『ねぇ、海を見に行かない?』
革命軍の集会からの帰り道、衝動的にそんな言葉が口をついて出た。
夕陽に染まる海は復讐で乾ききった私の心をも揺さぶるほどに雄大で、美しかった。砕けた陽光が宝石のように水面で煌めき、寄せては返す波の音は優しい子守唄のようだ。遥か彼方で鳥の鳴き声が聞こえた。
エレンは私の隣で静かに煙草を燻らせている。その横顔を夕陽が赤く染めていた。
『エレン、指輪をありがとう。この武骨な感じ、あなたの人柄がよく出てる気がする』
何を言っているんだ、私は。
全てはエルディア復権のため。この男は形だけの夫だろう。任務以外の言葉を交わすことなど、これまでほとんどなかったはずだ。感情移入して何になる。
そう分かっているのに、このどうしようもない想いを伝えられずにいられなかった。
『……ごく普通の家庭を持てたらいいなって、たまに妄想したりしてるの……誰にも言わないでね?』
幼き日に抱き、復讐の炎の中に捨てたはずの夢。その言葉にエレンは少し驚いたような顔をして、それからふっと笑った。初めて見たその笑みは私の心を不意に締め付けた。
◇◇◇◇
目を開けた瞬間、飛び込んできたのは知らない天井だった。
ごつごつとした石造りの天井が無言の圧を与え、壁からは絶えず水滴が滴り落ちる。室内はひどくじめっとしていた。
古めかしい簡素なベッドの前には無骨な鉄格子が嵌め込まれており、カビと汚物が混じり合ったような淀んだ空気に、思わず鼻をひそめる。
(独房……?どういう状況だ、これは?)
確か私はセラに泣きつかれて病院の仕事を手伝った、その帰り道だったはずだ。
軋むベッドから身を起こそうとして手元に冷たい金属の感触が走った。見れば、床から伸びる鎖が重々しい手枷となって私の手首を戒めている。
「……え?」
思わず漏れた声は自分のものとは少し異なって聞こえた。さらに言えば、見慣れない白髪混じりの髪が肩をかすめている。指でつまむと、ウェーブがかった感触は失われ、栄養不足なのか酷くごわついていた。
鏡を探して部屋の中を見渡す。すぐ右隣の壁に、小さな手洗い場とその上に鏡が取り付けられていた。恐る恐る覗き込むと息が止まった。
そこに映っていたのは、私と顔の作りは酷似しているものの――おそらく私が20年ほど歳を重ねればこうなるであろう、見知らぬ女の姿だった。
混乱する私など意に介さず、鉄格子の外で椅子に座っていた看守二人が立ち上がった。青と白の翼を背負った制服の男と、一角獣をあしらった男だ。
彼らは重い扉を開ける時、私を化け物でも見るかのように冷たい目で見下ろし、無言で立ち去った。
牢獄、手枷、看守、そして革命軍としての活動……状況を総合すると一気に血の気が引いていった。もしマーレ治安当局に捕らえられたのなら、今の状況を説明できる。
(いや、待て……やはり何かがおかしい)
しかし、腑に落ちない点がある。一つだけではなく、幾つも。
あの看守達が纏っていた制服と紋章はマーレのどの組織のものでもない。生地もどこか前近代的であり、現代の紡績工場で生産されているそれと全く質が異なっていた。途上国から輸入したのだろうか、しかし虚栄心の塊であるマーレの政府機関が他国産の制服を取り入れるなんて考えられまい。
彼ら看守がマーレの関係者でないとすると、反エルディアを掲げる他国の組織に拉致されたのだろうか?
