「……おい、いつまでやってんだアレ」
コニーの呆れを含んだ声が、薄暗い山小屋の梁に吸い込まれていく。
エレンは同期たちの視線を背中に浴びながら、正面に座るヒストリアと手を重ね続けていた。
一分、二分。永遠にも似た沈黙の中で、意識するのは掌の感覚だけだ。
握りしめた彼女の手は小さく、そして冷たい。少し力を込めれば折れてしまいそうなその華奢な掌から、何か――先代継承者の記憶が流れ込んでこないか、神経を極限まで研ぎ澄ませた。
端から見れば恋人同士のように見えなくもない距離感だ。だが、二人の間に甘い空気は微塵もなかった。あるのは悲壮な決意と、泥沼でもがくような焦燥だけだ。
「本当にこれが実験なのかよ。ただ手ぇ握っていちゃついてるだけじゃねぇか」
「……ジャンの言いたいこともわかるけど、これもジルケさんの指示なんだよ。『王家の血を持つ者との接触は、記憶の扉を開く鍵になり得る』って」
背後でアルミンが読み上げるメモの声が、どこか遠くに聞こえる。あれはジルケが去り際に走り書きしていった実験プランの一つだ。
「『始祖』の記憶なら『不戦の契り』の解明に、『進撃』ならジルケさんが眠っている間の空白を埋める手掛かりになる。『可能性の多寡に関わらず、万が一に賭けて絶対にやっておけ』……あの人の厳命だよ」
「チッ、羨ましいご身分だな。どうせ実験を口実にしてるだけだろうが……ってマジになんなよ、ミカサ」
ジャンの減らず口が凍りついたと同時に、エレンの背筋を冷たいものが走った。
山小屋の気温が急激に下がった錯覚。エレンが眼だけ動かして横を盗み見ると、そこにはマフラーに口元を埋めたミカサがいた。
彼女は瞬き一つせず、エレンとヒストリアの繋がれた手元を凝視している。その瞳の奥にある光は消え失せ、無言の圧力が周囲の空気を歪ませているようだった。
昼食代わりの硬いパンも、彼女の手の中で無残に圧縮され、粘土の塊と化していた。
「お、落ち着きなってば……あれは実験だよ。そりゃあ僕も思うところがあるけどさ……」
「……分かってる。パンを食べやすい大きさにしてるだけ」
「あ、そのパン!後で私に分けてくれるのかと思ってましたのに!食べちゃうんですか!」
「なんでサシャに分けることになってるの?意味が分からない」
同期たちの馬鹿騒ぎを尻目に、エレンは意識を強制的に切り替え、再び目を閉じた。
『現状、君が理性を保って巨人になれるのは連続二回までだ。ジルケ曰く巨人化の練度を上げれば最大三回は可能らしいから、まだまだ訓練が必要だね』
瞼の裏で、先日の屈辱的な光景が明滅する。
巨人化実験の結果は、期待外れも良いところであった。ウォール・マリアの大穴を塞ぐほどの硬質化はできず、『始祖』らしき力も確認できなかった。
『でも!』
ハンジが身を乗り出し、眼鏡の奥の瞳をギラつかせた。
『君には確かに
唯一の収穫は、ハンジが狂喜した『
だが、エレンは素直に喜べなかった。
(俺が不甲斐ないせいで皆が殺される)
世界の真実を知らされて以来、エレンの思考はずっとぐちゃぐちゃなままだった。自分の無力さが、彼から自信を絡め取った。
エレンの中に宿っているかもしれない『始祖』の力。その力を制御しない限り、爪が少し硬くなったところで根本的な解決にはならないのだ。
『何ができて、何ができないか分かるだけでも十分な進歩だよ。焦る気持ちはわかるけど、今は一歩ずつ進み続けるしかない』
『そうだ。あのクソ隈女に惑わされるんじゃねぇぞ。自分のペースで行きゃあいい』
アルミンは優しく、リヴァイは不器用に励ましてくれた。しかし胸の奥で燻る焦げ付くような不安は消えなかった。
エレンは祈るように、ヒストリアの手を強く握り直した。彼女もそれに応えるように、小さな手でエレンの指を握り返してくる。
