エレンの妻です   作:ホワイト3

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パラディ島編【845〜850年】
19:北へ


『お前さえ生まれてこなければ――!』

 

 はっと息を呑み、闇から引き剥がされるように目を開ける。見慣れた寝室の粗末な天井が、窓から差し込む月明かりに白く浮かび上がっていた。じっとりと滲んだ額の汗をごわつく寝間着の袖で乱暴に拭った。心臓が音を立てて、速く重い鼓動を刻んだ。

 

 あの日、あの瞬間の光景は、一年という月日が経ってもなおクリスタの記憶の中で少しも色褪せることはない。

 

 愛した男に裏切られ、その男の手の者によって喉を掻っ切られた、母親だったはずの女の最期。

 噴き上がる血飛沫と共に吐き出された呪詛は、他の誰でもない、実の娘である自分に向けられたものだった。女に親近感を抱いたことなど一度もない。それでも、その憐れな末路は今でも時折こうして悪夢となってクリスタの魂を苛んだ。

 

 悪夢の残滓は、この開拓地に来る前の記憶を呼び覚ます。貴族の領地にある、だだっ広い厩舎での暮らし。干し草の甘い匂いと馬の温かい体温だけが、孤独なクリスタの心を温めてくれる全てだった。

 言葉を交わす相手もおらず、彼女はいつも馬たちの黒く濡れた瞳に話しかけていた。

 

 彼らだけが、クリスタの秘密を静かに聞いてくれる唯一の友達だった。

 

 ある日、本を読んでいた母親の背中に、思わず駆け寄り抱きつこうとしたことがある。だが、母親は振り返りもせず、その小さな体を突き飛ばした。

 

『こいつを殺す勇気が、私にあれば……』

 

 そう吐き捨てられた凍てつくような声が、今も耳の奥で木霊している。

 

 もう眠れそうになかった――いや、眠りたくなかった。

 

 悪夢が染みついたシーツの感触から逃れるように、クリスタは音を立てぬようベッドから抜け出した。

 

 冬の開拓地は骨の髄まで凍てつくように寒い。霜が降りて鉄のように固くなった大地を鍬で耕すのは、大の大人でさえ悲鳴を上げるほどの重労働だ。

 

 それでもここはまだ恵まれているのだと、大人たちは噂していた。ウォール教が管轄するこの開拓地は王政に納める税が少なく、各地の信者からの布施も相まって、ささやかながら金銭的な余裕さえある。あの悪名高きウォール・マリア奪還作戦へも、ここから徴兵された者は一人もいなかった。

 

 壁の崩壊とともに溢れた難民が家畜のように酷使される他の開拓地に比べれば、ここは天国のような場所なのだと。

 

 可哀想だなとは思ったが、それ以上の感慨はクリスタの空っぽな心には浮かばなかった。

 

 くしゅん、と小さなクシャミが夜の静寂に漏れる。薄い寝間着ではすぐに体の芯まで冷え切ってしまった。かといって、悪夢がこびりついたベッドに戻る気にもなれない。

 

 温もりが恋しくなった時、彼女の脳裏に浮かんだのはたった一人の顔だった。

 

 彼女の足は迷うことなく一つの部屋の前で止まる。

 コン、コン。遠慮がちに扉を叩く。もう眠ってしまっただろうか。不安が胸をよぎったその時、ドアの向こうからパタパタというスリッパの音が聞こえ、すぐに扉が開いた。

 

「クリスタじゃない。また眠れなくなったの?」

 

 呆れたような、それでいてどこまでも優しい声。クリスタはこくりと頷いた。部屋の主――ジルケは、何も言わずに彼女を中へと招き入れた。

 

 ジルはクリスタを小さな椅子に座らせると、手際よく棚から数種類の乾燥したハーブを取り出す。陶器のポットにそれらを入れてストーブで沸かした湯を注ぐと、ふわりと柔らかな香りが部屋に満ちた。

 彼女の淹れてくれる温かいハーブティーがクリスタは大好きだった。

 