だが、その動機がよく分からない。私の持つ巨人化学の知識か、それとも革命軍の機密情報か。
そもそもなぜ私は老いている?まさか20年以上の間、意識を失っていたのか?私はただ家に帰ろうとしていただけなのに。
わからないことだらけだが、いずれにせよ楽観視できる状況でないことだけは確かだった。
考えあぐねているうちに、再び重々しい扉が開く音がした。現れたのは金髪長身の男と黒髪の小柄な男、時代遅れのライフルを背負う髭面の男、後は種々の神具を身に着けた僧侶だった。
僧侶は私を見るなり牢へ駆け寄り、鉄格子を掴んで吼えた。
「ジルケ・シュタイナー!!この悪魔め!!貴様、今までよくも騙してくれたな!?」
謂れのない罵りはエルディア人にとって日常茶飯事なのだが、ここまで一方的かつ理不尽なものは初めてだった。
この僧侶に私は全く心当たりがない。出会ったことなどないと断言できる。
にもかかわらず僧侶はまるで長年の信頼を裏切られたように罵ってくる。不可解極まりない。
それにジルケ……シュタイナー?それはセラの苗字じゃないか?
なぜ私がそう呼ばれる?尊敬と色恋を履き違えたあんなガキと勘違いされるなんて甚だ心外なのだが……。
「……どこかでお会いしましたか?」
「き、貴様!この期に及んでしらばっくれる気か!!」
「いや、しらばっくれるも何も本当に面識がないのですが……」
その後も私は目の前の僧侶と不毛な問答を続けた。やれ教会の恩義をどう受け止めていただの、外から来た悪魔だの、散々な言いようだった。
しかし、その言葉はどれもピンと来なかった。
「神聖なる壁を欺き侵入した悪魔が!」
「だから!さっきから何の話をしてるんだ!?収容区のことでも言ってるのか?」
「とぼけるでない!貴様があの子に近付いたのも、全て計算の上だったのだろう!? 悪辣な魔女め!」
腕章をしていないところを見ると僧侶はエルディア人ではなのだろうが、初対面の男にここまで罵られる筋合いはない。どうせなら最期くらい口汚く罵ってやろうかと思った、その寸前。金髪の男が静かに口を開いた。
「……待て、様子がおかしい。ニック司祭、ここは私に任せてもらえますか。リヴァイはハンジを呼んできてくれ。それとアルレルトもだ」
金髪の男が指示を出すと、黒髪の小男――リヴァイは「……了解だ」と短く応じて出て行った。そして僧侶――ニック司祭もはあはあと肩で息をしながら、どうにか怒りを鎮めたように頷いた。
私も少し落ち着きを取り戻したところで、先ほど口論した僧侶の神具の意匠に違和感を覚える。
三人の女性の横顔。あのデザインを見たことがある。かつて長老に教わったマリア、ローゼ、シーナ――偉大なる始祖ユミルの三人娘であり、エルディア帝国時代の多くの絵画にモチーフとして登場する。人類史とは切っても切り離せない偉人達だ。
この男、まさか歪んだ解釈で始祖ユミルを信仰するカルト宗教の人間か?こういった手合いは帝国崩壊後、各地で散見されたが――
(待てよ……『
ニックの言葉が脳内で反響する。
現在の歴史観では、始祖ユミルの三人娘たちは悪辣なマーレによって悪魔の手先という評価に捻じ曲げられてしまった。当然、彼女達を公然と崇め奉ろうものなら、世界中のどこであろうとお縄だろう。そんな信仰を持つこと自体が罪になるはずだ。
そう、
そして、あの島に築かれた三重の壁の名も、三姉妹の名だったはずだ。
(まさか……!)
