返信こそできていませんが、めちゃくちゃ励みになっています。
今後の展開予想や、キャラの立ち回りについての感想も大歓迎です。
引き続きご愛読のほどよろしくお願いいたします。
突き抜けるような青空の下、訓練場に乾いた土の匂いが立ち上る。じりじりと照りつける太陽が、これから始まる過酷な訓練を暗示しているかのようだ。ずらりと整列した少年少女たちの顔には、緊張と不安、そしてわずかな高揚が浮かんでいる。
「問おう、貴様は何者だ!」
腹の底から絞り出すような怒声が訓練場の空気を震わせる。長身をこれでもかと反り返らせ、仁王のように立つ男――第104期南方訓練兵団を預かるキース・シャーディス。その鋭い眼光が、まだ何者でもない素材たちを値踏みするように射抜いていく。
これは通過儀礼。これから三年間、巨人と戦うための兵士として己を鍛錬していくにあたり、まずはその自尊心を木っ端微塵に砕くための儀式だ。誰もが教官の殺気に気圧され、ごくりと喉を鳴らす音がここまで聞こえてきそうだった。
私はその光景を、兵舎の医務室の窓から眺めていた。
訓練兵団付の医師。クリスタと共にこの場所へ来るため、物語のキーパーソン達の状況を探るために手に入れた、新たな役割だった。
紆余曲折を経て獲得したこの立場を一人噛み締める。これから始まる物語の幕開けを特等席で見届けられるのだ。緊張と共に言いようのない興奮が込み上がってきた。
シャーディス教官の洗礼は続く。やがて、ひときわ小柄な金髪の少女の前でその足が止まった。
「貴様だ!貴様は何者だ!名を名乗れ!」
「はっ!ウォール・ローゼ南区出身!クリスタ・レンズです!」
びくりと肩を震わせながらも、クリスタは声を張り上げた。その声は恐怖で震えていたが、決して折れてはいなかった。
(……大丈夫。あの子はもう、ただ守られるだけの子じゃない)
自らの意志でこの場所を選んだ覚悟が、彼女を支えている。その姿が誇らしくもあり、少しだけ寂しくもあった。「ジル先生って……もしかして過保護?」と尋ねてきたクリスタの何気ない言葉を思い出す。
ふと、私の視線は列の端で怪しげな行動をとる一人の訓練兵に吸い寄せられた。
赤毛のポニーテールを揺らしながら、一心不乱に芋を頬張る少女……間違いない、サシャだ。
そのあまりにも原作通りの姿に、思わず笑みがこぼれる。この緊迫した空気の中、彼女の存在は良くも悪くも一服の清涼剤のようだった。
その後も私は胸の高鳴りを抑えながら、窓の外に並ぶ顔ぶれを一人一人確認していく。 ジャン、コニー、マルコ、フロック……。物語を彩る面々が、今はまだ何者でもないただの人間としてそこにいる。
彼らが辿る運命を知っているのは、この世界で私だけ。その事実は重くもあるが、同時にこの物語の中に自分がいるという奇妙な実感を与えてくれた。
(マーレにいた頃は、こんな余裕もなかったもんなぁ……)
壁の中にも困難はある。だが、巨人や王政という明確な敵が存在する分、何が正義で誰が悪かも分からぬ壁外の世界よりは、幾分か精神的に楽だった。
そうしている内に、お目当ての人物達を発見した。
「貴様は何者だ!」
「シガンシナ区出身!アルミン・アルレルトです!」
「そうか!馬鹿みたいな名前だな!」
教官の理不尽な罵声に、アルミンがびくりと体をすくませる。その背後には、能面のような無表情で佇むミカサ・アッカーマンの姿があった。
そしてその少し離れた場所には、ライナー・ブラウン、ベルトルト・フーバー、アニ・レオンハート……マーレの戦士たちがいた。彼らの姿を捉えた瞬間、私の心臓は嫌な音を立てて軋んだ。
彼らがこの壁の中にいる。その事実が、これからの悲劇を否応なく突きつけてくる。だが同時に、まだ幼さの残る彼らの顔を見ていると、同情にも似た感情が湧き上がった。
