エレンの妻です   作:ホワイト3

18 / 46
18:おやすみなさい

『ジーク、一つだけ約束して』

 

 震えるジークの肩に手を置き、その金色の髪をそっと撫でる。夕陽に透ける柔らかな髪が、ふわっと指の間をすり抜けていく。

 

『この世界は残酷で、この先辛いこともたくさんあると思う。でも――生まれてこなければ良かったなんて決して思わないで。この世界に産まれてきてくれただけで、あなたはもう十分に偉いんだから』

 

 それは、原作で後に彼が掲げることになる『安楽死計画』を止めるための言葉ではない。

 そんな大義名分を考えること自体、もはやどうでもよかった。

 私がかけた言葉がこの子の未来にとって呪いとなるのか、ささやかな希望の灯火となるのか。分からない。

 

 ただ私は、目の前で孤独に震えるこの小さな少年に、絶望の淵で己の生を呪ってほしくなかった。

 

 ジークは何も言わず、その言葉を魂に刻みつけるように、こくこくと何度も頷いた。この子ならきっと大丈夫だろうと、何の根拠もなくそう思えた。

 

 その決意を帯びた眼差しを最後に、私の意識は夕闇から引き剥がされるようにゆっくりと浮上していく。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 ランプの灯りが影を落とす中、エレン・クルーガーは机に突っ伏して眠る妻の頬を伝う涙の筋に静かに気付いた。その寝顔はひどく幼く、そして儚く見えた。

 

 初めてジルに出会ったのは十四年前。彼女がまだ十九になったばかりの頃だった。

 

 以前からジルの名前自体は知っていた。彼女は革命軍でも指折りの過激派として有名であり、噂ではあの長老にすら物怖じせず意見することもあったという。

 実際、出会った当初は噂通りといった感じの冷徹な女であり、共に生活を始めた後も任務以外の用件で言葉を交わすことはなかった。

 

 その鋭い知性とマーレへの強い憎しみは工作員として申し分なかったが、血の通った温もりを感じさせることはなく、多くの同志は彼女を恐れた。長老も表面上こそジルの能力と功績を讃えながらも、彼女のことを陰で「鬼子」と呼んでいた。

 

「いいか、エレン。お前はあの鬼子を監視し、掌握するのだ。あの娘には裏切り者共の血が流れておる。罪人の娘に決して心を許すでないぞ」

 

 言われなくてもそのつもりだった。ジルの方もエレンと馴れ合うつもりはなく、エルディア復権という大義のための偽りの関係に過ぎないと互いに割り切っていた。

 

 だが、あの日ーー偽りの妻に形だけの指輪をあげた、あの日はどこか違った。

 

「ねぇ、海を見に行かない?」

 

 革命軍の集会からの帰り道、ジルは思い立ったように言った。彼女が自ら任務以外のことを口にしたのは、それが初めてだった。内心驚きつつも、特に断る理由もなかったのでその言葉に従って港に立ち寄った。

 

「綺麗……」

 

 夕陽に染まる海は、復讐で乾いたエレンの心をも揺さぶるほどに雄大で、美しかった。

 隣でジルがぽつりと呟く。その横顔は、いつも纏っている仮面が取れたように穏やかだった。

 

「エレン、指輪をありがとう。この武骨な感じ、あなたの人柄がよく出てる気がする」

 

「……意外だな。ジルケ、お前はそんな感傷とは無縁の人間だと思っていたんだが」

 

「失礼ね。私にだって結婚に憧れを抱いてた時期があった……ま、この道を選んだ以上、普通の人生を歩めるなんて思っていないけれど」

 

 レベリオの海が彼女を縛る枷を緩めたのか、ジルは驚くほど饒舌だった。通りかかった老婦人が、寄り添う二人を微笑ましげに眺め、写真を撮ってあげようかと申し出た時でさえ、彼女は微笑んでそれに応じた。

 エルディア復権の使命感に凝り固まった常の彼女なら、間違いなく拒絶しただろうに。

 

