エレンの妻です   作:ホワイト3

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時間ができたので更新します。
また、ジルケの口調等に一部変更を加えてます。


33:奪還作戦③

 巨大樹の森の深奥から、天を衝くような光の柱が放たれた。間違いない、巨人化による閃光だ。

 アルミン・アルレルトは手綱に食い込むほど指に力を込め、愛馬の脇腹を蹴り上げた。風が耳元で暴風のように唸り、景色が色彩の帯となって後方へ飛び去っていく。

 

「いいか!光の位置から目測すると、鎧までの距離はさほど離れていない! 馬を走らせれば十分に追いつく距離だ! 森を抜けて鎧を発見したら、躊躇なく全速力で駆けてくれ!」

 

 アルミンの叫びに、並走する同期たちが顔を引き締める。だが、その瞳には隠しきれない困惑の色が滲んでいた。命を失うかもしれない恐怖よりも先に、理解の及ばない状況への苛立ちが勝っているのだ。コニー・スプリンガーが、風切音に負けじと声を荒らげた。

 

「け、けどよアルミン! 鎧の野郎には俺達の刃なんて通用しねぇだろ!?追いついたところで、どうやって仕留めりゃいいんだよ!?」

 

「お前、さっきの団長の話聞いてなかったのか!」

 

 即座に怒声を浴びせたのはジャン・キルシュタインだった。彼は焦燥と苛立ちを隠そうともせず、前を見据えたまま叫ぶ。

 

「俺達はあくまで陽動だ!奴らの注意を引き付けて、本命の(アギト)が鎧をやる! ……そういうことなんだろ、アルミン」

 

「ああ、その通りだ。付け加えると、ライナー達を撹乱する為に全員フードを目深に被っておいてくれ。誰が(アギト)の本体――ジルケさんなのか、一目で分からせないようにする為にね」

 

「……了解した。てか、あの人は味方でいいんだよな?ミカサもいねぇし、一体全体何がどうなってやがる」

 

「……今の所は」

 

 アルミンには、そう曖昧に答えることしかできなかった。歯切れの悪いその態度に、ジャンたちの喉元からかねてからの疑念が這って出てきているのが分かる。特に、故郷の村で家族を失ったコニーの動揺は、限界に達していた。

 

「いい加減教えてくれよ!あの人は何者なんだよ!?あの人なら……あの人なら俺の故郷で何が起こったのか、知ってるんじゃないのか!? なあ……アルミン、お前は何か知ってんだろ!?」

 

 悲痛な叫びが、アルミンの心臓を直接握り潰すように締め付けた。かつて、壁の秘密を頑なに守り通したニック司祭を、アルミンは軽蔑していた。だが今となっては、その沈黙の意味を痛いほど理解できてしまう。

 

 真実を知っているからこそ言えない。こんな極限状態で世界の真相など明かせば、混乱が生まれ、秩序は崩壊する。知ることは沈黙という呪いを背負い、共犯者になることと同義だった。

 

「ごめん、教えられない……今は目の前の任務に集中してくれないか?コニー」

 

「はあ!?ふざけんじゃねぇぞ!」

 

「やめとけ、コニー。アルミンにだって事情があるんだろうよ。こんな意味不明かつ自殺志願みてぇな作戦に、あいつが文句一つ言わねぇんだからな」

 

 ジャンの制止に、コニーが唇を噛んで黙り込む。ジャンは鋭い視線を前方に向けたまま、舌打ち交じりに吐き捨てた。

 

「ま、文句なら団長に言うこったな。ったく、あんな一流の詐欺師みてぇに言葉を並べ立てやがって……ああ言われりゃあ、是が非でも行かなきゃならなくなるだろうがよ」

 

 ジャンの悪態を聞きながら、アルミンは胸の内で一人物思いに耽った。

 

 表向き、この作戦は「消耗している鎧への追撃」とされている。ただ、その実態は自殺行為に近い強襲作戦だ。理性ある兵士なら、誰も従わないだろう。  

 

 しかし、エルヴィン・スミスという男が口を開けば、話は変わる。

 

 彼は恐怖に震える兵士たちの前に立ち、地獄への片道切符を「人類の存亡を賭けた崇高な使命」へと書き換えてみせた。その声音は扇動者の熱狂というよりは、死神の囁きのように静かで、それゆえに抗えない説得力を帯びていた。

 

 彼は兵士たちに「死ぬ理由」を与えたのだ。無意味な死を最も恐れる人間心理を掌握し、その命をチップとして盤面に積み上げさせる。狂気すら孕んだそのカリスマ性が、兵士たちを死地へと駆り立てた。

 

 クリスタの正体を隠したまま、一流の詐欺師のように言葉を巧みにすり替える。無茶な作戦に違いない。だが、エルヴィンの手にかかれば、それは命を賭けるに値する美しい物語に聞こえてしまうのだ。

 

「……それで、君達にだけ伝えておきたいことがあるんだ」

 

 アルミンは覚悟を決めて切り出した。この欺瞞の中で、せめて仲間には一欠片の誠実さを示したかった。

 

「なんだよ?」

 

「多分、陣形の先頭に近い僕達が一番早く鎧の元へ到着するはずだ。もしチャンスがあれば、クリスタを奪還して戻ってきて欲しい」

 