見知らぬ制服、前時代的な物品の数々、世界的にタブーとされる信仰、壁……それらが一つとなってとある可能性に思い至らせる。口の中が急速に乾いていくのを感じた――
「まさかこのような形で相見えるとは予想もしていなかったが……初めまして、と言っておこう。私はエルヴィン・スミス。調査兵団の団長を務めるものだ」
「調査兵団……?」
「初めて聞くような反応だな。それも追々尋ねるとしてだ。まずはあなたの名前を教えてもらおうか」
「……名前は後で伝える。その前に一つだけ教えてほしい」
私は手元の鎖を揺らしてみせた。
「なぜ私はこんな場所に繋がれている?あなた達の様子からマーレ治安当局でないことは分かるが……だとすれば拘束される謂れはないはずだ。事情を教えてくれないか?」
「お、おいエルヴィン!何を言ってるんだ、こいつ!?」
「落ち着け、ナイル。ふむ……嘘を言っているようには見えないな」
金髪の男――エルヴィン・スミスは動揺する髭面の男を制し、私を値踏みするように静かに見つめた。
「つい先刻あなたは巨人化して、ストヘス区に潜伏していた女型の巨人を倒したのだが、本当に記憶にないのか?現場の報告によると、強大な顎と鋭利な爪が特徴的な巨人だそうだ」
「私が……巨人に!?そんな馬鹿な!」
どういう事だ。意識を失っている間に『進撃』を継承したのか?いや、この男の語る特徴は
混乱する私を、エルヴィンはなおも検分するように見つめた。
「その反応……巨人の力そのものは知っているようだが、それを身につけた覚えは?」
「……全くない。私はさっきまで病院から帰る途中だったはずだ。そして気付けばここにいた」
「ここはウォール・シーナにあるストヘス区憲兵団支部の地下牢だ。先ほどの『調査兵団』と併せて、今出てきた単語で意味の取れるものはあったか?」
ウォール・シーナ。俄かには信じがたいが、私の最悪の予想は的中したようだ。エルヴィンの問いに私は力なく首を振った。
「……最後の質問だが、あなたは壁の外の世界を知っているか?あなたは——何者だ?」
エルヴィンは、気色の悪い笑みを浮かべながら尋ねてくる。
隠しても無駄だ。おそらくこの男
それに私も状況を把握したかった。今が何年で、外はどういう状況か……エルディアの復権は成ったのか確認しなければならなかった。
「私はジルケ・クルーガー。察しの通り、壁の外からやってきた……あなた達『壁内人類』と同じエルディア人だ」
◇◇◇◇
「状況を整理しよう」
ハンジのゴーグルがきらりと光る。地下牢の暗闇に、反射した光が一筋鋭く走った。
「ジルケ・シュタイナー……いや、ジルケ・クルーガー。君は壁外の人間であり……君の話を信じるならば、壁の外の人類は滅んでなどいない。そして我々『壁内人類』を脅かす人喰い巨人の正体は人間であり、我々はかつて世界を支配したエルディアというクニの中でも巨人になれる特別な人種『ユミルの民』だった」
ハンジの隣で書記を務めるアルミンが、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「今から100年前、エルディアで『巨人大戦』という内紛が起き、戦いに疲れた当時の王が『始祖の巨人』の力を行使して我々のいる土地――パラディ島に三重の壁を立てた……この偽りの楽園を壊そうとするならば、『地鳴らし』で世界を踏み鳴らすと警告を残して。ストヘス区の壁のみならず全ての壁に巨人がいるのは、その『地鳴らし』を成し遂げるため……か」
「理解が早くて助かる」
だが、少し補足が必要だ。これだけは違えてはならない。
「重ねて言うが、『壁内人類』の王に戦う意志はないぞ。私も全容を把握しているわけではないが、第145代フリッツ王は始祖の巨人と『不戦の契り』を交わした。『地鳴らし』が抑止力になる間に束の間の平和を享受するつもりだ……民を道連れにエルディアの滅亡を望んでいるんだ。その事もちゃんと理解しておいてくれ」
「もちろん分かってるけど……えらく強調するね」
「当然だろ。『壁内人類』の現状を理解する上では極めて重要な事実なんだ……本当に反吐が出る」
戦いから逃げた王を許してはならぬ。長老が残した言葉が蘇り、私は怒りに任せて舌打ちした。
「……だが、その抑止力も虚しく、始祖の巨人を狙って壁は壊された。それが五年前から始まった超大型巨人達の襲撃であり、壁内は危機的状況にある……だよね?」
「ああ。マーレがどこまで始祖の情報を握っているか分からないが、少なくとも『不戦の契り』の存在を知らないと、ここまで思い切った行動には出られないはずだ。情報の出所も検討はついている――先の巨人大戦でマーレ側についたタイバー家だろう」
