馬鹿野郎――自分を罵る声が風を切る音にかき消される。私はただ無心に馬を駆り、街道の土を蹴り上げていた。
なぜ気付けなかった。ニック司祭が内地へ向かうと聞いた時点で、この結末を予見すべきだった。
この後、女型と進撃による衝突がストヘス区に未曾有の被害をもたらし、多くの命を奪う。その凄惨な破壊の渦は原作において司祭たちが身を寄せる教会をも飲み込んだはずだ。
彼らと別れてからの二年、私は来るべき日に備えて鍛錬に明け暮れ、気付けば彼らとの交流を殆ど絶ってしまっていた。世界の大きな流れを違えぬことばかりに固執し、いつしかすぐ傍にいる人々の顔すら見ていなかったのだ。その結果がこれだ。
マルコの死はジャンの覚醒という物語の大きな節目に必要だった。だからこそ私は彼の死を「意味のある犠牲」なのだと……心のどこかで割り切ることができてしまった。
でも、あの子達は違う。彼らは天災の如き巨人同士の戦いに巻き込まれる、ただの哀れな被害者に過ぎない。彼らの死が、この先の物語に何ら影響を与えることなどないのを私は知っている。
ああ、分かっているとも。神様気取りで人の命を選別している己の醜悪さにはとうの昔に気付いている。
(でも……助けたい。あの子達の命を、仕方のない犠牲として見過ごしたくない――!)
衝動が理性を焼き切る。人の身である私にできるのは、この手の届く限りの命を拾い上げることだけだ。今ならまだ間に合う。手を伸ばせば、彼らをこの運命から救い出せるはず。
止まっている場合ではなかった。幸運にもエレンが王都に召集されるまでにはまだ僅かな猶予がある。このまま全速力で馬を走らせれば間に合う……かもしれない。
これは賭けだ。だが、何もしないよりは遥かにいい。
腰に取り付けた立体機動装置が決意の重さのように軋んだ。無許可での使用は兵法会議ものだが、構っていられるか。もはや自分の見通しなど何一つ信じられない。あらゆる不測の事態に備えなければ。
司祭達を安全な場所へ避難させ、その足でウトガルド城へ向かう。やるべきことは決まった。
覚悟は決まった。私は両の踵で力任せに馬の腹を蹴り、身を乗り出すようにして手綱を強く握りしめた。
◇◇◇◇
ストヘス区に駆け込むと私は馬を建物の軒下に繋ぎ、息つく間もなく走り出した。石畳を蹴って人波をかき分ける。司祭からの手紙に記された住所だけがこの喧騒の中の唯一の道標だ。焦る私の足音を石畳が無機質に反射する。
幸いにもウォール教の教会は内地のどの建物よりも大きく、その荘厳な姿ですぐに私の目に飛び込んできた。迷わず重厚な扉を開ける。
静謐な堂内に私の荒い息遣いだけが不釣り合いに響き渡った。何事かと奥から現れたニック司祭は、私の姿を認めると驚いたように目を丸くした。
「おや、ジルケさん。これはこれは……随分とお早いご到着で。手紙を送った昨日の今日にいらっしゃるとは」
息も絶え絶えの私を見て、彼の眉が心配そうに寄せられる。
「ひどくお疲れのようですね……立ち話もなんですから奥へどうぞ。お茶でも淹れましょう」
「……お構いなく。それより緊急でお伝えしたいことがあります」
私は司祭の言葉を遮り、単刀直入に本題を切り出す。
「すぐに皆さんを連れてここから避難してください。もうすぐこの場所は戦場になります」
「ま、待ってください!一体どういうことです?急に言われましても……信徒は皆、祈りを捧げておりまして」
「ここストヘス区で、調査兵団が壁内に潜む敵性巨人を捕獲しようとしています。ここにいたら巨人同士の戦いに巻き込まれます!」
ニック司祭は言葉を失い、その顔から血の気が引いていく。だが、すぐにその瞳には戸惑いと懐疑の色が宿った
「ジルケさん、なぜ貴女がそれを……?調査兵団とてそのような機密事項を外部に伝えるほど愚かじゃないはず……貴女は一体……?」
「詳しい説明は後です、今は————私を信じてください!」
私の鬼気迫る物言いに気圧されたように司祭はこくりと頷いた。冷や汗を滲ませながら、彼はすぐに行動を起こしてくれた。
「あ、ジル先生じゃん!めちゃくちゃ久しぶり!
