教官室の窓ガラスを、白い結晶が叩きつけては儚く溶けていく。山間を覆う分厚い雲が空を鉛色に染め、酷い吹雪となっているのかもしれない。
常識的に考えれば、このような状況での行軍は自殺行為に等しい。だが、その常識が通用しないからこそ訓練なのだ。
敵が――巨人が、悪天候ごときでその歩みを止めることはないと、調査兵団を率いたことのある男自身が誰よりも深く知っている。
キース・シャーディスは腕を後ろに組み、その静かな光景をただ眺めていた。
冬が訪れるたび、肌を刺すような寒気と共にあの日の記憶が不意に蘇る。不思議な空気を纏った女医が、何の予告もなくこの扉を叩いた日のことを。
(あの日も、確か雪が降っていたか)
あの日の困惑を、キースは今でも鮮明に思い出せる。目の前に立つ女――ジルケ・シュタイナーは、およそ兵団とは無縁の世界で生きてきた人間だった。見るからに鍛えられていない華奢な身体つき。そして何より、兵士が叩き込まれる規律や緊張感とはかけ離れた、どこか柔らかな物腰。
彼女はウォール・マリアから逃れてきた避難民だと名乗ったが、その瞳には他の難民たちが浮かべる絶望や諦観の色はなかった。
彼女の口から淀みなく語られる言葉には、自らの医療技術に対する確かな自負と、揺るぎない説得力があった。その理路整然とした話振りだけでも、彼女が優秀な医者なのは疑いようもない。
だが、キースは眉一つ動かさなかった。
壁が壊されてからというもの、この種の人間は掃いて捨てるほど見てきた。
過酷な開拓地での生活を抜け出そうとする避難民と、なけなしの食い扶持を守ろうと必死な在来の住民。巨人から生き延びた者同士が、今度は互いの存在を脅威と見なし、水面下でいがみ合う。
ウォール・マリア奪還作戦という名の口減らし政策が実行された後も、その軋轢の火種は社会の至る所で燻り続けていた。
そんな現実を前にして、兵士として人類に心臓を捧げる覚悟もないまま(もっとも、彼女の場合は訓練を受けようにも年齢的に無理だが)「人類のために」など宣われても、キースの耳にはひどく空々しく響くだけだった。
「兵団に属する者は、有事の際に戦闘の義務を負う。技巧職や兵站部隊であろうと例外はない。その義務を果たせる見込みのない者に飯を食わせる余裕など、今の
人手不足は事実だが、素性の知れぬ者…それも兵士としての素養が無い人間を雇うほど困窮しているわけではない。
「それにウォール教の庇護下にある開拓地ならば、食うに困るほどのことはないはずだ。あんたを突き動かしているのは、本当にそんな綺麗事のためなのか?」
キースは、目の前の女の覚悟を試すように、さらに言葉を続けた。壁が壊されてからというもの、理想論ばかりを語る人間にはうんざりさせられてきた。
その場で叩き出しても良かった――だが、ジルケという女が纏うどこか超然とした雰囲気が、キースの奥底に眠る古傷を疼かせた。
この女は何かが違う。
キースは自らが凡人であることを悟っていた。かつては調査兵団の団長として、自分もまた何かを成し遂げられる特別な人間なのだと信じて疑わなかった時期もあった。
だが現実は違った。
グリシャのように人々を救う奇跡の腕を持つわけでもなければ、エルヴィンのように遥か先を見通す知性と非情な決断力を備えているわけでもない。リヴァイのように誰もが「人類最強」と認める圧倒的な実力も持ち合わせてはいなかった。
そういった特別な人間に比べれば、自分はただ無為に部下を死へと追いやっただけの、無能な指揮官に過ぎなかった。
結局キースはエルヴィンに団長の座を譲り、自ら表舞台を降りた。生きている間に調査兵団の団長が交代するのは、100年の壁の歴史の中でも前代未聞のことだった。
自分は傍観者に過ぎない。歴史を動かす者たちとこれから動かしていく者たちを、安全圏から傍観する……他人の人生を覗き見るだけの生活が始まった。
そして、目の前の女からは
この女が何を語るのか、それを確かめずにいられなかった。
