轟音と共にトロスト区の日常は終わりを告げた。
地を揺るがす衝撃と街の至るところから立ち上る黒煙。恐怖で顔を引きつらせる兵士達の顔を横目に、アニ・レオンハートはただつまらなそうに眉をひそめていた。
立体機動装置のガスボンベを点検し、硬質ブレードの感触を確かめる。その指先に、焦りや恐怖の色は欠片もなかった。
(……どうでもいい)
この世界にさして意味などない。何もかもが等しく無価値だ。今更人命を重んじるつもりはないし、自分にその資格がないことも分かっている。
それでも考えてしまう。これ以外に道はなかったのだろうか、と。
故郷を離れて五年。壁の中での暮らしは、アニが想像していたよりも悪くなかった。壁の中にいるのは悪魔だと、そう教えられてきた。だが実際にいたのは……自分たちと変わらないただの人間だった。
彼らと過ごした三年間は茶番のはずだった。戦士としての正体を隠し、兵士の役を演じ続ける日々。その中で芽生えかけた仲間意識という生温かい感情を、アニは戦士の使命という冷たい刃で何度も切り捨ててきた。
(故郷で待つ父親に会うためなら自分は何だってやる)
罪悪感がないわけではない。だが、止めるつもりは毛頭なかった。
「おいおい、なんだよこれ!巨人共がこんなにも……!」
同期の声に思考を中断される。外壁の穴から巨人が次々と雪崩れ込んでくるのが見えた。その数は想像以上だった。
この中衛区画にまでこれほどの数が到達しているということは、前衛はとうに突破されたのだろう。後々『女型の巨人』の力で無垢の巨人を引き寄せる手間が省けそうだと、そんな場違いなことを考えてしまう。
その時だった。
「――クリスタ!」
誰かの悲鳴が耳を打つ。視線を向けると、同班のクリスタ・レンズが瓦礫に足を取られ、その小さな身体に巨人の影が覆いかぶさっていた。醜悪に歪んだ口が、まるで熟れた果実を喰らうかのように開かれる。
チッ、と無意識に舌打ちが漏れた。脇目も振らずにアンカーを巨人の胴体に突き刺し、ガスを噴射する。宙を舞いながらブレードを抜き放ち、回転の勢いを乗せて肉を削いだ。熱い返り血が頬を濡らす感覚も今はどうでもよかった。
巨人が崩れ落ちるのと、恐怖に腰を抜かしたクリスタの前に着地するのはほぼ同時だった。
「あ、ありがとう……アニ!」
「……どうも」
涙で潤んだ瞳で少女が感謝の言葉を口にする。アニは手短に返し、ブレードを交換しながら周囲を警戒した。
この少女は死なせない。ようやく見つけた『壁の王』への手掛かりだ。故郷への手土産として彼女は必要なのだ。
だが、それにしてもクリスタという少女は危なっかしすぎる。
訓練兵時代、彼女とまともに話した記憶はほとんどない。いつも輪の中心で誰かのために微笑んでいるような女。自分とは住む世界が違うと、そう思っていた。
そしてその印象は間違っていなかった。自分の命を顧みず、他者を助けようとする博愛精神は人々から称賛されるのかもしれないが、絶望的な環境を生き抜くには不向きな性分だ。
自分のように庇護する人間が側にいなければ彼女はとっくに死んでいただろう。そんな予感がする。
カンカンカン!
