ウォールローゼの騒動後、壁内には鉛のような重苦しい空気が沈殿していた。事態はアルミンの悲観的な予想すら軽々と超えて悪化の一途を辿った。
壁内で備蓄していた食糧は、切り詰めてもせいぜい一週間程度しか残されていない。それが過ぎれば飢えが訪れ、壁内では人類同士の醜い争いが始まることは火を見るよりも明らかだった。
加えて、調査兵団に対する世間の風当たりは最悪だった。女型の巨人を捕獲したことで一度は上がった株も、今回の作戦で地に落ちたと言っていい。
鎧の巨人を仕留め損ない、憲兵団を巻き込んで多大な犠牲を出したツケは大きい。エルヴィン団長には既に王都への出頭命令が下っていた。
さらに、そのエルヴィンからもたらされた情報は、兵団の首を真綿で締めるような絶望的なものだった。王政はエレンとヒストリアの身柄引き渡しを要求しているのだ。
「要するにクソみてえなドン詰まりって訳だな」
アルミンの報告を聞き終えたリヴァイ兵長が、重苦しく吐き捨てる。だが、その言葉に反応する者は少ない。誰もが押し黙り、視線を彷徨わせている。
この山小屋に集められたのは104期新兵を中心とした新生リヴァイ班、モブリットやニファらハンジ班、そして5年以上前からの生き残りであるナナバ達だ。
彼らを沈黙させているのは、食糧難や王政の圧力だけではない。アルミンが現状報告を行う前にもたらされた、世界の根幹を揺るがす『真実』が皆の思考を麻痺させているのだ。
沈痛な面持ちで机の一点を見つめるヒストリアと、その対面の席で不敵な笑みを浮かべるジルケ。皆の視線は磁石に吸い寄せられるようにその二人を行き来していた。
アルミンは、先ほどの光景を脳裏で反芻する。
壁の外では人類が優雅に暮らしており、自分たち『壁内人類』はそこで『悪魔』と呼ばれ蔑まれているという事実。そして現王政に見切りをつけた兵団がヒストリアを正統な王として擁立し、クーデターを画策しているという現状。全てを聞いたヒストリアの動揺は、今もアルミンの網膜に焼き付いて離れない。
ただ一人、エレンだけは二人を見ようともせず、魂が抜け落ちたように虚空を凝視していた。その虚ろな表情は、かつて地下牢で世界の真実を聞かされたエルヴィン団長の反応とどこか重なって見えた。
「おめぇら、アルミンの話をちゃんと聞いてやがったのか?」
「無理もないだろう。彼ら『壁内人類』にしてみれば100年間信じ込まされてきた常識が覆されたんだ。あまつさえ所属組織が国家転覆を企んでると来た。すぐ受け入れられる方がどうかしている」
「そう言うテメェは何が嬉しくて笑ってやがる?今の話に面白いところがあったか?」
矛先を向けられたジルケは悪びれる様子もなく肩をすくめた。
「団長殿の情報によれば、王政は二人を渡すよう言ってきている……特にエレンを頑なに欲しがっているそうじゃないか。それは奴らが何か知っている証拠だ。おかげでエレンが『始祖』を継承している可能性が俄然高まった。それにヒストリア様の――」
「やめて」
ヒストリアが冷たく割って入った。伏せていた顔を上げ、かつての恩師を射抜くように睨む。
「その呼び方、やめて」
ジルケは「やれやれ」と大袈裟に嘆息し、言葉を継いだ。
「ヒストリアの身分を兵団が知っているとなれば、もっと苛烈な対応を取っても不思議じゃない。それこそ団長殿を事故に見せかけて消すことさえ厭わないだろう。だが、こうして手紙のやり取りが出来ているということは、我々が核心に辿り着いていることに、奴らがまだ気付いていない証左だ」
「つまり、何が言いてぇんだ?」
「わからないか?」
ジルケが身を乗り出す。その青い瞳には、狂気と理性が混ざり合った奇妙な熱が宿っていた。
「『不戦の契り』に縛られない王家の血。そして『始祖』の継承者……
興奮気味に語るジルケだが、その熱量についていける者は誰一人いない。さしもの彼女も場の空気に気付いたのか、わざとらしく咳払いをして椅子に背を預け直す。
「……もっともまだ『不戦の契り』が何なのか、『始祖』の力を万全に振るうにはどうすればいいのか分からずじまいだ。絵空事を現実にするには調査の為の時間と環境が必要……そうだろう、分隊長殿」