 その言葉にジャンの瞳孔が開いた。

 

「そりゃあ……生きてるなら連れ戻してやりてぇが、俺達の目的はヘロヘロの(ライナー)の討伐だろ?それが作戦に関係あんのか?てか、クリスタは生きてんのかよ?」

 

「……実を言うとね」

 

 アルミンは僅かに声を震わせながら、しかし明確な意思を込めて告げた。

 

「この作戦の真の目的は、ライナーたちが攫ったクリスタを奪還することなんだ。ミカサもその為に、リヴァイ兵長と同じ特別班にいる。皆にはそれを念頭に置いて動いて欲しい。詳細は……生き延びたら必ず話す」

 

「……それも団長命令ってやつか?」

 

「ああ。それに申し訳ないけど……これはクリスタ自身の口から聞くべき話だと思うんだ」

 

 ジャンは呆れ果てたように首を振り、天を仰いだ。

 

「ったく、憲兵団の新兵は雑用に使い倒されるって話だが、調査兵団に比べりゃマシだな。こっちはいつだって訳もわからねぇまま心臓を捧げなきゃなんねぇだからよ」

 

「ジャン……」

 

「勘違いすんなよ?別に作戦を投げ出すつもりはねぇ。前の壁外調査だって、女型を炙り出せた上に最終的に捕える事ができたんだからな。団長だって勝算もなしに博打を打つほど酔狂じゃねぇのはわかる」

 

 だが、ジャンはそこまで言うと、アルミンを睨みつけるようにして区切った。

 

「けどな、アルミン。全てが終わったら絶対に教えてもらうぞ」

 

「……え?」

 

「ジルケ先生の正体、クリスタの秘密、巨人の謎……その全てをだ。心臓を捧げるに相応しかったのかどうか、確認する権利ぐらい俺達にはあるはずだろ」

 

 背後で聞いていたコニーとサシャも強く頷いた。

 ジャンの言う通りだった。彼らは何も知らぬまま死ぬにはあまりに多くのものを見すぎてしまっている。友の死、故郷の喪失、裏切り。真実の一端に触れる権利は、誰にも否定できないはずだ。

 

「……もちろん、そのつもりだよ」

 

 アルミンは頷きながら、心の中で自問した。

 

 世界の真相を知って――壁の向こう側には敵しかいないという絶望的な真実を知って、彼らはどういう反応をするのだろうかと。  

 

 絶望に膝を折るのか、それとも戦う意思を見せるのか。

 

(エレンなら、なんて言うんだろう)

 

 外の世界を誰よりも夢見ていたエレンは、自由のない世界を知って何を思うだろうか。想像するだけで、嫌な汗が背筋を伝った。

 

 その時、前方の視界が開けた。

 

「見えました!! 鎧の巨人です!!」

 

 森を抜けた先の平原。そこに異様な姿の巨人がいた。夕闇が迫る荒野を疾走する黄金の装甲。鎧の巨人だ。

 だが、その動きは先の戦いで見た時よりも明らかに鈍い。おそらく、周囲を徘徊する無垢の巨人に自身や同乗者を喰われぬよう、全身の硬質化を維持しているのだろう。関節の可動域が制限され、本来のスピードが出ていない。

 

「皆、フードを被ってくれ!今から鎧の巨人に接近する! 決して無理はしないで陽動に徹してくれ!」

 

「了解だ!」

 

 アルミンたちの叫びが風に溶ける。命と真実を賭けた、決死の追撃戦が幕を開けた。

 

 アルミンの指揮の下、馬をさらに進める。ものの数分もしないうちに、彼らは鎧の巨人の足元へと肉薄した。  

 

 地響きと共に土煙を上げながら並走し、鎧の背中を見やる。そこにはクリスタを身体に括り付けたベルトルトが、へばりつくように乗っていた。

 

 彼はフードを被ったアルミン達の存在を認めると、怯えるように鎧の巨大な掌の中へ身を隠した。その拒絶の仕草が、ジャンの逆鱗に触れた。

 

「おいおいおい、ライナー!ベルトルト!てめぇらこのまま逃げ通す気かよ!」

 

 ジャンが罵声を浴びせながら、アンカーを射出し、鎧の手へと回り込む。

 

「そりゃねーよ、お前ら。3年間一つ屋根の下で苦楽を共にした仲じゃねぇか。なぁベルトルト?」

 

 ジャンは手の向こう側に隠れたかつての友へ語りかけた。怒りだけではない、裏切られた友情の残り香がその声を震わせた。

 

「お前の寝相の悪さは芸術的だったな!いつからか皆、お前が毎朝生み出す作品を楽しみにしてその日の天気を占ったりした……けどよ、あんなことした加害者が被害者達の前でよくぐっすり眠れたもんだな」

 

「どうすりゃ皆で生き残れるか話し合ったのも……全部嘘だったのかよ!」

 

 悲痛な叫び声をコニーが上げる。彼らの言葉は刃となって、掌の中にいる青年の心を抉った。沈黙に耐えきれなくなったように、叫びが返ってきた。

 

「誰が人なんか殺したいと思うんだ!!」

 

 ベルトルトの慟哭が、風切り音を裂いて響いた。それは言い訳というにはあまりに悲痛で、告白というにはあまりに身勝手な叫びだった。

 