撤退命令の鐘がトロスト区の空気を震わせた。「ようやくか」とアニの班員達が安堵の息を漏らす。しかし、壁の上まで退くには腰に括り付けたガスの残量があまりに心許なかった。一度、本部へ補給に戻る必要がある。
本部へ向かう最短経路を、立体機動のアンカーが鋭い軌道を描いて空に突き刺さる。アニは屋根に着地する衝撃を膝で殺し、再び跳躍した。
その一連の動作の合間、隣を飛んでいたクリスタが不意に話しかけてきた。
「さっきはありがとう。アニにまた助けられたわ」
「別に」
アニは前方の煙を見据えたまま素っ気なく返す。
「それより他人のことばかり気にかけてるんじゃないよ。さっきだって動けなくなった奴を助けようとしたんでしょ?今は自分の命を守ることだけに専念しな」
クリスタの表情がわずかに陰る。強風が彼女の金色の髪をなぶった。
「……アニの言う通りだよ。まだ私は誰かのために死のうとしてるのかもしれない。難しいな……先生の秘密を知るまで死なないって決めたのに、どうしても身体が先に動いちゃう」
「先生……ああ、あの医者か」
涼やかな青い瞳の女医がアニの脳裏に浮かぶ。
確かあの
ただクリスタと同じくウォール教の開墾地から来ており、彼女が母親のように慕うあの医者のことは、監視対象として頭の片隅にあった。
「そうね。あんた、あの医者に随分懐いてたでしょ?この作戦が終わっても会いたいなら、なおさら自分の命を一番に考えな」
「そうだね……」
死なれては困るのだ。アニ自身の目的のためにも。それをこのお人好しの少女に自覚させたかった。
ふとクリスタは何かを言い淀むように、どこか恐る恐るといった様子で口を開いた。
「ねぇ、こんな時に聞くのも変だけど……私、調査兵団に進むつもりなの。でも、巨人の相手をしてやっぱり自分でも向いているとは思えない。アニは……どう思う?」
「あんたは死ねと言われたら死ぬの?」
「……そうだよね。自分で決めるべき、だよね」
「どうでもいいんだけどさ、なんで調査兵団を目指したりなんかして死に急ぐわけ?昨日の死に急ぎ野郎の話に感化されちゃったの?」
視線を落とすクリスタ。何やら考え込んだ後にぽつりと語り始めた。
「それもあるけど一番はやっぱり……先生のためかな。先生ってね、よく南の空を見て物思いに耽ってるの。本人に聞いたわけじゃないけど、多分失った故郷とご家族を偲んでるんだと思う。あの人だって辛いはずなのに、いつも私のことばかり気にかけてくれるの」
「あんた、本当にそればっかりだね。どれだけ好きなのよ」
「アニと同じだよ。聞いたよ、お父さんに教わった格闘術を披露してるときのアニって凄くイキイキしてるんだってね。私もアニと同じ、家族が好きなだけよ」
「……あんた、あの医者と別に血が繋がってるわけじゃないでしょ?」
「血が繋がってなくても、私は先生のことを母親だと思ってるもん」
恥ずかしいから本人には言わないでね、とクリスタはどこか照れながら言った。
「……訓練兵団に入ってから先生は少し変わった。急に鍛えだしたのだって先生なりに前へ進もうとしているんじゃないかって。なんとなく……先生は調査兵団に入ろうとしている気がする」
言われてみれば確かに休日になると教官とマンツーマンで訓練をしていたな、とアニは思い出す。医務官の仕事だけでも大変だろうに物好きな奴だと思っていた。
「で……結局長々と語った結論だけど、要するにあの医者に付いていくってことね?」
「うん、まあそうかな」
「自分で決めるべきってさっきあんた自身が言ってたじゃない。他人の選択に流されるのはどうなのよ」
手厳しい指摘に、クリスタは力なく笑う。そのか細い姿に、アニは無意識に舌打ちしそうになるのを堪え、視線を逸らして吐き捨てるように呟いた。
「あんたは弱っちいんだからさ、内地とか安全なところに行った方が良いと思うけどね」
アニのぶっきらぼうな物言いに、クリスタは意外そうな顔で瞬きをした。
「……アニってさ」
彼女が不意に顔を上げた。その瞳には先ほどまでの迷いとは違う、澄んだ光が宿っている。
「本当はすごく『良い人』だよね。一見厳しいことを言ってるようで、私の身を案じてくれてる……訓練生の時にもっとお話ししておけばよかったな」
『良い人』か。この地獄の元凶が『良い人』なわけがないだろう。アニは心の中で自嘲気に呟いた。
「別にそんなんじゃないよ」
「うっそだあ。さっきだって身を挺して私を助けてくれたし、私に調査兵団に入ってほしくないみたいだし。アニが『良い人』だから私が今生きていられるの……そんなに自分を卑下しなくていいよ」
