エレンの妻です   作:ホワイト3

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次話で訓練兵団編終わります。


22:兵士と戦士

「今日はここまでだ!くれぐれも本業に支障をきたさぬよう休め!」

 

 腹の底から絞り出すような教官の怒声が、無人の訓練場に響き渡る。その言葉が、張り詰めていた意識の糸を無慈悲に断ち切った。

 

「は……はいぃ……」

 

 絞り出した返事は情けなく掠れ、土埃にまみれた私はその場に崩れ落ちた。去り行く教官の背中に敬礼を返す力さえ残っていない。

 肺が焼け付くように熱く、心臓が肋骨を内側から砕かんばかりに鼓動を打つ。全身から噴き出した汗が乾いた土と混じり合い、不快な泥となって肌に張り付いていた。

 

 本業の合間を縫って行われる、たった一人の地獄が始まって半年が過ぎた。

 

 当初は基礎的な体力作りから始まったのが、今となっては遠い昔のようだ。あの段階ですら何度もギブアップ寸前だったというのに、今では対人格闘術、そして立体機動を用いた実践的な訓練へと移行している。振り下ろされる木剣を前に、あるいは高速で飛び回る景色の中で、私は肉体的な「死」を幾度となく幻視させられた。

 

 中でも立体機動の訓練は狂気の沙汰としか思えなかった。ロープに吊るされるだけの姿勢制御では「センスがある」と評価され、内心鼻を高くした時期もあったが、いざガスを噴かして宙を舞うと、地上での訓練とは全くの別物だった。

 全身の筋肉が断末魔の叫びを上げ、僅かな操作ミスが激突や落下という現実の死に直結する。その恐怖が絶えず思考を蝕んでいく。

 

 この身に宿した巨人の再生能力がなければ、とっくに心が折れていただろう。並の人間なら再起不能になりかねない失敗も、私にとっては許容範囲内のリスクに変わる。まあ、そんな不自然な治癒をすればライナー達に怪しまれるのは必至であり、あくまで精神的なお守りに過ぎないのだが。

 

 この訓練の目標(表向き)は民間人の避難誘導や、巨人に対する囮として最低限動けるようになること。剣を取り、巨人のうなじを削ぐなどという超人の領域は目指していない。

 ……本当にそこまでで良かった。今の私には、ブレードを振るう兵士達が同じ人間とは思えなかった。初めに抱いた僅かなプライドなど、とうの昔に木っ端微塵に砕け散っている。

 

(ヒストリアは、これに耐えているのか)

 

 私はまだ、彼女を守るべきか弱い存在だと、どこかで驕っていたのかもしれない。

 違う。あの子はもう、とっくに私など及ばぬほど立派な兵士なのだ。

 

 ただ、それでも。幾度となく地面に叩きつけられた末、ほんの束の間だけ意のままに空を駆けることができた瞬間の浮遊感は、筆舌に尽くしがたい。この翼を知れただけでも、自ら地獄を志願した甲斐はあったのかもしれない(もちろん、後悔が九割を占めていることに変わりはないが)

 

「ジル先生、お水いりますか?」

 

 うなだれる私の頭上から、鈴を転がすような声が降ってきた。見上げると、アルミンが眉を下げ、心配そうに私を見下ろしている。差し出された水筒を震える手でありがたく受け取った。

 

「ありがとう……アルミン。あなた、本当にこんな訓練に耐えてるの……?私、割と体力には自信があった方なんだけど、こんなの毎日続けてたら死んじゃうわ……」

 

「は、はぁ。もちろんしんどいですけど……なんとか。先生もあまりご無理はなさらないでくださいね」

 

 乾ききった喉に流し込んだ水が、命の水となって身体の隅々まで染み渡っていく。

 

「……もっと運動しとけば良かったな」

 

 とは言ってみるもののマーレでの日々を振り返ると、医師としての激務、革命軍としての諜報任務の記憶ばかり。常に何かに追われ、心をすり減らすばかりで己の肉体を顧みる暇など片時もなかった。

 

 私のあまりの消耗ぶりに、アルミンはさらに憂いを深めた。

 