 エレンは知っていた。先代の『進撃の巨人』の任期が、もうそこまで迫っていることを。そして、次の継承者はジルケ・クルーガーに定められていることを。

 

 壮絶な運命と呪いを背負わされているとは知らぬまま、彼女は感慨深そうに遠い水平線を見つめていた。

 

「でも、だからといって憧れを捨てたわけじゃない。いつになるか分からない。私が生きている内には叶えられないかもしれない。けれど……マーレを滅ぼして、エルディア帝国を復活させた暁には――ごく普通の家庭を持てたらいいなって、たまに妄想したりしてるわ……誰にも言わないでね?」

 

 夢の先を語る彼女の顔を夕陽が赤く染めた。

 

 翌日にはいつもの鉄面皮に戻り、彼女が自らの内を語ることはなかった。それでもあの日の海の写真だけは、リビングの壁に静かに飾られていた。

 

 エレンはその写真を見るたびに、胸の奥をかきむしられるような、名付けようのない感情に襲われた——ジルに代わって『進撃』を継承したその瞬間までは。

 

 そして、あの日から長い歳月が流れた。

 

 規則的な振動が体の芯に響く。潮と錆の匂いが鼻についた。

 楽園の島へと向かう蒸気船の中。もう二度と帰ることのない、片道切符の旅路。その薄暗い船室の中でジルは、頬を伝う一筋の生温かい感触にゆっくりと意識を浮上させた。

 

「……泣いているのか?」

 

 夫の方へ振り向くジル。彼女はそっと自らの頬に触れ、その指先が乾ききっていない涙の跡をなぞった。

 

「――ジークとの夢を見たわ。あの子には結局、最後まで重い荷物を背負わせちゃったな……って」

 

「両親を売らせたことを後悔しているのか?」

 

「……いいえ」彼女は静かに首を振った。

 

「復権派の皆には申し訳ないけれど、あの選択に後悔はない。あの子を地獄に放り込んだのは大人(わたしたち)の責任だから……もう、解放してあげないと。そういえば、革命軍の皆は大丈夫かしら?」

 

 その強がりがエレンの心を苛んだ。彼女がどれほどの罪悪感をその細い肩に背負っているか、彼には痛いほどわかっていたから。

 

「……ああ。手筈通り、お前が関わった血液検査の結果は軍の記録から全て消去した。そこから同志の身元まで辿り着くことはない。セラ・シュタイナーへの手助けも頼んでいる。革命軍は一旦解散することになるが……連中には、またいつか機を見計らって再起するよう伝えてある」

 

「いつか機を見計らって、ね。一体いつになったら、この戦争は終わるのかしらね」

 

「さあな。これからは、グリシャの頑張り次第だろう」

 

「……そうね」

 

 ジルの短い相槌の後、船室に重い沈黙が落ちる。それを先に破ったのはエレンだった。

 

「本当に、これで良かったのか?」

 

 その問いは、革命軍の指導者としてではなく、夫としての悲痛な叫びだった。 冷徹な仮面の下に隠された、紛れもない懇願の色が彼の声に滲んでいた

 

「ヒィズルでなくともいい。ラルスのツテを使えば、東の反マーレ国家に亡命することだってできるんだぞ」

 

「……ううん、もういいの。私がいる限り、あの子は……私たちの娘は決して穏やかに暮らすことができない」

 

 娘の名を口にする彼女の声は震えていた。エレンは、自らが与えることのできなかった穏やかな未来を想い、奥歯を強く噛み締めた。

 贖罪のつもりなのだろう。目の前の妻が人一倍思いやりに溢れ、それ故に苦しんでいることは夫である自分が誰よりも知っていた。

 

「俺は……お前にも、生きていてほしかったんだがな」

 

「ありがとう。そう言ってくれるだけで、私は十分に救われる」

 

