エレンの妻です   作:ホワイト3

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03:白衣の女神

 中東の乾いた風が、砂と火薬の匂いを運んでくる。マーレでは味わったことのない陽射しに私は毎日辟易としていた。

 いつまでもこんなところに居たら肌が真っ黒になってしまう、なんて戦場には似つかわしくない感想を抱いた。

 

 この灼熱の前線に身を置いてから、二週間が過ぎようとしていた。

 志願、と言えば聞こえはいいが、事実上の強制連行だった。病院に届いた一枚の召集令状から、逃れる術はなかった。

 

 配属先は、後方に位置するマーレ軍の野戦病院。天幕を連ねただけの簡素な作りだが、設備だけは本国に引けを取らないという触れ込みだった。

 

 前線付近の病院と聞いて、私はてっきり血と膿にまみれ、不眠不休で負傷兵の治療にあたる過酷な日々を覚悟していた。

 映画で見た、ありきたりな戦場のイメージそのものだが、どうせなら、とことん足掻いてやろう。そんな半ば自棄っぱちな思いで、わざわざこの地までやってきた。

 

 しかし現実は、私の覚悟を嘲笑うかのように、驚くほど平穏だった。

 

「クルーガー女史、また難しい顔をしてますな。眉間の皺が深くなりますよ」

 

 そんな失礼な言葉をかけてきたのは、口髭を立派に蓄えたマイヤー医師だった。名医として名高い彼の従軍は「あのマイヤー先生が行くのに」という無言の圧力を生み、多くの医師が不本意な志願を強いられたと聞く。

 

 そんな彼の片手には、医療器具ではなく、なぜか蒸留酒が入ったスキットルが握られていた。

 昼間から堂々と酒を煽る姿は、もはや日常の光景だった。

 

「……いえ、何もしなくて良いのかと思いまして」

 

「はっはっは、貴女は真面目だ。そんな悩みは、お偉方に任せておけばいい。我々の仕事は、せいぜい擦り傷にチンキを塗ることくらいさ」

 

 悔しいが、マイヤーの言う通りだった。運び込まれてくるのは、訓練中に怪我をした兵士や、現地の気候にやられて体調を崩した者がほとんど。銃創や砲弾による重傷者は、数日に一人いるかいないか。

 

 なぜか。答えは単純明快だ。

 

 この戦争の最前線で、文字通り肉の盾となって戦っているのは、その殆どがエルディア人兵士だからだ。そして、負傷した「悪魔の末裔」たちは、我々「誉れ高きマーレ人」のいるこの清潔な病院ではなく、前線近くに作られた、隔離されたエルディア人専用の野戦病院へと送られる。

 

 なるほど、素晴らしい分業体制だ。汚れ仕事はすべて奴らに押し付け、我々は安全な場所でふんぞり返っている、と。

 

 これが、マーレ軍の誇る医療体制か。本当に聞いて呆れるものだ。

 

 吐き気がするほどの腐敗だった。天幕の隅では、数人の軍医が患者の容態ではなく、賭け金の額を叫びながらカードに興じている。

 

 だがここで正義感を振りかざしても、面倒な小娘だと思われるだけで何のメリットもない。私は革命軍のスパイであり、同時に何としても生き延びたいと願うただの転生者。目立つ行動は避けねばならない。

 

「私も一杯、いただいても?」

 

「おっと、お若いのにいける口でしたか。もちろん、歓迎しますよ」

 

 マイヤーからスキットルを受け取り、消毒用アルコールのような液体を喉に流し込む。焼けるような熱が食道を下っていく。

 

 不味い。だが、この狂った環境に順応するにはこの不味い酒が必要だった。

 

 私は従順なマーレ人医師を演じきる。不満を押し殺し、ただ静かに、この茶番が終わるのを待つだけだ。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 前線の音が、変わった。

 

 それまでは遠くで響くだけだった単調な砲声が、ある日から、不協和音を奏でるオーケストラのように複雑さと切迫感を増していった。

 