「……ジルケの言う通りだ。悔しいが、エレンの持つ『始祖』の力をコントロールしない限り、私達に未来はないだろう……」
ハンジの言葉と共に、全員の視線がエレンに集まる。 だが肝心のエレンは、相変わらず焦点の合わない目で中空を彷徨っていた。
「おい、アルミン。そのバカのケツに蹴りいれてやれ」
「ほ、ほらエレン!しっかりしなってば!」
肩を揺すると、エレンは緩慢な動作でこちらを向いた。焦点が合うまで数秒かかった。
「寝惚けてるところすまない。エレン、変なこと聞くようだけど『始祖』の力ってのはコントロールできそう?」
ハンジの問いかけに、エレンは力無く首を振った。
「まあ『始祖』は特別だからな」
ジルケが冷ややかに言い放つ。
「運用方法は王政中枢の連中に聞こう……手段を問わずに。分隊長殿、ニック司祭からウォール教の内部を調べられないか?ヒストリアの監視にウォール教の人間が使われていたことを考えると、奴らは王政と根深い関係にあると見ていい」
その提案にハンジは口を噤んだ。眼鏡の奥の瞳を伏せ、ややあって一言「死んだよ」と呟いた。
「今朝方、兵舎内の一室で首を吊った状態で発見された。物取りの可能性も薄いし自殺として処理されたよ」
「本当に自殺なのか?王政の連中が口封じした可能性だってあるだろう?」
「もちろん疑ったさ。無理言って現場に入らせてもらったが……あれは他殺じゃない。もし口封じするなら拷問の一つでもやってみせただろうが、現場は衣服の乱れすらなかった。なにより遺書に一言……『神はいない』と書かれていた。大して彼と親しいわけでもないけど、ニック司祭の性格的に色々と堪えたんじゃないかな……」
場が静まり返る。死という絶対的な現実が室内の温度を下げた気がした。
だが、ジルケだけはさして気にした風もなく、「ふむ」と顎に手を当てた。
「ーーとするならば、内部から調べるのは諦めるか。ま、今の我々は各兵団の頭を抑えているんだ。最悪力業でどうとでもーー」
ダンッ!乾いた音が響き、ヒストリアが机を叩いて立ち上がっていた。小刻みに肩を震わせ、その瞳には涙と、それ以上の激しい怒りが渦巻いている。
「なんで……なんでそんなに平然としていられるの?ニック司祭はあなたに巻き込まれて死んだようなものじゃない!?何も感じないの?」
「そりゃあ悪いとは思ってるが、今は感傷に浸ってる場合じゃないだろう」
「……私だってあの人のことは好きじゃなかった。開拓地にいた時だってあの人はいつも私を腫れ物扱いしていたわ。でも……何も思わないわけじゃない!ジル先生なら……私の知ってるジル先生なら、絶対に悲しんでた!先生は誰よりも優しいんだから!」
あの優しいクリスタがこれほどまでに感情を露わにするなんて。ジャンたち104期新兵の顔には、驚愕がありありと浮かんでいた。
ジルケは呆れたように息を吐くと、ゆっくりと立ち上がり、ヒストリアへ歩み寄った。かつては慈愛に満ちていたその青い瞳は今は凍てつく湖のように冷たかった。
「話を聞いてなかったのか?私はジルケ・クルーガー。シュタイナーさんとは別人なんだよ。当然、ニック司祭に何ら思い入れなんてない……いや、むしろ出会い頭に罵倒されまくったから嫌いな部類だな……いい加減悟れ、お前が慕っていた『ジル先生』はもう居ないんだ」
「……っ!そういう問題じゃない!人が死んでるのに、あなたはそれを無かったことのように……私はそれが許せないの!」
「本当にそうか?どうせ『ジル先生』の姿で変なこと喋らないで、とか詰まらん理由だろ。ったく……奪還作戦の直後はすんなり受け入れていた癖に、なぜ時間が経った今蒸し返すんだ」
ヒストリアの剣幕にジルケは動じない。むしろ、聞き分けのない子供を論理でねじ伏せるように落ち着き払っていた。
「それにな、シュタイナーさんとやらを美化するのも程々にしておいた方が良いと思うぞ?ベルトルトの話だと、私はマーレじゃそこそこ有名人らしいな」
「……それがどうしたっていうの?」