 救われたのは自分の方だと、彼は言えなかった。

 部屋の近くで複数の硬い足音が響いた。エレンは一つ咳をして、感傷を振り払うように呟く。

 

「もうすぐで島に着く。思い残すことはあるか」

 

「……いいえ。何も」

 

「そうか。じゃあ行くか」

 

「どこへ?」

 

「海を見に行こう」

 

 エレンは静かに立ち上がり、彼女に手を差し伸べた。ジルは一瞬ためらった後、そのごつごつとした大きな手を、自らの震える手で握り返した。

 

 薄暗い船内を二人は肩を寄せ合うようにして歩いた。壁の向こうから、拷問にかけられた復権派の同志たちの呻き声が、鉄の扉を隔ててなお生々しく漏れ聞こえてくる。

 

 その声の一つ一つがジルの罪悪感を抉る鋭い刃となった。彼女は溢れそうになる涙を必死に堪え、唇を噛み締める。その背中の震えが、繋いだ手を通してエレンに伝わってきた。彼はただ、その手を強く握りしめることしかできなかった。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 誰に言うでもない謝罪の言葉が、声にならない嗚咽となってジルの喉の奥で震える。

 

 ようやく甲板へ続く階段を上りきり、重い扉をエレンが押し開けた。途端に生暖かく湿った潮風が二人の頬を打つ。

 目の前にはあの日見たのと同じ夕陽に染まる海と、その先に佇む巨大な壁――それはまるで、世界の果てに立つ巨大な墓標のようだった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 乱暴に目隠しを剥ぎ取られ、グリシャ・イェーガーは眩しさに目を細める。じわりと滲んだ涙の向こうに広がっていたのは、どこまでも広がる海と、墓標のようにそびえ立つ巨大な壁だった。生暖かく湿った潮風が、死の匂いを微かに含んで肺を満たす。

 

 無惨に潰えた夢の果ては、悪魔の島――パラディ島だった。

 

 絶望が、拷問でずたずたにされた心身をさらに蝕んでいく。

 壁の上に次々と復権派の同志たちが引きずり出され、並ばされていく。痛みに呻く者、恐怖に腰を抜かす者、もはや魂が抜け殻となったように虚ろな目で宙を見つめる者。誰もがこれから待ち受ける地獄を前に、顔に深い絶望を刻んでいた。

 

 その列から外れたところに、グリシャは一人の女の姿を認めた。

 

 軍服の上に白衣を纏った見覚えのある女。そうだ。一年ほど前、息子のジークを家まで送り届けてくれたマーレ軍の医師だ。

 なぜ彼女がこんな場所に?戸惑うグリシャの思考は彼女の隣に立つ二人の男の姿を捉え、凍りついた。

 

(……こいつらは……!)

 

 表情から残忍さを隠し切れない男と、その隣で感情を殺したように佇む男。十五年前、まだ幼かったグリシャと妹のフェイが壁の外で会った、あのマーレ治安当局の二人だった。憎悪と恐怖が、血の味と共に喉の奥からせり上がってくる。

 しかしグリシャのかすれた声は、グロスの下卑た声にかき消された。

 

「お久しぶりですな、ジル先生! 今回はどういう風の吹き回しで? また巨人化学の研究のためですかな?」

 

 グロスは爬虫類のような唇に嗜虐的な笑みを浮かべ、まるで旧友に会ったかのように女に馴れ馴れしく話しかける。そして思い出したように手を叩くと、その瞳を昏く光らせた。

 

「そうだ。奴らを巨人にした後、ちょっとしたショーをするんで是非とも見て行ってください。クルーガー、お前も嫁さんと一緒にどうだ?」

 

「……相変わらず物好きだなグロス。まあ考えておくよ」

 

 グリシャの視線はグロスという男と、あの女医の間で釘付けになった。グロスが彼女を呼んだ名、そしてクルーガーと呼ばれた男との関係性。点と点が繋がり、おぞましい線を描く。彼の顔から急速に血の気が引いていった。

 

