夜明け前に降り注いだ激しい雨は、ようやくその勢いを失いつつあった。
トロスト区の上空には依然として鉛色の分厚い雲が垂れ込め、街全体を湿った灰色の膜で覆っている。雨足は弱まったものの、濡れた石畳が放つ独特の匂いが鼻腔にまとわりついた。
「……雨、止みそうですね。これなら視界を確保できそうです」
並走するニファが、フードを少しだけ上げて空を仰いだ。
彼女はエルヴィンから私の護衛兼監視役として付けられた兵士。小柄だが身のこなしは軽く、濡れた瓦屋根でも音を立てず、滑らかに移動している。
「完全に晴れてしまうと困りものなんだがな……この悪天候こそが作戦の鍵なんだよ」
「はあ……」
「で、どうなんだ?ハンジから伝令はあったか?」
「……予定通り、エレンとヒストリアは本日中にトロスト区へ到着します。リヴァイ兵長が護衛についているので遅れはないかと」
役者は揃いつつある。あとは私が舞台を整えるだけか。
「……ジルケさん」
少し息を切らしたニファが、不安と微かな疑念を瞳に宿して私を見た。
「今から何をやろうとしているんですか?」
「なんだ、エルヴィンから聞いてないのか?」
「ええ。貴女を連れて所定の場所に行けとだけ……」
あの眉毛野郎め、汚れ仕事の説明は私に丸投げか。私は雨に濡れて頬に張り付く髪を、鬱陶しげにかき上げた。
「着いてからのお楽しみだ」
ガスを噴射し、一気に高度を上げる。私達は目的の場所――トロスト区外壁の頂上へと着地した。吹き荒れていた風も収まり、眼下には朝靄に沈む街が静まり返っていた。まだ陽も昇りきっていない。鎧戸はどこも閉ざされ、通りに人影は皆無だ。
壁の端まで歩み寄り、ぐるりと辺りを見渡す。この季節の太陽の位置と、今日の分厚い雲。仮に雲が切れても、ここは最も陽が射さない死角になる。
私は壁の上を行ったり来たりして慎重に位置を調整する。私の奇行にニファが恐る恐る声をかけようとしたタイミングで、足を止めた。
「よし、この辺で良いか」
「あの……本当に教えてください。一体何を?」
「壁を破壊する」
「は……?」
ニファが呆気にとられたように口を開けた。私は彼女に、悪戯っ子のような、あるいは悪魔のような笑みを向けてやった。
「壁の中に巨人が詰まっていることは知ってるな?それを兵団のみならず、トロスト区の住民全員に見せつけてやるのさ」
「そ、そんなことをして何の意味が……ッ!?」
「住民の立場になって考えてみろ。朝起きたら、自分たちを守ってくれているはずの壁から超大型巨人が挨拶してきてるんだぞ?当然、大混乱だ。パニックになった彼らは誰に詰め寄る?」
「……まさか」
「この壁を統治する王政だ。『おい、壁の中身はどうなってんだ』って具合にな。だが、現場の憲兵は何も知らず、真相を知るウォール教や中央は隠蔽を図る……その時、住民の不満はどこへ向かうか」
ニファの顔色が青ざめていく。聡明な彼女はエルヴィンが描いた絵図の悪辣さを察したのだろう。
『民を味方につけるには、わかりやすい『外敵』を作ればよい』
エルヴィンの言葉が脳裏を過ぎった。
真実を隠蔽しようとする王政こそが、民衆の敵である。私が壁を壊すのも、その認識を民衆に植え付けるための壮大なマッチポンプだ。
「昼頃までには憲兵共が巨人の姿を隠すだろうが、ここまで大々的かつセンセーショナルな事件を隠し通すのは不可能だ。厳格な箝口令を敷いたにも関わらず、エレンの件がバレたようにな……そして、この一件が拡散されてみろ。王政に対する信頼は地に落ちる」
新体制が樹立すれば旧体制を貶めるのは歴史の常。今後樹立される兵政権が求心力を得るには、旧体制が隠していた「不都合な真実」を暴く正義の執行者となる必要がある。
ついでに、その道程で民衆に『壁内人類』が置かれている状況を効率的に周知させることができる。一石二鳥とはまさにこのことだろう。
(その為には、トロスト区の住民を一時的に恐怖の底に突き落とすことも厭わないか……)
改めてエルヴィン・スミスという男の悪辣さには舌を巻くほかなかった。