「断っておくが、私は市民病院に勤務する一介の医者に過ぎん。なれてもせいぜい病院の院長……決してマーレ社会に影響を及ぼし得る存在じゃない。だが、私が眠っている間にどういう訳か有名人に様変わりだ……ベルトルトの話振りから察するに、少なくともマーレのエルディア人収容政策に影響を与える程度には」
ジルケが一歩、距離を詰める。ヒストリアを威圧するような足取りだ。
「自分のことだからよくわかるんだ、自分がどれほどマーレにおいて
びくりとヒストリアは肩を振るわせて、後ずさりする。
「お前の見てきた『ジル先生』はとんだ食わせ物だったということだ。計算し、利用し、成り上がった怪物……お前の家や血筋も、全て調べ尽くした上で利用価値があるから優しくした。それがエルディア復権の為なのかは疑問だが……お前に向けた優しさなど奴にとって手段に過ぎんだろうよ」
「先生を……」
「ん?」
「先生を悪く言うなッ!!」
ヒストリアの平手が振り抜かれる――その寸前、ジルケの手が彼女の手首を掴んだ。
すると静電気のような、しかしもっと重質な衝撃が二人の間を走った。
アルミンは思わず身を乗り出した。物理的な接触以上の何かが起きたのは分かったが、それが何なのかは理解の範疇を超えていた。
「今のは……」
ジルケが己の手を、次いでヒストリアの顔を不思議そうに見つめる。アルミンが尋ねようと口を開きかけた時、彼女は呆然としながら言った。
「……ジルケ・シュタイナーの記憶か?あれは……雪山?」
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
ヒストリアは荒い呼吸を繰り返しながら、掴まれた手首を振りほどいた。
「どうよ!あれが先生よ!!あなたにも見えたでしょう!?あの優しさが作り物だって言いたいわけ!?」
「……王家の血は巨人の力の真価を発揮する、ということか。なあヒストリア、もう一度私の手に触れてくれないか?シュタイナーの記憶を掘り起こせば、マーレの情報を手に入れることが――」
「ーーあなたって人は!」
「そこまでだ」という言葉と共にリヴァイが二人の間に割って入った。
「ヒストリア、てめぇの気持ちもわからんでもないが今は堪えろ。女王になった後にでも好きなだけ殴れ。俺が許す」
サシャに抱き留められ、ヒストリアは崩れ落ちるように座り込む。その瞳には、かつて誰よりも慕った恩師への憎悪と、やり場のない悲しみが燻っていた。
一方のジルケは何事もなかったかのように服の埃を払うと、平然とハンジへ向き直った。
「……さて、どこまで話していたところかなーーああ、そうだ。ニック司祭が亡くなり、ウォール教内部から王政を探れないという話だったな、分隊長殿」
ぴくりとヒストリアの眉が動いたが、隣にいたサシャが「まあまあ……」と背中をさすって落ち着かせた。意外とサシャは面倒見が良いのかもしれないと、アルミンは場違いな感想を抱いた。
「ああ。今後の方針は今夜ーーピクシス司令やナイル師団長との会合で決めよう……『地鳴らし』って奴の使用是非を含めてね。ジルケ、前にも話した通りだが、君にも出てもらう」
窓を見遣ると太陽は傾き、影が長く伸び始めていた。
「そろそろ出ようか。ナナバ達も兵団本部に戻ってくれ。リヴァイ、エレンとヒストリアを頼んだよ」
出発の準備が進む中、ジルケがエレンの前で足を止めた。懐から小さな小瓶を取り出し、乱暴にテーブルへ置く。
「これは……」
「私の脊髄液だ。これだけの量を摂取すれば爪と顎の一部だけだが、硬質化能力が発現するだろう。言っとくが、めちゃくちゃ痛かったんだからな?ありがたく飲めよ」
エレンに硬質化能力が備わる。それはウォール・マリアの壁の穴をエレンで塞ぐという、途方もない夢物語が現実に近付くことを意味した。そこまで出来ずとも、鎧の巨人への大きな対抗策になり得る。
だというのに、ジルケもエレンも表情は固い。ジルケにしてみれば、所詮は
だが、エレンの反応は理解しがたい。思えば、先ほどからのエレンの様子は異様だった。
「先生」
「……先生じゃないと言ってるだろ。で、なんだ?エレン」
「海って……知ってますか?」
唐突な問いにジルケは眉をひそめた。
