夢を見ていた。燃え盛る屋敷を遠くから眺める、既視感のある夢を。
誰かの叫び声が聞こえた気もするが輪郭はいつもおぼろげだ。これがジルの記憶なのか、それとも私の妄想が混じった産物なのか。
確かめようもない疑問にもうどうでもよくなりつつあった。所詮は夢だ。
問題はこの悪夢のような現実の方なのだから。
目を開けると見慣れた医務室の天井。身体を起こした瞬間、全身の関節が悲鳴を上げた。
「ッテテ……完全にこり固まってるわ、これ」
頬を机に付けたまま視線を滑らせれば、そこにあるのは書類の山、山、山。どうやら夜更けまで仕事に没頭するうち、いつの間にか机に突っ伏して寝落ちしていたらしい。
我ながらなかなかの社畜っぷりだ。前世とやっていることが大して変わらないのが少し笑える。
ジルとしてこの病院に戻ってから早くも一週間。戸惑いもあったが、今ではすっかりこの白衣が板についてしまった。
この身体の持ち主であるジルの優秀な頭脳と前世の経験。その二つが奇妙に噛み合ったおかげで、思った以上にスムーズに順応できているのは幸か不幸か。もはや鏡に映るこの顔が、本当に自分のものであるかのような錯覚に陥る。
記憶の整理がつくにつれ、この身体の持ち主――ジルケ・クルーガーの生涯もまるで昨日のことのように思い出せるようになった。
彼女の人生はなかなかにハードだ。
表向きは戦争孤児。実際にはかつてのエルディア帝国の亡霊を信じた者たち、革命軍の残党の娘だ。両親は裏切りによってマーレに焼き殺され、彼女自身は革命軍の孤児院で、復讐と忠誠を胸に育った。
優秀な成績で医学学校を出たのも巨人化学の研究へ手を出したのも、そしてマーレ治安局のクルーガーと偽装結婚したのも、すべてはエルディア復権のため。
彼女の人生は復讐という名の暗い情熱に彩られていた。
……なんて、まるで三文小説の悲劇のヒロインみたいに言ってみるが、転生者の私はただただ平穏な暮らしを熱望している。できれば猫でも飼って、日がなのんびり寝ていたい。
でも現実はそうは問屋が卸さない
診察、教育、山のような書類作業。そして時々スパイ活動。今の生活はそんな日々の繰り返しだ。
昨夜も同志二人の検査記録を改竄し、治安当局に潜り込ませる手伝いをしたばかり。数値をいじってサインするだけだから、正直拍子抜けするほど簡単だった。
もちろんバレれば一発アウト。楽園送りという名の終わらない悪夢が待っている。
幸いジルが築き上げた「優秀で信頼できる医師」というブランドのおかげで、誰も私を疑わない。マーレの管理体制が驚くほど杜撰なのは原作知識で知っていたが、実際に住んでみると想像以上だった。
まあ、そのおかげで
今の生活にそこまで大きな不満はない。強いて挙げるなら同居人が彫像のように無口なことと、二十世紀初頭レベルの生活が地味に不便なことくらいか。洗濯は面倒だし、娯楽は少ないし、何よりスマホがないのが辛い。
まあ愚痴を言っていても仕方がない。
大丈夫。下手にボロを出さなければ私はここで「優秀なジル先生」を演じ続けられる。
それよりもこの平穏な時間が、そう遠くない未来に瓦解すると知ってしまっていることを懸念すべきだろう……。
「さーて、どうするかねぇ…」
椅子に深く腰掛けて一人呟く。
改めて状況を整理しよう。今は原作開始の二十余年前、主人公のエレンはおろかその親のグリシャすらまだ復権派に属していない。
夫は原作で復権派をまとめ上げていたフクロウーーエレン・クルーガー。といっても今の彼はエルディア帝国の復活を夢見る革命軍の一幹部に過ぎず、その革命軍はマーレに弾圧される以前からの古参がのさばっている。
まあその勢力を秘密裏に拡大している辺り、古参連中も単なる無能ではないのかもしれないが。