――しかし、現実は無慈悲だった。
時間は残酷なほどゆっくりと流れ、額を冷や汗が伝う。繋いだ掌の間がじっとりと湿っていく不快感だけが蓄積された。
どれだけ念じても、雷のような衝撃は走らない。過去の風景がフラッシュバックすることもない。ただ、隙間風が二人の間を虚しく吹き抜けていくだけだった。
「…………」
限界だった。エレンは肺の中の空気をすべて吐き出し、ゆっくりとヒストリアの手を離した。
「……悪い。結局、無駄にべたべた触っただけになっちまったな」
エレンは自身の膝の上で拳を握りしめ、掠れた声で詫びた。
状況を変える劇的な変化は何一つ起きず、ただの徒労に終わった。その事実は、巨人化実験の失敗以上に重く彼にのしかかった。
しかし、ヒストリアは意外にも穏やかに首を横に振った。その表情は失敗を悔やむどころか、どこか憑き物が落ちたように晴れやかですらあった。
「気にしないで。むしろ、こんな実験に付き合ってくれてありがとね」
「なんでお前が礼を言うんだよ」
「だって……あの時みたいに記憶が戻れば、また会えるかもしれないから――ジル先生に」
ヒストリアは遠くを見るように目を細めた。ここにはいない、もう二度と会えないかもしれない先生の面影を探し求めるように。
『ジルケ・シュタイナーはもういない』
『奴の見せた優しさは計算尽くだった』
この山小屋でジルケが冷徹に言い放った言葉。だというのに、ヒストリアの中には、まだあの温かな日々の記憶が――母親のように接してくれた「ジル先生」の記憶が、色褪せずに残っているのだ。
エレンは言葉を詰まらせた。かけるべき言葉が見つからなかった。
「……俺は謝りてぇぐらいだよ」
記憶の鍵が開かないということは、現状の打開策が見つからないということだ。それは同時に、兵団が描いているクーデター計画の比重が大きくなることを意味していた。
「『始祖』の力さえ俺が使いこなせりゃあ全部解決すんのに……俺が能無しなせいで、お前にはこれから重荷を背負わせることになる」
「仕方ないよ。『始祖』の力は特別ってあの人も言ってたし」
ヒストリアは頑なに今のジルケを名前で呼ばない。言葉の節々に明らかな刺々しさがあった。
「……兵団の上層部は本気でお前を女王に即位させる気だ。今の王政をひっくり返して、お前を旗印にする。それが今回のクーデターの最終目標だからな」
ヒストリアは小さく頷いた。その顔には動揺も、あるいは高揚もなかった。ただ事務的な報告を聞くように無表情で肯定しただけだ。
そのあまりに淡々とした様子が、エレンには危うく見えた。
「お前、本当にそれでいいのかよ?」
「……うん」
「女王だぞ?いきなり人類の最高権力者になれって……これからの人生が丸っきり変わっちまうってことだぞ。そんな大事なこと、周りに流されて決めていいわけがないだろ」
「いいよ、別に」
ヒストリアは目の前の机に突っ伏し、古びた木目を指先でなぞりながら答えた。その声には感情の起伏がなく、どこか他人事のように響いた。
「私が女王になれば、事態は丸く収まる。兵団も民衆も一丸となって外の敵と戦える。逆に私が嫌だと言って逃げ出せば皆が困ることになる……だったら、皆が困らない方が良い」
「それはそうかもしれねぇが……お前自身はどうなんだよ」
「私?……私はどうでもいいの」
ヒストリアは薄く笑った。それは訓練兵の頃に見せた「女神」のような笑顔ではなく、もっと乾いた諦念に満ちた笑みだった。
彼女はゆっくりとエレンを見上げる。
「エレンの方こそどうなの?あの人のおかげで、外の世界の真実を知ったわけでしょ……これからどうしたいの?」
エレンは返答に窮した。
脳裏にアルミンと語り合った夢がよぎった。炎の水、氷の大地、砂の雪原――海。かつて憧れた自由な世界。