「……もちろん知ってる。お前に伝わるよう言うならば、地表の7割を覆う巨大な塩の湖だ。私の故郷は海沿いの街でな、仕事帰りにふらっと寄って潮風に当たることもしばしばあった」
それがどうかしたのか、とばかりにジルケは言った。あまりにあっけらかんとした物言いに、エレンの表情が揺らぐ。
「炎の水や氷の大地、それに砂の雪原も壁の外にはあるって……」
「それぞれマグマ、南極、砂漠のことか?ああ、あるぞ。私も写真でしか見たことないが」
「シャシン?」
「本物そっくりの精巧な絵だと思ってくれ。行ってみたくはあるが生憎金に余裕がなくてな」
「お金……ですか」
あまりに世俗的で、夢のない単語だった。アルミンは思わず口を挟んだ。
「壁内には観光産業がないのか?外の世界じゃあそういう雄大な自然ですら商売の種にされるぞ……まあ砂漠はともかく、活火山や南極まで行こうと思えば金以外にも色々コネが必要になるだろうが」
「ああ、でも……」と彼女は何か思い出したように続けた。その瞳がスッと細められる。
「……今のはマーレ人に限った話だ。エルディア人は一生を収容区で過ごす。海すら見ずに生涯を終える者が殆どだ」
「そう……ですか。外の世界にも、壁はあるん……ですね」
「その壁を取っ払えるかはお前にかかってるんだ。期待しているぞ、エレン」
そう言って彼女は小瓶をぐいとエレンに握らせた。
「待たせた、分隊長殿。急ごうじゃないか」
バタン、と無情な音を立てて扉が閉まる。ハンジ班とジルケ、そしてナナバ達が去った後の小屋は以前よりも広く、そして寒々しく感じられた。
沈黙が降り積もる中、ミカサが心配そうにエレンの背中をさする。アルミンも見かねて声をかけた。
「さっきからどうしたんだい、エレン。どこか具合でも悪いの?」
「そんな汚い液体なんて飲まなくていい。後でイモ畑にでも撒いといてあげる」
「いやミカサ……それは駄目だよ」
「俺はーー」
不意にエレンが口を開いた。その視線は、ジルケから押し付けられた小瓶の中の液体に注がれていた。
「壁の向こうには海があって、海の向こうには自由がある。ガキの頃から……ずっとそう信じてきた」
アルミンの脳裏に幼い日の記憶が蘇る。広げた本と、二人で語り合った輝かしい外の世界への憧れ。あの時のエレンの目は、確かに外の世界への希望に燃えていた。
だが、今のエレンはどうだ。まるで悪夢を見ているかのような顔をしているではないか。
「でも……違った」
エレンは泣き出しそうな、それでいてどこか諦観したような顔で笑った。
「壁の外の現実は……俺が夢見た世界と違う。アルミンの本で見た世界とは違うんだ」
その言葉の続きを、アルミンは聞くのが怖かった。
彼の感じている絶望の深さを、自由への渇望が強かった彼だからこそ感じる「世界への失望」を、アルミンは肌で感じていた。
「壁の外で人類が生きてると知って、俺はーー」
◇◇◇◇
「とうとう今夜か」
重厚な執務机の上、琥珀色の液体が揺れるスキットルを指先で弾く。ピクシスは独りごちて、その銀色の容器を懐へと仕舞い込んだ。
「司令、お酒はよろしいのですか?」
「よいて、エルヴィン。これから噂の美女と会うんじゃ。しゃんとしとかんと笑われるでのう」
ピクシスは口元だけで笑ってみせたが、その瞳に酔狂な色は微塵もなかった。
今夜会合を持つ相手は、
人類の存亡を賭けた大博打に酒を飲んで臨むほどピクシスは呆けていない。
「……時にエルヴィン。王都に発つ前、珍しく身の上話をしおったな。父上の死の真相……実際に議会の貴族共をその目で見て、何を感じた?」
エルヴィンは窓辺に立ち、闇に沈むトロスト区の街並みを見下ろしていた。問いかけにゆっくりとこちらへ向き直る。常ならば覇気に満ちた顔は、感情の一切を削ぎ落とした仮面の如く静かだった。
「無理を通して彼らの懐へ飛び込んだ甲斐はありました。ご想像の通り……彼らが守りたいものは人類ではなく、彼らの庭付きの家と地位だけでした。己が権利を脅かすならば、相手が巨人だろうが人間だろうが区別なく排除する……やはり、父の死に正当性は欠片もありませんでした」
「ふむ、お主