「……いいや。私はただ、自分が助かりたいだけだよ」
不思議そうな顔をするクリスタに視線を合わせることなく、そう答えた。
話をしていると一際高くそびえ立つ本部塔が見えた。
しかし何かがおかしい。
先に撤退したはずの同期達が本部近くの建物の屋根上で立ち往生している。彼らは絶望的な顔で一点を見つめていた。アニの所属する班も音を立てずにその屋根へと合流した。
本部は目と鼻の先にある。しかしそこは夥しい数の巨人に囲まれ、一個の要塞と化していた。あそこに突っ込むのは自殺行為に等しい。
アニは無言で同期達へ視線を巡らせた。コニーが「なにか方法はねぇのかよ!」と活路を見出そうとする傍らで、ジャンは血の気の引いた顔で天を仰いでいた。
「終わりだ。巨人が多すぎる。俺達はもう……」
ジャンの絞り出すような声がかろうじて保たれていた士気を無情に打ち砕いた。
皆を奮起させようと声を張り上げるコニーと、冷え切った現実を突きつけるジャン。その口論を尻目にアニは騒ぎの中心から離れ、壁際に立つライナーの隣に着地した。
「状況は?」
「見た通りだ。本部は巨人が群がっていて近付けねぇ。時間が経てばここも見つかる」
隣で話を聞いていたクリスタの顔が青ざめるのが分かった。その大きな瞳が涙で潤み、「ごめん、サシャとミーナを探してくる……」と微かな声で他の同期の元へと駆けていく。
その背中を見送りながら、ライナーがアニに身を寄せて静かに口を開いた。
「どこかのタイミングでクリスタを任せてもいいか?巨人が想定よりも多い。何かの拍子で死なれでもしたら困る」
アニはライナーから半歩分離れ、吐き捨てるように答えた。
「もちろん。あの子、見ていて危なっかしいったらありゃしない。さっさと
「だな。まあすぐにどうこうするつもりはないが…クリスタには生きておいてもらわないと」
「そうね……ベルトルト、あんたの方は何か気になることはある?」
ライナーの背後で、周囲の同期が聞き耳を立てていないか警戒していたベルトルトへアニは尋ねた。
「……いや特には。ただ、同期の皆が大勢死んでいるのが……少しね。エレンのいた班もアルミンを除いて皆死んでしまったらしい」
「……そう。あの死に急ぎ野郎、本当に死に急いだんだ」
短い会話を終え、三人は再び同期達へと視線を戻す。あまり三人で固まっているのも目立ちすぎる。
「それでライナー、どうする?」
「まだだ。やるなら集まってからだ」
ライナーの言う「やる」とは無垢の巨人を引き寄せるという戦士としての任務のことだ。だが、その言葉は周囲の者たちには違う意味で聞こえたのだろう。無表情だったマルコが横から絶望を口にした。
「だめだよ、どう考えても……僕らはこの街から出られずにここで全滅だ。死を覚悟してなかったわけじゃない。でも一体何のために死ぬんだ……」
アニの心に罪悪感が冷たい針のように突き刺さる。昨晩の食堂で、明日への希望を語り合いながら馬鹿騒ぎをしていた彼らの顔が蘇る。この絶望も恐怖も、全て自分たちがもたらしたものだ。
だが、アニはその感情を瞬時に殺した。
分かっていたことじゃないか。この世界は残酷だ。その中で私は、私の為すべきことをするだけ。それ以上でもそれ以下でもない。
◇◇◇
まさか、こんな事になるなんて――。
屋根瓦を蹴り、次の建物へと跳躍する。眼下には地獄が広がっていた。
巨人化したエレンを守るため、駐屯兵団の兵士が決死の覚悟で囮となって他の巨人を引きつけている。
だが、圧倒的な数の暴力の前に兵士達は虫けらのように叩き潰され、喰われていった。
その光景を前にしてもアニの心は静かだった。ただ、今しがた起こった出来事を冷徹に反芻していた。
あの後、事態は目まぐるしく動いた。
本部を巨人に占拠され、誰もが絶望に打ちひしがれる中、
ガス室に蔓延る小型の巨人はアルミンの立案した奇策によって殲滅され、奇跡的にも本部の奪還に成功した。
その渦中に現れた『巨人を殺す巨人』。
アルミンが興奮気味に語るそれを初めて聞いた時、アニは微かな違和感を覚えた。
巨人同士が争うことなどまずあり得ない。『九つの巨人』に無垢の巨人が群がることはあっても、無垢同士が互いを喰らうなどという現象はマーレでも聞いたことがなかった。それにその奇行種には明確な意思と、訓練された格闘術の心得があるようだった。
そしてその奇行種が力尽き、崩れ落ちた瞬間、アニは我が目を疑った。もうもうと立ち上る蒸気の中心で巨人のうなじから現れたのは、人間の姿を保ったエレン・イェーガーだった。
(まさか……私達が探し求める『始祖』がエレンに?)