「医務室まで戻れますか?肩、お貸しますよ?」

 

「……大丈夫」

 

 その優しい申し出に、天邪鬼な感情が湧き上がる。ここで年若い少年に縋っては、なけなしの矜持まで失ってしまう気がした。

 私はゆっくりと、だが自分の力だけで立ち上がる。その瞬間、汗ばんだ肌を撫でる風が妙に心地よかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 訓練を終えた私は兵舎の風呂場で汗と泥を流した後、医務室の自室へと戻った。湯を沸かし、先日市場で手に入れた香草をポットで蒸らす。立ち上る柔らかな香りが、疲弊した身体の芯をゆっくりと解きほぐしていく。

 

「はい、アルミンの分」

 

 こくりと音を立ててカップを置くと、向かいに座っていたアルミンがぱっと顔を上げた。

 

「わざわざすみません、ありがとうございます」

 

「いいのよ。それで、今日も図書館に?」

 

「はい。実は新しい兵法学の専門書が入荷したんです。過去の会戦における兵站の重要性について論じたもので、すごく興味深くて……」

 

 読書家である彼とは、時折こうしてお茶を飲みながら言葉を交わす。兵団の図書館を同じように利用する私と、最近読んだ書物について語り合うのが、彼にとってささやかな楽しみになっているようだった。

 

「ジル先生は歴史書ばかりお読みになりますよね。お好きなんですか?」

 

 壁内の歴史を知り、余計なボロを出さないため――それが真の目的だが、無論そんなことを告げるはずもない。

 

「教養を身に着けるのが一番の目的だけど、まあ好きよ。過去の人々の営みが、私たちのいる今にどう繋がっていくのかを知るのは面白いと思わない?」

 

 当たり障りのない返事をすると、アルミンの表情からふっと明るさが消え、その視線が手元のカップに落とされた。

 

「……僕はあまり好きじゃありません。王政が発行する歴史書は政府の都合の良い部分だけを切り取って作られている。あのふざけた政策の犠牲者ですら、彼らの手に掛かれば『人類の未来を拓いた英雄』にされてしまう」

 

「ふざけた政策?」

 

「『ウォール・マリア奪還作戦』です」

 

 吐き捨てる、というよりは呪詛に近い。そんな憎悪の滲む声だった。

 

「巨人に奪われた領土を取り戻すという大義名分のもと、人口の二割が失われました……もちろん壁の陥落で生まれた大量の難民をどうにかする必要があった。だから仕方なかったとでも言いたいんでしょう。でもあれを『必要な死』だったなんて、僕には到底……!」

 

 そうだ、思い出した。アルミンが開拓地に残らず兵士になる道を選んだのは、この作戦を強行した現状を黙って見過ごせなかったからだ。

 

「……ご家族を亡くしたのね?」

 

「はい。あの作戦で祖父を。あの……つかぬ事をお伺いしますが、ジル先生はどうやって徴兵を免れたんですか?」

 

「たまたまよ。王政と繋がりの深い、ウォール教が管理する開拓地に身を寄せていたから。運が良かった。ただそれだけよ」

 

 しばしの沈黙が、ハーブの香りが漂う部屋に落ちる。

 

「ねぇ。アルミンが本を書いてみるのはどう?」

 

「ぼ、僕がですか?」

 

「単なる思い付きだけどね。あなたが何を見て、どう感じたのか。為政者が語る英雄譚じゃない、当事者の視点から見た真実をあなた自身の言葉で後世に残すのもいいんじゃないかしら?」

 

 もちろん憲兵には内緒でね。悪戯っぽく人差し指を口元に当ててみせると、彼の戸惑っていた瞳にやがて確かな光が灯った。

 

「……考えたこともなかったな。でも、すごく面白そうです。もし書いたらジル先生は読んでくれますか?」

 

「もちろんよ」

 

 アルミンはしばらく黙り込んでいたが、やがてぽつりと、しかし確かな熱を帯びた声で語り始めた。

 

「僕には夢があります。いつか壁の外に出て世界を探検するという、幼い頃からの夢が」

 