「人から恨まれて、殺されても……当然のことをした。取り返しのつかないことを。でも僕らは罪を受け入れきれなかった……!兵士を演じてる間だけは少しだけ楽だった!君達のことは本当に仲間だと思ってたよ!」

 

 ジャンやコニーが息を呑む。その叫びは演技には聞こえなかった。彼らの表情が、怒り一辺倒から、哀れみと困惑を含んだ複雑なものへと歪んでいく。

 憎むべき敵が、自分たちと同じように泣き叫んでいる。その事実は、引き金にかける指を鈍らせるのに十分だった。

 

「僕らに謝る資格なんてあるわけがない。けど、誰か……頼む。僕らを見つけてくれ」

 

 周囲の同期たちが言葉を失い、怒りと困惑の渦に飲み込まれる中、アルミンだけは奇妙なほど冷静にベルトルトの慟哭を受け止めていた。彼の心情を論理的にも、そして感覚的にも理解できてしまったからだ。

 

 始祖奪還。パラディ島の住人は世界を滅ぼす「悪魔」と定義されている。

 世界の人々からすれば、『地鳴らし』を止めるべく島に潜入したライナー達こそが英雄であり、何も知らずに安寧を貪っていた自分たち『壁内人類』こそが悪なのだ。

 

「ベルトルト、話をしよう」

 

 アルミンはあえてブレードを鞘に納めた。戦場の中、その仕草はあまりに無防備で、ジャンたちは驚愕に目を見開いた。それは、人類の仇敵である超大型巨人の本体に向けられるべき態度ではなかった。

 

(アギト)の巨人の本体から話を聞いたよ。君達マーレの戦士が壁内を襲ったのは……世界を救うため、なんだろう?僕には君の気持ちが痛いほどわかる。多分、僕が同じ立場なら『仕方なく』やっていただろう……君達と同じように、ね」

 

「ふ、ふざけんじゃねぇぞ!?アルミン、お前頭がおかしくなっちまったのか!?」

 

 ジャンの怒号が飛ぶ。

 

「こいつらがどれだけの人類を殺してきたのか分かってんのかよ!?それを『仕方なかった』で済ますつもりか!?冗談じゃねぇ!!」

 

 しかし、アルミンはジャンの怒りに取り合わない。彼の視線は、鎧の掌という閉ざされた壁だけに注がれていた。

 

「僕は知ってしまったんだ。壁の外のどうしようもない現実ってやつを……正直言って知りたくなかった。こんなことならずっと無垢のままで居たかったよ。でも……もう知らない振りなんてできない」

 

 驚愕はベルトルトも同じだったのか、鎧の掌越しに息を呑む気配が伝わってきた。

 

「君たちは壁の中に悪魔がいると教わってきた……何も知らない子供が何も知らない大人にそうたたき込まれてきた。でも、いざ壁の中で僕たちと過ごすうちに気付いたはずだ。僕たちは悪魔じゃない……ここにいるのは、君たちと同じ人間だって」

 

 ことさら落ち着き払った、もはや慈しみさえ含んだ声色。それはかつて、訓練兵時代に傷ついたアルミンを勇気づけてくれた医務官の声色を模倣したものだった。優しさが時として刃よりも鋭く、相手の懐に入り込む武器になり得ることを、アルミンは知っていた。

 

「ライナー、ベルトルト……辛かっただろう?今の僕にならわかる気がする」

 

「結局……何が言いたいんだよ、アルミン……!同情したいのか?憐れんでいるのか?」

 

「ううん、違うよ。僕は君達マーレの戦士と取引をしたいんだ」

 

 ベルトルトが疑問を含んだ声で「取引……?」と漏らした。

 

「君達の力を『壁内人類』の為に尽くしてくれないか?」

 

 アルミンのあまりの提案に、戦場の一角だけ時間が止まったように凍りついた。端で聞いていた鎧に至っては、兵士の刃よりもアルミンの言葉に意識を削がれ、脚を緩めたほどだった。

 

「もちろん兵団の厳しい監視下に置かれるという条件付きだけど、君達の身の保証は守ってみせる」

 

「正気かい……?ジャンも言ってた通り、僕らは君達『壁内人類』の仇そのものだぞ?」

 

「君達の罪を帳消しにするつもりはない。でも、こんな不毛な同胞同士の争いこそ敵の思う壺だろ!?ベルトルト!クリスタを連れてその掌の中から早く出てきてくれ!」

 

 ベルトルトが黙りこくる。鎧の足音と馬の蹄だけが響く中、アルミンからは彼の表情を窺い知ることはできない。冷や汗が頬を伝い、心臓が早鐘を打った。

 

 ややあって、ベルトルトが口を開いた。

 

「……アルミン、君は()()ジルケ・クルーガーから話を聞かされたのかい?」

 

 アルミンが息を詰まらせた。まさかベルトルトが(アギト)の正体に勘付いているとは思わなかったからだ。その一瞬の動揺を見抜いたように、ベルトルトの声から温度が消えた。

 

「クリスタがたまたま巨人の中から現れるところを目撃してね。今の反応で確信が持てたよ、ありがとう」

 

「だ、だけど何故彼女の本名を!?それはクリスタも知らないはずだ!」

 