思考が凍りつく。だが、すぐに冷静な分析がそれを溶かした。
断定はできない。マーレが保有しているのは七つ。そのうち『顎』はあの
あの体躯からして顎ではないが、始祖か進撃かまでは判断がつかない。考えにくいが、その二つを継承している可能性だって捨てきれない。
(エレンの年齢は15。先代が死んで赤子のエレンに力が宿ったとしたら、13年の呪いを迎えてもう死んでいなければおかしい……となると、誰かから継承したのは確定か)
問題はいつ、誰から。
(……どちらにせよエレンを故郷に連れて帰る。始祖の手掛かりをみすみす逃せない)
視線の先、作戦の中心であるはずのエレンの巨体が目標である大岩に目もくれず、自らの顔面を殴りつけている。そして――あろうことか、制止しようと飛びかかったミカサに巨大な拳を振り下ろした。
(……やはり、か)
巨人化に慣れていない内は暴走のリスクが付きまとう。意思の疎通どころか、敵味方の区別すらつかなくなる。そんな不確定要素に人類の存亡を賭けるなど正気の沙汰ではない。無知とはこうも恐ろしいとは。
(無茶な作戦だ……巨人化したエレンに岩を動かせて、穴を塞ぐなんて)
暴走するエレンと、それを守るために散っていく兵士達。このままでは作戦そのものが破綻する。最悪の場合エレンが他の巨人に喰われ、せっかく見つけた始祖の手掛かりが失われる可能性すらあった。
そうなれば自分が女型の力で無垢を引きつけ、時間を稼ぐしかない。そこまで思考が及んだその時だった。
前方の建物の屋根から戦闘音とは明らかに異質な、押し殺したような人の声が聞こえた。アニは咄嗟に身を翻して煙突の影に隠れると、音を殺して屋根の縁を伝い、声の主へと近づいた。
そして信じられない光景を目の当たりにする。
「ア、アニ!助けてくれ!ライナーがおかしいんだ!」
ライナーに押さえ付けられたマルコが涙ながらに叫ぶ。何が起きているのか。アニがライナーに事情を説明するよう視線で促すと、彼は苦々しげな顔をして言った。
「俺とベルトルトの会話を聞かれた。もう、生かしてはおけない」
「……ふざけるな!クソ野郎!」
あらん限りの憎悪を込めて吐き捨てる。そこへ、一体の巨人がゆらりと近付いてきた。
「マルコの立体起動装置を外せ、アニ!」
アニは耳を疑った。
この男は何を言っている。お前の落ち度だろう。それをなぜ私に押し付ける?