 彼の瞳から先程までの寂寥とした光が嘘のように消え、未知への憧憬が星のように瞬いていた。

 

「先生は海を知っていますか?」

 

「……ウミ?いいえ、何かしら?」

 

「この世界の大半を覆っている水のことです。商人が一生かかっても取り尽くせないほど大きな塩の湖が壁の外にはあるそうなんです……海だけじゃない。炎の水、氷の大地、砂の雪原。僕達の知らない世界がそこには広がっているんです」

 

 憲兵には内緒ですよ、と彼は私の仕草を真似て悪戯っぽく笑った。

 

「全ては祖父が隠し持っていた一冊の本がきっかけでした。壁外の世界のことがただ淡々と事実として綴られているだけの本です。読む人によっては荒唐無稽な御伽噺かもしれません。でも、王政の歴史書のような誰かの意図は感じなかった……変な言い方ですけど、その本には『自由』が書かれていました」

 

「その本は今も?」

 

「いいえ。あの日の混乱で、今はもう持っていません。ただ、ジル先生の話を聞いて思いました。僕はあの本を書き直してみたい。もちろん、そっくりそのまま復元するわけじゃありません」

 

 アルミンはまっすぐ私を見据えて言った。

 

「いつか僕が自分の足で外の世界を探検して、そこで見たものを僕の言葉で本にしてみたい。後世の子ども達が、僕と同じ気持ちを味わえるように」

 

「――エレンに外の世界を教えたように、ね」

 

「あれ、ご存知でしたか?エレンから聞きました?」

 

 思わず口をついて出た言葉に、アルミンがきょとんとした顔をする。しまったと内心で舌打ちしたが、彼はさして気にした様子もなく話を続けた。

 

「ええと、つまり何が言いたいかっていうと……僕の書いた冒険譚を、ジル先生に一番に読んでもらいたいんです。あ、もちろん歴史書の方も書きますから!」

 

「ふふ、ええ。楽しみにしてるわ。傑作を期待してるわよ、未来の大作家さん」

 

 そう言って私は残っていたハーブティーを飲み干した。

 

「先生は僕の夢を笑わないんですね」

 

「当たり前でしょう。若者は壮大な夢を持つべきよ」

 

「……エレンの時もそうでした。先生は僕やエレンがどれだけ大言壮語を吐いても、それを笑い話にせず、ちゃんと受け止めてくれる。まるで、本当に叶ってもおかしくないみたいに」

 

 アルミンの澄んだ瞳が、わずかに潤んでいるように見えた。

 

「初めてです。エレンやミカサ以外で、僕の思いを、否定されなかったのは」

 

 壁外の出身である私は忘れがちだが、この閉ざされた世界では、外を夢見ること自体が「奇行」なのだ。夢のために命を懸ける変人だと、嘲笑されるのが常なのだ。彼のこれまでが、その一言に凝縮されていた。

 

 目の前の少年が抱く、純粋であまりにも壮大な夢。それがやがて、この残酷な世界を動かす巨大な歯車の一つになることを、今はまだ彼自身も知らない。

 

「あなた達ならできる。そう信じてるだけよ」

 

 私はただそう呟いて、窓の外に広がる夕闇に目をやった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

『あんた達が友達と遊び疲れてぐっすり眠る頃、私は王都のドブの中を這い回った』

 

 昨晩アニ・レオンハートが吐き捨てた言葉が、頭蓋骨の内側で冷たく反響する。あの瞳に宿っていたのは諦観と、凍てつくような疲労の色だった。

 ――そうだ。俺たちは兵士じゃない。戦士だ。この悪魔の島を滅ぼし、世界に平和をもたらす使命を背負った英雄なのだ。

 

 ウォール・ローゼを破壊する。もう決めたことだ。

 だというのに、ライナーの心の靄は晴れるどころか、日ごとにその濃度を増していく。この壁の内での暮らしが、自分の中に棲む「兵士」を肥大させていくようだった。

 