「ジル、クルーガー……ッ!ま、まさか!あんたが、あのジルケ・クルーガーか!」

 

 グリシャの絶叫が響く。ジークの身を案じた親切な軍医が、父が熱弁していた『白衣の女神』がこんな残忍な男の妻だと?彼はそれを認められなかった。

 

 グロスは面倒くさそうに吐き捨てた。

 

「おい、クルーガー。早くそいつを黙らせろ。うるさくて敵わん」

 

「いや……こいつにはまだ質問したいことがある。先に進めてくれ」

 

「はいはい、仕事熱心もほどほどにな。ま、嫁さんの前だから格好つけたくもなるか」

 

 グロスは芝居がかった仕草で手を叩きながら部下たちへ指示を出す。

 

「さぁ、今回は数が多いぞ!どんどんやっていこう!」

 

 その号令は、地獄の始まりを告げる鐘の音だった。マーレの兵士たちは、流れ作業のように無感情に注射器を取り出して同志たちのうなじに突き立てる。

 肉を貫く鈍い音と、人間が最後に発する絶望の叫び。雷光が走り、骨が軋むおぞましい音と共に同志たちの身体がはちきれんばかりに膨らんでいく。

 

 グリシャはただ、なすすべもなくその光景を見つめるしかなかった。

 

 やがて巨人化が粗方終わった頃、グロスは船の方を向き、顎をしゃくった。

 

「残りの連中を連れてこい!」

 

 兵士たちが船倉の奥から残りの復権派を引きずり出す。その中には、両脇をマーレ兵士に抱えられ、意識を保つのもやっとのダイナがいた。

 

 最愛の妻の顔には暴力の痕が生々しく残っており、不自然に裂けた服の背中からは未だ夥しい量の赤黒い血が滲んでいた。

 

「おいおい、クルーガー。取り調べ中の殺しはナシだって前言ったろ?そんなんだから部下に陰で怖がれてるんだぞ」

 

 呆れを含むグロスの言葉も、今のグリシャには届かない。

 

「なぜ……ここに?伝わってないのか?俺は洗いざらい全部話したぞ!彼女は王家の血を――」

 

 だが、その言葉は最後まで紡がれなかった。背後のクルーガーがグリシャの肩を地面に叩きつけ、その口を乱暴に塞いだのだ。抵抗も虚しく、グリシャは最愛の妻が壁の縁に座らされるのを、ただ見ていることしかできなかった。

 

「グリシャ……私は、どんな姿になっても、あなたを探し出すから」

 

 ダイナの最期が、グリシャの瞳に刻み込まれる。注射器が彼女のうなじに突き立てられ、雷光がその気高い身体を包んだ。

 視線の先にいたのはもうダイナ・フリッツではない。ただ北へ向かう、一体の巨人だった。

 

 その遠のく背中を見つめながら、グリシャの心の箍が外れた。十五年間燻り続けた憎悪が吼え猛る炎となって、腹の底から噴き出てきた。

 

「お前だろ……十五年前、俺の妹を――犬に食わせたのは!お前だろ!」

 

 グロスは一瞬だけ面倒くさそうに顔を歪めると、最後に連れられてきた罪人とグリシャに目をやり、部下たちに船へ引き返すよう命令した。

 

「おっと、ジル先生はこちらへ。せっかく悪魔の島まで来たんですから、奴らが裁かれる瞬間を特等席で見せてやりますよ」

 

 グロスは煙草に火を点け、紫煙を吐き出しながら言った。

 

「思い出したよ、少年。お前は巨人にしないでやる。彼に食べてもらうことにした。三、四メートルぐらいの巨人に調整するから、こいつと戦ってくれ」

 

 グロスは注射器を弄びながら、聞くに堪えない持論を述べ始める。「人は残酷なものが見たい」だの、「今の時代は生の実感が希薄」だの、「妹を犬に食わせたのは息子たちへの教育だった」だの……。

