が争いに巻き込まれるなんてことは、あってはならない」

 

「に、逃げましょうよ!ヒィズルに亡命するとか、方法はあるはずです!アズマビト家なら恩人の先生を必ず迎え入れてくれますって!」

 

 セラの提案はありがたかったが、私は静かに首を振った。

 

「軍の機密を数多く握る私の存在をマーレが黙って見過ごすはずがない。アズマビト家に迷惑がかかるし……最悪の場合、私を巡って国同士の争いが起きかねない。地獄が繰り広げられるのは……もうたくさんよ」

 

「旦那さんには……エレンさんには既に?」

 

「――『ジルがそれしかないと思うのなら、そうしろ』って……」

 

 夫エレン・クルーガーの姿が脳裏をよぎる。

 あの日『進撃』を継承し、十三年の呪いを受けるのは私だった。なのに、彼はその呪いを自ら引き受けてくれて……感謝とも、申し訳なさともつかない感情が湧き上がる。

 

「だからお願い……この子を……私たちを助けて」

 

 自分の身勝手なお願いが、セラの人生を重く縛り付ける。彼女の時間を、自由を、未来を私が奪おうとしている。

 それでも願わずにはいられない。マーレの影に怯えることも、エルディア復権派の道具にされることもなく――自由に暮らす我が子の姿を。

 

「――どうして私なんですか?」

 

「あなたが誰よりも信頼できるから。今まで出会ってきた中で、誰よりも。あなたにならこの子の未来を任せられるし……あなたの下す選択なら悔いなく受け入れられる」

 

 どれほどの時間が経っただろうか。部屋を重い沈黙が支配する。

 セラの瞳が絶望と怒り、そして深い悲しみの間で揺れていた。彼女は一度唇を固く結び、やがて絞り出すようにその胸の内を吐露した。

 

「……私は、エルディア人が嫌いです」

 

 その声は憎悪というにはあまりに乾いていて、悲痛だった。

 

「私の故郷を滅ぼしたのはマーレです。でも両親を直接殺したのは……巨人ですから。エルディア帝国の復活なんて、考えるだけで身の毛がよだちます」

 

 知っていたはずの事実が、改めて彼女の口から語られることで、鋭い刃となって私の胸に突き刺さる。

 だがセラは続けた。その瞳は涙で潤みながらも、決して私から逸らされることはなかった。

 

「でも……先生がどんな血を引いていようとも、私が尊敬しているのは先生の生き方です」

 

 そして、決意を帯びた声で――。

 

「悪魔の末裔だろうと、何をやっていようと私は先生の味方です……分かりました。そのお話、お受けします。先生の大切な赤ちゃんは私が必ず守ります」

 

 張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。涙が後から後から溢れて止まらない。ありがとう、という言葉は嗚咽に掻き消されて、声にならなかった。

 

 涙が落ち着いた後、私はセラと我が子の未来を守るために、知りうる限りの「最悪の事態」を伝えなければならなかった――せめてあの地獄から、二人だけでも遠ざけたい。

 

「……これから話すこと、突拍子がないかもしれないけれど、覚えておいて」

 

 ジーク・イェーガーの血筋、『始祖の巨人』の力、『不戦の契り』、そして『地鳴らし』という世界の終焉。私は起こり得る出来事とその背景を可能な限りセラに伝えた。

 

「えーと……要するに、ジーク君は王家の血を引いていて、あの子が巨人化能力を有した上で、始祖を継承した人間と接触すると『不戦の契り』を無視して、『始祖の巨人』の真価が発揮される。最悪の場合、学校でも習った『地鳴らし』が本当に起こるかもしれない、と」

 

「そ。理解が早くて助かるわ」

 

「いやいやいや……理解はしましたが、納得はできてませんよ……巨人学会でもそんな学説を聞いたことがありませんし、『始祖の巨人』なんてほぼ御伽話じゃないですか。どうやって知ったんです?」

 

 セラの問いに、私は曖昧に言葉を濁す。未来を知っている、などと言っても彼女をますます混乱させるだけだろう。

 