だが、ジルケからもたらされた真実は、人が人を支配する不自由な世界だった。
――ガッカリした。
あの日、胸に湧き上がったどす黒い感情をエレンは必死に押し殺した。それを認めてしまえば、進み続けるための足場が崩れてしまいそうだった。
「……どうにかしなきゃいけねぇと思ったよ」
エレンは膝上の拳に力を込め、自分自身に言い聞かせるように語った。
「壁の外に敵がいるなら戦うしかない。その為には、俺の中に眠ってるかもしれねぇ『始祖』の力を完全に引き出さなくちゃいけねぇ。ま、実験の感じだと道のりは遠いけどな……」
力なく笑うエレン。そんな彼を見てヒストリアは「偉いね」と呟いた。
「ちゃんと目的を持って前に進もうとしてる。私とは大違いだよ」
「そんなことねぇよ」
「私にはもう……何もない」
ヒストリアは小声で呟いた。
「帰る家なんて元々ないし、開拓地の知り合いも皆死んじゃった。ジル先生だって……居なくなっちゃった。もう先生の淹れてくれたハーブティを飲むことさえ叶わない。今の私にね、守りたいものなんて無いし、自分が何をしたいのかもわからない」
人類の勝利と自由のため。そんな大義名分は彼女の中にはない。
彼女の世界を構成していた温かなものは、全て奪い去られてしまったのだ。ヒストリア・レイスという器の中身は、空っぽの空洞だった。
「どうだっていいの。これ以上、皆の期待を裏切ったり、揉め事を起こしたりするのが面倒なだけ。だから私は、大人たちの言う通りに女王様を演じるつもりよ」
彼女は顔を上げ、虚ろな瞳でエレンを射抜いた。
「失望したでしょ?本当の私がこんなに空っぽで、最低な人間だなんてね」
良い子の『クリスタ』なら決してしないだろう、自虐的な問いかけ。ヒストリアは自嘲気味に口角を歪めた。嫌われることを待っているような顔だった。
「いや……そんなことねぇよ」
「え?」
だが、エレンは不思議と失望を感じなかった。むしろ胸のつかえが取れたような、奇妙な清々しさすら覚えていた。
彼は正直に、思ったままを口にした。
「他はどうかしらねぇけど、俺は以前のお前が結構苦手だったぞ。いつも無理して顔を作ってる感じがして、不自然で正直気持ち悪かったよ。でも、今は違う」
ヒストリアが瞬きをする。エレンは彼女の目を真っ直ぐに見て告げた。
「別にお前は普通だよ。ただバカ正直な普通のヤツだ」
ヒストリアがぽかんと口を開けた。暗い本音を前面に出しても「普通のヤツ」と言い切ってくれたのが余程意外だったのだろうか。彼女の瞳に、少しだけ生気のような色が戻りかけたように見えた。
「――エレン」
その時、地獄の底から響くような声が二人の間に割って入った。エレンが振り向くと、いつの間にかすぐ側にミカサが立っていた。
「実験は終わったはず。早く部屋に戻って休もう」
エレンにとっては「いつもの過保護なミカサ」だが、正面にいるヒストリアの反応は劇的だった。
彼女はさっと顔面を青くさせ、引きつった顔で無言のままそっと席を立った。まるで捕食者に睨まれた小動物のように、その身を小さく縮こまらせている。
「おいミカサ。ヒストリアが怖がってるだろ」
「……?私は何もしていない」
「お前、顔が怖いんだよ」
エレンがため息をついたその時、入り口の扉が乱暴に蹴破られるような勢いで開かれた。
「おいガキ共、いつまで油売ってやがる」
入り口に立っていたのはリヴァイ兵長だった。彼は不機嫌そうに眉を寄せ、自身のブレードの柄を指で叩いた。
「実験ごっこは終わりだ。状況が動いた。全員集合しろ」
その声にはただならぬ緊張が含まれていた。エレンは表情を引き締め、104期新兵も反射的に立ち上がった。
部屋を出る際、未だ震えるヒストリアがサシャと話し合っている姿が視界の端に映った。