 そのあまりの内容に、憎悪に染まり切ったはずのグリシャすら「心は……痛まないのか……?」と唖然と呟いた。

 

「あれをよく見ろ」

 

 グロスの指差す先、壁の下で閃光が走る。

 

「あれがお前たちの正体なんだぞ。巨人の脊髄液を体内に吸収しただけで、巨大な化け物になる。こんな人の皮を被っただけの怪物が大量に繁殖しちまったのは、まさしく悪夢だよ」

 

 壁の下では生まれたばかりの巨人がおぼつかない足取りで立ち上がろうとしていた。グロスはまるで害虫でも見るかのように眉をひそめ、心の底からの嫌悪をその顔に浮かべている。

 

「お前らエルディア人をこの世から一匹残らず駆逐する。これは、全人類の願いなんだ」

 

 グリシャの心は冷え切っていた。愛する家族、信じた同志、そして自らの夢。全てを失った。もはや何も残っていない。

 

 グリシャを壁の下へ突き落とそうと、グロスが無防備に背を向けたその瞬間――グロスの視界の端で、純白の何かが動いた。

 

 ジルケ・クルーガーが、まるでこの地獄絵図など存在しないかのように静かに、それでいて一切の迷いがない足取りで歩みを進めていた。

 

 その場にそぐわない、あまりに場違いな静けさだった。彼女の革靴が石の床を打つ音はほとんど聞こえず、潮風に煽られた白衣の裾がまるで優美な舞のように優雅に翻る。

 彼女の表情からは憎悪も、恐怖も、憐憫も何一つ読み取ることはできない。ただその海のように青い瞳だけが、真っ直ぐにグロスの背中の一点を見据えていた。

 

 彼女の動きに一切の躊躇いはなかった。一歩、また一歩と、死刑執行人が断頭台へと向かうかのような厳かな足取りで、二人の間の距離が詰められていく。

 

 グリシャの目には、その後の光景がスローモーションのように映った。ジルの身体が美しい円弧を描いて回転し、振り上げられた足がしなやかな鞭のように空気を切り裂く。

 

 そして革靴の硬い先端が、グロスの突き出たどてっぱらに深々と、正確にめり込んだ。

 

「ぐえっ……!?」

 

 蛙が潰れたような呻き声。グロスの巨体が「く」の字に折れ曲がった後、バランスを崩して壁の縁から真っ逆さまに落ちていった。

 

 何が起きた――グリシャの思考は完全に停止していた。

 

 受け身も取れず、壁の下で痛みに悶えるグロスの前に、虚ろな目を向けた巨人の姿が迫る。その意味を悟った男の顔は、生まれて初めて知る本物の恐怖と絶望の色に染まっていった。

 

「エレン。あとは、お願い」

 

「ああ――覚えておけよ、グリシャ。巨人の力はこうやって使う」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 壁の上に残されたのは血塗れの男と、感情の抜け落ちたような女、そして茫然自失のグリシャ・イェーガーの三人だけだった。先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返り、ただ生暖かい潮風が血の匂いを運んで吹き抜けていく。

 グリシャは目の前で鼻血を拭うクルーガーの顔と、今しがたマーレ官憲が叩き潰された静かな海面とを交互に見比べながら、事態を理解しようと必死に思考を巡らせた。

 

「あんたの話を信じるのなら……復権派の陰の指導者『フクロウ』はあんたで、『進撃の巨人』を有したエルディア人。そして――」

 

 グリシャはちらりと隣に立つジルを見た。その瞳には未だ信じられないという色と、急速に形を成していく負の感情が混じり合っている。

 

「『フクロウ』の奥さんはかの高名な『白衣の女神』ジルケ・クルーガーで、彼女もエルディア人だった……ということか」

 

「その通りだ」

 

 鼻血を乱暴に手の甲で拭いながらエレン・クルーガーは短く答えた。そして、動揺するグリシャの心を見透かすように静かに問いかける。

 