ニファは言葉を失っていた。恐怖か、あるいは人類を滅ぼしかねない作戦内容に気圧されたか。彼女は震える声で反論した。
「で、でも……巨人は雨だろうと活動します!壁の巨人が動き出したら……!」
「普通の巨人ならそうだろうな。だが、今回は別だ」
私は鉛色の空を指差した。
「曇天の照度は晴天時の10分の1以下。しかも、露出させるのは顔だけ……全身の表面積のほんの数%だ。この条件下では『100年の休眠状態』から叩き起こすことはできたとしても、50m級の巨体を動かすほどのエネルギーは得られまい。せいぜい瞬きをして住民に愛想を振り撒くのが関の山だ」
私は壁の石材をブーツで小突いた。硬い響きの中に、眠れる化け物の気配が混じる。
「ここ数日あなたがトロスト区に待機していたのは……」
「雨待ちだよ。この時期は比較的降りやすいそうだから分のいい賭けだったな」
それに、私には一つの予想があった。確証はないが……陽に当たった程度で『地鳴らし』は発動しないのではないかと。
巨人の力と継承者の目的意識は密接に関わっている。
九つの巨人が良い例だろう。明確な目的意識を持たなければ、たとえ自傷していようと巨人化することはできない。
この壁を築いた初代レイス王は、自ら戦いから逃げ出して滅びを受け入れた極度の
通常の巨人と違い、壁の巨人には『地鳴らし』という明確な目的が刻み込まれている。その引き金はおそらく『始祖』の命令ただ一つ……少なくともあの臆病な王なら、そういう安全装置をかけていても不思議ではない。
「……ま、巨人がお散歩しそうになったら兵団総出でシートでも被せて光を遮断してやりゃあいい。やばくなった時の対応ならエルヴィンに任せている」
「どうかしてる……」
ニファが絶句して呟く。私は苦笑した。
「言っとくが、発案者はエルヴィンだからな?私は巨人の専門家としてお墨付きを与えたに過ぎん……さて」
私は壁の縁に立つ。抜き放ったナイフの切っ先を掌に添えた。
「そろそろ住民の皆様も起きてくる頃合いだ。とっとと終わらせよう」
躊躇いなく、肉を裂いた。
走る痛みと溢れる熱。直後、黄色い稲妻と共に雷鳴のような轟音が炸裂した。
具現化した巨大な爪を振り上げ、眼下の壁面へと叩きつける。極限まで硬質化された爪は硬い石壁へ食い込み、分厚い壁面を無慈悲に抉り取った。
バラバラと巨大な破片が街路へ落下する音を聞き届け、私は巨人のうなじから離脱する。噴き上がる高温の蒸気を纏いながら、ニファの隣へと着地した。
「終わったぞ……大丈夫か?」
声をかけると、ニファは腰を抜かさんばかりに震えていた。彼女の視線は、私が削り取った壁の断面に釘付けになっている。
そこには、皮膚のない巨大な顔が――超大型巨人が、虚ろな眼でトロスト区の街を見下ろしていた。
「ストヘス区で壁の巨人を見なかったのか?それほど容姿に差があるとは思えんが」
「……見ました。見ましたけど……まさか本当に、壁の中いっぱいに巨人が詰まっているなんて……」
「事実は小説より奇なり、とはよく言ったもんだな」
濡れた髪をかき上げ、一息ついたその時だった。
「――この目で見るまでは半信半疑だったが……本当に巨人になれるとはな。張り込んでて大正解だったぜ」
雨音以外の、場違いなノイズが鼓膜を叩いた。
全身の毛穴が収縮するような、冷たく鋭い殺気。振り返ろうとした瞬間、ニファが弾かれたように動いた。
「ジルケさんッ!!」
強い力で突き飛ばされた直後、乾いた銃声が響いた。
私の目の前で、ニファの肩口から鮮血が弾け飛んだ。赤い血飛沫が雨粒に混じり、衝撃で彼女の小さな体が宙に浮く。
「ニファ!!」
彼女は悲鳴をあげる間もなく、反動で壁の縁から外へと弾き出された。手を伸ばす暇も……なかった。ニファの体は霧雨の舞う虚空へ投げ出され、眼下の街並みへと吸い込まれていった。
黒い帽子を被った長身の男が、奇妙な形状の銃を構えて滑るように迫ってくる。
ニファの安否を確認する余裕なんてない。私は即座に思考を切り替え、自らの掌を噛み千切った。
「おいおいおい!久々の再会なのに挨拶もなしかよ!」
轟音と共に出現した
(速すぎる……ッ!)