そして私。私には原作知識という最強の武器がある。隠蔽された歴史やこれから起こる出来事を、私は知っている。
これだけ聞くと今後の人生はイージーな気もしなくもないが、こと『進撃の巨人』においてはどのルートを選んでもバッドエンド直行便なのだ。
仮にこのまま何もしないとどうなる?いつかーーそれこそジークの密告によってマーレ当局に捕まり、
では革命軍を抜けるのは?これも無理ゲーだ。皮肉にも私自身が広げたスパイ網のせいで、マーレ国内に逃げ場はない。自分が仕掛けた罠にかかるなんて何て滑稽な様だ。
よしんばマーレや革命軍の手を逃れても、854年に起こる『地鳴らし』からは逃げられない。八方塞がりとはまさにこのことだ。
(とんでもない世界に転生してしまった……)
――コン、コン。そのノックの音で袋小路に入り込んでいた思考が中断される。
扉が開き、背筋をしゃんと伸ばした少女が顔をのぞかせた。
「先生、昨晩も遅くまでお疲れ様です! 」
セラ・シュタイナー。まだ15歳の、真面目で可愛らしい看護師が部屋に入るなり綺麗な敬礼をした。
「先生、私見ちゃいましたよ!他の先生方は早々に帰られたのに、先生のお部屋だけ灯りがずっと点いていて……。先生が誰よりも頑張っているのを見たら、私ももっと頑張らなきゃって思いました!」
「セラ、いつも褒めてくれてありがとう。でもごめん、先に要件を聞いてもいいかしら? ちょっと今あまり頭が回らなくてね」
私は苦笑しながらこめかみを押さえる。子犬のように真っ直ぐな好意を向けてくれる彼女には、自然と声が少しだけ柔らかくなるのを自覚している。
彼女がいると、この世界を覆う殺伐とした空気がほんの少しだけ和らぐ気がした。
「大変失礼しました。実はーー」
そうしてセラが事務連絡を終えて部屋を出ていく。
やれやれ、やっと仕事に戻れると思った矢先、彼女と入れ違うように別の足音が忍び寄ってきた。
「――長老がお呼びです」
低く押し殺した声。同じ職場に送り込まれた革命軍の若者だ。
私はペンを置き、一つ息をついてから立ち上がった。面倒事がまた一つ増えてしまった。
長老のいる病室へ向かう時はいつもより足が重く感じる。
道中、白衣の袖口を軽く直した。あの人は妙なところで身嗜みにうるさいのだ。
病室では厳しい顔をした老人が待っていた。そして始まるのはいつもの『栄光のエルディア帝国』講座。ユミルの血筋、民族の誇り、失われた歴史……。幼少の頃より何百回と繰り返し聞かされた話を、長老は熱弁する。
(よくもまあ飽きないものだな)
神妙な顔で耳を傾けるふりをしながら、心の中でそんなことを考える。
この人がもしあと五分語り続けたら、貧血のフリでもしてみようか。そんなくだらない計画が浮かんだあたりで救いの女神が舞い降りた。
「失礼します!」
ノックと共に、セラが勢いよく入室してきた。
「グランベルクさん! 先生はお忙しいんですから、お喋りもほどほどにしてください!」
小柄な体で堂々と長老を窘める姿に私は思わず口元を緩めそうになる。長老は一瞬目を丸くしたが、すぐに好々爺の笑みを浮かべた。
「これは失敬……叱られてしまったな。これからは気を付けよう」
「そう言ってこの前も先生を拘束してたじゃないですか!!」
「はは、一本取られたな」
その豹変ぶりにはもはや感心すら覚える。でもまあこのくらいの腹芸ができなければ、今頃とっくの昔に楽園送りだろう。
セラが私のもとに寄り、声を潜めた。
「先生。クサヴァーさんがお子さんと一緒にいらっしゃってます」
セラが指差す先には、人の良さそうな笑顔を浮かべたトム・クサヴァーとその息子さんの姿があった。
やれやれ……今日も残業確定、か。
◇◇◇◇
トム・クサヴァーと出会ったのは一年前の巨人学会だ。彼は記憶の継承を研究しており、若干三十歳にして既に学会の権威であった。