 大地を揺るがす振動がもはや日常となり、伝令兵が血相を変えて走り抜ける姿を日に何度も見かけるようになった。

 

「聞いたか? スラトア要塞からの増援が足止めされているらしい」

 

「援軍は何をしている?」

 

「『顎』が重症を負ったようだ。敵の新型対巨人野戦砲が、予想以上の威力だとか……」

 

「馬鹿な、マーレの誇る『九つの巨人』が遅れを取るだと!」

 

 酒とカードに興じていた医師たちの顔にも、焦りが浮かぶ。

 

 原作知識を持つ私には、現在の苦境を招いた原因が否が応でも理解できた。

 

 これは、マーレが巨人の力に胡座をかいていたツケだ。

 

 今はまだ萌芽が出たに過ぎない。しかし科学技術の進歩が、絶対的だったはずの巨人の優位性をまさに過去のものにしようとしている事は、疑い得ない事実なのだ。

 

 そして、その皺寄せはいつだって最前線の兵士たちへと向かった。

 

 ついにその時は来た。

 これまでとは比較にならない数のマーレ人負傷兵が、トラックの荷台に折り重なるようにして運び込まれてきた。

 

「前線が突破された! 第二防衛線まで後退する!」

 

「衛生兵! 早くしろ、出血が止まらん!」

 

 そこは阿鼻叫喚の地獄だった。今まで怠惰を貪っていた医師たちが、ようやく重い腰を上げる。私もすぐさま治療に取り掛かった。

 

「弾はここだ、まだ体内に残っている! 」

 

「輸血の準備! このままではショック死する!」

 

 血と汗にまみれ、アドレナリンが全身を駆け巡る。不思議と、身体は淀みなく動いた。

 だが、そんな奮闘も焼け石に水だった。次から次へと運び込まれる負傷兵に対し、人手も物資もまるで足りていなかった。

 

(マーレの計画性の無さには本当に嫌気が差す……)

 

 そんな混乱の極みの中、一人の男が現れた。

 

 ぼろぼろに汚れ、疲労の色を隠せない軍服。だが、その腕には、あの九つの星が描かれた腕章が巻かれていた。エルディア人だ。

 

 男は、マーレ人医師たちが居並ぶ前で、深く、深く頭を下げた。

 

「お願いします! 我々の野戦病院はもう限界です! 負傷兵で溢れ、医薬品も包帯も、何もかもが底をつきました! どうか、こちらの物資と人手を回していただけないでしょうか!」

 

 悲痛な叫びに、場が水を打ったように静まり返る。治療の手を止めたマイヤーが、吐き捨てた。

 

「……貴様らエルディア人のために割く薬品など、一滴たりともない。そもそも、お前たちが不甲斐ないせいで、我々の同胞がこうして苦しんでいるのだぞ。自業自得だ、帰れ!」

 

「その通りだ!」「悪魔の血に情けは無用だ!」

 

 同調する声が上がる。自分たちに火の粉が降りかかった途端、それまで盾にしてきた者たちを切り捨てる。これが、マーレの本性。

 

 男は唇を噛み締め、悔しさに震えていた。それでも、もう一度頭を下げようとする。

 

 その光景が私の心の奥底にある何かを強く揺さぶった。

 

 ダメだ、目立つな。面倒ごとに巻き込まれるな。そう頭では分かっているのに。

 

「私が行きましょう」

 

 つい滑り落ちた言葉は喧騒の中、奇妙なほどはっきりと響いた。

 

 しまった、と思った頃にはもう遅い。

 案の定、マイヤーが侮蔑と嘲りを混ぜたような笑みを浮かべてこちらを向いた。

 

「クルーガー女史、小娘一人がしゃしゃり出て、一体何ができるというんだ。ここはままごと遊びの場じゃないんだぞ」

 

 それを皮切りに周りから下卑た野次が飛ぶ。マイヤーは、私の若さと性別をことさらに強調するように、ねちっこい視線を送りながら言葉を続けた。

 