「そりゃあ有名人だからね……彼女の発明のせいで、僕たち一家は収容区送りになったんだし」

 

 ベルトルトの声色から、先程までの迷いや弱さが消え失せていた。彼がここまで明確な敵意――殺意と言ってもいい感情を表に出すのは初めてのことだった。

 

「あの悪魔なんかに、収容区で生まれ育った僕達の気持ちなんて分かるわけないだろ!アルミン、君は……いや君達は彼女の言うことを鵜呑みにすべきじゃない」

 

 明かされるジルケの過去への疑惑。そしてアルミンの理解不能な交渉。情報の奔流に、コニーの限界が訪れた。彼は頭を抱え、半ばパニックに陥ったように泣き叫んだ。

 

「おいアルミン!さっきから何の話をしてるんだよ!?第一俺たちゃ誰を信じりゃいいんだ!俺は……お前ももう信用し切れねぇ!」

 

 コニーの絶叫が、張り詰めていた空気を粉々に砕く。ジャンもまた額に脂汗を浮かべながら歯噛みした。その視線の先、地平線の彼方から立ち上る土煙を見て戦慄する。

 

「ど、どうやってやがる……!前方から巨人多数!!ありゃあエルヴィン団長の仕業か!?」

 

 土煙を上げて迫る巨人の群れ。混乱の極みにある彼らを更なる絶望が襲う。

 

 誰も彼もが正気を失いかけていた。誰が敵で、誰が味方なのか。信じていた世界が足元から崩れ去っていく中で、アルミンは静かに一言こぼした。

 

「あとはお願いしますよ、ジルケさん」

 

 直後、彼らのすぐ背後で強烈な閃光が迸った。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

(……美しい)

 

 壁の上から見下ろす世界は、残酷なまでに澄み渡っていた。

 

 どこまでも続く地平線、風に波打つ青々とした草原。レベリオ収容区を覆っていた煤けた空や、監視の目に怯えていた閉塞感とは根本的に違う。

 

 ここには巨人が蔓延っている。地獄の釜の蓋の上だ。それなのに、そこはかとない自由と希望を感じてしまう自分がいた。

 

 昇降機が軋む音を立て、馬と兵士たちを次々と地上へ降ろしていく。私の番も近付いてきた。

 

「ジルケ、長距離索敵陣形は頭に入ったか?」

 

 隣で同じく壁外を見据えていたエルヴィン・スミスが、視線を外さずに問いかけてきた。

 

「ああ。一度聞いたら忘れられないくらい、よくできた陣形だ。無線通信もなしによくもまあ考え着くものだな……」

 

「ムセン?」

 

「いや、こっちの話だ」

 

 よく考えられている。巨人との遭遇率を下げ、生存率を上げる……対巨人戦の戦史においても指折りの戦術だろう。巨人という圧倒的な捕食者に生存を脅かされてきた『壁内人類』だからこそ生まれた発想だ。

 

 この男、やはり常人ではない。陣形の練度もさることながら、特筆すべきは兵士を鼓舞する、いや「欺く」能力だ。

 

 彼は全兵士の前で、ヒストリア・レイスが重要参考人であるという事実を巧みに隠蔽した。その上で「消耗した鎧の巨人を討伐し、人類の存亡を決定づける」という、一見すれば意味のある、しかし実態は自殺行為に等しい作戦へすり替えた。一流の詐欺師のように言葉を並べ立て、恐怖に震える兵士たちに「死ぬ理由」を与えてみせたのだ。  

 

「それで、具体的にどう動くつもりだ?団長殿?」

 

「先に君の考えを聞かせてくれないか?」

 

「ふむ……」

 

 私は眼下に展開しつつある兵団の戦力を値踏みし、静かに告げた。

 

「ヒストリア・レイスは、兵士の刃が届かない場所……例えば鎧の口の中や、掌の中などに拘束されている可能性が高い。そこからの強引な救出となると、やはり私が立体機動で鎧に肉薄し、巨人化するしかないだろう。奴の硬質化を砕けるのは私の(アギト)の爪と牙だけだ」

 

「同感だ。だが、敵も兵団の接近に気付けば、真っ先に君の存在を警戒するだろう」

 

「ああ。問題はいかにして奴らの注意を私から逸らすかだ。奴らに(アギト)の正体がバレていないのであれば奇襲も成立するが……不安材料が残る」

 

 ライナー達が「ジルケ・シュタイナー」をどう認識しているか。私の失われた記憶の中に、彼らに正体が露見するような瑕疵はなかったか。なにぶんシュタイナーさんの行動原理が読めないせいで、まったく想像がつかない。

 

「ジルケ。我々が近付いたところで、超大型が再び大爆発を起こす可能性はあるか?鎧ならばその爆風に耐えられるのだろう?」

 

「……いや、それはないな。超大型は燃費がすこぶる悪い。あれだけの大爆発を起こした後なら当分は使えないはずだ」

 

「そうか。それは好都合」

 

 エルヴィンの瞳に、冷たく鋭い光が宿った。そして彼がさらりと語り出した作戦概要を聞いた時、私は思わず絶句した。

 

「……お前、頭おかしいんじゃないのか?」

 

「よく言われる」

 