だが、捉えきれない。男はアンカーを私の肩に突き刺し、遠心力を使って背後へと回り込む。爪を振るうが、男は紙一重で躱し、別の憲兵――金髪の女だ――と連携して死角から銃撃を浴びせてくる。
今まで見た誰よりも……人類最強であるリヴァイと遜色ないスピードだった。雨に濡れた足場などまるで関係ないように、壁上を自在に滑走している。
男の動きを捉えるのは困難だ。といっても、相手は生身の人間。巨人である私とは生物としてのスペックが違う。
(埒が明かないが……有利なのはこちらだ)
男がいくら速かろうが、今の私からすれば蠅同然だ。このまま街中へ逃げ込めば連中もそれを止める術はないはず。私の存在を民衆に見せる予定ではなかったが、背に腹は代えられない
一瞬ニファが落ちていった虚空へ意識が向くのを、無理やりねじ伏せる。今為すべきことは一秒でも早くこの場を離れ、兵団と合流することだ。
私は壁下へ跳躍すべく、四肢に力を込めた。
その瞬間。男が私のうなじの真上に着地した。
「チェックメイトだ、化け物め」
たかが散弾如きで何ができる。そう高を括ったのも束の間、私の背中を襲ったのは弾丸ではなく――圧倒的な熱と轟音だった。
世界が白く染まる。肉が根こそぎ吹き飛ぶ感覚。思考が焼き切れるほどの衝撃と共に、私は巨人の肉体から強引に引きずり出された。
「が、あ……ッ!?」
冷たい石畳の感触が背中に伝わる。視界が霞み、意識が急速に遠のいていく。
「……なんですか、それ。まさか隠し玉ってその爆弾のことですか」
女の声が、水の中にいるように籠もって聞こえた。
「どこぞの
「せめて事前に試してくださいよ」
「最近押収したんだからしゃーねーだろ。倉庫に眠ってるモンをそのまま持ってきたんだよ」
氷爆石……立体機動のガス燃料を、爆薬に転用したということか。これ以上貴重な資源を妙な兵器に無駄遣いするんじゃない、とどこか場違いな感情が芽生えた。
「それにその爆弾、危なすぎません?私の方まで破片飛んできましたよ……雷でも落ちたような音もしてうるさくて敵いません」
「不満なら後で技術班にでもぶつけとけ。連中なら上手い具合に改良してくれんだろ」
女の大きな溜息が聞こえた。
「……それで、どうしましょうかね?壁の巨人を隠そうにも、今の音で直に住民が集まってきますよ。撤退します?」
「そうするしかねぇな」
「さっきの調査兵はどうします?二重尾行していた兵士の遺体もそのままですよ」
「ほっとけ。構ってる時間なんてねぇよ」
男はつまらなそうに鼻を鳴らした。靴音が近づき、私の顔を覗き込む気配がする。
「……ったく、試合に勝って勝負に負けた気分だ。ま、この女が手に入っただけ良しとするか。トラウテ、例のアジトに運び込んどけ。俺はリヴァイの方を当たる」
「……また、上への報告は無しですか?」
「文句あっか?」
「いいえ」
男の足音が遠ざかり、代わりに女の手が私の身体を乱暴に持ち上げた。抵抗しようと指を動かすが、神経が繋がっていないかのように動かない。
冷たい霧雨が私の敗北を嘲笑うかのように降り注ぎ、意識の残滓を洗い流していった。
◇◇◇◇
窓ガラス越しに響く怒号が止む気配はなかった。
トロスト区兵団本部の一室。エルヴィン・スミスは窓辺に立ち、眼下の通りを見下ろしていた。
今日は王政設立記念日だ。本来であれば、華やかなパレードと配給に沸くはずの広場は、祝祭とは対極にある異様な熱気に包まれていた。