「お前、さっきコニーを命懸けで助けていただろ!なぜあそこでそんな危険を犯した?この悪魔の民族に情が移っちまったのか!?違うなら戦士としての覚悟を証明してみせろ!」
「あんただって少し前にエレンを助けたじゃない!巨人の力まで使って怪我を治して!変な目で見られたらどうするつもりだったのよ!?」
「過ぎたことだ!今はお前の覚悟を問うことが先だ!」
巨人の足音がすぐそこまで迫っていた。その地響きがアニの決断を性急に迫る。
アニは唇を噛み締め、泣きじゃくるマルコの元へと一歩、また一歩と近づいた。許しを請うように見上げてくるマルコの瞳から視線を逸らす。震える指でその腰の装置に手をかけた。冷たい金属のバックルがやけに生々しい感触を伝えてくる。
「まだちゃんと……話し合ってないじゃないかぁぁぁぁ!」
装置を奪い、その場からすぐに去る。その直後マルコの断末魔が響いた。
三人は屋根の上に取り残されたマルコが巨人に喰われるのを呆然と見ていることしかできなかった。肉が引き裂かれ、骨が砕けるおぞましい咀嚼音がやけにクリアに鼓膜に届いた。
断末魔が止み、血の匂いだけが満ちる不気味な静寂が訪れる。するとライナーが顔面蒼白のまま、信じられないものを見たかのように呟いた。
「おい……マルコが……喰われてる」
次の瞬間彼は狂ったように叫びながら、マルコを喰らった巨人へと切りかかった。自分たちが殺したマルコを助けようとしている……としか言いようのない奇行だった。
「……ベルトルト、これはどういうこと?」
アニの問いにベルトルトは絶望を貼り付けた表情で答えた。
「信じられないかもしれないけど……今のライナーは自分のことを兵士だと心の底から思い込んでるんだ。彼の中には兵士と戦士、二つの人格がある。それに故郷に帰ってフェリスに会うんだって言って聞かないし……記憶もかなり混濁しているみたいだ」
なんだ、それ。アニはもはや怒る気力さえ失っていた。
戦士としての罪悪感から逃れて自分を兵士だと思い込む?仲間を殺しておきながら仲間を助けようとする?馬鹿げている。
緑色の信号弾が空に放たれる。どうやらエレンによってトロスト区の壁は塞がれたらしい。
今回の襲撃で事態は大きく動き、これまでにないほど始祖へ近付くことはできた。だがアニの心は鉛のように重く、少しも晴れることはなかった。
未だマルコを殺した巨人へ執拗に攻撃を続ける、壊れた男。それをただ諦めたように見つめる意志の弱い男。これがマーレが誇る戦士の成れの果てか。
怒りと軽蔑とほんのわずかな憐憫がない混ぜになった感情が、アニの胸に冷たく渦巻いていた。
◇◇◇◇
思えば、その日の朝は最高の気分だった。
訓練兵団の解散式から一夜明けた朝。ジャン・キルシュタインは上位十位という栄誉に浴し、明日からは夢にまで見た内地での生活が待っていた。この巨人の脅威にまみれた最前線の街からおさらばできるのだと思うと、空っぽな青空は輝かしい未来を祝福してくれているようだった。
それがどうしてこうなったのか。
超大型巨人の出現。一瞬にして地獄絵図へと変貌した市街。そして『巨人を殺す巨人』から現れたエレン・イェーガーの存在。
昨日までの日常がまるで遠い昔の出来事のように色褪せていく。血の匂いが染みついた鼻腔の奥で、まだ内地への憧憬が燻っているのがひどく滑稽に思えた。
だが、これほどの衝撃をかつて感じたことはなかった――目の前の無残な肉塊が誰なのか、理解した瞬間ほど。
「マルコ……お前、どうして……?」
トロスト区は奪還され、区内の巨人掃討は完了した。しかし人類の戦いはまだ終わっていなかった。伝染病による二次被害を防ぐため、街中に散乱する無数の死体を回収し、燃やさなければならない。生き残った訓練兵もその作業に総出で駆り出されていた。
その最中見かけた、建物の壁にもたれかかるようにして無残に右半身を喰われた死体。何かの冗談かと思った。ジャンの無二の親友マルコ・ボットが物言わぬ肉塊となってそこに転がっていた。