「レベリオでは若くして指導医だとか、随分と持て囃されているそうじゃないか。どうせ、女だからと有力者に下駄を履かせてもらっているだけだろうに。そんなお嬢様が悪魔の巣窟なぞに行っても、泣いて帰ってくるのが関の山だ。そのお綺麗な顔が泥と血で汚れるだけだぞ」

 

 カチン、と頭の奥で何かが切れる音がした。怒りというより、もっと冷たい、殺意に近い感情が湧き上がる。目立つ云々の思考などどこか遠くへ飛んでいった。

 

 私はゆっくりと息を吸い、笑みを顔に貼り付ける。

 

「ええ、その通りですよ、マイヤー先生。随分と立派な下駄を履かせてもらいました。おかげで、あなた方よりも少しだけ高い場所から物事が見えるようです」

 

 私の予想外の切り返しに、マイヤーの顔がみるみる赤く染まる。

 

「貴様、正気か?あんな奴らのところへ行っても何の得にもならんぞ!」

 

「得にもならない、ですか。マイヤー先生、我々は商人だったのでしょうか? 私は医者だと記憶していますが」

 

 私の視線は、マイヤーの奥でただ黙って俯いている数人の医師たちを捉えていた。

 

「……その腕章を外せば、そこにいるのはただの負傷兵です。医者が患者を選んで、一体何が残るというのですか。私は私の仕事をします……誰か、手を貸してくれる方はいませんか?」

 

 挑戦的な問いかけではない。ただ、静かに、そこにいるはずの「同業者」の良心に問いかける。

 

 私の言葉に、びくりと肩を震わせた若い医師、ハンスがおずおずと手を挙げた。

 そして意外なことに、いつも黙々と治療にあたっていた白髪の老医師、バウム先生までもが、静かに頷いた。

 

「……わしも行こう。もう見ているだけはごめんだ」

 

 その声に続くように、さらに二人の医師が立ち上がった。四人。数は少ない。だが、ゼロではなかった。絶望的な状況の中に差し込んだ、ほんの僅かな光だった。

 

 エルディア人の医師は、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、何度も私たちに頭を下げた。

 その傍ら、裏切り者を見るような目付きをしたマイヤー医師と視線がぶつかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 ああ、やってしまった。

 

 野戦病院を一歩出た途端、強烈な後悔が私を襲う。今後の扱いを考えると、憂鬱な気持ちになる。

 あの場で感情に任せて啖呵を切るべきではなかった。黙殺すべきだった。なのに気持ちが抑えきれなかった。

 

 エルディア人専用の野戦病院へ向かう道中、先導するエルディア人医師が、改めて私たちに感謝の意を示した。

 

「申し遅れました、私はイェーガーと申します。先ほどは本当にありがとうございます。この御恩は、決して忘れません」

 

 イェーガー。その名を聞いた瞬間、心臓が鷲掴みにされたかのように大きく跳ねた。

 

(グリシャの……父親……!)

 

 原作では、グリシャは医師である父の後を継いだと語られていた。面影もどことなくグリシャに通じるものがある。

 目の前の男が、物語の根幹を成す人物の父親かもしれないという事実に、眩暈を覚えた。運命とは、こうも皮肉な形で人を引き合わせるのか。

 

 知らず知らずのうちに、私は歴史の奔流の渦中に飛び込んでしまった気がした。

 

 そして目的地に到着し、天幕に一歩足を踏み入れた瞬間、言葉を失った。鼻を突くのは血と汚物、そして紛れもない死の匂い。

 そこは病院と呼べるような場所ではなかった。満足な寝台もなく、負傷兵たちが地面に敷かれた薄汚れた毛布の上に、折り重なるようにして転がされている。

 呻き声、助けを求める声、そしてもはや声にもならない喘ぎが、地獄の合唱のように響き渡っていた。

 

「これが……病院……?」

 

 ハンスが絶句する。

 違う。ここは、断じて病院などではない。死を待つ者たちのための、収容所と言っても過言ではなかった。

 

 イェーガーさんが、悔しさを滲ませながら力なく語る。

 