「どうした。悪魔の末裔にすら手を差し伸べる『白衣の女神』の正体を知って失望したか、グリシャ」

 

「……いや」

 

 グリシャは力なく首を振った。

 

「……昔、親父が従軍から帰ってきたときに言っていたんだ。マーレには神の如き聖女がいる、と。名前も繰り返し聞かされたよ……まるで『マーレの慈悲』そのものだと、俺にマーレへの忠誠を植え付けるように随分と言い聞かされた。そんなあんたが同胞だなんて」

 

「信じられない、と?」

 

「むしろ納得したよ」

 

 吐き捨てるようにグリシャは続ける。

 

エルディア人(おれたち)は、世界中の誰からも救いの手を差し伸べられることはないんだって、改めて理解できた。マーレ人が、何の打算もなくエルディア人の子どもに手を尽くすわけがないもんな」

 

 そこへ、それまで黙っていたジルが静かに口を開いた。

 

「――ジークを気にかけたのは、別にエルディアの復権とは何の関係もないわ」

 

「え……?」

 

「あの子は重すぎる責務を背負わされて、たった一人で泣いていた。それを見ていられなかっただけよ……それとね、グリシャ。あなたがジークを誤解したままでいるのは……絶対に許さない」

 

 彼女の強い口調にグリシャはたじろぐ。

 

「復権派が捕まったのをジークのせいだと思っているのなら、それは間違いよ。確かにジークの密告が決定打になったけれど、あなた達の動きは既にマーレ当局に掴まれていた。時間の問題だったのよ」

 

「ば、馬鹿な!俺たちはリスト通り完璧に潜伏して――」

 

「人のやることが完璧なわけないでしょ?……復権派の摘発まで秒読みだった。捕まれば親族全員が『楽園』に送られる。だから私は――あの子にあなた達両親を売るように言った……あの子と祖父母だけでも生き延びさせるためにね」

 

 ジルの淡々とした告白に、グリシャは全ての力が抜けたように立ち尽くす。その瞳には、もはや憎しみの色はない。脳裏にいつも何かに怯え、訓練についていけずに俯いていた息子の姿が蘇った。

 

 自分はそんな息子の苦悩に気にせず、「エルディア復権の希望」「救世主」という重すぎる役割を押し付け続けていた。それをようやく理解できたグリシャは、指が切り落とされた己の手を見つめ、懺悔するように声を絞り出した。

 

「俺はひどい父親だった……もっと遊んでやればよかったのに、俺は何もしてやれないどころか……あの子と向き合わず、ずっと辛い思いをさせてしまった」

 

 己の愚かさを呪うグリシャの慟哭はしばし続いた。

 その嘆きはジルにとっても他人事ではなく、それを聞きながら唇を固く噛んだ。

 

 しばらく経って落ち着きを取り戻したグリシャに、エレン・クルーガーが向き直る。ユミルの呪いが差し迫る中で巨人の力を使った影響か、その肩は大きく上下している。だが、その瞳に宿る光は少しも揺らいでいなかった。

 壁内に潜入して『始祖の巨人』を奪還しろと、最後の力を振り絞ってグリシャに告げた。

 

「これは、お前が始めた物語だろ」

 

 絶望に沈んでいたグリシャの心に、新たな炎が灯る。震える膝に力を込め、ゆっくりと顔を上げた。彼は力なく、しかし揺るぎない意志を込めて深く頷いた。

 

「――ところで、ジルケ・クルーガー。あんたはこれからどうするんだ?……もうマーレへ戻ることはできないだろう?」

 

「……継承直後は記憶が混濁するわ。それに、初めての巨人化は上手くいかないことも多い。あなたが問題なく壁の中を目指せるか、ここから見届けさせてもらうわ。その後は――」

 

 そう言ってジルは懐から一本の注射器を取り出してみせる――グリシャはその意図を瞬時に察知した。

 