ジルはしばらく黙ってキースの視線を受け止めた。やがて静かに、しかし凛とした声で彼女は口を開いた。
「……私には夢があります。何者にも代えがたい、決して諦められない夢が――その夢の為なら、心臓を捧げる覚悟はできています」
「兵士たる者、人類に心臓を捧げるべきだろう。その個人的な夢とやらが、人類の利益に繋がるとでも言うのか」
「繋げてみせます。この身を兵団に捧げることこそが、私の夢を叶え……ひいては人類全体の利益へと繋がる、唯一の道だと確信しております」
「……分からないな。あんたは本当に――心の底から、夢の為なら心臓を捧げられるというのか?」
「はい」
彼女は夢の詳細を語ろうとはしなかった。だが、その揺るぎない瞳は、歴戦の猛者であるキースをも黙らせるだけの、不思議な力を持っていた。
続けて、彼女は決定的な一言を放った。
「それに、困った時はあなたへ助けを求めるよう、グリシャ・イェーガーから勧められたことがあります」
「グ、グリシャだと!?」思わず声が上ずる。
「まさか、なぜあんたが奴の名を――」
「それほどおかしなことでしょうか?私もシガンシナ区の出身ですので。医者として、グリシャとは何度か同じ現場で働いたことがありますよ」
あいつが、
まただ。またしてもグリシャは、呪いのような夢を自分に見せようとしている。
自分を特別な人間と信じ、叶うはずもない夢を追い求めた愚かな日々。あの悪夢がまるで昨日のように生々しく蘇る。
「奴は、あんたに何を話した?」
「あなたはこの壁の中で最も勇敢であり、頼りになる人物だと……そう強く言われました」
キースはしばし瞠目した。
断ることはできたはずだ。だが、それをしたところで何になる?
「……いいだろう。あんたの夢とやらがどうなるのか、この目で見させてもらう」
どうせ自分は傍観者でしかない。それならば、せめてかつての友が託してくれたジルの夢を見届けよう。それが、キース・シャーディスが傍観者として下した一つの決断だった。
「私
訓練兵の声が響く訓練場を見回っていると、いつの間にかジルが隣に立っていることがある。医務官として採用されて以来、彼女は時折こうして、何の前触れもなくキースのそばに現れるようになった。
グリシャから自分の名を聞いたのなら、自分がかつて調査兵団の団長だったことも知っているはずだ。だが、彼女はそのことについて一切触れてこない。
なぜこの女は何も聞いてこない?俺が殊勝な気持ちで
そんなキースの心を見抜いたかのように、彼女は「傍観者」という言葉を出した。
「あの日は夢のためだと語りました。そこに嘘偽りはありません……ですが、今はあの子のそばに居てやりたい。その気持ちもまた、嘘偽りのない本心です」
あの子、とは誰を指すのか。キースはジルの視線の先を追ってみたが、大勢の訓練兵の中からその誰かを見つけ出すことはできなかった。
「シャーディス教官。お手隙の際に、対人格闘術をご教授いただけますでしょうか?可能であれば立体起動術も」
「それも夢のためか?」
「……戦わないに越したことはありません。ですが、いつか夢の為に戦わざるを得ない時が来るかもしれない。今のうちに備えておきたいのです」
「一介の医務官が付け焼刃の技術を齧ったところで、巨人相手に役に立つとは思えんがな」
「あれ?『兵団に属する者は有事の際に戦闘の義務を負う』のではなかったのでしょうか?」
ジルは悪戯っぽく笑いながら言った。
「揚げ足を取るな。それで、その訓練に意味があると――本気でそう思っているのか?」
「はい」
そう言い切る彼女の顔は、初めて部屋を訪れた時と何も変わっていなかった。
再び、現在。窓の外では雪がさらに勢いを増し、視界の全てを純白に染め上げている。雪山での夜間行軍訓練に出た全ての班が、そろそろ帰還してもおかしくない時刻だった。
訓練兵のところへ戻るか。そう思い、キースが熱い茶を一口すすった、その時だった。
バタンッ!!