「おー、二年ぶり!卒業式に来てくれた感じ?」
「……久しぶりね。エヴァ、アダムス。今日はちょっと別件よ。それよりほら、司祭に付いていきなさい」
「はいはい。相変わらず小言ばっかだなー」
「あ、後でハーブティー淹れてよ!久々に飲んでみたいな」
事情を知らないエヴァ達は司祭の指示に従いながら、私の姿を見つけると無邪気に手を振った。その緊張感のない様子に安堵しそうになる心を、私はぐっと堪える。まだ何も終わっちゃいないのだから。
ウォール教の信徒達がぞろぞろと教会から出てくる光景は中々に怪しいものだが、人目を心配する必要はなかった。既に調査兵団によって教会周辺の人払いは完了していたのだ。
「あんた達!ここは危険だ!我々についてきてくれ!」
外で鉢合わせた調査兵が叫ぶ。
信徒達はエレンを匿う調査兵団に良い印象を抱いていないのだろう、その呼びかけに懐疑的な目を向ける。
だがニック司祭が一歩前に進み出て兵団に従うよう告げると、彼らは渋々といった様子でだが誘導する調査兵の後をついて行った。
「流石ですね、司祭。皆から信頼されている。おかげで早く皆避難することができました」
私の率直な称賛にニック司祭は照れ臭そうに頬を掻いた。
「いえ。ジルケさん、貴女のおかげですよ。貴女が伝えてくれなければ、私も調査兵団なんぞに従いやしないでしょう。避難を呼びかけられても、門前払いにしていたに違いありません」
「あはは、想像できます」
軽口を叩き合っていると、先ほどの調査兵が私達も避難するよう声をかけてきた。
「早く逃げましょう。巨人共の戦いに巻き込まれるなんてごめんです」
「……ですね。司祭はお先に向かってください。私はこれから行くところがあっ——」
言いかけた、その時だった。雷鳴のような轟音が区内全体を揺るがした。
心臓が凍りつく。頭では分かっていたはずなのに、実際にその音を聞くと全身の血が逆流するような冷たい感覚に襲われた。
とうとう始まってしまった。皆の避難もまだ完全には終わっていないというのに。
「見てきます!」
私は叫ぶと同時に、ワイヤーを射出して瓦屋根へと身を躍らせた。背後から調査兵の制止する声が聞こえた気がしたがもはや耳に届かなかった。
轟音の源へ向かって屋根を蹴る。やがて視界の先に巨大な影が映った。女型の巨人だ。
女型は地面へ向けて執拗に拳を振り下ろす。その一撃一撃が大地を揺るがし、分厚い石畳が玩具のように弾け飛ぶ。硬化した拳で地下通路を叩き潰し、エレンの逃げ道を奪っているのだろう。
「クソッ、間に合わなかったか……」
奥歯を強く噛み締める。あと少し……ほんの十数分早く着いていれば皆を安全な場所まで避難させられたかもしれないのに。
だが今は感傷に浸っている場合ではない。思考を切り替えて屋根の上から戦況をつぶさに見つめる。
女型の巨人は美しい曲線を描くその肉体とは裏腹に、暴威そのものだった。
そこへ調査兵団の兵士達が次々と女型に襲い掛かり、その刃でうなじを削ごうとする。しかし硬質化された皮膚がそれを阻んだ。アニは群がる兵士を蠅のように叩き落とし、蹴り上げた脚は薙ぎ払われた兵士を血飛沫へと変えていた。
(原作と……違う所はなさそうね)
この後の流れを私は知っている。エレン捕獲を諦めたアニは撤退を選択し、壁を登って逃走するはずだ。その時まで耐えなければ……。
ニック司祭達の安否が気になり、背後の教会へ振り返った瞬間――眩い黄色の雷光が再びストヘス区の空気を引き裂いた。
「グオオオオオオッ!」
地を割るような雄叫び。先ほどアニの拳が叩きつけた地面から、一体の巨人が爆発するように現れた。その翡翠色の瞳は純粋な殺意と破壊衝動に爛々と輝いている――巨人化したエレンは咆哮を上げながら、その巨大な拳をアニの巨体へと打ち据えた。
凄まじい衝撃音と共にアニの巨体がくの字に折れ曲がり、周囲の建物を薙ぎ倒しながら吹き飛んでいく。瓦礫の雨が降り注ぐ中、むくりと起き上がろうとするアニへ、エレンは獣のような俊敏さで再度襲いかかった。
しかし、アニの洗練された体術はエレンの荒々しいそれを凌駕していた。彼女はエレンの猛攻を紙一重でいなし、流れるような動きで距離を取る。
強い。硬質化能力を考えると、今のエレンより数段格上だ。
だが彼女の敵はエレンだけではない。
「心臓を捧げよ!」
「女型を決して逃すな!」
調査兵団の兵士達が死を恐れぬ覚悟と共に、女型へと刃を向けて突進する。硬質化されたうなじを削ぎ落とすことは不可能でも、隙を突いてその四肢の腱を断ち切ることはできる。
その中でも、明らかに他の兵士とは次元の違う動きをする影があった。三次元の空間を縦横無尽に舞い、その軌道はまるで予測不能の竜巻だ。
「あれはリヴァイ兵長……!?でも、なんで……!」
この時の兵長は、壁外調査で女型にエレンを攫われ、頭に血の上ったミカサを庇った際の負傷により、一時戦線離脱しているはずだ。なのに今、戦場の最前線にいる。
(いやむしろ好都合だ……!これなら勝てる!)