「そのマーレってのはクニの名前なんだよね?何度聞いても理解しがたい概念だな……」
外の世界を知らぬ壁の中の住人には、理解の範疇を超えているだろう。人為的に引いた国境を巡って愚かな争いを続ける外の連中の浅ましさなど。
そこへ、アルミンがおずおずと口を挟んだ。
「……そしてジル先生は医療従事者としてマーレ人になりすます傍ら、エルディア帝国の復活を目論む革命軍の一員だった。それがどういうわけか、目を覚ますとこの壁の中に……」
「その通りだが……その先生って呼び方、やめてくれないか?私は君の先生でも何でもないだろう」
檻の向こうの反応は様々だった。
事態を飲み込めず呆然とするハンジとナイル、どこか物悲しげに俯くアルミン、絶句したまま立ち尽くすニック司祭、表情こそ変わらないものの冷や汗を垂らして事態の深刻さを悟るリヴァイ。
中でも生気を失った瞳で虚空を見つめるエルヴィンの姿が、何故かひどく印象に残った。
「こちらも確認させてもらうぞ。
「調査兵団が調べた限りではね」
「その後はウォール教の開拓地で二年、訓練兵団で三年を医者として過ごした。ニック司祭によると、
「そ。どうやって君が調査兵団の作戦を察知したのかは謎のまま……情報が漏れ出た形跡がないか調べてる最中だが、おそらく何も出てこないだろうね」
我が事ながら俄かには信じがたい話だった。
「まったく覚えてないの?」
ハンジの問いに私は首を振る。そもそも、この私が他人のために我が身を危険に晒すとは到底思えなかった。
「ふざけるな!いくら何でもありえないだろう!」
「……私がマーレのスパイだとでも言いたいのですかな?ナイル師団長殿?」
「当たり前だ!エレン・イェーガーが巨人の力を都合よく忘れていたことさえ、未だ俺は納得していない!貴様自身も言っていたではないか、
「壁内人類には知り得ない情報をここまで明け透けに話す輩など、それこそスパイ失格だと思いますがね」
「なんだと貴様!」
「落ち着きなって、ナイルさん。ジルケもあまり挑発しないの」
ハンジは私達の間に割って入る。
「その理屈だと辻褄が合わないよ、ナイルさん。現場に居合わせた調査兵とニック司祭の証言では、彼女は女型の巻き添えを食らった知人の亡骸を目撃して、激情に駆られて巨人化したらしい。現にその後、彼女は女型に奇襲をかけ、おかげで我々はアニ・レオンハートを捕縛できた。つまり、
「その裏をかいた芝居ということも考えられる!……だが真相を確かめようにも片や記憶喪失、片や結晶の中ではそれすら叶わないか。くそっ、エレン・イェーガーの時といい、どうして巨人共は肝心なことを覚えていないだ……」
そう吐き捨て、ナイルは敵意を剥き出しにした視線を私に向ける。
その視線を受け流しながら、私は彼の口にした「エレン」という言葉に、心のどこかが引っかかっていた。その響きだけがやけに馴染み深く感じられた。
「もう一度確認させてもらうが、超大型が開けた穴を塞いだのはエレン・イェーガーで間違いないな?エレン・クルーガーではなく」
「……本当に何も覚えてないんですね、ジル先生」
「先生は止めろって言ってるだろう」
ぽつりと、アルミンが悲しみを滲ませた声で呟く。
「おい、アルミン。このクソ隈女の旦那はエレンって名前なのか?」
「はい。以前クリスタから聞きましたが、五年前のシガンシナ区陥落で旦那さんと娘さんを亡くされたそうです。その旦那さんのお名前がエレンだと」
「そうか。といっても、どうせその話も嘘だろうがな」
放心状態だったニック司祭が、クリスタという名が出た途端、飛び上がらんばかりに驚愕した。その少女に何か裏があるのだろうか。
「私にエレンという夫がいるのは事実だ。だが……私が気を失ってから20年近い月日が経っているのなら、今頃どうしているかは分からない。娘も、その間に産んだのかもしれない」
あのエレンと子供を作るなど考えたこともないが……と、内心で嘯いてみせる。
「その……後天的に巨人の力は備わるものなんでしょうか?その20年の間に先生は巨人の力を獲得したと思うのですが……」
「……いや、分からないな。巨人の力はマーレの軍事機密でな、私も詳細まで把握し切れていない」
「ああもう、何が何だか分からなくなってきた……」
混乱するアルミンを尻目に、内心舌を出してみせる。ユミルの呪いと巨人の力の継承方法。少なくともこの場では、まだ隠し通せそうだ。
まだ私の信頼を得られてない以上、ここで彼らに継承方法を教えれば、
マーレ本国がどうなっているか分からない。いや、どういう経緯かは依然として不明のままだが、革命軍は既に無いものと考えた方がいい。
(何としても生き延びてみせる。マーレを滅ぼし、エルディアに真の自由と誇りを取り戻すためにも……!)