「ヒストリア、私はあなたのことを守りたいと思ってますからね!他の皆だって同じ気持ちですから!」
「ありがと、サシャ……でも、ミカサは違うような気が……」
「そんなことありませんよ!……多分」
「多分?」
仲間たちの小さな温もりがエレンの内に一層の焦りを生んだ。このささやかな日常こそ彼が最も守りたいものであった。
リヴァイに促されて小屋の広間へ戻ると、そこには肩で息をするモブリットが立っていた。全身汗まみれで、ここまで馬を飛ばしてきたことが見て取れる。
全員の視線が集まる中、彼は呼吸を整える間も惜しんで叫んだ。
「エルヴィン団長より通達です!本日付で調査兵団の壁外調査は全面凍結!更にエレンとヒストリアの二名を直ちに王都へ引き渡せとの命令が王政より下されました!」
「……なんだと?」
リヴァイの低い声にも怯むことなく、モブリットは続ける。
「既に敵の手は伸びています。団長の指示は一つ。『ここを捨てろ』と……直ちに身を隠せとのことです!」
その言葉が合図だった。リヴァイ班は即座に行動を開始した。痕跡を消し、最小限の荷物をまとめ、蜘蛛の子を散らすように山小屋を放棄する。
彼らが裏手の森へと移動し、数十分かけて高台を登った頃だった。眼下の闇に包まれた山小屋へ、複数の松明の明かりが近づいてくるのが見えた。
乱暴に扉が蹴破られる音が静寂な森に木霊する。中へ雪崩れ込んでいくのは、憲兵団の制服を着た集団だった。
「おい。憲兵団とは手を組んだはずじゃなかったのか?」
木陰から眼下の様子を睨みつけ、リヴァイが不機嫌に問うた。先日ハンジの語った話によれば、このクーデターに関して憲兵団と協力体制――あるいは不可侵の合意が形成されたはずだ。それが早くも破られたというのか。
だが、ハンジは双眼鏡を覗いたまま、忌々しげに首を横に振った。
「いや、あれはナイルが率いる表の憲兵じゃない。おそらく王政の懐刀である中央憲兵だろう」
ハンジの言葉に緊張が走る。ナイルが裏切ったわけではない。敵はもっと奥深く、巨大な中央そのものだ。
「リヴァイ、どうする?このまま森に潜伏するか、それとも……」
「いや、トロスト区へ向かう」
リヴァイは即答した。
「ここを嗅ぎつけられた以上、山狩りが始まるのは時間の問題だ。それに、中央に近づけば近づくほど奴らの包囲網は厚くなる」
「あえて灯台下暗しを狙うってことかい?」
「ああ。トロスト区は先の騒動でまだゴタついている。多くの避難民も入り混じってる状態だ。紛れ込むなら喧騒の中の方がいい」
リヴァイは一度言葉を切り、自身の腰元――マントの下に隠した立体機動装置へ視線を落とした。
「ピクシスの宿舎に潜り込めば、中央憲兵も迂闊には手出しできねぇ……何より、市街地ならいざとなれば
対人戦闘を見据えたその言葉に、エレンたちは息を呑んだ。壁外の巨人相手ではなく、同じ人間との殺し合いが始まる。その現実が、まだ15の少年少女の肩に重くのしかかった。
「移動は夜通し行う。順調にいけば、明日の朝にはトロスト区へ到着するだろう」
「わかった。私は一度エルヴィンの元へ向かうよ。私の班から何人か貸そう」
「助かる」
ハンジは馬の手綱を握りながら、ふと思い出したように振り返った。ポニーテールが夕焼けを浴びて不敵に揺れる。
「そうそう、リヴァイ。明日はトロスト区内が少しばかり混乱する予定だけど、あまり気にしないでくれよ」
「……あ?何の話だ」
「文字通りの意味さ。多少騒がしくなるだろうけど、それはむしろクーデターが上手く行ってる証だと思ってくれ」
リヴァイは眉をひそめ、眼鏡の奥で怪しく光るハンジの瞳を覗き込んだ。
「……お前ら、何か起こす気か?」
「ああ」
ハンジはニヤリと、悪魔的な笑みを浮かべた。
「とびっきりの博打をね」
◇◇◇◇