「……革命軍は代々王家に関する知識を守り抜いてきたからね。それより良い? ジークの年齢とマーレ軍の体制、『九つの巨人』の継承期間から逆算すると『地鳴らし』が最も起こり得るのは、今から二十数年後……。そして万が一『地鳴らし』が起こったなら、一目散に南へ逃げなさい。具体的に言うとマーレ大陸南の山脈にあるスラトア要塞まで。あそこなら――希望がある」

 

 私の必死の形相に、セラはただ黙って頷いた。彼女は言葉の真意と真偽を共に測りかねているようだったが、その瞳には私への絶対的な信頼が宿っていた。

 

 やがて彼女は深い溜息と共に呟いた。

 

「先生って……なんだかこの世のすべてを知り尽くしているみたいです。神様のように見えます」

 

「大袈裟よ。本当の私なんて『女神』様なんかじゃないわ」

 

「……褒めてません。全てを知るからこそ、お一人で苦しんでいらっしゃる。私にはそう見えます」

 

 自嘲の笑みが口元に浮かんだ。

 これから起こる数々の悲劇。愛する夫の死。そして自らの手で我が子を手放さなければならないという、耐え難い罪悪感。

 全ての感情が濁流のようにない交ぜになり、私を飲み込んでいく。

 

 でもこの二人にだけは生きてほしい。その思いが、折れかけた私の心を支えてくれる。

 

 原作通りの未来が起こるのか、はたまた全く別の未来が紡がれるのか分からない。だが、知り得る限り最悪の未来を伝え、いつか来る『地鳴らし』から二人だけでも生きてくれれば――今の私には本望だ。

 

 私は窓の外に広がる煤けた空を見つめながら、ただ静かにその覚悟を胸に刻みつけた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 マーレ軍の兵舎は、社会の縮図のような場所だった。

 輝かしい軍服を纏ったマーレ人将校たちが闊歩する清潔な区画と、エルディア人が働く区画とでは、世界の彩度がまるで違う。兵舎には当然ながら軍人以外にも人手はいるが、エルディア人兵士の世話など誰がしたがろうか。だから、そこで働いているのは、職を選ぶことすら難しい一部の貧しいマーレ人と、大多数のエルディア人――特に貧しい家庭の者が多かった。

 

 カリナ・ブラウンもその一人だった。

 

 埃と汗の匂いが染みついた作業着を脱ぎ捨て、なけなしの金で買った一張羅に着替える。職場を出たあと、彼女の足取りは自然と軽やかになった。

 隠そうとしても、口元から笑みがこぼれてしまうのを止められない。

 

 彼女は、収容区の壁の外に出て初めて恋を知った。相手はマーレ人だった。

 普通ならあり得ないことだ。しかし、まだ多感で恐れを知らない彼女はあの人なら自分を受け入れてくれる、と信じて疑わなかった。ある種のヒロインチックな考えに支配されていた。

 そしてその相手もまた奇しくも若く、愚かだった。そんなカリナに惹かれ、二人の仲は急速に進みつつあった。

 

「……まさか、あの子の妹さんがあなただったなんてね」

 

 英雄ヘーロス像の前を横切って兵舎の門を出ようとした、その時だった。呼び止める声にカリナの心臓が跳ねた。

 

 振り返った先にいた女を、カリナは知っている。いや、この兵舎を出入りするエルディア人で彼女を知らない者がいるだろうか。

 

 深く刻まれた目の下の隈、海のように青い瞳、そしてくたくたに使い込んだ白衣。

 『白衣の女神』――戦場で多くの同胞を救い、マーレの狂気を鎮める新たな検査法まで開発した偉大な医者。マーレ人嫌いの多い収容区内でさえ、その名は英雄として語られていた。

 

「私はジルケ・クルーガー。あなたの兄――ヒルフェン・ブラウンのことで少しお話がしたくてね。あまり人目の付かない所が嬉しいんだけど、お時間大丈夫かしら?」

 

 カリナに断る選択肢などなかった。マーレ人の、それもマーレ軍内でも相当な影響力を持つ彼女の言葉を、ただのエルディア人である自分が断れるはずもない。

 だが、恐怖以上に彼女の心を引いたのはジルが口にした兄の名だった。 

 