「これはこれは、クルーガー女史。お会いできて光栄です。拝見しましたよ、貴方の論文。いやあ実に素晴らしい!」
開口一番に論文の出来を早口で語るクサヴァーさんに、当時のジルは相当困惑したらしい(そういう記憶が残っている)
とまあ同じ研究者のよしみということもあり、その後の学会では会う度にクサヴァーさんと話すようになった。
また長老のやんごとなきご意見も踏まえて彼とは交友関係を保っている。アカデミックな領域からもマーレを侵食すべきであり、その為にもマーレ人の巨人学者から知見を得ろ、と。
しかし私は知っている。トム・クサヴァーがマーレ人ではなく、エルディア人であることを。
「いやすまないね、お邪魔してしまって。近くで学会があったものだから、つい立ち寄らせてもらったよ」
にこやかに笑う彼の隣で、小さな男の子が所在なげに父親の白衣の裾を握っている。
歳の頃は七、八歳といったところか。父親とはあまり似ていないのに不思議と目元だけはそっくりだった。
「こちらは息子のニコラスだ。ほら、ニコラス。挨拶しなさい」
父親に促され、ニコラスはもじもじしながらもこくりと頭を下げた。私もそれに合わせて軽く会釈を返す。
微笑ましい光景だ。家族という温かい繋がり。私が転生とともに失い、ジルが決して手に入れられなかったもの。
(家族、か……)
私の脳裏に同居人であるエレン・クルーガーの無表情な顔が浮かぶ。夫婦というのは名ばかりの冷え切った関係。
そもそも彼との未来などあり得ない。巨人の力を宿した彼の余命はわずか13年。たとえここに本物の愛があったとしても、行き着く先は悲劇的な別離だけだ。
それに比べて目の前の親子はどうだ。父親を信頼しきった息子の眼差し。息子を慈しむ父親の優しい声。
これがあるべき家族の姿なのだろうか。
「奥様はご一緒ではないのですね」
「ああ、妻は今頃友人とランチ中さ。ま、亭主元気で留守が良いってヤツだよ」
クサヴァーさんがふと声を潜めた。
「そういえば不穏な噂を耳にしてね」
「噂?」私はピクリと眉を動かす。
「ああ。マーレがまたどこぞの国と戦争を始めるらしい。それに伴って軍医を広く募集しているとか。君のような優秀な臨床医はいつ声がかかってもおかしくない」
彼の言葉はただの噂話のつもりだろう。だが、私にとっては未来からの宣告に他ならなかった。
侵略を繰り返し憎悪を集めるマーレ、それは原作と同じ筋書きであった。
一人思い悩む私をよそに、退屈を持て余したニコラスが私の白衣の袖をくいと引いた。
「ねぇ、キャッチボールしない?」
「こら、クルーガー先生はお忙しいんだ。ご迷惑になるだろう」
クサヴァーさんが呆れたように息子を窘める。むくれるニコラスを見ると罪悪感がチクリとするが、生憎仕事が山ほど残っているのも事実……その言葉に乗り、私は丁重に断りを入れることにした。
「ごめんね、ニコラス君。今度一緒にやりーー」
そう言いかけた、その時だった。
「まあ素敵ですね! 先生もやりましょう! たまには体を動かさないと!」
「え、いや仕事……」
「大丈夫です!私の方でやっときますから!」
いつの間にか背後に立っていたセラが有無を言わさず満面の笑みで私の背中を押す。ニコラスも期待に満ちた瞳でこちらを見上げている。
……ああチクショウ。もう、こうなっては逃げられない。私は観念し、こめかみを押さえながら小さく頷いた。
◇◇◇◇
病院の中庭。まさかこの世界でキャッチボールをする羽目になるとは。
心の中で悪態をつきながら、ニコラスが投げた山なりのボールを捕球する。緩やかな放物線を描いたボールは思ったよりも重く、革の匂いが鼻先を掠めた。
「先生、上手!」
ニコラスが声を弾ませる。私は曖昧な笑みを浮かべボールを投げ返した。キャッチボールをしたのは高校の体育以来だ。