「怖い夢でも見たの?」

 

 ジルがカップを差し出しながら、優しく尋ねる。立ち上る湯気の向こうで、その顔はいつも通りの穏やかな微笑みを湛えていた。

 香草の柔らかな香りが鼻先をくすぐり、凍えた指先がカップの熱でじんわりと解けていく。

 

「うん……また、あの夢」

 

 クリスタは小さな声で答えた。ジルはそれ以上何も聞かず、ただ静かに隣に座り、クリスタの他愛もない話に耳を傾ける。

 決して急かさず、ただ相槌を打ちながら、次の言葉が自然と紡がれるのを待ってくれる。その穏やかな時間が、悪夢にささくれ立ったクリスタの心を少しずつ癒していった。

 

 

◇◇◇◇

 

 

 ジルが開拓地に来たのは、ウォール・マリア陥落から一週間後のことだった。

 壁の崩壊後、安否が分からなくなっていたニック司祭がトロスト区の避難所から戻ってきた時、一人の女性を連れてきた。それがジルだった。

 

 曰く、壁の崩壊の混乱の中、高熱に浮かされ倒れていた司祭を治療してくれたのが彼女なのだという。その恩義と、開拓地で医療従事者が不足していたこともあり、ニック司祭が彼女をここに招いたのだった。

 

 初めて会った時のことをクリスタは今でも鮮明に覚えている。

 ニック司祭の後ろに佇むジルはクリスタの姿を認めた瞬間、大きく目を見開いた。それは単なる驚きではない。生き別れた我が子を信じられない場所で見つけてしまったかのような、痛切なまでの衝撃に満ちた表情だった。

 

 クリスタにしてみれば、その空のように深い青色の瞳が、鏡で見る自分のそれとよく似ているな、というのが第一印象だった。

 ただ、その美しい瞳の下にうっすらと浮かぶ隈だけが、彼女の纏う穏やかな雰囲気とは裏腹の、深い疲労を物語っているようにも見えた。

 

 翌日。開墾作業で隣同士になった時、ジルは話しかけてきた。

 

「ねぇ、あなたのお名前を教えてくれない?」

 

 なぜ自分の名前を尋ねるのか、とクリスタが問い返すと、ジルは困ったように微笑んだ。一週間前に与えられたばかりの名前――クリスタ・レンズを名乗ると、彼女はますます悲しそうに、けれど慈しむように笑った。

 

「よろしくね、クリスタ」

 

 ジルは不思議な人間だった。幅広い医療知識を備え、どんな怪我でも手際よく治療してしまう。それだけでなく、植物にも精通しており、彼女が調合する薬草はどんな薬よりもよく効いた。

 

 彼女はよく南の方角を、遠い目をして見つめていた。故郷を想っているのか、それとももっと複雑な何かを――クリスタには計り知れなかった。

 

 年の頃は二十代後半といったところだが、本人曰くとっくに三十を超えているらしい。穏やかで美しい、それでいてどこか常人とは異なる空気を醸す彼女に、開拓地の男たちが熱い視線を向けることもあったが、左手の薬指で静かに輝く指輪が彼らを思いとどまらせた。

 ウォール・マリアの陥落で夫と娘を亡くしたのだと、彼女は物悲しげに語っていた。

 

 ジルはなぜか、クリスタのことを気にかけてくれた。クリスタもまたごく自然と彼女に懐いていった。

 生まれてこの方、他人から純粋な優しさを向けられたことのないクリスタにとって、それは初めての経験だった。ジルのそばにいる時だけ、自分が世界にいても良いのだと思えた。

 

 だが、そんな穏やかな日々も長くは続かなかった。

 ある夜、クリスタはニック司祭とジルが話しているのを物陰から聞いてしまった。

 

「その……ジルケさん。あなたには感謝しています。皆の治療をしてくれるし、手が空けば開墾作業も手伝ってくれる。子どもたちや信者じゃない者もあなたを慕っている。ただ、言いにくいのですが……あの子に構うのはもう止めていただけませんか?」