「面目ありません……。ここにいる医者とは名ばかりで、その殆どが簡単な応急手当を数時間学んだだけの兵士なのです。衛生知識もまともな縫合技術もない。ただ、気休めに傷口を拭って包帯を巻くことしか……」

 

 これでは治療どころか、傷口から感染症を広めているようなものだ。込み上げる吐き気を抑え込み、私は無理やり思考を切り替える。

 

 嘆いている暇はない。この瞬間にも、失われていく命があるのだから。

 

「まずは環境を整えないと…」

 

 私の呟きにイェーガーさんもハンスも、きょとんとした顔でこちらを見た。

 

「皆さん、いいですか?今から負傷兵全員の状態を確認し、治療の優先順位を決めます」

 

「つ、つまり、同胞を見捨てろということでしょうか!?」

 

「イェーガーさん、助かる見込みのある重傷者を最優先に治療するんです。平等に死なせるより、一人でも多く助ける方がいい」

 

 私はそう言うと、近くにあった焚火から燃えさしを一本掴み、負傷兵の一人に駆け寄った。

 

「この男は気道が塞がりかけています。呼吸ができなければ数分で死ぬ。最優先!」

 

 私は彼の額に、震える手で丸を記す。

 

「そこの兵士は足の骨が折れているだけだから命に別状はないでしょう。後回し!」

 

 額に三角を記す。

 

「そして……この兵士は……」

 

 腹部が大きく裂け、既に呼吸も脈も感じられない。一瞬の躊躇の後、私は彼の額に、黒く、冷たい×印をつけた。

 

「……手遅れです。気の毒ですが、見捨てる。私たちは神じゃない。救える命に全力を注ぐんです」

 

 私の非情とも思える行動に、ハンスもバウム先生も息を呑んでいた。だが、その目には次第に意志の光が宿り始めていた。何をすべきか分からなかった絶望的な状況に、冷徹で、しかし唯一の活路が示されたのだ。

 

「さあ、動いて! 時間がありません!」

 

 私の号令を皮切りに、ジルケ・クルーガーとして培った医療技術と、私が持つ現代の公衆衛生知識。その二つを武器に、この地獄に秩序をもたらす。

 絶望の収容所が、即席の野戦病院として機能し始める。それが私の本当の戦いを告げる合図だった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

--従軍医師ハンス・マイヤーの日記より---

 

【820年 X月 15日】

 この地獄に足を踏み入れて三日が経つ。いや、地獄と戦い始めて、三日と言うべきか。

 あの日、クルーガー女史が声を上げなければ、僕はきっと医者としての誇りを自ら踏み躙り、魂の抜け殻となってマーレに帰っていただろう。

 

 だが、今僕が立っているこの場所は、果たして医者の仕事場なのだろうか。

 彼女が持ち込んだ「トリアージ」という概念は、僕の倫理観を根底から揺さぶった。苦しむ者に順位をつけ、助からぬ者を見捨てる。

 

 僕にはそれが悪魔の所業と思えた。初日、僕は彼女に詰め寄った。

 

「なぜ見殺しにするんですか!あそこにいる兵士も、まだ息があるでしょう!」

 

 彼女は、凍てつくほど静かな瞳で僕を真っ直ぐに見つめ、こう言った。

 

「救えるはずの命を見捨てて、救えない命に固執する。それこそが偽善ではないのですか?」

 

 僕は、一言も返せなかった。返す言葉の代わりに、彼女が丸印をつけた兵士の止血に取り掛かる姿が目に映った。

 現に彼女の冷徹な判断によって、これまで為す術なく死んでいったであろうエルディア人兵士たちが、次々と命を取り留めている。その事実が、僕の正しさを――否、僕が正しいと信じてきたものの正しさをも、静かに否定してくるようで、ただ恐ろしかった。

 

【820年 X月 18日】

 クルーガー女史に休息という概念はあるのだろうか。

 