最初はぎこちなかった動きも数回繰り返すうちに体に馴染んでいく。
ボールがミットに収まる乾いた音。風を切る音。屈託のない笑い声。それらが渾然一体となって、ささくれ立っていた私の心を少しずつ解きほぐしていく。
(……悪くないな、こういうのも)
復讐も、スパイ活動も、世界の行く末も今はどうでもよかった。ただ、目の前のボールを取って投げ返す。その単純な行為が不思議と心地良い。
ジークも最後はこんな気持ちだったのだろうか。
その時、脳裏にふと前世の光景が蘇った。
看護師だった私がなすすべもなく見送った小さな命。あらゆる治療も虚しく日に日に弱っていく体を前にして、ただ手を握ることしかできなかった無力感。腕の中で静かに息を引き取った時の、あまりにも軽いその感触。
さっきからニコラスを見ていると心がざわめいていた。その理由が分かった気がする。
前世のあの絶望的な瞬間が、原作で惨たらしく死んだ目の前の少年に重なってしまうのだ。
ニコラスが楽しそうにボールを投げる。その笑顔が、記憶の中の子供と重なった。
復讐に人生を捧げたジル。生き延びるためだけに足掻いている私。どちらも、この子の前ではあまりに陳腐な存在に思えた。
やがてキャッチボールは終わった。帰り際ニコラスが振り返り、小さな体をいっぱいに動かして私にぶんぶんと手を振った。その無垢な笑顔に張り詰めていた何かがふっと緩むのを感じる。
「クサヴァーさん」
「ん?どうしたんだい?」
私はクサヴァーさんにーーこの愚かしくも否定できない男にそっと耳打ちした。
「秘密は隠し通せるものじゃありませんよ?」
クサヴァーさんは一瞬目を大きく見開いた後、ややあって「人間に秘密は付き物だよ」といつもの表情に戻った。
これで未来が変わるなんて思っちゃいない。でも、ちょっとは期待してしまう。彼ら親子が笑って暮らせる未来もあって良いはずだ。
世界を救うなんて大それたことはできない。けれど、せめてこの手の届く範囲の命だけは全力で尊ぼう。そう心に誓った。
とまあカッコつけたものの、その後はセラだけでは終えられなかった山積みの仕事を、徹夜で片付ける羽目になった。
本当に最後まで格好がつかないものだ。
◇◇◇◇
クサヴァー親子の来訪から数週間が過ぎた。
あの日のキャッチボールが幻だったかのように、私の日常は再び書類の山と秘密の任務に埋もれていた。だが、心の片隅には革のボールの感触と子供の笑い声が微かに残っていた。
けれど平穏はいつだって唐突に終わりを告げる。
その日病院全体が奇妙な緊張感に包まれていた。昼過ぎ、私は院長室に呼び出される。部屋には病院の幹部たちが顔を揃え、重苦しい空気が漂っていた。
院長が硬い表情で一枚の分厚い書類の束を机に置いた。
「マーレ軍より正式な通達だ。中東戦線への医療班派遣要請が、この病院に来た」
室内の空気がさらに重くなる。院長は書類の最初のページをめくり、そこに記されたリストを指でなぞった。
「派遣される医師のリストだ。無論、強制ではない。だが国への貢献が求められている。断れば、この病院の立場も危うくなるだろう」
幹部たちが固唾を飲んでリストを覗き込む。私も、吸い寄せられるようにその紙面に目を落とした。そこには、見知った同僚たちの名前と並んで、はっきりとこう記されていた。
『ジルケ・クルーガー』
クサヴァーさんの噂話が現実となって私の目の前に突きつけられる。
逃れられない運命の歯車がまた一つ大きな音を立てて回り始めた。私のささやかな平穏は今日終わりを告げた。
しばらくマーレ編が続きます。
個人的にマーレが舞台のエピソードはめちゃくちゃ好きなので書いてて楽しいのですが、104期生や調査兵団などの原作人気キャラがほぼ出てこないのがネックですね…