 私の暴言にも、彼は涼しい顔で答える。

 絶句してしまうのも無理もない。この男は、あろうことか「無垢の巨人を引き連れて鎧にぶつける」という狂気の作戦を口にしたのだから。

 

 仮に私がヒストリアを奪い返したとしても、鎧は諦めないだろう。体力の続く限り、兵団を執拗に追跡してくるはずだ。  

 しかし、無垢の巨人の群れに囲まれればどうなるか。奴らに敵味方の概念はない。ただ「人間を食う」という原始的な本能があるだけだ。  

 

 それも、奴らはただの人間よりも「知性巨人」を優先して狙う習性がある――まるで知性巨人を食えば自分が元の人間に戻れることを、本能で知っているかのように。

 

「無垢の巨人を鎧へけしかけ、足止めをする。その混乱に乗じてヒストリアを奪還し、兵団は離脱する……巨人を以て巨人を制す、か」

 

 鎧の意識が巨人の群れへの対処に割かれれば、その隙を突いてヒストリアを救出することはより現実的となるだろう。硬質化で身を守る鎧といえど、群れに押し包まれれば身動きが取れなくなる。

 

 だが、それは同時にヒストリア本人を巨人の群れという奈落の底へ突き落とすことにも等しい。鎧が守りきれなければ、あるいは乱戦の余波で、彼女は無垢の巨人の餌食となる。

 

 その上、巨人の群れを誘導し、鎧との乱戦の中に飛び込むのだ。その過程で、どれだけの部下が食われる?何も知らされていない兵士たちは、見ず知らずの少女一人のために、その身を巨人の餌として捧げることになる。

 

 あまりに大きな博打だ。だが、この男ならばやり切るだろう。数多の屍の上に立ち、それでもなお前を見据えるその背中には、有無を言わせぬ風格と覇気があった。

 

 やはり、この男は傑物だ。私と同じ、いや私以上に目的のためなら地獄をも舗装して歩ける人種。頼もしさと同時に、言い知れない恐ろしさを感じた。

 

「……憲兵の連中が、素直にてめぇの作戦に従ってくれるかは疑問だがな」

 

 最終点検を終えたリヴァイが、横から水を差した。エルヴィンは薄く笑った。

 

「従ってもらう必要はない。壁外に慣れていない彼らは、結局我々から離れては動けない。我々が先陣を切って走れば、彼らも生き残るために勝手に並走してくれるさ」

 

「私も相当アレな自覚はあったが……お前こそ本物の悪魔だな」

 

「それも、よく言われるよ」

 

 エルヴィンは自嘲気味に苦笑した。

 

「それより前段の陽動と偵察だが、アルレルトに任せるつもりだ」

 

「アルミンに?役に立つのか?」

 

「ああ。彼は非常に頭が切れる。女型の正体を割り出したのも彼だ。それに、ライナーとベルトルトとは同期の仲だ。奴らの為人を熟知し、言葉一つで動揺を誘える人間は、アルレルトが最適だろう」

 

「……まあ、団長殿がそこまで言うのなら」

 

 確かに頭は回りそうだが、いかんせん見た目が非力すぎて、この極限状況で信頼しきれない自分がいた。 だが――

 

(よくやった、アルミン!)

 

 鎧との邂逅――アルミンは敵の注意を十分引いたうえ、ベルトルトとヒストリアの位置を、敵に悟られることなく正確に伝えてくれた。これならターゲットを誤ることなく、躊躇いなく爪を突き立てられる。

 

 あの優しげな少年の顔をした彼もまた、()()()()の素質があるのかもしれない。私は口元を歪め、閃光とともに己の肉体を解き放った。

 

 狙うは鎧のうなじだ。私は爆発的な加速とともに、無防備な背中へと殺到する。

 

 だが、それを読んだように鎧が挙動を変えた。急激にブレーキをかけ、背中を庇うように反転する。その急な方向転換に、周囲で撹乱していた調査兵たちはついていくことができない。  

 さらに鎧は、まとわりつく羽虫を払うように、自身の肉体に刺さったアンカーの数々を強引に引き抜き、ワイヤーごと兵士たちを四方八方に投げやった。  

 

 迫り来る無垢の巨人の集団と、鎧の暴れっぷり。兵士達は一時撤退をせざるを得ない。結果として、私と鎧の間には、誰も邪魔しない真空地帯が形成された。

 

 好機――そう踏み込んだ矢先、鎧の掌の中から影が飛び出した。

 ヒストリアを背負った長身の青年、超大型の本体であるベルトルトだ。

 

 彼は立体機動装置を巧みに操り、私の顔面目掛けて突っ込んでくる。その両手には、抜き身のブレードが握られていた。

 

(こいつ……小回りのきく人間状態で私を殺す気か)

 

 巨人の腕で彼をはたき落とすことはできない。そんなことをすれば、背中にいるヒストリアごとミンチにしてしまう。私は歯噛みし、その斬撃を甘んじて受ける覚悟を決めた。

 

 とはいえ、黙って殺されるつもりなど毛頭ない。奴らとて、一撃でこの『(アギト)』を屠れるなどとは思っていまい。まして周囲は敵地。時間をかければハチの巣にされるのはベルトルトの方だ。焦りは彼らにこそある。

 

 となれば、一撃目は私の動きを封じる為の捨て石。本命の手を打ってくるのは二撃目だろう。  

 

 奴らなら、いや私ならどこを狙う?もっとも確実に、人体の機能を最大限奪う場所は――。

 

(眼だ! 視界を奪うに決まってる!)