 

「なぜでしょうか? あの子も他の子と同じ、家族を失った孤児なのでしょう?」

 

 ジルの声は、純粋な疑問に満ちていた。

 

「大人達がクリスタにあのような態度を取るから、子ども達にもそれが伝播する。子ども達は、ただ大人(わたしたち)の真似をしているに過ぎません。私の方こそニック司祭にお願いしたい。これ以上あの子に冷たい態度を取らないであげてください」

 

「……色々事情があるのです」

 

「――わかりました。そういうことであれば、他ならぬ司祭の頼みですが、私の方もお断りさせていただきます」

 

「そう仰ると思っていました。しかしいずれ、あなたにも真相を――」

 

 そこまで言って、ニック司祭は物陰に隠れるクリスタの存在に気づいた。恐怖で声も出せず、ただ涙を流すクリスタ。ジルは司祭を咎めるような視線で一瞥すると、クリスタの元へ駆け寄りその小さな体を優しく抱きしめた。

 

 その日を境にジルへの風当たりは、静かに、だが確実に強まっていった。

 

 開墾作業では、決まって最も過酷な場所を割り当てられ、診療の依頼も次から次へと舞い込み、彼女が休む暇はほとんどなくなった。苦悩に満ちた顔で唇を噛むニック司祭が遠巻きでその光景を見ているのが視界に入った。

 それはあからさまな攻撃ではないからこそ陰湿で、クリスタの心をじわじわと締め付けた。

 

 自分のせいだ。

 自分が望まれていない存在だから、生まれて初めて心を開いた人を苦しめているのだ。

 

 クリスタが十二歳を迎える冬。彼女はこの愛憎入り混じる開拓地を出て、自らの意志で訓練兵団への道を進むことを決めた。

 

 その日も、クリスタはジルの部屋を訪れていた。淹れてもらったハーブティーの最後の一滴を飲み干すと、真っ直ぐな瞳で目の前の女性を見上げ、決意を告げた。

 薪ストーブの炎がぱちぱちと静かにはぜる音だけが、二人の間の沈黙を埋める。ジルはしばらく黙ってクリスタの顔を見つめていたが、やがて不意に口を開いた。

 

「死に場所を探しているわけじゃないわよね?」

 

 核心を突く言葉に、クリスタの心臓がどきりと跳ねる。まるで全てを見透かされているようだった。

 

「違う!……私は外の世界へ出たい。ウォール教の開拓地(ここ)も、生まれ育った厩舎(あそこ)も……どこにも、私が居ていい場所なんてなかった。『いらない子』じゃなくて、誰かに必要とされたいの……!」

 

「外の世界は、クリスタが夢見るような優しい所じゃないわよ。それでもウォール教(ここ)から出ていきたいの?」

 

「……うん。それに私が出ていけば、先生をいじめる人もいなくなるだろうし……」

 

 語気が弱まり、クリスタが俯く。初めて打ち明けた己の想いを、母親のように慕ったジルに否定されるのが怖かった。

 しかしジルはふっと表情を緩め、それから小さく笑った。

 

「……そっか。ありがとうね、クリスタ。その気持ちだけでも嬉しいわ。あなたは、いつも他の人を思い遣れる優しい子ね」

 

 その言葉をクリスタはどこかで聞いたことがあったが、それがいつ、誰に言われたのか思い出せなかった。

 

「あなたは自由よ、自分の決めたとおりに進みなさい」

 

 そのままジルは穏やかな瞳でクリスタを見つめ、続けて予想だにしなかった言葉を静かに紡いだ。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 長い、長い夢を見ていた。

 意識が底なしの沼へと沈んでいく。暗く冷たい感覚が全身を支配し、思考は濃い霧の中を彷徨うように輪郭を失っていく。

 時折、断片的な光景が水面に映る月のように揺らめいては、ノイズのように混じり合った。

 

(……ごめんなさい)

 