 ライナー・ブラウンは、訓練場の乾いた土を踏みしめ、鈍色の空を仰いだ。故郷を発った三年前のあの日は、ただ純粋な使命感だけがあった。

 

 エルディア人の名誉を取り戻し、世界に認められる英雄になる。そうすれば、マーレで待つ母も、きっと誇りに思ってくれるはずだと。

 

 だが三年という歳月は、彼の心を静かに、しかし確実に蝕んでいた。

 便所に入るなりどっちを出しに来たのか忘れる馬鹿、自分の事しか考えねぇ不真面目な奴、人の事ばっかり考えてるクソ真面目な奴、突っ張るしか頭にない奴に何があってもついて行く奴ら。

 

(ここには色んな奴らがいる)

 

 彼らと同じ釜の飯を食い、汗を流し、時には背中を預け合う日々。その一つ一つが、ライナーの中で「兵士」という人格を育て上げていた。

 

 兄貴分として頼られることに、心地よさを感じてしまう。彼らとの時間に救われている自分がいる……その全てが、罪悪感という鋭い刃となって戦士の心を抉っていく。

 

「うおおおおっ!」

 

 獣のような叫び声が、思考を現実へと引き戻した。視線の先では、エレン・イェーガーが立体機動の操作を誤り、大樹の枝にワイヤーを絡ませたまま、きりもみ回転しながら落下してくる。

 

 間に合うか――思考より先に、身体が動いていた。

 ライナーはアンカーを幹に突き立て、ガスを噴射する。地面すれすれでエレンの身体を屈強な腕で抱きとめたが、勢いを殺しきれずにもつれ合うように地面へ叩きつけられた。骨が軋むような鈍い衝撃が全身を襲った。

 

「大丈夫!?エレン、ライナー!!」

 

 樹上から舞い降りるように、クリスタが駆け寄ってくる。その小さな身体から発せられる声には、隠しようのない心配の色が浮かんでいた。

 

「すまねぇライナー、ガスをふかしすぎた――ってお前、腕が!!」

 

 地面に打ちつけられたライナーの右腕を指差す。言われて初めて気付いた。受け身を取り損ねた手首が赤黒く腫れ上がっていた。

 骨まで達しているかもしれないほどの傷。しかし、この程度の痛みで彼の心が揺らぐことはない。心に負ったソレに比べれば掠り傷に等しかった。

 

「ああ、少し捻っただけだ。こんなの唾つけときゃ治る」

 

「擦り傷みたいに言うんじゃねぇ!下手すりゃ骨までイカれてるかもしれねぇだろ!早く医務室に行くぞ!」

 

「そうだよ!ジル先生に見てもらお?」

 

 医務室、か――。その言葉にライナーは一瞬躊躇した。あの部屋の主が、彼は少し苦手だった。

 なによりこれしきの怪我で泣き言を言ったら、故郷の上官に呆れられるに違いない。

 

「大げさだ。このくらい平気だと言ってるだろ」  

 

「てめぇ、この大事な時期に腕の一本も使えなくなったらどうすんだよ!」

 

 頑として拒否するライナー。戦士としての意地が彼の中にあった。

 しかしその鎧のような覚悟も、女神の前では意味をなさない。

 

「ライナー……私もついていく。だから一緒に行こ?ねっ?」

 

 クリスタの声は小さかったが、不思議とまっすぐ響いた。彼女は涙目のまま、壊れ物を扱うかのようにそっとライナーの兵服の袖を指先でつまむ。

 その瞬間、彼の中の理屈や誇りはすべて霧散した。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

「ジル先生!ライナーは……ライナーはどうなんですか!」

 

 エレンはまるで自分のことのように焦燥を滲ませた声で叫ぶ。

 

「落ち着いて、イェーガー君……見た目ほど酷くはないわよ。数日は利き手が使えなくて難儀かもしれないけど、安静にしていればきちんと治るから」

 

 ジルケの穏やかな声が医務室の緊迫した空気を和らげる。その声色に安堵したのか、エレンとクリスタはあからさまに肩の力を抜いた。特にエレンは訓練成績が決まるこの大事な時期に、自分のせいでライナーに迷惑をかけてしまうのではないかと本気で心配していたようだった。