「巨人になる……つもりなのか?気は確かか!?わざわざ自死を選ばずとも『進撃の巨人』を継承した俺が、あんたを壁の中に連れていくことだって可能なんだぞ!死ぬにしたって、どうして巨人になんて……」

 

「……償いよ。皆と同じやり方で殉じたい」

 

 独り言のように、ジルは呟く。すると罪悪感が堰を切ったように溢れ出て、彼女に続きの言葉を紡がせた。

 その声は、これまで彼女が纏っていた仮面を剥ぎ取り、魂の叫びとなってグリシャの鼓膜を打った。

 

「ダイナをレベリオに連れてきたのも、ジークに親を売るという選択を強いたのも、何も知らないセラを巻き込んで生まれたばかりの娘を押し付けたのも、ヒルフェンや復権派の皆を巨人にするきっかけになったのも……全ては私のせいなのよ。私は悪魔(エルディア)の血を隠し、多くの人へ犠牲を強いてきた……嘘をつき続けてきたからこそ、最期くらいは――」

 

「今さっき見ただろう、巨人になっていく同胞を!あれを見て……あれを見て恐ろしいとは思わないのか!?」

 

 グリシャが理解できないものに直面したかのように叫ぶ。「あんたも止めないのか!?」と、その夫にも同意を求めた。

 

「あんた自身が言っていたじゃないか。人を感知し、人を追跡し、人を食らう……無垢の巨人になれば、ただそれだけを死ぬまで繰り返す。しかも、死ぬ術が殆ど無いんだろ?『フクロウ』――あんたは大事な妻に永遠の地獄を見せるつもりか!?」

 エレンは、グリシャの悲痛な叫びをただ静かに受け止めていた。そしてゆっくりとジルに向き直ると、こう言った。その声には、十三年という歳月の全てが溶け込んでいるようだった。

 

「――わかった、ジル。お前の好きな道を選んでくれ。お前は自由だ」

「ありがとう、エレン」

 

 そう言って(エレン)は己の懐から巨人化薬の薬瓶を取り出し、(ジル)に押し付けるようにして渡す。(ジル)はそれを拒むことなく、愛おしそうに掌に包み込んだ。

 グリシャの口がかすかに開き、何かを言おうとして、しかし何の音も紡ぐことなく固く閉じられる。その瞳は目の前の夫婦を映しているが、思考は真っ白になっていた。

 理解を超えた覚悟を、常識を逸脱した情愛を目の当たりにし、もはや言葉を見つけることなどできなかった。

 壁の上をただ風が吹き抜けていく。遠くで聞こえる波の音だけが、時間がまだ流れていることを告げた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 やがてグリシャは託された使命の重みにその身を震わせながらも、一度私と目を合わせた後、意を決して壁の縁から雷光と共に身を投げた。

 地を揺るがす轟音を残し、巨人と化した彼の背中が島の荒野に消えていく。

 

 私はそれをただ黙って見送った。頬を撫でる潮風が、なぜか今はとても優しく感じられた。

 

『なあ、娘がマーレにいるんだろう?その……俺が言うのもなんだが、後悔はないのか?あんたはどこか――死に場所を探しているように見える』

 

 出発の直前、グリシャが投げかけた言葉が風の音に混じって蘇る。

 

「そんなの、あるに決まっているじゃない」

 

 愛する夫と、我が子と三人で過ごす未来。朝の陽が差す食卓を囲み、他愛もないことで笑い合う、ささやかでありふれた毎日。それだけが私の望みだったのに。

 

 そんな言葉を口に出せるわけもなく、私はただ黙ってグリシャを見送ったのだった。

 

 一人残された私は天を仰ぐように大の字になって、硬く冷たい壁の上に寝そべった。肌に触れる石の感触が、石造りのレベリオの街並みを思い出させる。視界いっぱいに広がるのは、私の瞳と同じ色をした青い空だった。

 

 自由、か。訳も分からず転生して、幾多の人と命と向き合った十三年の日々。そして、最後に夫が与えてくれた選択の自由を私は噛み締める。

 