 彼女は治療の合間を縫って、現地の兵士たちに衛生管理の重要性を説き、簡易的な止血法や包帯の巻き方を指導して回っている。

 汚れた水で傷口を洗おうとした兵士を厳しく叱責したかと思えば、次の瞬間には不器用な手つきで包帯を巻く少年の手をとり、根気強く教えている。

 

 その姿は、まるで無知な彼らに光を与える教会の教師のようだ。

 

 彼女が考案した「経口補水液」――ただの塩と砂糖を水に溶かしただけの液体が脱水症状で死にかけていた兵士を救った時、僕は感銘を受けると同時に、ある種の不気味さを感じた。

 バウム先生でさえ「気休めにしかならん」と懐疑的だったその液体が、数日後には乾ききった兵士の唇に血の気を取り戻させたのだ。

 

 その知識は一体どこから来るのだろう。軍の医学校では決して教わらない、実践的な知恵だった。

 

 彼女は時折遠い目をする。まるでこの世の誰も知らない未来を、あるいは誰もが忘れてしまった過去を、たった一人で見つめているかのように。

 

 だが、彼女もまた完全無欠の存在ではなかった。

 

 昨日、彼女は連日の疲労からか、ある兵士の傷の深さを見誤った。幸いベテランのバウム先生がすぐ異変に気付き、事なきを得たが、彼女はひどく落ち込んでいた。

 自分の判断ミスが、一人の命を奪いかけた。その事実に、彼女の顔から血の気が引いていくのが分かった。

 

 天幕の隅で独り膝を抱えるその小さな背中を、僕たちは声をかけることもできず、ただ見守ることしかできなかった。

 

 その姿を見て僕は安堵している自分に気づき、愕然とした。

 言うまでもなく、彼女は決して神などではない。僕たちと同じ、過ちを犯し、見えない重圧に苛まれる、ただ一人の人間なのだ。

 

 その当たり前の事実がなぜこれほどまでに胸を締め付けるのか、僕には分からなかった。

 

【820年 X月 22日】

 今日治療を終えたエルディア人の若い兵士が、クルーガー女史の前に跪き、涙を流しながらその手を取った。腹を銃剣で抉られ、誰もが助からないと思っていた青年だ。

 

「ありがとうございます……先生は我々にとって神のような御方です」

 

 その言葉に、周りにいた兵士たちが堰を切ったように頷いた。この地獄で無数の命を救い続ける彼女は、彼ら兵士にとって希望の光そのものだった。

 

 白衣の女神。その呼び名はあっという間にこのエルディア人兵士たちの間に広まっていった。

 

 不思議な光景だった。僕自身エルディア人に対し、偏見を持たない方だとは思っていたが、クルーガー女史は僕の比じゃない。

 なぜ、彼女はこれほどまでに彼らに尽くすのだろう。何の得にもならない。それどころか、他のマーレ人から軽蔑の目を向けられると分かっているはずなのに。

 

 その日の夕暮れ、僕は思い切って彼女に尋ねてみた。

 

「クルーガー女史。なぜ、彼らにそこまで良くするのですか?」

 

 彼女は器具を消毒する手を止めず、僕に視線も向けずに答えた。

 

「目の前にいるのはただの傷ついた人間よ。それ以上でも、それ以下でもない」

 

 教科書に載っているような、しかしマーレ人医師の口から出るとは思えない言葉だった。

 

 ちょうどその時、イェーガーさんが故郷に残してきた息子の話を楽しそうに始めた。すると、それまで無表情だった彼女の瞳に、ふっと深い翳りが宿るのを僕は見た。

 それはほんの一瞬のことでいつもの微笑に戻ったが、僕の目には確かに焼き付いた。

 

 彼女は何者なのだろう。僕の中で彼女に対する興味と疑念が、日に日に強まっていくのを感じた。




なお作者は医療知識ゼロの素人です。
『仁』みたいな医療漫画を読んで「医者ってかっけぇ…」となってるクチなので、医療描写で「ん?」となっても、どうか生暖かい目で見守っていただけると幸いです。

※追記
一部キャラの名称を変更しました。
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