教官の視線が、列の中ほどに立つ一人の黒髪の少年の前で止まった。他の訓練兵とは異なり、教官はその少年には何も問わない。ただ、その顔をちらりと見ただけで通り過ぎていく。
ウォール・マリアが陥落したあの日の地獄を見てもなお兵団を志すものは、覚悟が違う。歴戦の猛者であるキース・シャーディスにはそれが一目でわかるのだろう。
ようやく見つけた。
この物語の主人公にして、自由を求めて壁の外の世界を夢見、いずれは全てを破壊する少年。
「エレン・イェーガー……」
彼は、まるでこの世界そのものを焼き尽くさんばかりの、烈しい憎しみをその翡翠色の瞳に宿していた。それはただ母親を殺されたことへの怒りだけではない。
壁の中に閉じ込められ、自由を奪われている理不尽への、もっと根源的な怒りの炎だった。
◇◇◇◇
第104期訓練兵団の入団式から一夜が明け、兵士としての適性を測る最初の関門『立体機動装置』の姿勢制御訓練が始まった。
「次!アルミン・アルレルト!」
名を呼ばれた金髪の少年が、小柄な体を強張らせて装置へと歩み出る。原作で問題なく通過していたとはいえ、彼の運動神経を知っているだけに少し心配になってしまう。
しかし、それは杞憂であった。
アルミンはロープにぶら下がると、大きく体を揺らしながらも、懸命にバランスを取った。肩を震わせ、息を荒げ、それでも支え続けた。
「問題ない、適性ありだ。修練に励め」
短い評価が下りた瞬間、
素人の私から見ても、訓練を受けていないこの段階で既に才能の差は歴然としていた。
多くの訓練兵たちが空中で必死に均衡を保とうともがいている中、ジャンやコニー、サシャといった後に十番以内の成績で卒業する面々は、初めてとは思えぬほど巧みに身体を操っている。
ミカサに至ってはまるでそこが地面であるかのように、ただ静かに宙に佇んでいた。歴代でも類の無い逸材という評価にも頷けよう。
ミカサの姿に見惚れていると、その奥からひときわ大きなどよめきが起こった。しかしミカサに対するような驚嘆の声ではなく、そこにはもっと嘲笑めいた色が込められていた。
「うおおおおおっ!」
視線を向けた先では、獣のような咆哮と共に、少年が何度も宙へ留まろうと試みる。だが、その身体は意思に反して無様に回転し、頭から地面に叩きつけられそうになる。教官の怒声が飛び、周囲から失笑が漏れた。
それでも彼は諦めず、泥だらけになって立ち上がるが、結果は同じだった。
幾度目かの挑戦の末、ついに彼は鈍い音を立てて頭を地面に打ち付けた。血を流し、ぐったりとした彼が幼馴染に担がれ、私の待つ医務室へ運ばれてくる。
◇◇◇◇
「はい、これで大丈夫よ」
医務室の簡素なベッドに横たわる少年の額に、手際よく包帯を巻いてやる。少年――エレン・イェーガーは怪我など知らんとばかりに言った。
「ありがとうございます。それで、もう行っても良いですか?早く戻らないと適性判断が終わっちゃうので」
「頭を強打したんだから、大事を取って今日はもう動いちゃダメよ。教官には私の方からも言っておくから」
「そ、そんな!シュタイナー先生、お願いします!俺、このままだと開拓地に戻され――!」
「ドクターストップよ、イェーガー君。医者として怪我人を訓練に戻すわけにはいかないわ。それと……私のことはジルでいいわよ」
偽りの苗字で呼ばれるのは、どうにも落ち着かないのだ。
「二人とも、ここまで運んできてくれてありがとうね。凄く助かったわ」
私が声をかけると、隣で心配そうにエレンを覗き込んでいたアルミンは「は、はい!」と少し赤らめた頬を掻き、ミカサは感情の読めない瞳で私を一瞥し、無言で小さく会釈した。