一人私が決意を固めると、ハンジは顎に手を当てたまま言った。
「アルミンとニック司祭に聞きたい。二人から見て、今の彼女は以前のジルケ・シュタイナーと比べてどうだい? まるで別人のように見えるんだよね?」
「ええ……雰囲気から話し方まで、何もかもが違います。嘘だけでここまで違う性格を演じられるとは到底思えません」
アルミンがか細い声で答えると、ニック司祭も静かに頷いた。
「現状を総合すると、だ。おそらく彼女には二つの人格が存在する。今我々が話しているのは、オリジナルの人格……ということではないだろうか」
「……どういうことだ、クソメガネ。順序立てて話せ」
リヴァイの苛立った声に、ハンジは待ってましたとばかりに語り始めた。
「あくまで仮説だよ。私だって専門家じゃないから鵜呑みにはしないでくれよ?以前読んだ本の内容と、長年調査兵団に所属し巨人の恐怖に晒された人間を見続けてきた経験に基づいて、私なりの見解を話そうと思う」
途中、ハンジはニック司祭へ非難めいた視線を向けたが、すぐに私の方へと向き直った。
「何年も昔……それこそリヴァイが入る前、壁外調査に行く時も同じ班じゃないと嫌だなんて言う、バカップルが私の部下にいたんだ。だけど、ある壁外調査で恋人が巨人に喰われるところを目の当たりにした。彼自身も喰われる寸前まで追い詰められたけれど、私が助けて命からがら生き延びた」
ハンジの口から突如語られる悲劇を、皆が固唾を飲んで見守った。
「壁内に帰還し目を覚ました彼は、恋人の死を記憶からすっぽりと失っていた。それどころか、粗暴な別人へと変貌していたんだ。単に巨人に恐怖したとかそんなんじゃなくて、まさしく魂が入れ替わったという表現が最適だったよ。ジルケ、ちょうど君の身にもそれに近いことが起きているんじゃないかな」
我が事ながらまるで実感がない。私はその話を他人事のように聞いていた。
「それで、そいつは最終的にどうなった?」
「死んだよ。ある日、恋人の好物を食べている時に元の人格に戻ったらしくてね。全てを思い出して……首を吊った」
重い空気が地下室に落ちる。ハンジはそれを振り払うように話を締めくくった。
「他にも頭に強い衝撃を受けて人格が豹変した症例を聞いたことがある。何も心因性だけが理由じゃない……いや、この際原因はどうだっていいかもしれない。要するに君にはジルケ・クルーガーとジルケ・シュタイナーの二つの人格がある」
「……なるほど。だとするとその別人格がシュタイナーさんというわけか」
「ああ。今の君は幼少の頃の記憶を覚えているから、時系列的にはクルーガーの方がオリジナルだろう」
オリジナルと言われても、未だに別人格の存在がピンと来ないせいで「何を当たり前なことを」としか思えなかった。
「20年ほど前、何かがきっかけでシュタイナーの人格が生まれ、クルーガーの人格は長い眠りについた。だが、ストヘス区の一件でオリジナルが目を覚ました。これなら、20年分の記憶を丸々失っている点と人格が豹変した点を合理的に説明できる」
「開拓地時代の子どもを守れなかったショックでジル先生の記憶と人格は無くなった……僕のよく知るあの人なら、そうなっても不思議じゃありませんね」
アルミンの悲しげな声が響く。あれほど敵意を剥き出しにしていたナイルでさえ、同情を滲ませた視線を向けてきた。
ハンジの仮説はあながち間違いではないのだろう。むしろ100年も遅れた知識でよくぞそこまで思考を巡らせたものだと、舌を巻くほどだった。
自分が眠っている間に何が起こり、どういう生活を送ってきたのか、漠然とだが理解できた。しかし腑に落ちない点も多い。