「ええ。現王政からすれば……死んでも構わない人間が多すぎる。決して彼らに『壁内人類』の未来を託すわけにはいきません」
断固たる口調だった。迷いはないように見える。
だが、ピクシスはその蒼い瞳の奥に奇妙な空洞を見て取っていた。長年、薄氷の上を歩いてきた古狸の勘が告げている。
目の前の男エルヴィン・スミスを突き動かしているのは、人類の自由や正義感などという美しいものではない、と。
「……のう、エルヴィン。お主が幼少から抱き続けた……父上の仮説を証明するという夢。ワシの見立てではあるが、その夢こそがお主を今日まで突き動かしてきたのではないか?」
ピクシスの問いにエルヴィンの眉がわずかに動く。
「お主は答えを知りたかった。その渇望だけで巨人の群れの中へ飛び込み、死人の山を築いてきた……じゃが、その夢もジルケ・クルーガーによって完膚なきまでに叶えられてしもうたはずじゃ」
ピクシスはあえて残酷な言葉を選び、メスを入れた。他者から一方的に突きつけられた「正解」ほど、夢見る男を殺す毒はない。
「答え合わせが済んだ今、お主は何を思っておる?これから何の為に戦うんじゃ?」
私心を否定するつもりは毛頭ない。
ただ、知りたかった。無惨にも夢が叶ってしまった後、この男が何に突き動かされ、地獄への行軍を続けるつもりなのか。
「……『壁内人類』の勝利の為、では駄目ですか?」
「人間、そう簡単に変われんて。お主の中に人類を想う気持ちがないわけじゃなかろうが……急に聖人君子のようなことを言われて信じるほど、ワシは若くないわい」
エルヴィンは口を噤んだ。重苦しい沈黙が落ちる。
やがて彼は観念したように短く息を吐き、対面の革張り椅子へと深く沈み込んだ。
「……司令には敵いませんね」
「伊達にお主より長生きしとらんわい」
仮面が剥がれた。そこにいたのは勇猛な調査兵団団長ではなく、ただの疲弊した一人の男だった。
「『壁の外に人類がいないって、どうやって調べたんですか?』……幼い私が父にした質問です。おっしゃる通り、私は父の仮説を証明する為に今まで戦ってきました。司令は……壁の外の現実を知って、どう思いましたか?」
「質問しておるのはワシなんじゃがのう……まあええわい」
ピクシスは白髭の先を弄びながら、天井を仰いだ。
「驚き半分、納得半分じゃな。ワシとて王政の発表を鵜呑みにしとったわけではない。奴らの醜悪さと狡猾さはワシ自身が骨身に染みて理解しておるからのう……壁の外で人類が生きておると聞かされても、まああり得るなと腑に落ちた」
そこで一度言葉を切り、ピクシスは苦々しげに顔をしかめた。
「じゃが、まさか巨人の正体が人間であり、『壁内人類』が世界中から『悪魔』と嫌悪され、根絶やしにされることを望まれておるとは……流石のワシも、そこまでの悪意は予想だにしなかった」
「流石です。その受け入れの早さ、見習いたい」
「世辞はよせ。して、エルヴィン。お主が答える番だぞ」
逃しはしないとばかりに視線を射る。エルヴィンは組んだ手の甲を見つめ、静かに語り始めた。
「……ジルケの言葉はかなり堪えました。あの地下牢で彼女から世界の真実を聞かされた時……感じたのは、ただただ虚しい達成感と、どうしようもない徒労感でした」
「徒労、か」
「ええ。父の仮説を証明できて良かった、なんて感傷は微塵も湧かなかった。正直……なんで
エルヴィン・スミスの独白。それは懺悔にも似ていた。 数百の部下の命を石礫の如く使い捨ててきた指揮官の、あまりにも人間臭い弱音だった。
「夢破れた瞬間は……団長の座を辞そうかとさえ思いました」
「今からでも遅くないぞ?腑抜けがクーデターの先頭に立たれては、こっちが迷惑じゃ。ハンジ辺りなら十分やってくれようて」
しかしエルヴィンは首を横に振り、ふと背後の虚空へ視線を彷徨わせた。そこには冷たい石壁があるだけだ。だが、彼の目には全く別のものが見えているようだった。
「……見えますか、司令。仲間たちの姿が」
「……」
「彼らは捧げた心臓の行方を知りたがっています。私の足元には、死体で作られた山がある。私は彼らを騙し続け、その山を築いてきた……戦いはまだ終わっていません。私だけが降りることは許されないのです」