彼らシガンシナの幼馴染たちは良くも悪くも既に104期内の有名人だった。
訓練兵の中で、巨人の脅威を目の当たりにした人間は数える程しかいない。そんな状況で、超大型巨人を目撃した三人は注目の的であった。
加えてエレンはその脅威に晒されてもなお、巨人を殺すと大見得を切ったのだ。まあ、その発言が今では彼の首を絞める結果となっているのだが……。
「あの、ジル先生。少々質問してもよろしいでしょうか?」
「何かしら、アルミン?」
「エレンに他の怪我や病気はありませんでしたか? 先ほどの訓練は運動神経の悪い僕ですらできたのに、エレンができないとなると何か明確な理由があると思うんです。本人が気が付いていないだけで、たとえば平衡感覚に異常をきたしているとか……そういう可能性は?」
(おお……)
思わず、心の中で感嘆の声が漏れた。ただの才能の問題として片付けず、客観的な事実から論理的に原因を推察する姿勢。その着眼点は、十二歳の少年のものとは思えない。
彼の類稀なる才能の片鱗が、既に見え隠れしていた。
だが、残念ながら彼の推察は当たっていない。エレンが適性判断をクリアできなかったのは、彼の身を案じたシャーディス教官がベルトに細工をしたから。それをアルミンが見抜けるはずもなかった。
もちろん、その事実を告げるわけにはいかない。
「うーん。軽く診たけど、特に身体的な異常は見られなかったわよ?」
私の言葉が重い空気となってその場に沈んだ。エレンは悔しさに唇を噛み締め、アルミンは自分事のように眉を寄せて俯いてしまう。
「病気を言い訳にしたかったわけじゃねぇが……問題ねぇって言われる方が辛ぇな」
エレンが絞り出すように吐き捨てる。その拳は、シーツの上で固く握りしめられていた。
「やっぱり、筋の良い人にコツを聞いて回らない? 僕が見た中だとジャンやコニーがすごく上手だったから、夕食の後にでも二人のところへ行ってみようよ」
「その必要はない」
アルミンが顔を上げて言うと、それまで黙っていたミカサが、静かだが有無を言わせぬ口調で言い放った。
「エレンには才能がない。教官の言うとおり、このままだと巨人の餌になるだけ。ので、大人しく開拓地に帰ろう」
「くそっ、好き勝手言いやがって!」
エレンがベッドから身を起こし、ミカサに掴みかからんばかりの勢いで叫ぶ。
「お前に言われなくたっても、んなことわかってんだよ。けどな、俺の気持ちはどうなる!?ロープにぶら下がれなかったぐらいで諦められるわけねぇだろ!」
「大丈夫。私も一緒に開拓地に戻ってあげるから」
「何が大丈夫なんだよ……人の話聞いてんのかテメェ」
「まあミカサだもんねぇ……」
ふと私の顔を見上げるアルミン。不思議そうに顔を傾けて、呟いた。
「あれ、ジル先生。泣いてます?」
指摘され、慌てて目元を拭う。いつの間にか、一筋の涙が頬を伝っていた。
激情家のエレン、理知的なアルミン、エレンだけを想うミカサ。原作そのままの彼らの姿に胸が熱くなっていたようだ。
だが同時に、この何気ない日常がやがてあんな未来になるのを知るがゆえの、どうしようもない憐憫が込み上げてきた。
「何でもないわ」
ダメだ。歳のせいか、最近どうにも涙腺が緩い。
「そうだ!ジル先生は立体機動装置を使えますか?もしよろしければアドバイスをください!」
アルミンの純粋なお願いに、私は苦笑しながら首を横に振った。
「ごめんなさい。実は私……兵団の訓練を受けたことがないのよね。それに
口を開くにつれ、エレンの肩がますます落ちていくのが分かった。
「ねぇ、エ……イェーガー君はさ、シガンシナ区出身ならあの日巨人と遭遇したはずよね? その……君は、巨人が怖くないの?あんな目に遭って、どうして兵士を志すの?」