 誰に言うでもない謝罪が、声にならない声となって胸の奥で響き渡る。

 腕の中で安らかに眠っていた、愛しい我が子の無垢な寝顔。ミルクの甘い匂い、柔らかな産着の感触、私の指を握り返す小さな手の温もり。

 

 もう二度と触れることのできない思い出が、記憶の破片として蘇っては私の魂を灼き続けた。

 

(……エレン)

 

 夫の名を呼ぶ。偽りの関係から始まった、不器用で孤独な男。その無骨な手の温もりを、無表情な仮面の下に隠された優しさを、どうしようもなく思い出してしまう。

 十三年という呪われた歳月の中で私たちが共に過ごした時間はあまりに短く、けれどその一つ一つが宝石のように輝いて、闇に沈む心を締め付けた。

 

 ——もう、疲れた。このまま全てが無に帰せばいい。

 

 意識が完全に闇に溶け落ちようとした、その瞬間だった。

 一条の光が暗黒を切り裂き、目の前に砂漠のような光景が広がる。無数の光の枝が天を覆い、どこまでも続く地平線の先へと伸びていた。

 

『いってらっしゃい、エレン』

 

 脳内に直接響くような声に導かれ顔を上げると、光の奔流の中心に巨大な樹が聳え立っていた。

 次の瞬間、私の身体は凄まじい力でその光の中へと引きずり込まれていく。抵抗も虚しく、意識はそこで途切れた。

 

 はっと目を覚ますと、そこは見知らぬ荒野の真ん中だった。

 全身に感じるのは土のひんやりとした感触と、肌を撫でる生暖かい風。私は何も纏っておらず、文字通り裸一貫でそこに横たわっていた。空は無慈悲なほどに青く、白い雲がゆっくりと流れていく。

 

 何が、どうなっている?

 

 混乱する頭でゆっくりと身を起こす。視界いっぱいに広がるのは、どこまでも続く青々とした草木と柔らかい土だった。どこにも生物の気配はない。

 ただ自分の周囲だけが、まるで爆撃でも受けたかのように土が抉られ、黒く焦げ付いていた。燃え尽きた薪の残骸、引き裂かれた軍用テントの布切れが、生々しい傷跡のように散らばっている。

 

 私は無垢の巨人になったはずだ。

 あの壁の上で己の罪と未来への淡い期待を背負って、永遠の地獄へと旅立った。壁へ向かうグリシャを見届け、自らの手で巨人化薬を打った記憶が、走馬灯のように駆け巡る。

 

 なのに今、私は人間の姿に戻っている。これが意味することは即ち『九つの巨人』を継承したことに他ならない。

 この焦げ付いた大地と、散乱するマーレ軍の野営地の痕跡。そして、そこから逃げるように続く三つの小さな足跡。

 

 状況が、一つの悍ましい答えを導き出した。

 

「……マーレから送られてきた戦士を、食べたのか」

 

 原作のユミルと同じように。無垢の巨人としてこの島を彷徨ううちに、偶然にも『九つの巨人』の継承者を捕食し、人としての姿を取り戻してしまったのだ。

 誰を食べた? マーレの戦士がパラディ島(ここ)へ訪れる機会など限られている。原作の流れを考えれば、自ずと見えてきた。

 

「マルセル・ガリアード……」

 

 アニやライナー、ベルトルトと共にこの島へ送られてきた四人目の戦士。『顎の巨人』の継承者。

 彼の命と引き換えに、私は再びこの世に生れ落ちてしまった。自分の意志とは無関係に、またしても他者の犠牲の上にこの命は繋がれてしまった。

 

 しばしの間、茫然と立ち尽くす。不意に、腹の底から何かがせり上がってきた。それは悲しみでも怒りでもない。もっとどうしようもない、運命そのものへの問いだった。

 

「エレンッ!!」

 

 私は天に向かって叫んだ。『死のない世界』でこの運命を司る人物の名を。

 

「何が目的なの!?私に、何をさせたいの!?」

 