 無垢の巨人になった後、私はどうなるのだろう。ヒルフェンやダイナ達と一緒にこの島を永遠に彷徨うのだろうか。それとも原作通り、調査兵団の刃によって呆気なく処理されるのだろうか。

 

「……せっかくなら、リヴァイ兵長に斬られたいな」

 

 前世の推しキャラの名を思い出しながら正気ではない考えに思いを馳せる。乾いた笑いが唇からこぼれた。

 

 私はゆっくりと身を起こすと、最後に夫から手渡された巨人化薬を握りしめる。

 冷たいガラスの感触が覚悟を鈍らせまいとする私の掌に突き刺さり、中身の液体を十分に吸い上げた勢いそのまま、注射器の針を自分の手首に宛がった。静脈の青い筋が最後の生命を主張しているように見えた。

 

「……怖いよ、エレン」

 

 声が情けなく震えた。死ぬと決めたはずなのに。この身を捧げることが、唯一の道だと覚悟したはずなのに。いざその場になると、死への本能的な恐怖が全身を縛り付け、最後の一押しができなかった。

 

『あんたは……驚くほど普通の、ただ懸命な人間だ』

 

 かつて私を蔑み、後に認めてくれたホフマンが、別れ際に不器用な口調で言った言葉を思い出す。

 

 ああ……そうだ、私は女神でも何でもない。ただの普通の人間だ。愛する人と生きたいと願い、我が子の未来を案じ、そして死ぬのが怖い、どこにでもいる人間なのだ。

 

 唯一普通じゃない点を言えば、未来を知るということだろうか。しかしそれにしたって長所足りえたとは思えない。むしろ、私が善意で介入したせいで、この血塗られた物語を紡いでしまった。

 

 どうすればよかった?『地鳴らし』を止めるために何も知らないパラディ島の人々を見殺しにするべきだった?それとも、世界のすべてが踏み潰されるのをただ見ているべきだった?

 

 違う。私が知る物語の結末はそんなんじゃない。

 

 このまま何事もなく進めばライナー達が壁を破壊し、エレンが始祖を継承して、遂にはアルミン達が『地鳴らし』を止めてくれるだろう。そして、私の助言通りにセラと娘がスラトア要塞へ真っ先に逃げ出してくれれば……

 

 あまりに細く、奇跡を折り重ねたような道。でも、今はそんな世界を夢見たかった。

 

 そうだ、これもすべてあの子のため。

 

 結局、私はジークを見捨てられず、『地鳴らし』の芽を摘み取ることはできなかった。かといって、その道に納得しているわけでもない。

 

 ならばせめて、その奇跡のような未来を願おう。2000年に及ぶ憎しみの連鎖を止めて、セラと娘が自由に生きていける未来を。

 そして、その邪魔をする存在だけは取り除かなければならない。私という異物はその未来への道に不要なのだ。

 

 とまあカッコよく語ってみたものの、グリシャの言う通り私は死に場所を探しているだけかもしれない。正当な死を、仕方のない死を心の奥底で求めているだけなのか。

 

 自分のことなのに、何一つ分からない。

 でも唯一分かるのは――もう戻れないということだ。

 

 瞼を固く閉じて浮かぶのは腕の中で安らかに眠る、我が子の無垢な寝顔。誇張抜きで、世界で一番可愛いと断言できる。

 そんな愛しい娘の名前を呟き、私は注射薬を思い切り押し込んだ。

 

「おやすみなさい、フェリシア」




ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
物語はここで一つの区切りを迎えます。かなり賛否が別れそうな締め方になってしまいましたが、次話から新章が始まりますのでそちらもよろしくお願いします。新章は幾分かマシな雰囲気になる予定です。

ジルケの顛末からなんとなく今後の展開の予想がつく方もいらっしゃるかと思いますが、今後も生暖かい目で見守っていただけると幸いです。
※軽い燃え尽き症候群により投稿ペースが若干落ちます。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。