「――そりゃあ怖いですよ。二年前のあの日、奴らには恐怖をたっぷり教わりました。母さんだって目の前で食われた……でも、それ以上に殺さなきゃならねぇと思ったんです。奴らを、この世から一匹残らず」
その瞳に、烈火のような炎が宿る。彼の脳裏には故郷を蹂躙され、母親を目の前で捕食された地獄の光景が焼き付いているのだろう。その憎悪の深さが、痛いほど伝わってきた。
「ごめんね、不躾な質問だったわ」
「気にしないでください。クリスタって奴から聞きましたけど、ジル先生もシガンシナ区から避難されたんですよね?先生こそどうして兵団に?」
「……私なりに、人類のために何ができるか考えてね。私には
我ながらフワッとしたことを言っているのは自覚している……が私の答えを聞いたエレンは瞳の炎をより一層強く燃え上がらせた。
「俺、絶対に巨人を駆逐してみせます!先生のような人が、もう二度と故郷を追われることのないように。俺が奴らを駆逐して、自由を勝ち取ってみせます!」
彼の高らかな宣言に、アルミンは苦笑し、ミカサは不満そうな顔を見せる。「また始まった」とでも言いたげな幼馴染の反応を見れば、エレンは普段からそう言い続けているのであろう。
でも私だけは、その言葉を一笑に付すことはできなかった。
「ありがとうね……なんとなくだけど、君なら出来そうな気がする。でも、死に急いじゃダメよ?目的を果たす前に力尽きたら、元も子もないもの」
口にした言葉は、そのまま自分自身に突き刺さる刃のようだ。このどうしようもない運命の流れの中で、私自身が為すべきことから目を背けないようにと、戒めるような響きが自然と籠っていた。
「はい!!」
エレンは、その時ばかりは子どもらしい元気な声で返事をした。
彼らが医務室を去った後、私は一人思案に暮れる。先ほどエレンを治療する際、さりげなく彼の首元を確認した。古びた鍵が、鈍い光を放ちながら揺れているが見えた。
(グリシャ……役目を、果たしたのね)
グリシャが息子に託した希望の象徴。それが今、確かにあの子の手に渡っている。
物語が始まる。エレンの瞳に宿る絶望的なまでの焔を思い出しながら、私はこれから始まる三年間の訓練期間と、その先に待つ地獄に思いを馳せた。
そして、この物語に異物として存在する私が一体何を為すべきなのか。その答えの出ない問いを改めて胸に刻みつけた。
◇◇◇◇
104期生の訓練が始まって数ヶ月が経った。当初はまだ甘さを色濃く残していた少年少女たちも、地獄のような訓練を経て、兵士としての心構えを獲得しつつあった。
巨人の模型を相手にした立体機動訓練、延々と続く走り込み、泥にまみれての格闘術。疲労で意識が朦朧とする中、教官の声だけが彼らを現実に引き戻す。悪夢のような日々の繰り返しは、彼らの心身を確実に、そして急速に立派な兵士へと鍛え上げていった。
そんな彼らにだって、束の間の休息がある。医務室の窓から彼らの休日を眺めるのは、私の密かな習慣になっていた。
土煙を上げて走り込むエレンの背中には、他の者とは比較にならぬ覚悟が滲んでいた。その一歩後ろを、影のようにミカサが黙々と従っていた。
兵舎の窓辺に視線を移すと、アルミンが静かに兵法学の教本に没頭している。その瞳には、やがて戦局を動かすことになる知性の光が宿り始めていた。
広場の隅では、ジャンが半ば無理やり付き合わせたであろうマルコを相手に、格闘術の訓練に汗を流す様子がよく見られた。「打倒エレン」を掲げる彼の執念は、ある意味エレン本人より熱を帯びているように見える。
それぞれが思い思いの時間を過ごしているが、彼らの根底には同じ釜の飯を食った仲間への、言葉にはできない思いが静かに流れているようだった。