 

 刹那、私は両眼に全神経を集中させ、部分硬質化を発動させた。ベルトルトの刃が私の眼球――水晶体のように硬化した薄い膜――と接触する。

 

 ガギンッという硬質な音が響き、鋼の刃が飴細工のように砕け散った。(一応、両腕は山を外した場合に備えてうなじガードに当てておいたが、杞憂だったようだ)

 

 刃が折れた時のベルトルトの顔は傑作だった。驚愕に目を見開き、そして悟ったのだろう。自分達の手札では、この(わたし)を仕留め切れないと。

 

「ら、ライナー!!!助けてくれぇぇぇ!!」

 

 ベルトルトは即座に踵を返し、体勢を立て直したばかりの鎧の元へガスを噴射した。ライナーが呼応し、ベルトルトを再び口の中へ退避させようと大口を開けた。

 

 だが、その退路こそが死地だった。 鎧の顎の陰、死角の闇から、亡霊のようにアルミンが姿を現した。

 

「隠れるとするなら、兵士や巨人が手の出しようのない所……例えば鎧の口の中、ですよね?ジルケさん?」

 

(お前ってやつは……!大手柄だ、アルミン!)

 

 慌ててベルトルトも予備の刃で迎え撃つも、先ほどの私との接触で体勢を崩し、刃も欠けている状態ではどうにもならない。  

 アルミンの刃が閃き、ヒストリアを縛り付けていた襷を正確に切断した。拘束を解かれたヒストリアの体が、重力と慣性に従って宙へ投げ出される。

 

 そこへ、もみくちゃになりながら巨人の群れの先頭を走っていたミカサが、空中でヒストリアを抱き止めた。一瞬遅れてリヴァイがベルトルトに止めを刺そうと肉薄するも、ベルトルトはギリギリのところで鎧の掌の中へ滑り込み、装甲を閉ざした。

 

「アルミン、ミカサ!クリスタを連れて早く離脱しろ!」

 

 リヴァイが舌打ち交じりに唸り声を上げる一方、私は隙を見て鎧の足元へ着地した。

 

(……最後くらい、年長者としての威厳をみせんとな)

 

 私は、すっかり意識を無垢の巨人の集団に持って行かれている鎧の足首に喰らいついた。硬質化した牙が装甲を砕く感触。そして、腹の底から空気を絞り出し、特殊な波長の咆哮――『叫び』を上げた。

 

 オオオオオオオオオッ!!

 

 空気がびりびりと震える。すると、こちらへ向かっていた無垢の巨人共が一斉に反応した。彼らの虚ろな瞳が一点に釘付けになる。彼らは獲物である兵士たちを無視し、さらに鎧へ……正確には、鎧の足元で咆哮を上げている(アギト)へ殺到するように駆け出した。

 

「ジルケ、君はこの作戦の要だ。鎧からヒストリアを奪還できれば速やかに撤退してくれ。可能であれば鎧と超大型を仕留めてほしいが、無理をする必要は微塵もない」

 

 出発直前のエルヴィンの言葉が蘇る。あの時、彼は冷徹な瞳でこう続けた。

 

「それと、この作戦を行うにあたって君の「叫び」の力は使わせてもらう。ただし闇雲に使えば戦況が混乱するだろう。作戦決行時、余力があればヒストリアの奪還が成った帰還時、『叫び』で巨人共のターゲットを(アギト)に移してほしい。できるか?」

 

「待て、それだと私が死ぬだろ」

 

「いや、女型の時を思い返すと巨人は『叫び』を上げた女型の巨人には群がり、その肉を貪ったが、その中身――本体を狙っているようには見えなかった。つまりだ、巨人が来るまでの間に(アギト)のうなじから脱出していれば、危険からは脱却できるはずだ」

 

 机上の空論だ。だが……不可能ではない。女型の状況を照らし合わせると、無垢の巨人の習性を利用した「デコイ」戦術は成立する。突拍子もない賭けではあったが、私は引き受けることにした。ライナー達をこの場に釘付けにし、確実に逃げ切るためには、それしか手がなかったからだ。

 

 そして現在、その賭けには無事勝つことができた。

 

「ゴホッ、ゥ……ッ!」

 

 巨人のうなじから這い出た瞬間、大量の蒸気と共に喀血した。視界が明滅し、平衡感覚が失われる。『叫び』の反動か、それとも連戦の疲労か。体が鉛のように重い。背後から迫る巨人の足音。食われる、と思った瞬間――

 

「舌噛むんじゃねぇぞ」

 

 体が宙に浮いた。無垢の巨人が(アギト)の抜け殻に殺到する寸前、リヴァイが立体機動で私を回収し、戦場から離脱したのだ。荒い馬上のうえで私は兵長のマントにしがみつき、鉄錆の味がする口内を拭った。

 

「ははは、見ろよ兵長!鎧のクソ野郎、巨人に齧られてやがる!!マーレの戦士が無垢の大群にどうすることもできないなんてね。こんなスカッとする所は初めて見たよ!!」

 