「つまり、死んだ仲間達に報いるという責任感こそお主の原動力なのか。相変わらずお主の使命は辛いな。いっそ死んでしまった方が楽に見える」
「……それだけではありませんが、おおむねそうですね」
エルヴィンは自嘲気味に口の端を歪めた。含みを持たせた言い回しにピクシスも疑問を感じたが、追及するより先にエルヴィンが口を開いた。
「司令。私が今までやってこれたのも、いつか「答え合わせ」ができるはずだと信じてきたからです。そんな中、先のトロスト区防衛戦で降って湧いてきたグリシャ・イェーガーが残した地下室の謎……あそこに答えが眠っているに違いない。そう考えた私は、ウォール・マリア奪還に固執しました。人類のためにも、自分の夢のためにも……ですが、今思えば私は心の奥底では願っていたのかもしれません。父の仮説が間違っていて欲しいと」
「命を賭した夢なのじゃろう?それが誤りであって欲しかったのか?」
「ええ、そうです」
エルヴィンは深く、重く頷いた。その表情には夢を奪われた少年の絶望と、真実を知ってしまった大人の諦念が混在していた。
「かつて仲間たちと巨人のいない世界を語り合ったことがあります。皆が好き好きに己の理想を言い合いました……呆れるほどおめでたい世界を。しかしジルケを通して知った世界は、我々が夢見ていたものとは違いました。壁の外には未知の大地があるわけでも、まして自由があるわけでもなかった。ただ、我々を憎悪する人間がいて、殺し合いの歴史が続いているだけだった」
彼は視線を落とし、吐き捨てるように言った。
「壁の外で人類が生きていると知って……私は――」
一瞬の沈黙。そして調査兵団団長は、酷くつまらなそうに呟いた。
「「ガッカリした」」
◇◇◇
訓練兵団教官室には、重苦しい沈黙とインクの乾いた匂いが充満していた。
キース・シャーディスは、積み上げられた訓練兵の身上書に視線を走らせていた。だが、並列する文字は網膜の上を滑るばかりで、何一つ脳髄には染み込んでこない。
彼の思考を占拠しているのは、つい先日忽然と姿を消した一人の医務官――ジルケ・シュタイナーのことだった。
いや、失踪という表現は正確ではない。彼女が現在どこに身を寄せているかは割れている。
キースにもたらされた「真相」は、彼の持ちうる想像力を遥かに凌駕するものだった。
『内密にお願いします、シャーディス団長』
脳裏に蘇るのは一週間前の記憶だ。ウォール・ローゼ内に出現した巨人が掃討された、その二日後。
ハンジ・ゾエの部下だったモブリットという男が、ひっそりとこの部屋を訪ねてきたのだ。かつて初陣で恐怖に泣き崩れていたひ弱な青年は五年という歳月を経て、見違えるほど精悍な兵士の顔になっていた。
思えば調査兵が尋ねてきたこと自体、奇妙であった。このような失踪事件の捜査は憲兵団の領分だ。
さらに彼が求めたのはジルケの痕跡の隠蔽だった。「彼女は書類上、調査兵団へ異動したことにしてほしい」という依頼。
そして、まるで犯罪者の過去を洗うかのように「彼女との出会い」や「素性」に関する質問を雨のように浴びせられた。
キースが不信感を露わにすると、モブリットは苦渋に満ちた顔で決定的な一言を告げたのだ。
『ジルケ・シュタイナーは巨人でした』
世界が反転するような感覚だった。執務机に手をつかなければ、その場に崩れ落ちていただろう。
だが、衝撃の直後に胸の奥から湧き上がってきたのは、どこか冷ややかな納得感だった。
(……やはり、そうか)
彼女は特別な人間だった。グリシャ・イェーガーがそうであったように、人ならざる才気と底知れぬ影を纏った人間だった。
この世界には「選ばれし者」と「持たざる者」がいる。キースは常に後者であり、彼女もまた自分の手の届かない「あちら側」の住人だったというだけの話だ。
その日以来、キースは自問を続けている。
あの儚げな微笑みの下で、彼女は一体何を考えていたのか。巨人という人類にとって忌むべき正体を隠しながら自分達と接する時、その胸中にはどのような感情が渦巻いていたのか。罪悪感か、憐憫か、それとも……。