トロスト区の目抜き通りは夜半の豪雨こそ上がったものの、頭上には依然として分厚い鉛色の雲が垂れ込めていた。
吸った水分で重くなった土の臭いと、未だ乾ききらない建材の湿った匂い。先の巨人襲来による避難民と、終わりの見えない復興作業に駆り出された住民たちが行き交う。
誰もが泥に汚れたブーツを見つめ、疲弊した顔を地面に向けて歩いている。
「おっとっと……」
その淀んだ空気の中、ピーク・フィンガーは進路を塞ぐ大きな水溜りをひょいと軽やかに避けた。その動きは人間の動作というよりは、四足獣が障害物を避けるような独特の滑らかさがあった。
「……はぁ」
水たまりを越えた先で、ピークは自身の纏う外套の裾を摘まみ上げ、小さく嘆息した。
潜入任務のためとはいえ、古着屋の売れ残りから漁ってきたようなこの服はあまりに時代遅れであり、不衛生だった。年頃の女としては袖を通すだけでも気が滅入る代物だ。
ただでさえ長期間の『車力』への変身で二足歩行すること自体が億劫で仕方がないというのに、この古臭い衣装と肌にまとわりつく湿気。今すぐにでも四つん這いになって、何もかも放り出したい衝動を理性で必死に抑えた。
(早く帰ってお風呂に入りたいな……)
ピークは切実な本音を飲み込み、気を取り直して前を行く男に声をかけた。
「雨、上がってよかったですね。あのまま降り続いてたら食糧の調達もままならなかったですよ」
「あれ?もしかして軍の配給が口に合わない感じ?」
「いえ、せっかくなら壁内の名産物でも食してみようかなと」
ピークが何気ない世間話を装うと、前を行く男――ボロボロの外套を深く被ったジーク・イェーガーが肩を揺らした。
「いいねぇ。せっかくこんな辺鄙な場所まで来たんだし、ちょっとは楽しまないと。ピークちゃん、仕事の手の抜き方が上手いね」
「直属の上官の働きぶりを見て盗みましたから」
「痛いとこ突くなぁ……」
ジークもまた使い古しの衣服に身を包み、周囲の喧騒に完全に溶け込んでいた。どこからどう見ても、生活に疲れた中年男だった。
(……相変わらず掴みどころがないな)
ジーク・イェーガー。マーレの戦士長であり、「驚異の子」。
彼はいつだって飄々としていて、冗談めかした口調で煙に巻くのが常だ。しかしピークの直感――あるいは女の勘とも呼べる第六感――は静かに警鐘を鳴らしていた。
この男は、息をするように嘘をつくと。
ジークは何か致命的な秘密を抱え込み、誰にも踏み込ませない高い壁を心の周囲に築いている。根拠はないが、ピークにはある種の確信があった。
「にしても人が多いですね。なにかお祭りでもあるんでしょうか」
「この街、全体的に埃っぽいから人少ない方がありがたいんだけどなぁ……あー、もう!また眼鏡が曇った!」
ジークは立ち止まり、懐から取り出したハンカチで丁寧に眼鏡を拭き始めた。その神経質な手つきを横目に見ながら、ピークは雑談の延長線上に本題を滑り込ませた。
「……それで戦士長。どうでしたか?」
「なにが?」
「ジルケ・クルーガーの所在ですよ。彼女が潜伏していた訓練兵団に顔を出したんでしょう?」
ジークは眼鏡を空にかざして汚れを確認すると、再び掛け直して「収穫なしだよ」と両手を広げてみせた。
「シャーディスとかいう教官と話してみたけど、どうも核心には触れられなかったな。分かったのは彼女が5年間どのように壁内で生活していたのかってことと、兵団の管理体制の杜撰さぐらいさ」
「杜撰さ、ですか?」
「ああ。身分証代わりの兵士手帳が良い例だ。あんな個人情報が載ったモノを持たせとくなんて、落とした時どうすんだっての。ま、おかげで色々話を聞き出せたんだけどね」
ライナー達が帰還する際、ドサクサに紛れてくすねた備品――兵士手帳が存外役に立ったらしい。ジークは懐をポンと叩き、くつくつと笑った。