「アアアアアアア!」
アニが絶叫する。立体機動のアンカーが突き刺さった壁や建物を、その腕力だけで根本から破壊していく。辺りを強引に更地同然にすることで、何が何でも兵長を近付けまいという執念だろう。
砕け散った建物の破片が無数の凶器となって降り注ぐ。遠くにいる私の元まで飛んでくるほどの、凄まじい破壊の嵐だった。
(駄目だ……不用意に動けば瓦礫に巻き込まれる……!)
巨人同士の戦いは熾烈を極め、ストヘス区の美しい街並みは見る影もなく瓦礫の山へと変わっていく。二体の巨人が目まぐるしく場所を変えながら激突するたびに大地が揺れ、悲鳴のような音が響き渡った。
肉弾戦はアニが上回るものの、互いに決定打には至らない。調査兵の猛攻もアニはうなじを一瞬だけ硬質化させては弾き返す。膠着状態が続いた――いや、徐々にだがアニの方が劣勢になりつつある。
その均衡が破られたのはほんの一瞬だった。
リヴァイ兵長の神速の斬撃にアニの意識が逸れた。その刹那の隙をエレンは見逃さなかった。
アニがエレンの足を蹴りで刈り取ろうとするも、それを読んでいたかのように跳躍する。
回避し切れず片足を失うが、失った脚の推進力を補うように残った足で強く踏み込み、全身の体重を乗せた拳が彼女の顔面を完璧に捉えた。
再び轟音。アニは為すすべなく、周辺の建物を巻き込んで吹き飛んでいった。氷のような悪寒が私の背筋を走った。
(あの方向は……まさか!)
私はガスの残量も厭わず、アニが倒れ込んだ場所へと急いだ。教会から逃げ出した彼らを探す。瓦礫の山を飛び越え、立ち込める粉塵の中を突き進む。そして————見つけた。
私は近くの屋根から力なく降り立った。
建物の瓦礫に巻き込まれて身動きが取れなくなったところに女型の巨体が倒れ込んだのだろう。ニック司祭以外の信徒達は、皆その巨体と瓦礫の下敷きになり、赤い染みと布切れに変わり果てていた。
「ジ、ジルケさん……彼らは皆、あの巨人に……」
司祭が震える指で差したのは、壁の方へと一目散に逃げていく女型の背中だった。
「すまなかった……自分がついておきながら」
少し離れたところで、悔しさを滲ませた調査兵が瓦礫の中から身を起こす。彼の左足には木片が深々と突き刺さり、とても動けそうにはない。
あまりの惨状に現実感が急速に失われていく。手足の感覚が遠のき、甲高い耳鳴りが思考を奪う。
(なんで、こうなるの。いつも、いつも……いつも!)