ハンジの仮説に従えば、私はパラディ島に来るまでの間別人格でマーレで過ごしていたことになる。スパイとして活動しながら、よくバレなかったものだ。
それに、二年同じ開拓地で過ごしたとはいえ、ろくに顔も合わせていない人間の死でそれほど致命的なショックを受けるものだろうか。
聞けばトロスト区の一件で、三年間同じ兵舎で生活を共にした訓練兵の無残な遺体をさんざん目の当たりにしたらしい。ある程度、身近な人間の死への耐性がありそうなものだが。
(まあジルケ・シュタイナーさんとやらが慈悲深く繊細な性格というなら、あり得るのかもしれないが……)
アルミンの反応からして、どうやら私の別人格は相当な「良い人」だったらしいが……
何かが引っかかる。しかし、私はその違和感をひとまず心の隅に追いやった。
今となってはその別人格のことを知る術もない。再び体を乗っ取られる不安は残るものの、これ以上考えても仕方がない。
ハンジも言った通り、原因なんてどうだったいい。今の主役は私――ジルケ・クルーガーなのだから。
「ジルケ・クルーガー、一つだけ……良いか?」
先ほどまで無言を貫いていたエルヴィン・スミスが私の目線まで腰を落とす。その瞳からは何の感情も読み取れない。先ほどの覇気と気色悪い笑みはどこにもなかった。
「始祖の巨人は人類……いや、君に言わせれば『壁内人類』か。我々『ユミルの民』である壁内人類の記憶を操作することは可能か?」
「――可能だ。事実、壁の王は100年前に民から記憶を奪い、この島へ逃げ込んだ。戦いから逃げたんだ……2000年に及ぶ偉大なる帝国の歴史に、自ら終止符を打ってまでな!」
語るうちに抑えきれない激情が込み上げてくる。歴史を奪われた彼らに、大陸に残された我々の無念をぶつけた。
「あまつさえ、壁の王は無垢に仕立て上げた民に囲まれて、そこを楽園だとほざきやがる!!王に見捨てられ、収容区の中に閉じ込められたエルディア人がどういう生活を送っているのか、一度見せてやりたいものだ!」
「そう……だったな。外の世界にも、壁はあるんだったな」
まるで飽きた玩具を見るような、感情の欠落した瞳でエルヴィンが呟く。その異様な様子にハンジも「エルヴィン?」と眉をひそめたが、彼はすぐに気を取り直したように言った。
「――情報提供に感謝する、ジルケ・クルーガー。君のおかげで我々が抱いていた疑問のほとんどが解消された。君が居なければ、我々はマーレの影すら見ることなく民族ごと滅んでいただろう」
「こちらこそ感謝したいくらいだ。素性の知れぬ私にここまで丁寧に付き合ってくれてな。それより団長殿、私から一つ提案があるのだが――」
「エルヴィン団長、大変です!」
大見得を切ろうとしたまさにその時、新たな人影が地下牢へ駆け込んできた。苦々しくそちらに目をやると、翼の紋章を背負った調査兵が息も絶え絶えに叫んだ。
「どうした、トーマ」
「ウォール・ローゼ内に巨人が多数出現……!壁が破られました!」
◇◇◇◇
「あと……4体か」
屋根瓦の上でミケ・ザガリアスが吐き捨てた。眼下では巨人共が我が物顔で闊歩している。仲間の援護も無い今、ここで奴らを掃討するのは無謀に過ぎる。
ウォール・ローゼ南方に無数の巨人を確認してから、およそ一時間。地平線の向こう側から現れた黒い影が、悪夢のように脳裏に焼き付いている。
ナナバ達は住民に避難を呼びかけながら壁の穴の調査へ向かったが、無事だろうか。トーマは? 果たして団長の下まで駆け抜けられただろうか。
思考を振り払うように、ミケは一体の巨人に意識を集中させた。
その巨人はミケに目もくれず、ただ悠然と歩き回っている。17mはあろうかという巨体もさることながら、ミケの視線を釘付けにしたのはその全身を覆う獣のような濃い体毛だった。