凄まじい音と共に、教官室の扉が乱暴に開け放たれた。そこに立っていたアルミン・アルレルトは息を切らし、肩で激しく呼吸を繰り返している。その顔は焦燥に染まっていた。
「いきなりなんだ、アルレルト。用件を言え」
「教官!し、至急お知らせしたいことが!」
アルミンの絶叫が静まり返った兵舎に木霊した。
「調子を崩したダズとその介抱をしたクリスタが、まだ帰還しておりません!……それを聞いたジル先生が先ほどお一人でクリスタ達を探しに向かわれました!」
◇◇◇◇
降りしきる雪は音もなく世界から色彩を、そして熱を奪っていく。吐く息は瞬時に白く凍りつき、まるで世界の果てに取り残されたかのような静寂が、クリスタの耳を圧迫していた。
寒い。感覚が麻痺した指先では、そりの綱を握っているという事実すらあやふやになっていく。足は泥に囚われたように重く、一歩進むごとに熱と意識が、身体から抜け落ちていくようだった。
ぐるぐる巻きにされたダズの重みが肩に食い込む。クリスタの頭を支配するのは、骨の髄まで凍てつかせる寒さと、すぐそこまで迫る死への恐怖。そして――その恐怖の根底に隠れている、歪んだ期待だった。
(ようやく、死ねる)
死ぬのは怖い。本能が警鐘を鳴らし、手足の震えが止まらない。けれど、心のどこかで安堵している自分もいた。
やっと、この空っぽの人生から解放されるのだと。
もとより生を望まれなかった自分。母親の最期の呪詛は、今もなおクリスタという存在そのものを縛り付ける重い枷だ。
せめて、誰かの役に立って『良い人』だと思われて死にたかった。誰かから望まれる存在のまま、生を終えたかった。
このままダズを庇って凍え死ねば、その願いは叶えられるだろう……彼には本当に申し訳ない。助ける気もない癖に、己のささやかな願望の道具にしてしまうのだから。
不意に、ジルの静かな声が脳裏をよぎる。
『死に場所を探してるわけじゃないわよね?』
「……先生には、なんでもお見通しなのね」
あの人はいつもそうだ。自分でも気付かない、心の奥底に眠る本音を彼女はいともたやすく言い当ててみせる。
「私が空っぽだってこと……どうして分かるんだろう」
外の世界に出てみたい。あの開拓地を発つ時に抱き、ジルへ語った想いに嘘はなかった。
そして、出てみて分かった。外の世界は確かに楽しかった。あれほど多くの年の近い者と接する経験は新鮮で、地獄のように辛い訓練も、だからこそ同期達との間に言葉にできない絆を育んでくれた。
でも、何かが足りない。
パズルの最後の一ピースが欠けているように、クリスタの胸にはぽっかりと穴が空いていた。家族、友人、恋人……そのどれでもこの穴は埋まらない気がする。
辛うじて言葉にするなら――相棒、だろうか。互いに命を預け合っても惜しくない。何の打算もなく、互いの秘密すら打ち明けられる……そんな人がいれば、この穴は埋まるのだろうか。
自分のことなのに分からない。この胸の空洞の正体が分からないまま死ぬ。それだけが、唯一の心残りだった。
「ジル先生だったら知ってるのかな……」
自分以上に自分を理解してくれる彼女なら、あるいは――その時、風の音に混じって誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「――クリスタ!」
あり得ない。こんな猛吹雪の雪山の奥深くに、人がいるはずがない。とうとう幻聴が聴こえるまでになったのかと、クリスタは己の死期を悟った。
構うものか。一歩、また一歩。死へと続く道を踏みしめる。
だが、声は再び届いた。今度はもっと鮮明に。
そして三度目が聞こえた時、クリスタは足を止め、声のした方を振り返って叫んだ。
「誰か……誰かいるの!?」
彼女の声に応えるように、雪の向こうからぼんやりとした灯りが近付いてきた。
オレンジ色の温かい光。それが松明の火だと気づいた時には、光はもう目と鼻の先にあった。息を切らし、肩で激しく呼吸を繰り返すその主は――ジルだった。
「クリスタ!ここにいたのね!」
彼女はクリスタの姿を認めるや否や、最後の数歩を駆け寄り、その凍えきった体を力強く抱きしめた。その腕の温もりに、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れ、クリスタの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「先生……どうしてここに……?」
「ダズとあなたが戻らないって、アルミン達が知らせてくれたわ。聞いたわよ、動けなくなったダズを助けようとしたんだってね……あなたは本当に優しい子ね。でも、自分の命を危険に晒していい理由にはならないからね?」