「気色悪い奴だな、あんな地獄絵図を見て何が楽しい?」

 

「いやあすまない……なかなか賭けが上手くいってね、少しハイになってるようだ。ギャンブルにハマりそうだよ」

 

「こんな博打続けてりゃ来月にはテメェの葬式だ」

 

「それでこそ調査兵団なんじゃないのか?」

 

 私の問いに、リヴァイは鼻を鳴らして黙ってしまった。 否定はしないらしい。

 背後では、数十体の巨人に群がられ、身動きの取れなくなった鎧の巨人が必死に抵抗していた。だが、その装甲も圧倒的な数の暴力の前では徐々に削り取られていく。

 

「……それにしても、私に『叫び』の力があるなんてな。いざ使ってみるまで半信半疑だったが。自分でも驚きだよ」

 

 馬上の揺れに耐えながら、私は自分の掌を見つめた。爪の間に入り込んだ血が乾き始めていた。

 

「アニ・レオンハートも『叫び』で巨人共を集めることができたんだ、別にテメェができたって不思議じゃねぇだろ」

 

「いや、それはあり得ない。どれほど巨人化の練度を上げたところで、無垢の巨人を呼び寄せたりする事など通常は不可能だ。通常は、な」

 

 無垢の巨人の操作。それは伝承に聞く始祖の力そのものだ。  

 

 しかしそれはない。私とアニ・レオンハートの二人が始祖を継承していることになる上、状況的に始祖を有している可能性が一番高いのはエレンだ。

 

 他の可能性としては、王家の血。丸坊主の新兵に事情を聴けば(なにやら私を見て凄まじく驚いていたが)、今回の襲撃時、獣の巨人が無数の巨人をまるで軍隊のように操っていたという。

 

「なにやら訳知り顔じゃねぇか?」

 

「獣の本体に何か秘密があるのかもしれん。例えばそいつが王家の血を引いた人間なら、巨人を操作できても不思議ではない。そして私やアニ・レオンハートが、マーレにいる間にそいつの脊髄液を取り込み、王家の力の一端を引き出せるようになっていたら……一応の辻褄は合うな」

 

「単にテメェが王家の血を引いているんじゃねぇのか?」

 

「絶対にありえない。革命軍がどれだけ血眼になって王家の血を探していたと思っている?私がそうなら、いくらなんでも灯台下暗しすぎるだろう」

 

 私は自嘲気味に笑った。

 

 ふいに馬上を振り返ると、遠く離れた戦場で、鎧が巨人共を跳ねのけようと必死に格闘していた。

 かつての仲間たちに罵られ、同胞である巨人に食われかける姿が、どこまでもみじめに見えた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 目を覚ましたくなかった。

 

 意識の淵に漂うのは、無数の荒い息遣いと、風に混じる鉄錆のような血の匂い。瞼を閉じていても、自分の奪還作戦によってどれだけの人間が傷つき、骸へと変わったのか、肌で感じ取れてしまう。

 

 それでも、ここでずっと気絶した振りをして現実から逃げ続ける度胸も、クリスタ・レンズにはなかった。彼女は恐ろしい悪夢の続きを見るかのように、震える睫毛を押し上げ、ゆっくりと瞼を開いた。

 

「クリスタ!無事でしたか!?」

 

 視界が開けた瞬間、涙でぐしゃぐしゃになった顔が飛び込んできた。サシャだ。彼女はクリスタの意識が戻ったことに気付くと、力一杯抱きついてきた。その体温と、かすかに香る麦の匂いに、クリスタはどこか安堵した。

 

 サシャはいつも通りだった。だが、それ以外はすべてが決定的に変わってしまっていた。

 

 薪木の炎に照らされた壁の上は、生き地獄の様相を呈していた。包帯、うめき声、動かない誰か。サシャをあやしながら周囲を確認するだけでも、明らかに調査兵の人数が減っていることがわかる。

 

「何人も死んだ……私のために何人も……!」

 

 その事実は、鋭利な刃となってクリスタの胸を抉った。自分という人間を生かすために何人も死んでいった。その重責に耐えきれず、細い肩が震える。

 

 すると、そこにそっと手が置かれた。振り返れば、埃と血にまみれたアルミンやジャン、コニーたち同期が立っていた。

 

「……今は、生き延びた事だけを噛み締めよう」

 

 アルミンが沈痛な面持ちで告げる。心中を察してくれた彼らの優しさだけが、今のクリスタにとって唯一の救いだった。だが――その救いさえも、()()が現れた瞬間に音を立てて崩れ去った。

 

 カツ、カツ、カツ。硬質な壁の上を、規則正しく革靴を鳴らしながら歩いてくる女調査兵がいた。その足音に気付いた何人かの負傷兵は、彼女を見るなり息を呑んで固まった。畏怖か、あるいは得体の知れないものに対する嫌悪か。だが、彼女は周囲の反応など一顧だにしない。

 

 歩く音がだんだんと早まる。それはまるで長年探し求めた宝物をようやく見つけた子供のような、抑えきれない高揚を孕んで、クリスタ目掛けて一直線に近付いてきた。

 

 やがて彼女はクリスタの目の前で足を止めた。月明かりと松明の炎に照らされたその瞳は何よりも青く、誰よりもよく知る、大好きな人のものだった。

 