調査兵団として幾多の巨人と対峙してきたが、このような個体は見たことも聞いたこともない。
(ああやってただあたりを歩き回るあたり、奇行種に違いないだろうが……)
もとより自分の役目は、巨人を引きつける囮だ。これ以上の深追いは命を縮めるだけだ。馬が戻り次第、即座に離脱する――そう判断を下し、彼の鋭い視線は破られたであろうウォール・ローゼの壁へと向けられた。
(超大型と鎧の出現……奴らの狙いは何だ? エレンを諦めたのか? それとも、我々が女型を捕らえようとしていると察知し、この混乱に乗じて奪還するつもりか)
巨人の思考など、どれだけ巡らせても答えには行き着かない。ミケは短く息を吐いた。言いようのない不安が彼の胸をざわつかせる。
(新兵の中にアニ・レオンハートの共謀者はいなかった……俺たちが疑ったばかりに、彼らを無防備なまま死地へ放り込んでしまった。すまないことをした)
まだ幼さの残る彼らの顔が脳裏をよぎる。一人でも多く生き残ってくれればと願うが、それがどれほど甘い夢物語か、巨人のうなじを削ぎ続けてきた彼自身が一番よく分かっていた。
その時、主を呼ぶ鋭い嘶きが響き、愛馬が土煙を上げて駆けてくるのが見えた。
これで夜まで屋根の上で震えずに済む。ミケの全身から安堵と共に力が抜けた、まさにその瞬間だった。
長い腕が鞭のようにしなり、疾走する馬体を『獣の巨人』が鷲掴みにした。
「馬を狙った!?そんな、まさか!」
思考が追いつかなかった。獣は抵抗する馬を軽々と持ち上げると、屋根の上のミケめがけて投擲した。ミケは咄嗟に身を翻して直撃を避けたが、凄まじい衝撃に体勢を崩し、瓦屋根から宙へと投げ出された。落下する彼の眼前に涎を垂らした4m級の巨人の顔が迫る。
「ぎぃやあああああ!」
巨人の顎が、ミケの足を熟れた果実をもぎ取るように噛み砕いた。骨が砕け、肉が引き裂かれる激痛が全身を貫く。
死。その一文字が脳を支配し、彼は恥も外聞もなく泣き叫んだ。
だが彼が真の恐怖を味わうのは、ここからだった。
「待った」
獣の巨人が低く明瞭な言葉を発した。その一言で、ミケに喰らいついていた巨人はピタリと動きを止め、直立不動の姿勢をとる。さながら絶対の王に傅く兵士のように。
だが、命令に反して巨人は欲望を抑えきれなかったのか、再びミケの足に牙を立てた。全身を焼くような痛覚が再び襲う。
「あ?俺、待てって言ったよね?」
獣は心底不快そうに呟くと、巨人の頭を無造作に握り潰した。噴き出した血で汚れた掌を「うわぁ……」と汚物でも見るかのように顔をしかめて眺め、近くの地面で雑に拭う。拘束から解放されたミケは、ぐしゃりと地面に落ちた。
「その腰につけている武器は何ですか?腰に付けた飛び回るやつ」
痛みと理解を超えた光景を前に、ミケの思考は完全に麻痺していた。言葉を話し、他の巨人を従える巨人。
これは悪夢だ。悪夢に違いない。震えることしかできないミケを気にも留めず、獣は続けた。
「まあいっか、持ち帰れば」
獣が立体機動装置に指をかけた時もミケは身体を縮こませる他なかった。
獣は奪い取った装置を興味深そうに弄び、その精巧な作りに感嘆の声を漏らす。そのあまりに人間的な仕草が、ミケの恐怖を底なしの沼へと引きずり込んでいく。
「あ、そうだ」
獣は思い出したように、尖った耳をかきながらつまらなそうに言った。
「最後に聞いときたいんだけど、ジルケ・クルーガーって女医を知ってるか?深い隈と青い瞳が印象的な美人——いや、若い頃綺麗だったんだろうなって感じの人。どう?」
死の恐怖で飽和した脳に、その名前だけが不思議と鮮明に響いた。
ジルケ。ここ最近、どこかで聞いた名だ。霞む意識の中、必死に記憶の糸を手繰り寄せる。
(っ!シャーディス団長の手紙に…!)