「先生こそ無茶しないでよ!一人でこんな雪山を探しに来るなんて、自殺行為じゃない!」
「わかってる。それより、今は全員が助かることだけを考えるわよ」
再会の言葉もそこそこに、ジルは芋虫のように縮こまったダズを診る。
「低体温症ね……早く暖を取らないとまずい。急いで山を降りるわよ」
そんなの無理だ———束の間の安堵が消え去った後、クリスタを支配したのはジルまで失うことへの恐怖だった。
私なんて放っておいて。
恐怖とともに現れたのはその言葉だった。しかし言えなかった。娘のように自分を心配してくれるジルに、言ってはならないと抑え込んだ。
だが、その声にならない叫びは瞳に映ったのだろう。ジルは彼女の肩を掴み、その青い瞳で真っ直ぐに見つめてくる。
「クリスタ――あなた、自分だけ死ぬつもりでしょう?」
やはり、この人には何でもお見通しだ。クリスタは乾いた笑みを浮かべる。
てっきり平手打ちの一つでも飛んでくると覚悟していた。『良い子』でいられなかった時、期待を裏切った時、罰が与えられるのは当然のことだったから。ジルの期待を裏切った今、当然その手が振り上げられるのだとそう思った。
だが、ジルは怒らなかった。その瞳には、怒りよりも深い悲しみが宿っていた。
「あなたを叱る資格なんてないわ。私だってずっと……いつも死に場所を探し続けていたから」
「先生も……?」
「ええ。自分なんて居なければこんなことにならなかったのに……なんて何度思ったか分からない。嘘もいっぱい吐いてきた。でも、壁が壊されたあの日……私はたまたま生き返ることができた——いいえ、生き返ってしまったのよ」
「生き返った……?」
「嘘みたいに聞こえるかもしれないけど……その時はね、また生き続ければいけないのかと絶望したわ。でも、こうも思った。今度こそ、命を懸けて自分の望む通りに生きてみようって」
「……私には、やりたいことなんてないよ」
クリスタがぽつりと呟く。
「さっき死を覚悟した時も、思い残すことなんて
「人は変わるものよ。私だって、最初から命を懸けるほどの望みがあったわけじゃないわ。あなたも、いつか分かる日が来る」
「あんまり想像できないけど」
「そういうあなただって、あの日生まれ変わったはずでしょう?そうじゃない?――ヒストリア」
壁が壊されたあの日、母親が殺されたあの現場で、過去と共に捨てたはずの名前。誰にも話したことがないそれを、なぜ彼女が。クリスタ・レンズ――ヒストリア・レイスは、怯えたように後ずさった。
「あなたは……一体……」
悪い予感が背筋を走る。ヒストリアは上擦った声で尋ねた。
「まさか、あなたが私に構うのは……私がレイス家の人間だから……?」
ジルは言い淀む。その反応に、ヒストリアの心に燃え上がるような激情が込み上げた。失望と、裏切られたような悲しみで視界が滲む。
「……やっぱりそうなんだ!あなたも他の人たちと一緒なんだ!『クリスタ』じゃなくて、私の家が大事なだけなんでしょう!?もう放っておいてよ!」
「……そうね。あなたがそう思うのも無理はないわ」
ジルは一度、痛みに耐えるように目を伏せる。そして、再びヒストリアに向き直った時その瞳には深い悲しみと、どこか自分自身を省みるような色が浮かんでいた。
「ジルケ・シュタイナー。本当の自分を隠すための、偽りの名前よ……あなたと同じ。私も、本当の名前を捨てて生きている」
「私と同じ……?」
「そうよ。最初は同じ境遇のあなたを、特別な目で見ていたのは事実よ。でも今は違う。ヒストリア、あなたの事は心から大切に思っているわ」
「っ!適当なこと言わないでよ!今まで騙してたことに変わりないじゃない!いい加減……母親面はやめて!」
言って、気付く。娘を亡くした彼女に、自分がどれほど残酷な言葉を投げつけたのかを。
だが、ジルは意に介さず、蒼褪めたヒストリアを静かに見据えた。
「気にしないで。あなたと娘を勝手に重ねて、母親面していたのは事実だから。でも……母親になれなかった私だからこそ、あなたに伝えられることがある。あなたを空っぽのまま死なせたくない」
するとジルは悪戯っぽく笑って続けた。
「いつか私の秘密も全部話してあげる。過去も、本当の名前も全て。どう?気になって、死ぬに死ねないんじゃない?」
その言葉に、ヒストリアの激情は不思議と霧散していた。代わりに、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。
この人が何を考えているのか、自分には全く分からない。さっき語ってくれた言葉だって半分も理解できていない。