 本来、生き返るべきはユミルのはずだった。原作において彼女の存在は、調査兵団がウドガルド城の窮地を脱し、エレンを奪還するための重要な鍵。

 そして何より、彼女がいたからこそヒストリアは自らの運命を受け入れ、女王として立つことができるのだ。

 

 ユミルは物語の結末に不可欠な存在――なのに生き返ったのは私。

 なぜ私を生かした。なぜ再びこの地獄へ引き戻した。私にこれ以上、何を選べというのか。

 

 答えなど返ってこない。それでも叫ばずにはいられなかった。

 

 やがて衝動が過ぎ去り、冷静な思考が戻ってくる。感情の奔流が引いた後には、冷たい現実だけが残されていた。

 

(落ち着け……状況を整理するのよ)

 

 私は『九つの巨人』の力を継承した。そして、ユミルは無垢の巨人のままこの島のどこかを彷徨っている。それはもはや後戻りのできない事実。

 

 その上で、私はこの先どうすればよい?

 

 マーレへは戻れない。マーレの威信に泥を塗った裏切り者の私を、快く迎え入れてくれるはずがない。捕らえられれば、次の戦士に『顎』が継承されるだけだ。

 巨人の力を使えばマーレの定期船の一隻や二隻、拿捕することはできるかもしれない。だがその後は? マーレが本気を出せば、逃げ切れるはずもない。

 

 そしてここは壁外。もう少し日が昇れば無垢の巨人がそこかしこから湧いて出てくる。

 

 そうだ。生き残りたければ、遥か北にある壁の中を目指すしかない。

 

 一瞬躊躇いが心をよぎる。命を捨てたはずの私が、今更生にしがみつくのか?か細い可能性にかけて巨人体のユミルを探し出し、彼女に『顎』を継承するべきではないか?

 

 原作通りの結末を、人類と我が子の未来を真に想うなら——私は生きていてはいけないのではないか?

 

 だがその声は別の、もっと温かい想いによって掻き消された。

 

 私はふらりと南を向いた。網膜にはどこまでも続く荒野しか映らない。風が草を揺らす音だけが耳を撫でる。

 だがこの目には、その空虚な地平線の向こう側がはっきりと見えていた。

 

 海を越えた先にある、煤けたレベリオの街並みを。懐かしい家の温もりを。そして、そこにいるはずの愛しい我が子の顔を。

 

(あの子は……どうしているだろう)

 

 原作通りに始祖奪還作戦が実行されていれば、私が巨人になってから十三年の月日が経ったはず。セラは約束通り、あの子を育ててくれたのだろうか。

 

 あの子はもう赤子ではない。私の知らない人と話し、私の知らない顔で笑い、私の知らない人生を歩んでいるはずだ。

 健康に育っているだろうか。友達はできたか。恋人は——?

 

 娘の人生が気がかりでならなかった。母親としてやれることなど今更何一つない。それでも。

 

「あの子に……会いたい」

 

 一筋の涙と共に、心の底からの願いがこぼれ落ちる。その一言は、私の進むべき道を照らす唯一の光に他ならなかった。

 

 何の拍子か得た二度目の人生。もうエルディア復権のためでも、誰かの贖罪のためでもない。ただ、あの子にもう一度会うために。その想いだけが私を突き動かした。

 

 その決意は冷たい土を踏む裸足の足裏から、新たな生命力となって全身を駆け巡った。私は顔を上げ、北へと力強く歩き始めた。

 

 

◇◇◇◇

 

 

 人としての姿を取り戻し、初めてこの壁の中へたどり着いたあの日。私はマーレにいた頃とは別種の悲劇を経験した。

 

 トロスト区は、故郷を追われた難民たちの絶望で飽和していた。汗と埃、そして死の気配が混じり合った淀んだ空気が肺を焼き、すすり泣く声、怒号、助けを求める声が無秩序な喧騒となって鼓膜を打つ。