『怒らずに聞いてほしいんだけど……ジャンは強い人ではないから弱い人間の気持ちがよく理解できる。それでいて現状を正しく認識することに長けているから今何をすべきかが明確にわかるだろ?』
いつだったか。マルコは少し照れ臭そうに、しかし真っ直ぐな瞳でそう言ってきた。
『ジャンは指揮官に向いてるよ。
王に仕えるため憲兵団を目指していた、どこまでも真面目で実直な男。ジャンのように自分のことしか考えない捻くれ者にもマルコはいつも真正面から向き合ってくれた。
全く異なる性格の二人はまるで凹凸のピースが組み合わさるように、不思議としっくりきた。気恥ずかしくてジャンは言わなかったが、マルコを心の底から信頼できる親友だと思っていた……なのに——
ジャンが呆然と立ち尽くしていると、静かに遺体の検分を続ける人影が目に入った。兵服の上に、その立場を示す白衣を纏った姿。ジルケ・シュタイナーだった。彼女はジャンの存在に気付くと、その視線の先にあるものを見て僅かに目を見開いた。
彼女はゆっくりと近付いてマルコの亡骸の前に膝をつく。その顔にかかった髪を、まるで眠っている子供を起こさないようにそっと払った。医務官としての冷静な瞳の奥に、一つの命が失われたことへの深い哀しみが滲んでいた。
「……辛いでしょうけど、確認するわよ。彼はマルコ・ボットね?」
ジャンが無言で頷くのを見ると、彼女は手にした戦死者リストにその名を書き込もうとした。その動きがひどく無慈悲なものに見えた。
マルコの存在がただのインクの染みに変わってしまう。その事実がジャンの心を激しく揺さぶった。
「待てよ……」
ジャンは咄嗟に、彼女の手を掴んでいた。ペンを握るその手は驚くほど華奢で、そして氷のように冷たい。
そんなことをして何になるわけでもない。ジャン自身が一番分かっていた。それでも三年間を共に過ごした親友の死を、ただの事務処理のように終わらせようとする彼女の態度が許せなかった。それはほとんど、行き場のない怒りの八つ当たりだった。
「安全な後方にいたあんたには……分かんねぇだろ!俺達の気持ちなんて!そりゃお気楽だよな、お気に入りのクリスタは無事だったんだからな!」
先のウォール・マリア陥落で彼女が家族を失ったことは知っている。それでも、この時ばかりは知らないふりをした。自分でもどうかしていると分かっていながら、この激情をどこかに吐き出さずにはいられなかった。
ジルは何も言わなかった。ただ掴まれたジャンの手を静かに握り返してきた。その華奢な手の感触が、これが夢ではなく、どうしようもない現実なのだと何よりも雄弁に物語っていた。
「マルコは……何のために死んだんです?あいつが死んでいい訳がない。なのに、なんであいつが……こんな無意味に……」
「……ある人の受け売りだけどね」
ジルは静かに口を開いた。
「死んだ仲間に意味を与えられるのは生きている人間だけだって。それが生者の特権よ。マルコの死を無駄にしたくないなら……その意味はジャン。あなたが見つけてあげなくちゃ」
彼女と別れた後も、その言葉は耳の奥で何度も繰り返された。
日が暮れ、広場に集められた遺体が巨大な薪の山となり、燃え上がっていく。炎は夜空を舐めるように燃え盛り、骨が爆ぜる乾いた音が響き渡る。もう、どれがマルコの骨かなんて分かりはしない。
ジャンは内地で安穏と暮らしたかった。それは手を伸ばせば届くほど近くにある。だが、今戦わなければマルコの死は本当に無意味なものになる。
今、為すべきことは何か。
ジャンは誰のものとも知れない骨の燃えカスを、灰の中から一つ拾い上げて強く握り締めた。熱で指先が焼け爛れる痛みも今はどうでもよかった。
「おい、お前ら……所属兵科はどこにするか決めたか?」
暗い顔で炎を取り囲む同期に向く。ジャンは再び拳を握り締めた。
「俺は決めたぞ……俺は調査兵団になる」