でも、一つだけはっきりしていることがある。
(この人は私の味方だ。この世界でたった一人、本当の私を分かってくれる人だ)
そう思った瞬間、それすらも見抜いたようにジルが言った。
「言っておくけどね、ヒストリア。私がたった一人の理解者だなんて、そんな悲しいこと思わないで。いくらでも増やしていけばいいのよ。104期の同期でも、これから出会う人たちでも。あなたが思っているより、外の世界は広いんだから」
その言葉は凍てついたヒストリアの心を、ゆっくりと溶かしていくように染み込んでいった。
「先生の秘密、ちゃんと聞かせてもらうからね。その時まで死んであげない」
「でも……」とヒストリアは現実へと意識を戻す。ジルと秘密を語り合うまで死にたくない。ただ、状況は依然として絶望的なままだ。
「まずここから生きて帰らないと……ダズをここに置いては行けないし、かと言って先生と私だけじゃ……」
「方法は一つだけある」
ジルはきっぱりと言った。その瞳には、揺るぎない覚悟の光が宿っている。
「ヒストリア、あなたはこのまま一人で麓まで降りなさい。あとは私が何とかするから」
「む、無理だよ!先生一人でダズを運ぶなんて絶対にできない!私も手伝う!」
「大丈夫……私ならなんとかなる。だからあなたはこのまま真っ直ぐ進みなさい。絶対に振り向いちゃダメよ?」
「先生こそ死のうとしないでよ!一人はもう嫌なの……お願いだから私を一人にしないでよ!」
「安心なさい。死ぬつもりなんて毛頭もないわ」
「で、でも……!」
「ヒストリア」
ジルは再度、彼女の本当の名を呼んだ。その声は有無を言わせぬ響きを帯びていた。困惑が一瞬心をよぎったが、彼女の瞳を見ているとその言葉を信じられた。
「――わかった。降りたら同期の皆とすぐに迎えに行くから、先生はそれまで待ってて!」
「ありがとうね。でも、ヒストリアより先に着いてると思うから心配いらないわよ?」
「もう、こんな時に冗談言わないでよ!そんな魔法、あるわけないのに」
「こう見えて昔は『女神』だの『魔女』だの呼ばれたものよ。魔法の一つや二つ、どうってことないわ」
「絶対嘘だ!!」
「嘘吐きはお互い様じゃない」
ジルは頑なに一人で大丈夫だと言い張った。何か策があるのだろう。ヒストリアは呆れたように頷くと、一人麓を目指して歩き始めた。
何度も、何度も振り向きたい衝動に駆られた。しかしその度に彼女との約束を思い出し、雷鳴のような轟音が背後で鳴り響いた時でさえ、必死に前だけを見据えた。
雪山を降り切り、訓練所の灯りが見えてくる頃には、吹雪は嘘のように止んでいた。
同期たちが心配そうに駆け寄ってくる。その中に、当たり前のように佇むジルの姿を見つけた時、ヒストリアは我が目を疑った。
「クリスタ、無事でしたか!」
「本当に良かった……皆心配してたんだよ?」
サシャとミーナが駆け寄ってくる。事情を聴けば、つい先ほどジルが一人でダズをここまで運んできたという。
「いやー、ジル先生って思ったより体力ありますよね!」
「ね。見た目ヒョロいのに」
「休みの日に教官と訓練してるところをよく見かけますが、その賜物なんですかね?」
「いーや、あれは絶対訓練を口実にしてるだけよ!教官も隅に置けないよね、あんなナリしてしれっと美人ゲットしちゃうんだもん!」
「うわー、だとしたら先生って男見る目無いですねー」
二人の言葉がどこか遠くに聞こえる。憶測と噂の入り混じったゴシップを楽しむ二人に構うことなく、ヒストリアは息を切らした様子もないジルの姿をただ見つめていた。
彼女の元へ駆け寄り、深く頭を下げる。
「先生……さっきは酷いこと言ってごめんなさい」
「いいのよ、
ジルはそう言って、優しく微笑んだ。
自分より後に出発したはずなのに、この人の方が早く、しかも人間一人を抱えて雪山を下山した。一体どうやって?
「さ、それじゃあお茶でも入れましょう」
『魔女』。彼女が口にした言葉がやけに腑に落ちた。「生き返る」ことができたと彼女は語っていたが、この人は本当に死から蘇ったのかもしれない。
(本当に不思議な人だ)
でも、彼女ならいつか———この日の真相を、本当の名前を教えてくれるだろう。彼女が秘密を話してくれるその日まで生きてみせる。
そして、そんな不思議な人が差し伸べてくれた手を、今度こそ離したくない。ヒストリアの心に、確かな熱が灯っていくのを感じた。
クリスタがまだ自らの名前と運命を受け入れていないため、当面の間は視点や状況に応じて「クリスタ」と「ヒストリア」の呼称を使い分ける予定です。
混乱することもあるかと思いますが、ご理解いただけますと幸いです