自分のした行動がいつも裏目に出る。私の善意が最悪の結果を呼び寄せる。胃の腑から熱いものがせり上がってきた。
ぐしゃぐしゃに潰された夥しい亡骸の中から、私は見つけてしまった。最後に無邪気な笑顔を向けてくれたエヴァとアダムスの姿を。光を失った瞳が真っ直ぐに私を見つめていた。
頭を占めるのは何もできなかったという無力感。そしてそれを遥かに上回る黒い激情だった。
『戦え』
誰の声だろう。私の胸の内から、あるいは遠い記憶の底から声が響く。それは私を扇動するような、冷たい命令だった。
頭が割れるように痛む。死んでしまいそうな、いっそこのまま死んでしまいたくなるほどの激痛だった。
だがその痛みはより強く、抗いがたい衝動によって塗り替えられていく。
「お、おい!あんた、何をやろうとしてんだ!」
「ジルケさん!どこへ行こうと言うんです!」
二人の制止も聞かず、私はほとんど無意識のうちにガスを噴かす。目標はただ一つ。
眼下では建物の残骸が墓標のように突き出し、そこかしこで黒煙が上がっている。至るところに死体が転がっていた。
その背中を捉えたのは奴がストヘス区の内壁に手をかけようとした、まさにその時だった。
この力を使えばもう私は傍観者でいられない。私の知る未来はこの瞬間から大きく歪んでしまうだろう。娘にもう一度会うという、ただ一つの願いも叶わなくなるかもしれない。
『戦え』
でも、もう抑えられなかった。目の前の命を無慈悲に奪った巨人の力への憎しみと、未来を知りながら何一つ守れない自分への嫌悪、そしてこの残酷な世界そのものへの絶望。
あらゆる負の感情が渦を巻き、私を飲み込んでいく。今の私なら奴を殺せるという血に濡れた確信だけが、思考を支配していた。
その衝動に突き動かされるまま、私は自らの手の甲を強く噛み千切った。
◇◇◇◇
汗でじっとりと湿ったシャツが肌に張り付く。なんて不快なんだ。アニが重い体を起こすと、鈍い頭痛に顔をしかめる。ここ二日ほど、こうして寝込んでいたのだろうか。熱に浮かされた思考は曖昧で、時間の感覚すら定かではなかった。
憲兵団の制服に袖を通しながら、アニは数日前の出来事を苦々しく思い出す。
壁外調査に乗じたエレン奪取作戦は、調査兵団が周到に張り巡らせた罠にかかり無惨な失敗に終わった。
脳裏を掠めるのは人智を超えた速度で宙を舞う黒い影と、怒りに燃える黒い瞳。一度は確保したはずのエレンはリヴァイ兵長とミカサ・アッカーマンによって奪い返された。
(特にリヴァイ兵長……あの男は本物の化け物だ)
結局、傷一つ負わせることすらできなかった。人類最強という称号をどこか侮っていた自分を嘲笑う。
胸に溜まるのは後悔という名の重い鉛だった。
何をやっているんだ、私は。故郷に帰れる、これ以上ない好機だったというのに。
「おはよー、アニ。あんたのさぁ……寝顔が怖くて起こせなかったんだ。ごめんねー」
「遅いぞ。最近のお前は弛みすぎだ」
同室のヒッチが軽い口調で声をかけ、マルロが真面目ぶった声で注意する。アニが無言で二人を一瞥すると、ヒッチは面白そうに口角を上げた。
「なにー?もー、怒ってんの?」
「ほっといてやれよ。アニとフロックはあのトロスト区から来たんだぞ。まだ癒えるわけないだろ、地獄を見てきたばかりなのに」
別の同期が口を挟む。彼らの能天気な会話が酷い耳鳴りのように響いた。アニはそれら全てを無視して、同期達の列に加わった。
「あれ、そう言えばフロックは?マルロ、なんか知ってる?」
「出張だとよ。昨日急にオルブド区へ飛ばされてたな。理由は聞いていないが……入って一ヶ月の新兵が行って何ができるんだか」
「うっわー、いいなー。北の方って人口少ないから、その分仕事も楽だって聞いたことあるんだよねー」
「お前なぁ……」
「ねぇ。アニはさ、フロックと同じ南方訓練兵団なんだっけ?あんたら仲良いの?」
アニは「別に」と生気のない顔で答える。ヒッチが「あっそ」と唇を尖らせたところで、上官が姿を現した。心底面倒臭そうに、本日アニ達新兵に任せる業務を語り出す。
「今日はいつもの雑務とは違う仕事をやってもらう。調査兵団の一行が王都へ召喚される件だ。お前達にはその護送任務についてもらう」
(エレンがここを……?)
その後マルロが何やら上官に食ってかかっているが、その声はもうアニの耳には届いていなかった。
(……王政にエレンが渡ってしまえば、全ては闇の中だ。もしエレンが『始祖』を有していた場合、王政はそれを王家の血筋に継承させるだろう。そうなれば目も当てられない)
マーレの研究では王家の人間が始祖を継承しても、『不戦の契り』によってその力を十全には発揮できないとされていた。とはいえ、あくまでそれは仮説に過ぎないこともマガト隊長から叩きこまれた。
(ここはもう一度、私が女型になってエレンを攫うしか……)
しかし、それを決行するにあたって一つ大きな懸念が引っかかっていた。
(ライナー達から定時連絡が来ない。壁外調査の成否に関わらず連絡を取り合う約束だったのに。まさか、拘束されているとか?)