「奪った手帳の持ち主がマメな性格で助かったよ。業務日誌の欄に、日々の悩みから上官の愚痴までびっしり書き込んでたからね。おかげで酒の席での失敗談まで把握できたけど……まさかその上司と教官が顔見知りだとは。話を合わせるのに苦労したよ」
自分のアドリブ力を自画自賛するジーク。だが、ピークが聞きたいのは上官の武勇伝ではない。
「……そうまでして、ジルケ・クルーガーを探す必要があるんですか?」
「ああ、ある」
ジークは即答した。その声には珍しく強い熱が混じっており、一瞬だけ彼の本心が滲み出たように見えた。ピークの背筋がわずかに粟立つ。
「ベルトルトの報告によれば、彼女は
「もちろん、彼女を本国に連れ帰って次の戦士に継承させる必要はあります。そこに異論はありません」
「なら、何が疑問なんだい?」
ピークは言葉を選びながら、ジークの横顔をじっと観察した。
「……執着の仕方、でしょうか。マガト隊長は、生きて彼女を連れて帰れと厳命していましたが、その口振りは単に
ジルケ・クルーガー。マーレ軍が血眼になって探す
「ピークちゃんは、彼女をどこまで知っているんだい?」
逆に問われ、ピークは記憶の引き出しを開けた。
「初めて彼女を知ったのは、父の病を治す手掛かりがないか手当たり次第に医学関連の書籍を読み漁っていた時です。その中の一冊……他国の本にですが彼女の名が記されていました」
ピークは淡々と語った。それは、マーレ国内では検閲によって決して触れることのできない真実の断片だった。
「彼女がもたらした防疫知識や環境汚染に関する提言、血液検査法……その先進性は海を越えた国々で高く評価されています。特に血液検査法の確立は近代巨人化学でも最大の発明とされ、世界中の国で導入されている代物です」
諸外国の教科書には彼女の名前が普通に載っているそうですよ、とピークは補足した。
「来年レベリオで開催される『万国博覧会』も現在はヨーゼフ・ホフマン氏が計画を牽引していますが……元を正せば彼女がヒィズル国とのパイプ役となり、国際交流の種を撒いたことが始まりだと紹介されていました」
「功績だけ聞くと、立派な偉人だね」
「ええ……まさかそのマーレの偉人が、
偉大なマーレの女医が実はエルディア人であった。それはエルディア人を『悪魔の血』と定義付けるマーレにとって、あってはならない汚点だ。
(だからこそ彼女の名前はマーレから消されたのだろう)
ピークは内なる推察をバネに一歩踏み込み、ジークの目を下から覗き込んだ。
「謎の失踪を遂げるまでジルケ・クルーガーはマーレ軍病院に勤めていたそうです。特に最後の数年間は、研究のかたわら戦士候補生の治療にあたっていたとか……ちょうど戦士長が従軍し始めた頃に」
「……マーレ軍が必死に火消したのに、よく当時の事を知ってるね」
「パンツァー隊の古株が長年マーレ軍に務めていましてね、この潜入作戦の前にそれとなく聞きました。人の口に戸は立てられませんよ」
もっとも、彼もジルケがエルディア人であることを知らなかったそうですが、とピークは心の中で付け加える。
上官の逃げ道を塞ぐように静かに告げた。
「戦士長。あなたは、彼女の素性を知っていたんじゃないですか?」
ジークは歩く足を止めず、視線だけを空に向けた。灰色の雲を見つめるその瞳は、どこか遠い過去を見ているようだった。
「いや、知らなかったよ」
「本当ですか?」
「マジ。ガキの頃、お世話になった記憶がうっすら残ってる程度だからね」
嘘だ、とピークは直感した。
うっすらとした記憶程度で、あそこまで真剣な眼差しにはならない。一瞬見せた切迫した熱量は、ただの顔見知りに向けるものとは到底思えなかった。
(ジークは何かを隠している)