そんな中クリスタは休日も相変わらずで、私と話すか、私がいない時は厩舎で馬の世話をして過ごしていた。
「同期の子と遊びに行かないの?」
一度そう尋ねたこともあるが、彼女は少し寂しそうに首を振った。
表面上は数多くの同期と仲良く振舞っているものの、心のどこかで壁を感じているのかもしれない。あるいは、生まれ育った環境が、彼女に他人との距離を保つよう仕向けているのか。
だから今度のの休日に「ミーナとサシャが市場に誘ってくれた」と、はにかみながらクリスタが出かけて行った時は自分のことのように嬉しかった。
その背中を見送った後、私は馬の
先日ニック司祭から、内地へ異動する前に一度会わないかと一通の誘いが届いた。その文面には別れの挨拶とは別に、何か別の意図がある———何となくだがそう感じてしまった。
きな臭さを感じながらも、私はその誘いを受けることにした。
トロスト区の中心にあるウォール教の教会は、他の建物とは一線を画す荘厳さで私を迎えた。壁の偉大さを表現するかのような華美な装飾が、信者たちの信仰の深さを物語っている。
「お久しぶりです、ジルケさん。本日はご足労いただきありがとうございます」
「ニック司祭こそ今までお疲れ様でした。これからは内地なんでしたっけ?」
「ええ。新設されたばかりの教会を任されまして。ウォール教の教義を、より多くの民に伝えるための重要な役目です。身が引き締まる思いですよ」
「おめでとうございます。司祭なら必ずや務まることでしょう。これ、良ければ。お疲れの時に最適ですよ」
そう言って、香草の包みを餞別として渡す。
「これはこれは……大変ありがたい。あなたのハーブティは絶品ですからね」
ヒィズルで培った薬学の知識が、こんな形で役に立つとは人生わからないものだ。
壁内では手に入らない香草も多いが、だからこそ創意工夫の余地がある。マーレにいた時は基本セラの淹れてくれたコーヒーを飲んでいただけに、その試行錯誤が思いの外楽しかった……ただ、今ではあのコーヒーの味が少しだけ恋しい。
「ジル先生!」
「先生が来てくれた!」
ニック司祭の隣を歩いていると、回廊の向こうから弾むような声が響いた。開拓地で顔見知りになった孤児の二人が、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「エヴァ、それにアダムスも!二人とも、久しぶりね」
「本当だよ!先生ったら、クリスタと一緒に兵団に行っちゃうんだもん。寂しかったんだから!」
「そうそう!先生の淹れてくれるハーブティー、また飲ませてよ!」
ウォール教から離れた私を、彼らは変わらず温かく迎え入れてくれる。口々に寂しさと期待を告げる二人の頭を、私はそっと撫でた。
「この子達も、私と共に内地へ行くんですよ」ニック司祭が穏やかな声で言った。
「そこで教義を学び、ゆくゆくは立派な聖職者として壁の偉大さを民に伝える使命を果たすことでしょう」
「あら、そうなんですか?あなたたちも新しい場所で元気でいるのよ。司祭に迷惑かけちゃダメよ?」
「うん!司祭様みたいな立派な大人になってくる!」
「先生もこっちに遊びに来てねー」
その汚れのない瞳に、私は曖昧に微笑み返すことしかできない。彼らの背中を見送りながら、司祭がどこか羨むように呟いた。
「相変わらず子どもに好かれますな」
「ニック司祭もですよ。あの子たち、司祭のことを父親のように慕っているじゃないですか」
「父親……ですか。私には過ぎた言葉です」
彼の声に滲む複雑な感情に、私は何も言えなかった。石畳の廊下に、再び二人分の足音が静かに響いた。
「ジルケさんも改宗しませんか?勝手ながら我々はあなたを家族のように思っています。いつでも歓迎しますよ」