 壁の中の彼らは、なぜ自分たちが巨人に喰われなければならないのか、その理由すら知らぬまま、ただ理不尽な暴力に打ちひしがれていた。その無知ゆえの絶望は、マーレで見てきた絶望とは異質の、それでいてより根源的な悲劇として私の目には映った。

 

 だが、その喧騒は壁外から来た私にとって好都合であった。素性の知れない女が一人紛れ込んだところで、誰の注意も引くことはない。私は難民の波にその身を溶かし、避難所へと流れ着いた。

 

 配給された、石のように硬い黒パンを無心で齧る。人波の中にエレン達シガンシナの幼馴染組と、ライナー達マーレの戦士組の姿を探したが、見つけ出すことなどできるはずもなかった。

 

(まあ期待はしていなかったから別にいいけどね)

 

 ちなみに巨人の力を使って分かったが、私が継承したのは『顎の巨人』で間違いないらしい。詳細は不明だが(『顎』の特性だろうか?)、部分的な硬質化程度なら初めからできたのは不幸中の幸いだった。

 

 物語の主役たちを探すうち、避難所の一角に設けられた臨時診療所が目に入った。そこでは数少ない医療従事者が、次々と運び込まれる負傷者の対応に追われている。床には血反吐を吐いて倒れる者、高熱にうなされる者、もはや声も出せずに喘ぐ者が折り重なるように横たわっていた。

 

 考えるよりも先に私の足はそこへ向かっていた。

 

「手伝わせてください。私も医者です」

 

 医療従事者としての本能がそうさせたのか。いや、そうすることでしか私は私でいられなかったのか。

 ともあれ、その言葉が新たな人生の始まりを告げた。

 

 記憶が現在へと戻る。目の前ではあの日私が治療した男――ニック司祭が声を弾ませていた。

 

「シガンシナ区で布教しているときにまさか壁が破られようとは……しかし、本当に助かりました。怪我の後遺症で熱病にうなされていた私を救ってくれたのはジルケさん、あなたです。あなたはまさに神が遣わした御方です」

 

 当初は彼が()()ニック司祭とは夢にも思わず、治療に当たった大勢の患者の一人に過ぎなかった。後日彼の方から名乗り出てくれたことで、初めてその事実を知った。

 原作では、壁の秘密を知りながらも調査兵団に教えることはなかったため、当初はあまり良い印象を抱いてなかったが、実際に応対した彼はただただ敬虔な信徒だった。

 

 しかし、言うに事欠いて神か。私は薄ら笑いを堪えた。神様扱いはもうこりごりだ。

 

 一通り感謝の言葉を述べたのち、ニック司祭は私に一つの提案を持ちかけてきた。

 

「聞けばジルケさんもご主人を亡くされたと……もし行く当てがないのなら、ウォール教(われわれ)が運営する開拓地へいらっしゃいませんか?せめてもの恩返しです。それに、我々の開拓地も常に人手を必要としていますので」

 

 ウォール教。壁を神と崇める狂信的な集団。原作知識を持つ私にとって、彼らは世界の真実を隠蔽する存在であり、その名からは胡散臭さしか感じない。

 だがその申し出は、今の私にとって抗いがたい魅力を持っていた。

 なにせ当面の住処すらないのだ。日に日に先細っていく配給を前に、このまま難民として生き永らえることに限界を感じていたところだ。

 

「……お言葉に甘えさせていただきます」

 

 怪しげな宗教団体の誘いであろうと、今は藁にでも縋る思いでそれに乗った。これがまさか、自分の運命を大きく動かす出会いに繋がることなど、まだ知る由もなかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

「ジル先生……私、訓練兵団に行きたい」

 

 冬の始まりを告げる木枯らしが、古い窓ガラスをカタカタと揺らす夜だった。暖炉で静かにはぜる薪の音だけが、二人の間の沈黙を埋める。

 カップの中で冷めていくハーブティーの水面に、クリスタの揺るぎない決意を宿した瞳が映っていた。

 

 いつかこの日が来ると、心のどこかで分かっていた。それでもいざその言葉を前にすると、言いようのない寂しさが胸に広がっていく。

 