 彼女が十歳になったばかりの頃、兄のヒルフェンは死んだ。マーレ軍を脱走し、軍紀を著しく乱した罪で悪魔の島に送られたのだ。

 親戚一同が「恥晒し」「臆病者」と兄を悪し様に罵るのをただ黙って見るうちに、彼女の中で大好きだった兄の記憶はいつしか軽蔑と侮蔑の色に塗り替えられていった。

 

 ジルの話を聞いても、兄への印象は変わらなかった。

 初めて味わう色恋を除き、既にマーレ社会に染まり切ったカリナにとって、たかがアイスクリーム如きのために軍を脱走するなど、到底理解できない行為だった。

 その後にどんな処罰が下されるか、想像もできなかったのだろうか。本当に、愚かな人だと思った。

 

「……あなたもそう思うのね」

 

 カリナの言葉を聞き、ジルは少し寂しそうに笑う。

 

「あの、ジルケ様」

 

「ジルでいいわよ」

 

「では……ジルさん。今更兄の件を話してどうなさるおつもりですか。十年も前のことで、ブラウン家に累が及ぶのでしょうか……」

 

 不安を隠せないカリナに、ジルは力なく首を横に振った。

 

「そんなんじゃないわよ。ただ、私なりにケジメをつけようと思ってね」

 

 彼女はふと遠い目をする。

 

「あの子は最期『母と妹を助けてください』と言ったの。ははっ、私にお願いしたところで、何にもならないのにね。あなた達親子を壁の外に出す力なんて無い私なんかにさ。現に、私はあなた達を十年間も放置した。過去と向き合うのが怖くて」

 

「お気になさらないでください!そもそも、兄が兵舎を出なければ済んだ話ですから!」

 

 思わず、声が大きくなる。長年の鬱憤を吐き出すようにカリナは続けた。

 

「兄のせいで私と母がどれだけ迷惑を被ったか……思い出すだけで腹が立ちます。兵士としての務めも果たさず、私たちの生活をより困窮させたばかりか……ブラウン家自体が一時マーレ当局に目をつけられ、親戚から冷たい目を向けられたのも、全ては兄のせいなんですから!あの愚かな兄のせいで、まだ幼い弟にまで肩身の狭い思いをさせて……!」

 

「そう……なのね」

 

 ジルは静かに相槌を打った。そして、やはりどこか遠くを見つめるようにぽつりと問いかける。

 

「ねぇ。楽園送りになるのって、やっぱり怖いのかな?」

 

「……私は恐ろしいです。人喰い巨人の姿のまま悪魔の島で半永久的に暮らさないといけないなんて、ぞっとします。なにより兄妹そろって楽園送りなんて、一家の恥です」

 

「……ヒルフェンは今も一人で苦しみ続けてるのかな」

 

 あの子の死を悼んでいるのは私だけか。ジルの呟きは、カリナの耳には届いていなかった。

 

「呼び止めてごめんね。色々聞けてよかったわ。十年分の思いを吐き出せてちょっとスッキリした」

 

「あ、いえいえ……こちらこそ、最後の方は熱くなってしまってすみません」

 

「いいのよ。でも……あんまり熱を上げすぎないようにね。自分では冷静のつもりでも、周りが見えなくなっちゃうなんてよくあることだからね」

 

 その忠告は、どこかカリナの恋心を見透かしているようでもあった。戸惑う彼女に構わず、ジルはふっと息を吐き、まるで自分に言い聞かせるように呟いた。

 

「ようやく決心がついた――私も、あの子や復権派の皆に殉じてみよう」

 

 その言葉の真意をカリナは理解できない。ジルは我に返ったように一つの包みを差し出した。

 

「これ、お詫びの印。迷惑をかけたことには変わりないから」

 

 茫然とそれを受け取るカリナ。ジルは一方的に別れを告げ、釣られてカリナも兵舎の門の外へ歩み始めた。

 去り際に託された包みの重みを感じながら、彼女は想い人の待つ場所へと急いだ。彼の腕の中だけが、唯一の安息の地であるかのように。




ライナーのパパママが兵舎で知り合ったことは作中で明言されているので一応原作準拠です。そんなん誰が覚えてんねんというツッコミは無しです。

また、この長く続いたマーレ編も次話にていよいよ完結となります。ぜひ最後までお楽しみください。
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