 

「だから大丈夫っつたろ。それより、エレン。お前はもう焦るんじゃねぇぞ?あんな訓練をしてたら命がいくつあっても足りねぇよ」

 

「……わかってるよ。けど……俺だって、お前やミカサみたいになりてぇんだ。このままじゃ俺は何も果たせねぇまま、終わっちまう」

 

「――前も言ったろ?ただ、進み続ける。それしかねぇだろ」

 

 幼き日の己の姿がフラッシュバックのように現れる。地べたを這いつくばりながらも、戦士を目指したあの日々を。

 

「巨人を一匹残らず駆逐するんだろ?お前ならやれる」

 

「あ、ああ!本当……お前には助けてもらってばかりだよ、ライナー。この借りは必ず返す。お前が巨人とやり合う時は、俺も一緒に戦うからな!」

 

「なんで俺が調査兵団に入る前提なんだよ……ま、そういってくれるなら今日の夕飯、お前のパンをよこせよ?」

 

「おう!じゃあ俺、教官に報告してくる!」

 

 そう言ってエレンは嵐のように医務室を飛び出していく。残された部屋にその無鉄砲さに呆れたような、それでいて温かい空気が漂った。

 

「あいつ、この前もワイヤーに絡まって死にかけたの忘れたみてぇだな……」

 

 ライナーが包帯を巻かれながら苦笑交じりに呟くと、「仕方ないよ、エレンだもん」とクリスタが柔らかな声で相槌を打った。

 

 その短いやり取りが、104期におけるエレンの立ち位置を雄弁に物語っていた。危なっかしくて目が離せず、それでも誰もが放っておけない――そんな不思議な求心力。

 

 どこか弟のような世話のかかるエレンを見ていると、ライナーはいつの間にか兄貴面をしてしまっている自分に気付いた。

 

 胸が鈍く疼く。エレンに巨人への憎悪を燃え上がらせるきっかけを作ったのは、他ならぬ自分だというのに。

 

 俺は何を考えている。ウォール・マリアを破壊し、これからウォール・ローゼをも破壊しようとしている俺が。

 

 そんな俺が彼を励まして何になる?

 

(壁の中がこんな場所だと知っていたら、俺は……)

 

 思考の渦に沈みかけた意識を、ジルの柔らかな声が引き戻した。

 

「痛かったら言ってね」

 

 故郷の海のように青い瞳がライナーを真っ直ぐに捉える。クリスタも似た瞳を持つが、この医務官のそれは違う。

 故郷に残してきた少女と、そして母が語ってくれた女性の瞳と、酷く似た色をしていた。

 

 それに加えてシュタイナーという苗字――これもあの少女と同じだった。偶然にしては奇妙な一致だ。

 

 極めつけは、かつて母が語ってくれた英雄譚だ。

 

 ライナーが生まれる少し前、『白衣の女神』としてマーレで知られた女医がいた。戦場ではエルディア人の為に自ら粉にして献身し、現在世界各国で利用されている血液検査法の土台を作ったという偉人。若い世代の認知度は皆無に等しいが、母以上の世代のエルディア人は懐かしさと共にその名を記憶していた。

 

 母はかつて、その女医と出会ったことがあるという。軍を脱走した恥知らずの兄を十年以上気に病み、わざわざ会いに来てくれたのだと。あんな大層な方が、私たちのような者にまで心を砕いてくださるなんて、と涙ながらに語っていた。

 

 その女医の名は――ジルケ・クルーガー。

 

(あり得ないのは承知の上だ……だがあまりにも――)

 

 否が応でも故郷のことを……自分が「戦士」であることを思い出させるジルの存在が彼は苦手だった。

 

「ライナー?」

 

「え、ああ……大丈夫です」

 

「そう?無理しないでね?」

 

 ライナーの葛藤など意に介さず、ジルは手際よく治療を進める。そのしなやかな指の動きを、彼はただ黙って見つめていた。

 傍らでは、クリスタがジルの腕に自然と寄り添っていた。開拓地時代からの付き合いだという二人は、まるで本当の親子のように見えた。

 