「せっかくのお誘いですが……すみません。私は、どうしても神の存在を信じる気になれません……」
「いえいえ。お気になさらず。そう焦らずとも、神は常にともにおられます。善良なあなたならば、必ずやいつかお目覚めになるはずです」
善良、か。私は内心で自嘲の笑みを浮かべた。私が一体どれだけの人間を欺き、死に関わってきたと思っているのやら……。
「ジルケさんこそ兵団での生活はどうですか?女性には失礼ですが……その、少し逞しくなられたような」
「まあ最近、空いた時間に訓練を受けています。人類の為に汗を流す若い子達を見ていると、自分も何かしなきゃと思いまして」
「なるほど。五年前のあの日以降、物騒な世の中になりましたからね。覚えておいて損はないでしょう。それで、その……
――やはり聞いてきたか。今回の呼び出しに感じたきな臭さの正体が、ゆっくりと輪郭を現し始める。
「元気ですよ。あの小さい体で訓練をよく頑張ってますし、同期の子達とも仲良くできてます。今日だってトロスト区の市場にお出かけに行ってますから」
「そう、ですか」
「ええ……言葉はなんですが、ここにいた頃よりもずっと生き生きしてるように見えます」
「……そうでしょうな。そう思われても仕方のない仕打ちを私達はしましたから。それで、その……
ニック司祭は頑なにクリスタの名を出さない。大した危機管理能力と言うべきか。ともかく私もそれに倣った。
「……いえ?あの子はいつも通りですよ。ああ、でもちょっとした変化はありましたね」
「た、たとえば!?」
ニック司祭は慌てたように聞く。ビンゴ。やはり司祭は私を通してクリスタの近況を探っている。
同時に、私がどこまで知っているのか確かめる意図もあるに違いない。
「最近は訓練の愚痴も聞かせてくれるんですよ。以前のあの子なら、人前で『悪い子』になるのを恐れて不満を口にすることなどなかったでしょう……でも、私にはそれが喜ばしい」
「……そうですか。あの子が、そうまで心を開いてるのですか」
安堵したように胸を撫でおろした司祭……もし私が、クリスタ経由でレイス家の事情を知っていると見抜いたら、この男はどうしただろうか。
「ジルケさん、あなたは子どもの扱いがお上手だ」
「買いかぶりすぎですよ。親のいないあの子の声に、黙って耳を傾けた……ただ司祭の真似をしただけです」
その言葉を聞いた途端、ニック司祭はどこか口惜しそうに唇を噛んだ。しばらく黙考した後、彼は不意に、懺悔するように口を開いた。
「話していませんでしたが……かつて私は酒に溺れて家族を失った、ろくでなしです。その家族も壁の崩壊後どうなったのか知りません。いえ、知ろうとも思わなかった。あなたと違い、私は神に縋ることでしか生きられません」
「司祭……一体、何を?」
「だから仕方なかったんです。秘密を聞かされた時も、私にはどうすることもできなかった。無力な私ができたのはただ神に祈り、成り行きを見守ることしか……」
ニック司祭が立ち止まり、私を真っ直ぐに見据える。その瞳には深い後悔と、それを上回る恐怖の色が浮かんでいた。
今日私を呼んだ本当の理由が、今まさに語られようとしていた。
「落ち着いて聞いてください、ジルケさん。実は――」
司祭が何かを言いかけた、その時だった。
背後の回廊の闇から乾いた革靴の音が響く。一つ、また一つ。それは教会の静寂に馴染まない無遠慮さで、さながら捕食者のような足音だった。
私と司祭が同時に振り返ると、そこにはいつの間にか長身痩躯の男の影が音もなく佇んでいた。火薬と鉄錆の匂いがふわりと鼻をつく。
「――おう、ニックじゃねぇか。久しぶりだな。三年前の王都以来か?あんときの酒浸りが随分と見違えたもんだ」