そうだ。あの人がわざわざ寄越した手紙にジルケという名の女医を調査兵団に入れるなと書かれていた。名前と職業が獣の語る特徴と完全に一致する。
「……やっぱ知らないよな。まあ最初から期待してなかったから別に良いけど。砂漠の中から針一本を探し出すようなもんだし。じゃあもう用は済んだからーー」
「ま、待て!!」
生きたい。その一心で、ミケは声を振り絞った。獣の巨人が立ち上がりかけた腰を止め、真紅の双眸が再びミケを捉えた。
「苗字は違うが、心当たりがある!ジルケ・シュタイナー!確か三年前から訓練兵団の医務官をしているはずだ!直接会ったことはないが……」
なぜこの毛むくじゃらの巨人が人探しをしているのか。この情報が巨人勢力へ利することになるのではないか。そんな理屈はとうに吹き飛んでいた。ただこの対話を引き延ばし、一秒でも長く生きたいという本能だけが彼を突き動かしていた。
獣はミケの言葉を聞き、固まってしまった。何を考えているのか、その表情からは何も読み取れない。やがて、ぽつりと独り言を漏らした。
「……マジか。あのババアの戯言が当たるとは……。ってことはやっぱり『進撃』の継承者と共に壁内に逃げ込んだってことか?偽名として選んだ苗字も先生っぽいしーー」
訳の分からない言葉が続く。ミケはそれをただ呆然と眺めるしかなかった。
「ちなみにさ、あんた達はどこまで壁の外を知ってるんだ?マーレやエルディアって言葉に聞き覚えは?そもそも『国』って概念わかる?」
「ク、クニ?な、何を言ってーー」
「あー、その反応だと何も知らされてないな。まあ俺が同じ立場でもそうするか」
目の前の獣は、壁の外の世界を当然のように語っている。それは調査兵団が、いや人類が血を流して求めてきた悲願そのものだった。絶望の灰の中から兵士としての使命感が静かに息を吹き返す。
(こいつはエレンやアニ・レオンハートと同じ知性巨人だ!何としても生け取りにしなければ……!)
巨人に食い千切られた足の痛みも忘れ、ミケは瓦礫に手をついて身を起こそうとした。その顔には、自由のために心臓を捧げた兵士の光が戻っていた。
「とりあえず電報でも打っとくか。あの人、泣いて喜ぶだろうなー」
ミケとほぼ同じタイミングで、獣はむっくりと起き上がる。そしてこともなげに言った。
「あ、もう動いていいよ」
その言葉がミケ・ザガリアスが聞いた最後の「人の言葉」だった。獣に付き従っていた巨人達は、一斉に彼へと振り向いた。
更新頻度落ちます。
以下余談
本話にて調査兵団は原作よりもかなり早い段階で世界の真実を知ることとなりました。
一方で鎧や超大型は誰なのかはジルケにも分からない、という割とアンバランスな状態です。
ウトガルド城時点で調査兵団の面々がグリシャの手記を読んだ、とイメージいただくのが一番近いかなといった感じです。