だが、そうなれば巨人の力を使ってでも逃げるはずだ。超大型・鎧の巨人が出現したとなれば、その情報はすぐに壁内中に知れ渡り、その報は嫌でもアニの耳に入る。それすらないということは……。
思考が空転する。だが確かなことが一つだけあった。
(……わからない。でもリヴァイ兵長がいない今がチャンス。エレンを攫う好機はここしかない)
ふと隣に視線を移す。上官から全ての任務を押し付けられて憤慨するマルロと、それを面白そうに揶揄うヒッチ。何の疑いもなく、この退屈な平和が明日も続くと信じきっている顔だった。
「……ごめんなさい」
「え?アニ、今なんか言った?」
ヒッチが不思議そうな目を向ける。アニは「いや……なんでもない」とだけ返し、再び感情のない兵士の仮面を被った。
◇◇◇◇
結局まんまと調査兵団の罠に嵌ってしまった。
アルミンが同期の情を訴えてきたあの時、奇妙な違和感を覚えていた。それなのに彼の言葉に絆され、袋小路まで誘導された。アニは自らの甘さを自嘲した。
恐らくフロックもグルだろう。彼がいれば、アルミンが同期である自分を頼るという口実の説得力が失われる。調査兵団と憲兵団がどこまで連携しているかは不明だが、あの狡猾な男エルヴィン・スミスが背後で糸を引いているのは間違いない。
この短期間で何度も兵団の策略にみすみす誘い込まれた自分が、ひどく愚かに思えた。
だが、アニの心にあったのは後悔だけではなかった。
戦士としての使命感、故郷へ帰りたいという切なる願い、そして――もう何も隠さなくて良いという歪んだ解放感がない混ぜになっていた。
訓練兵時代エレンとの対人格闘訓練は嫌いではなかった。息の詰まる二重生活の鬱憤を晴らせる上に、その拳を交える瞬間、遠い故郷にいる父の存在を確かに感じられたのだ。
巨人化した今、父から叩き込まれた格闘術はより研ぎ澄まされ、昇華される。硬質化させた蹴りが獲物の肉を断つたび、得も言われぬ興奮が全身を駆け巡った。
(何人も殺しておいて……本当、私はなにをやっているんだか。挙げ句、父の技を見せびらかして悦に入っている。我ながら吐き気がするね)
鋭いワイヤーの射出音が、彼女を内省から冷たい現実に引き戻した。
(リヴァイ……!やはり来たか……!)
巨大樹の森での悪夢が脳裏をよぎる。この男だけは決して近付けてはならない。
アニはリヴァイの接近を阻むように、アンカーが突き刺さるであろう周囲の建物を無差別に破壊した。立体機動さえ封じてしまえばいかに人類最強とて無力なはず。少しでも開けた場所へ――その一心で暴れ回る。
だがリヴァイに意識を割く分、エレンへの注意はどうしても散漫になる。その一瞬の隙を、エレンは見逃すはずもなかった。
アニは舌打ちと共に、エレンの足めがけて鋭く回し蹴りを放つ。だがエレンはその動きを読んでいた。
刈り取られるはずだった片足で地を蹴り、爆発的な推進力で宙へと舞う。勢いに任せてアニの懐に潜り込むと、渾身のアッパーカットを顎に叩き込んだ。
視界が激しく揺れた。アニの巨体は周辺の建物をも巻き込みながら、大きく後方へと吹き飛んだ。
(良い一撃をもらったね……)
衝撃ですぐには立ち上がれない。
ふと胴体にべっとりと付着した生温かい血に気付く。視線を落とすと、ウォール教の者だろうか……特徴的な服装の信徒達が、自分が倒れ込んだ衝撃で押し潰されていた。幼い頃に踏み潰した虫けらさながらだった。
前方から、片足を引きずるエレンが地響きを立てて迫ってくる。
(チッ……どうする。兵士がどんどん集まってきた。リヴァイ兵長もいるこの状況で、エレンのうなじを齧り取るなんて……)
無理にでもエレンを攫うか、逃走に徹するか。
その逡巡は脳裏に響いた父の言葉によって瞬時に霧散した。アニは踵を返し、壁に向かって一直線に駆け出した。
エレンの足はまだ万全ではない。他の兵士の刃など、硬質化したうなじには届かない。壁さえ登り切ってしまえばそこは平地。立体機動装置も満足には使えまい。
壁はもう目と鼻の先だ。あとはこれを越えるだけ。
(父さんに会うために、私は生きて帰る!)