その答えの出ない問いは泥のように溜まり、古びた心臓を重く圧迫していた。
コン、コン。硬質なノックの音が、キースの思考を現実に引き戻した。
「入れ」
不機嫌を隠そうともせずに入室を促す。扉を開けて入ってきたのは、一人の駐屯兵だった。
金髪に豊かに蓄えた髭、そして目元を覆う特徴的な丸眼鏡。眼鏡の奥の瞳は理知的だが、その立ち居振る舞いには隙がなく、長年訓練を積んだ手練れの兵士特有の空気を纏っていた。
見覚えのない……はずなのに誰かに似ている気がした。しかし、その誰かの顔は思い浮かばなかった。
最初は警戒心を抱いていたキースだったが、彼がハンネスの部下であると名乗ると、胸中に一気に郷愁が押し寄せた。
「ハンネスは元気にしているか?」
「ええ、そりゃあもう!酒場に連れてかれた時なんて私がギブって言っても飲ませてくるんですからね!悪魔ですよ、あの人!」
「ハッ、奴らしいな……」
どうもその駐屯兵も、キースとハンネスが旧知の仲であるとは知らなかったそう。しきりに「世界は狭いですねえ」と呟いていた。
あの酒飲みの悪友は、昔と変わらず部下を振り回しているらしい。五年経っても変わらぬ男の姿が目に浮かび、キースの口元はわずかに緩んだ。
だが、すぐに表情を引き締める。この駐屯兵が来た理由は単なる上官の愚痴や世間話ではないはずだ。
「それで、貴官の用件はなんだ? まさかハンネスの思い出話を聞かせに来たわけではあるまい」
すると駐屯兵は急に神妙な面持ちになった。眼鏡の奥で、光を反射する瞳が細められる。
「単刀直入に伺います。ジルケ・シュタイナー殿が、こちらに勤務されていると風の噂で聞きまして」
心臓が早鐘を打った。 よりにもよって、今一番触れられたくない名前だ。
「……何故シュタイナーの名が出る?」
「彼女は私の命の恩人なのです。ウォール・マリア陥落の際、重傷を負った私を彼女が手当てしてくれました。その礼を一言伝えたくて」
キースの勘が警鐘を鳴らす。ジルケが「巨人」であると判明した今、彼女の所在を探る者は王政の犬か、あるいはそれ以上の危険因子に違いない。キースは椅子に深く座り直し、値踏みするように男を睨みつけた。
「……残念だが、シュタイナーは一身上の都合で兵団を去った。今どこで何をしているか、私にもわからん」
「心当たりもありませんか?」
「まったくないな」
「そうですか……一足、遅かったようですね」
男はあからさまに肩を落とした。その落胆ぶりは、演技にしては堂に入っていた。まるで生きる希望を失ったかのような、深い溜息をつく。
「……あの、教官殿。もしよろしければ、彼女がここでどのように過ごされていたか、教えていただけませんか?」
「は?」
「避難所で治療を受けた際、意識が朦朧としておりまして……目を覚ました頃には既に彼女の姿はありませんでした。つまりですね、私は彼女とまともに言葉を交わしていないのです。彼女が普段どんな話をし、どんなことで笑うのか……その為人を知りたいのです」
「……わからんな。礼を言いたいだけなら、人柄などどうでもよかろう」
「想いを寄せている方のことなら、何でも知りたいと思うのが道理ではないでしょうか」
男は真顔で言い放った。その瞳の奥にある光は純粋さを通り越して、どこか異様な執着を感じさせた。
「……そもそもだ。どうやってシュタイナーの居場所を突き止めた?」
「偶然ですよ。当初、私は彼女の名前さえ知りませんでした。しかし先日、ウォール・ローゼの騒動で壁の上にいる彼女を遠目でお見かけしましてね。夢かと思いましたよ。すぐ近くにいた丸刈りの調査兵……コニーとか言ったかな?彼に尋ねて、ようやく名前と所属を知ったんです」
「その場で礼を言えばよかったではないか」
「そうしたかったのですが……突如現れた超大型巨人の熱風で吹き飛ばされまして。目が覚めた時には、もう彼女はいなかった。一生の不覚です」
一応、辻褄は合っている。
モブリットの話から察するに、ジルケは現在調査兵団に身を寄せているに違いない。先日の騒動の際、巨人の力が使える彼女は前線に引っ張り出されたのだろう。その瞬間にこの駐屯兵は立ち会った、と。