(親子、か……)

 

 以前、訓練所の周りをうろつく不審な人間をアニが見つけ、後をつけたことがあった。アニ曰く、クリスタを監視していたのは壁の中の秘密を知るウォール教の信者だった。

 

 もしかしたら、クリスタは自分たちが探し求める王家と何か関わりがあるのかもしれない。

 

 ジルとクリスタ。二人が何を知っているかは分からないが、目を配っておく必要がある。早く任務を終わらせ、故郷に帰る為にも。

 

「よし、終わり。しばらく訓練はお休みね。教官には私からも言っておくわ。クリスタもそろそろ行く?」

 

「うん。そうしようかな……あ、ずっと気になってたんだけどさ。先生ってどうしてエレンのことだけ苗字で呼ぶの?」

 

 クリスタの何気ない問いに、ジルの手がほんの一瞬だけ止まった。

 

「……死んだ夫と同じ名前なの」

 

「あ、そうなんだ……ごめんなさい」

 

「謝らなくていいわよ。もう――五年も前のことだから」

 

 横顔に浮いた微笑みは薄氷のように儚く、光を受けてたやすく砕けそうだった。ジルの視線が一瞬ライナーへ向いたが、罪の重さに囚われた彼がそれを気に留めることはなかった。

 

 扉が背中で閉まり、夕暮れが兵舎の廊下に長い影を落とす。訓練を終えた同期の笑い声が遠くで弾け、どこかの窓が風にきしんだ。

 

(死んだ夫。五年前……)

 

 五年前。それはウォール・マリアが破壊された年だ。彼女の家族もあの混乱に呑まれたのだろう。自分たちが引き起こした、あの地獄の中で。

 

 まただ。また、俺は奪った。名も知らぬ誰かの大切なものを。この壁の中にいる人間たちのささやかな日常を。その事実が、ずしりと重い鉛となってライナーの全身にのしかかる。

 

 ふと、屈強な肩を掴まれた。振り返ると、ベルトルト・フーバーが不安げに立っていた。

 

「ライナー、平気かい?」

 

「ああ……数日は安静にしてろだとよ。ったく、大事な時期だってのによ。エレンの野郎にはパンを貰うことで手打ちにしてやったが、絶対に割に合わねぇな」

 

「そうか……それで今の君はどっちだ?兵士なのか、それとも———」

 

「安心しろ、ベルトルト。俺は誇り高き戦士だ」

 

 ライナーの言葉を聞いても、ベルトルトの表情から疑惑の色は消えなかった

 

「そうであることを心から願うよ……それで、あの医者に()はバレたりしなかったかい?何か怪しまれたり、勘付かれたりした様子は?」

 

 声を潜めて聞くベルトルト。「問題ない」とだけライナーは答えた。

 

 短い問答の後、沈黙が落ちる。ベルトルトは視線を落とし、ためらうように口を開いた。

 

「……どうして身の危険を犯してまでエレンを助けたんだ。ライナー、僕らは兵士じゃない。戦士だろ」

 

「分かってる。島の悪魔共に情なんて移っちゃいねぇよ」

 

 ライナーは虚空を見つめながら言う。まるで自分に言い聞かせるように。

 

「俺は選ばれし戦士だ。皆をこの呪われた運命から解放するためなら、俺は進み続ける」

 

 丁寧に巻かれた包帯を、自らの決意を固めるように力強く引き裂く。赤黒い腫れの上から淡い蒸気が立ち上り、ゴキゴキと骨が噛み合う音が内側から響いた。瞬く間に手首は元どおりになった。

 

「アニにも伝えてくれ」

 

 完全に回復した拳を固く握りしめた。

 

「ウォール・ローゼは解散式の翌日に破壊する……やるぞ。俺は故郷に戻る——母さんやあいつに会いに行く」

 

 その力強い宣言をベルトルトは———どこか現実からずれ始めている友の異様さを悟ったように———不安げな眼差しで見つめていた。




ライ虐楽しい
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