やはりジーク・イェーガーという人間は平然と味方をも欺く。この潜入作戦にはマーレ軍の意図とは別に、彼個人の目的が含まれている気がしてならなかった。
「ま、昔話ならマガト隊長とでもしなよ。ジルケ・クルーガーが消えた後のドタバタなら、隊長が一番詳しいだろうし。俺達はただただ軍の命令に従うのみだ」
「……はい、そうですね」
ピークは釈然としないものを飲み込み、再び重い足取りで歩き出した。
不意に湿った風が通り抜け、一枚の新聞紙がジークの足元に舞い込んできた。どこかの露店から飛んできたのだろうか、ジークは鬱陶しそうにそれを蹴り退けようとして――ふと、何かに気づいたように足を止めた。
「ん……?」
彼は足に張り付いた新聞を拾い上げ、泥と埃を払うと、その紙面に目を走らせた。見出しを目にした瞬間、ジークは「うへぇ……」と酷く情けない声を上げた。それは戦士長としての威厳など欠片もない、素の困惑だった。
「……これ、流石に事故だよな?壁の内情に精通してる人間がこんなことするわけないし……ただ、もし意図的なモンだとすりゃ、やった奴は相当頭いかれてるぞ。うわー、これからどうなるんだよ……」
「どうしました?」
「あ、ピークちゃんも見る?びっくりするよ」
ジークが新聞の一面を部下に見せつけようとした、その時。ピークは何気なく視線を上げ――そして凍りついた。
心臓が早鐘を打ち、全身の血が一瞬で冷たくなるのを感じた。
建物と建物の隙間。そこから覗くトロスト区の壁に「あってはならないモノ」があった……ように見えた。
「え、ちょっと。ピークちゃん!どこ行くの!?」
ジークの制止も耳に入らなかった。 ピークはフラフラと、糸が切れた操り人形のように裏道へと歩みを進めた。
足が震え、うまく力が入らない。だが、確かめずにはいられなかった。もしも自分の見間違いでなければ、取り返しのつかないことになりかねない。
裏道を抜け、視界が開ける。そこにある現実を直視し、ピークは膝から力が抜けるのを感じた。
「ジーク……あれは……」
「――ああ、俺が言いたかったのもアレのことだよ」
ピークは乾いた唇からどうにか声を絞り出すと、震える指先でその一点を指し示した。
彼女が指差した先――堅牢な造りであるはずの壁面が剥がれ落ち、そこから皮膚のない顔が――超大型巨人の顔が、薄暗い壁面から静かに街を覗いていた。
次話以降、テンポ重視でサクサク進みます。人によっては物足りなく感じるかもですが、ほぼ原作をなぞるだけの箇所も多いので……その点ご容赦ください。
来年以降もちょこちょこ更新していきますので引き続きよろしくお願いします。
※補足
作中、ジークがハンネスの個人的な事情(酒癖やシャーディス教官など)を知っていた点について、描写不足を感じたため以下にて補足いたします。
①ハンネスさんの情報について
私の脳内設定となってしまいますが、兵士手帳は身分証としての役割だけでなく、ゲーム『進撃の巨人2』やイルゼ・ラングナーのように兵士が日々の記録を書き込む「日記」の機能も持っているイメージです。
ライナー達が離反した際、ベルトルトが立体機動装置と一緒に兵士手帳も持ち帰っており、そこに上官(ハンネス)の愚痴等書かれていました。ジークはそれを読んで情報を仕入れたという流れです。
②シャーディス教官との関係性について
こちらはジークも事前には知らず、完全に現場でのアドリブです。単に「自分はハンネス隊の部下だ」と身分を詐称した際、意外にも教官が「ほう、ハンネスの……」と食いついてきたため内心焦りつつ話を合わせた、という流れです。
どこが舞台の閑話が良い?(なるべく原作ネームドキャラを登場させる予定)
-
革命軍
-
レベリオの市民病院
-
マーレ軍病院
-
ヒィズル国
-
ウォール教開拓地
-
訓練兵団
-
調査兵団(王政編後)