「ケ、ケニー・アッカーマン……どうして、あなたがここに……?」
「つれねぇこと言ってくれるじゃねぇか。昇進したお前を祝いに、わざわざ来てやったんだぜ?ちったあ感謝して欲しいぐらいだ」
ケニーと呼ばれた男は、「このこの」と司祭の肩を無遠慮に小突く。司祭の顔には隠しようのない恐怖が、そしてケニーの顔には飄々としながらも獲物を探るような、昏い光が宿っていた。
「にしてもよォ、散歩がてらニックを探してたら、これまた綺麗な姉ちゃんと楽しそうに話してんじゃねぇか。羨ましいご身分だぜ、エエ?俺も混ぜてくれよ」
そう言ってケニーは、刃物のように鋭い視線を私に向けた。
ケニー・アッカーマン。『切り裂きケニー』の異名で王都を震撼させた連続殺人鬼にして、現在は中央第一憲兵団対人立体機動部隊の隊長。王政の汚れ仕事を一手に引き受ける影の実力者であり、原作では王政編最大の敵として描かれていた。
正直言って……壁の中で一番出会いたくない人間だ。
「……初めまして、アッカーマンさん。ジルケ・シュタイナーと申します」
「ケニーで良いぜ。で、そのシュタイナーさんとやらはさっきニックと何の話をしてたんだ?」
試されている。久しく感じていなかった、肌を刺すような死の気配。マーレで幾度となく潜り抜けてきた修羅場が、私の思考を氷のように研ぎ澄ませていく。
「――私と一緒に開拓地から訓練兵団へ移った孤児の近況を、お話ししていました。ニック司祭は、あの子のことを随分と気にかけていらっしゃいましたから」
「へぇ……ニックはなんて言っていた?」
「開拓地での扱いを深く後悔されてました」
「随分と丸くなったじゃねぇか。俺の知る限り、こいつは酒の為ならてめぇのガキに売春させるクソ野郎だぜ?」
「……過去は過去。私の知る限り、司祭はとても立派な方です。あと……私のことはジルで良いですよ。ケニーさん」
ケニーがどこまで話を聞いていたか分からない以上、嘘を下手に弄するのは得策ではない。ありのままの事実を、当たり障りなく告げた。
「……そうかい。それで、ジルケさんよォ。あんたはそのガキから何か聞かされたか?――たとえば親のこととか」
「いえ、なにも」
無知を強調するように私は柔和な笑みを浮かべる。
「あの子が話したがらないことを無理に聞くのは、私の主義ではありません。ただ――母親代わりと言ってはおこがましいですが、あの子が何も気負わず自由でいられる……そんな拠り所であれたら、とは常々思っています」
探るようなケニーの視線を私は柳に風と受け流す。
この男が人の内側を抉り出すことに慣れているのなら、こちらは十年以上その視線を受け流し、偽ることに慣れている。私はただ無害な女医を演じた。
ケニーは値踏みするような視線を私に残し、肩をすくめると「邪魔したな」と呟き、来た時と同じように音もなく廊下の闇へと消えていった。
「食えねぇ女だ」
去り際の呟きがまるで呪いのように耳の奥にこびりついた。
クリスタの秘密、ひいては壁の世界の真相を私は知っている。だからニック司祭の話を聞けずとも、これといって問題はない。
むしろ、聞かなくて良かったという思いの方が遥かに強い。
マーレで幾度も味わった、死線の上を歩く感覚。この壁の中で、まさかとびきりのモノを味わうことになるとは。安堵で抜けそうになる膝に、必死で力を込めた。
中央憲兵の動きは想像以上に早く……実態が見えない。さっきだって対応を誤っていれば私は消されていただろう。
この壁の中で世界の真実を語ることがいかに困難か、改めて突きつけられた気がした。
ニック司祭の過去について、「酒浸りで家族を失った」のは原作で明言されていますが、それ以外は本作独自の設定であることは司祭の名誉の為にも付け加えておきます。