「せんせ……!」

 

 安堵が恐怖を上回った。クリスタが縋るように手を伸ばしかけた、その時。彼女はクリスタの無事を一瞥で確かめると、突如その場に膝を突き、恭しく(こうべ)を垂れたのだ。

 

 それは、愛しい教え子に向ける態度ではなく、絶対的な主君へ捧げる最敬礼だった。

 

「我らが主よ……!よくぞ無事でいらっしゃった……!」

 

 クリスタの思考が停止した。伸ばしかけた手が空を掴んだ。

 

 いつも優しく頭を撫でてくれたあの手が、今は冷たい石畳の上にあった。頭の中を無数の疑問符が埋め尽くす。ライナーやベルトルトの正体など、もはやどうでもよくなるほどに目の前の光景は異様だった。

 

「ご安心ください。あのクソ共は、我が巨人の力を以て必ずや仕留めて参ります。今はどうぞ、ごゆるりとお休みください。エルディアの安寧は、貴方様のご健在があってこその賜物ですから」

 

 紡がれる言葉は表面上こそ丁寧なものの、そこにはかつてのような温かみは微塵もなかった。あるのは狂信的なまでの敬意と、燃えるような使命感だけ。

 

 困惑して後ずさるクリスタの耳元へ、アルミンが忍び寄り、声を潜めて事情を耳打ちしたーー彼女は今、壁内での記憶を失っているのだと。

 

「今の彼女はジル先生じゃない。壁の外から来た別人格……なんだ。ハンジさん曰く、いつか記憶が戻るかもしれないし、そうじゃないかもしれない……とにかく僕たちには状況を見守るくらいしかできない」

 

 別人。その言葉ですべてが腑に落ちた。その目を見た瞬間から、かつて自身を見てくれていた、あの慈愛に満ちた瞳はもうないことは悟っていた。

 

 今、彼女の瞳に映っているのは『クリスタ・レンズ』ではない。クリスタの背後にあるもの、利用価値のある『血』を見ているのだ。かつて自分を利用しようとした大人たちと同じ目。いや、それ以上に純粋で、タチの悪い目だった。

 

「まるで記憶が戻って欲しそうな言い草だな、アルミン」

 

 彼女は膝をついたまま、目線だけを動かしてアルミンを見上げた。その瞳は爛々と怪しく輝いていた。

 

「そう言うジルケさんこそさっきから楽しそうですね。何がそんなにおかしいんです?」

 

「いや、おかしいんじゃない。私はね、感動してるんだ。こう見えて、先の戦いでお前達シガンシナの三人組を随分と見直した。ただの餓鬼共が『始祖』にへばりついてるとばかりに思っていたが……お前達は極めて使える。特にアルミン、お前は格別だ」

 

「……どうも」

 

 人を道具として値踏みするような物言いに、アルミンが顔をしかめる。ジルケは満足げに笑うと、再びクリスタへと向き直った。その眼差しは崇拝の対象を見るようでありながら、どこまでも冷徹だった。

 

 クリスタの中で、何かが決定的に音を立てて砕け散った。

 

(もう、いないんだ。私をクリスタとして愛してくれたジル先生は、もうどこにもいない)

 

 守りたかった日常も、信じていた絆も、すべて嘘のように消えてしまった。

 

「クリスタ……?」

 

 一向に反応を示さない彼女を心配し、アルミンが名を呼ぶ。するとクリスタは――いや、少女は虚空を見つめた後、涙を浮かべて大笑いした。

 

「あはは!」

 

 壊れた楽器のような、乾いた笑い声。ジャンたちがぎょっとして振り返った。

 

「違うわよ、アルミン。もう偽名(クリスタ)は必要ないの」

 

 少女は頬を伝う涙を拭うこともせず、憑き物が落ちたような顔で言った。瞳から光が消え、代わりに底知れぬ氷が張り詰めていく。

 

「クリスタは私が生きるために与えられた役で、確か子供の頃読んだ本の女の子――だったはず……いい子でいれば、誰かに愛してもらえると信じて疑わなかった、哀れな女の子よ」

 

 少女はゆっくりと顔を上げ、自称「ジルケ」を見下ろした。

 

 跪くジルケの青い瞳には、溢れんばかりの敬意と野望が。そして見下ろす少女の青い瞳には、寒々しい絶望と、それを通り越した空虚な覚悟が湛えられていた。

 

「ま、これだけ大規模な奪還作戦があったんだから、私の本名なんてとっくの昔にご存知か」

 

 人が変わったように語る少女に、ジルケは口元を歪めて笑みを深める。少女は静かに告げた。

 

「私はヒストリア・レイス。あなたは?」

 

 ジルケは立ち上がり、優雅な仕草で一礼した。かつての恩師の面影を残したまま、まったく別の何かがそこに立っていた。

 

「ジルケ・クルーガーと申します。以後お見知りおきを、我らが主よ」




次回からしばらく王政編です。

どこが舞台の閑話が良い?(なるべく原作ネームドキャラを登場させる予定)

  • 革命軍
  • レベリオの市民病院
  • マーレ軍病院
  • ヒィズル国
  • ウォール教開拓地
  • 訓練兵団
  • 調査兵団(王政編後)
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