その一心だった。だから彼女は気付かなかった。背後から大量のガスを噴かし、凄まじい速度で接近してくる影の存在に。
轟音はアニのすぐ背後で鳴り響いた。
エレンが再度巨人化したのかと思った矢先、右足からふっと力が抜ける。見下ろすと、アキレス腱が鋭利な何かで無惨に削り取られていた。
背後に気配を感じ、咄嗟に振り向いて硬質化した腕をかざす。だがその腕は巨大な顎によって、手首から先を無慈悲に食いちぎられた。
鮮血が迸る。血飛沫の向こうに、どこか見覚えのある小柄な巨人がいた。
巨人を引き剥がそうと左腕を伸ばすが、その鋭利な爪がアニの腕を背後の壁もろとも深く抉った。これで両腕が使えない。
(まさか——『
その動揺を見逃さず、顎はアニの視界を奪った。
(何も見えない……!クソッ、こいつ、使い慣れて——)
思考の途中で甲高い立体機動の音が耳を掠める。そう思う間もなく、残された左足の感覚も消えた。リヴァイに筋を切られたのだろう。
(駄目だ、これじゃあもう…!)
一瞬の混乱と絶望がアニの思考を麻痺させる。巨体を支えきれず、アニはついに膝から崩れ落ちた。
追撃とばかりに女型の頭部へ万力のような力がかかる。覚悟を決める暇もなく頭部は顎によって食いちぎられ、アニの上半身だけが陽光の下に晒された。
光を背にアニの前に佇むその巨人の姿は五年前のあの日、自分達を恐怖に陥れた無垢の巨人に酷似していた。
地面に倒れ込んだ女型の上に、巨人化したエレンが乗りかかり、その身を抑えつける。周囲を調査兵団の兵士達が取り囲み、歓喜と、突如現れた謎の巨人への困惑に満ちた声を上げていた。
拘束される。拷問にかけられる。そして父に会うことも叶わず、王政に消される。アニは己の未来を一瞬のうちに悟り、絶望した。
『アニ……俺が間違っていた。今更俺を許してくれとは言わない。けど、一つだけ頼みがある』
薄れゆく意識の中、父の声が聞こえる。五年前、故郷を発つ日の朝に聞いた最後の言葉だ。
『この世の全てからお前が恨まれることになっても父さんだけはお前の味方だ。だから……約束してくれ。帰ってくるって……』
アニは最後の力を振り絞り、自らの身体を結晶化させた。父の言葉だけを胸に、その意識は深い闇の中へと沈んでいった。
◇◇◇◇
『海を見に行こう』
凛とした声が響く。一体誰の記憶だろう。自分よりもかなり低い目線から見える世界は、何もかもが途方もなく大きく見えた。
目の前にそびえ立つ壁はどうすることもできないほど高く、その頂は空の青に溶けている。
あの壁の向こうに海があるのだろうか。
声の主は、同じ目線にいる子どもの手を引く。その小さな手に導かれるように、歩みは海へと向かった。
やがて視界いっぱいに広がったのは、どこまでも続く蒼の世界だった。砕けた陽光が宝石のように水面で煌めいている。寄せては返す波の音は優しい子守唄のようで、遥か彼方では鳥の鳴き声がした。
何にも縛られず、自由に空を駆けるその姿がひどく羨ましかった。
長い、長い夢を見ているようだった。
楽園の記憶のようでいて、決して目覚めることのない地獄にも似ていた。
私がこの悪夢から目を覚ますのは、ずっと先のことだった。
次話からまた展開が変わります。
【裏設定(今のところ本編で深堀する予定なし)】
Q:なぜリヴァイは負傷してないの?
A:原作では女型の巨人との戦闘時、エレン救出よりも女型の討伐を優先してしまったミカサを庇った結果、リヴァイは足を負傷しました。しかし本作のミカサは解散式の夜、ジルの前で改めて「エレンを守る」と誓っています。その誓いの言葉のおかげで彼女は原作よりも僅かに冷静さを保つことができ、女型の討伐よりもエレンの救出を優先しました。その結果、リヴァイが負傷する展開が回避されました。
ここでも、ジルの行動が巡り巡って本人の意図しない結果をもたらした形になっています。
Q:顎強すぎじゃね?
A:エレンやリヴァイとの戦闘で原作よりもアニが極度に疲労している+訓練の賜物です。