 この壁の中、ウォール教の開拓地で生活を始めて二年。奇妙な祈りや儀式に戸惑うこともあったが、振り返れば満ち足りた日々だった。

 

 ここには「エルディア人」という理由だけで人を否定する者はいない。

 その概念自体が存在しないのだから当然だが、マーレでも、ヒィズルでも感じることのなかった穏やかな空気が、確かにここにはあった。

 

 もちろん、ここが完璧な理想郷だなんて微塵も思っちゃいない。貧富の差は厳然と存在し、昨年行われた『ウォール・マリア奪還作戦』のように、為政者の都合で弱い者が容赦なく切り捨てられる現実もある。

 私がその無謀な作戦に駆り出されずに済んだのは、ひとえにウォール教という後ろ盾があったから。つくづく、運が良かったとしか言いようがない。

 

 開拓地の孤児たちは成長するにつれ、教団が用意した安定した道を疑うことなく受け入れていった。そんな中、クリスタだけが違う空を見ていた。

 

 初めてその姿見つけた時の衝撃は、今も忘れられない。

 彼女は、私が原作で知るどの姿とも違っていた。博愛的な訓練兵でも、覚悟を決めた女王でもない。ただ、己の存在理由を見失い、孤独の影を背負う寡黙な少女だった。

 

 私は彼女に寄り添った。この世界には、唯一無二の親友となるはずのユミルがいない。その空白を埋めなければという使命感にも似た思いがあった。歴史をこれ以上歪めないためにも、彼女の理解者になろうと。

 

 だが、いつしかその感情は別のものへと変質していった。クリスタの大きな青い瞳が、マーレに残してきた娘の面影と重なる。

 子を捨てた私が抱くには、あまりにおこがましい感情だと分かっていても、彼女に娘の姿を重ねずにはいられなかった。

 

 だから、彼女の存在を理由に不当な扱いを受けても、何の苦痛も感じなかった。

 

 そしてクリスタが十二歳になる冬。彼女は自らの意志で、鳥籠の扉を開けようとしていた。

 

「死に場所を探してるわけじゃないわよね?」

 

 私の問いに、クリスタの肩が微かに震える。図星だったのだろう。この頃の彼女は「善人」として誰かに感謝されながら死ぬことを、心のどこかで望んでいた。

 命を自ら投げ捨てた過去を持つ私に、彼女を咎める資格などない。そう頭では分かっていても、歪んだ自己犠牲で娘のように思う少女を死なせたくはなかった。

 

 しかし、クリスタは堰を切ったように叫んだ。

 

「違う!……私は外の世界へ出たい。ウォール教の開拓地(ここ)も、生まれ育った厩舎(あそこ)も……どこにも、私が居ていい場所なんてなかった。『いらない子』じゃなくて、誰かに必要とされたいの……!」

 

 感情をこれほどまでにあらわにする彼女を、初めて見た。その叫びが、私の心を強く揺さぶる。

 

(外に出たい、か)

 

 称賛の中死にたいという願望も、まだ心のどこかにあるだろう。だが、外の世界への渇望もまた、偽りのない彼女の本心だ。

 

 この子は今、自分の意志で鳥籠から飛び立とうとしている。その翼を私が折る権利などどこにもない。

 ならば私も見倣おう。自分の望む道を歩もう。たとえそれが、どれほど細く困難な道だとしても……。

 

「あなたは自由よ。自分の決めたとおりに進みなさい」

 

 私は静かにそう告げた後、覚悟を決めて続けた。クリスタの驚きに見開かれる青い瞳を、真っ直ぐに見つめ返して。

 

「私も行くわ。クリスタと一緒に、訓練兵団へ」




ユミルは犠牲になったのだ……犠牲の犠牲にな。
というわけでジルには第二の人生を楽しんでもらいます。
当面の間は壁の中の物語が続きます。

また章タイトルは仮で振っただけなので適宜変更します。
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