そしてコニー・スプリンガーならばペラペラと情報を漏らしても不思議ではない。彼はかの教え子の脇の甘さを熟知していた。
だが、いくらなんでもタイミングが良すぎるのではないか。彼女が巨人であると判明し、調査兵団の庇護下に置かれたこの時期に、まるで計ったかのように現れて情報を聞き出そうとしているのだ。偶然にしては出来過ぎてやいないか。
「……シュタイナーの年齢は知らんが、見たところ貴官とは一回りは離れているぞ」
「愛に年齢は関係ありませんよ」
「本気か?本気で惚れたとでも言うのか」
「何度も言わせないでください。私だっていい歳をした大人です。直情的な恋を恥じるつもりはありません」
「……正直に言おう。私は貴官を疑っている。彼女の情報を探り出して一体何を企んでいる?」
キースの鋭い問い詰めに対し、男はキョトンとした顔をし、次いで意外な反応を見せた。呆れたように肩をすくめ、憐れむような目を向けたのだ。
「……ははぁ。なるほど」
「何がなるほどだ。一人で納得するな」
「先ほどから妙に歯切れが悪いと思えばそういうことでしたか。……もしや教官殿も、彼女に惚れておられるのですか?」
「なっ……!?」
「だから恋敵である私に嫉妬し、情報を出し渋っている……違いますか?」
(こ、こいつ……)
キースは毒気を抜かれたように口を開けた。そこにあるのは、一切の悪ふざけのない真っ直ぐな眼差し。そして話の通じなさ。記憶の底からある少女の顔が浮かび上がった。
入団式の日、芋を片手に教官である自分に正論めいた戯言を吐いた「芋女」だ。
(この男も、ブラウスと同じ類の馬鹿なのか……?)
キースは大きなため息をついた。仮にこの男が何らかの工作員だとしても、自分の知っているジルケの話などたかが知れている。彼女が巨人であることさえ伏せておけば、兵団の機密事項に触れることもない。
なにより、この男の相手をするのが心底面倒になってきた。眼鏡の奥で爛々とした目を見るに、何か一つでも土産話を聞かせない限り、この男はテコでも動かないだろうという確信があった。
「……座れ。茶は出さんが、話くらいは聞かせてやる」
「おお!感謝します、教官殿!」
男は無邪気な子供のように破顔した。髭に覆われたその笑顔の下にあるものが何なのか、今のキースに知る由もない。
(今、気づいた。この男は……グリシャに似ているんだ)
かつての親友の面影を目の前の駐屯兵から感じ取り、キースは一笑に付した。グリシャの顔で、グリシャならば決してしない言動を取られると妙な笑いが込み上げてきたのだ。
目の前の男が身を乗り出して聞き入る中、キースはジルケと過ごした日々の残滓を、ぽつりぽつりと語り始めた。
マーレの戦士は気持ち悪い奴しかいないのか……
ちなみに、ギスギスした雰囲気とブチ切れヒストリアが性癖ど真ん中なので書くなと言われても今後も書き続ける所存です。人のこと言えませんね。
なお、次話以降から本格的に王政側との対決が始まる予定です。引き続きご愛読のほどよろしくお願いします。
どこが舞台の閑話が良い?(なるべく原作ネームドキャラを登場させる予定)
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革命軍
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レベリオの市民病院
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マーレ軍病院
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ヒィズル国
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ウォール教開拓地
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訓練兵団
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調査兵団(王政編後)