「壁の中にいる巨人はなんだ!説明しろ!」
「パンなんかで誤魔化そうとすんじゃねぇ!」
特別配給のパンやスープが用意された広場に群がる民衆の数々。だが、彼らの瞳に宿っているのは王家への感謝と忠誠ではなく、根源的な恐怖と、統治者への底知れぬ不信感だった。
警備にあたる憲兵達が小銃を構えて威嚇するものの、民衆の勢いは増すばかりだった。銃口を向けられてもなお彼らの不満は収まらず、一部では憲兵との小競り合いも起き始めている。
(――賽は投げられた)
その光景を見つめるエルヴィンの眉間に、深い皺が刻まれた。
彼が画策し、ジルケ・クルーガーが実行した「壁の破壊」。それは劇薬であり、王政打倒という絵図において民衆を味方に付けるための危険な博打であった。
王政の威信を地に落とすという目的は果たされつつある。だが、エルヴィン達が目指すのはあくまで「無血革命」だ。民衆が暴徒化し、武力衝突が起きることは避けねばならない。
「……外、随分と賑やかだね」
ノックもなく扉が開き、ハンジ・ゾエが入ってきた。徹夜続きなのか目の下の隈は濃いが、その瞳は鋭く光っている。ハンジは書類の束を無造作に執務机へ放り投げた。
「『レイス領の調査報告書』と『エレンの硬質化実験レポート』だ。一睡もしないでまとめたんだから、後で高い菓子でも奢ってくれよ」
「ああ、任せろ」
エルヴィンは書類を手に取りつつ、顎で窓の外をしゃくった。
「火消しは難航しているようだな」
「そりゃそうさ。よりにもよって王政設立記念日だからね、朝から配給を心待ちにして外へ繰り出した者が多い……おかげで、壁から顔を出した巨人のご尊顔を拝んだ目撃者も数えきれないよ」
エルヴィンの視線の先、トロスト区の外壁の一部には巨大な幕が張られている。裏手にいる巨人の姿は隠蔽されて久しいが、多くの住民はその顔を脳裏に刻んでいた。
「エルヴィン、君の脚本はこれ以上ないほど効果的に炸裂したみたいだね」
ハンジは肩をすくめたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「だけど、ピクシス司令が懸念していたよ。『火種としては上等だが、焚き木が乾燥しすぎておったわい』ってね」
「……民衆の不満が、我々の想定よりも潜在的に溜まっていたというわけか」
「ああ。このまま放置すれば、不信感は暴動へと変わる。そうなれば王政も鎮圧に乗り出さざるを得ない。我々が目指すゴールとはかけ離れた地獄絵図だ。『一刻も早くクーデターを成功させねば、取り返しのつかないことになる』……司令からの伝言だよ」
エルヴィンは重く頷いた。綱渡りのロープが、さらに細くなった感覚がある。時間をかければかけるほど、足元の火薬庫が爆発するリスクが高まるのだ。
「それと、ナイル師団長から情報連携だ」
ハンジが声を潜める。憲兵団師団長ナイル・ドーク。表向きは対立関係にあるが、今回のクーデターにおいては水面下で手を組む同志だ。
「通達は三点。一つ、表の憲兵団は壁の巨人の件を中央へ報告していない。どうせ中央憲兵の耳には入るだろうが、初動の混乱を利用して情報の伝達速度を可能な限り遅らせる算段だ。王政の意思決定もある程度遅らせることができるだろう」
エルヴィンは小さく頷いた。ナイルもまた、組織の歯車としてギリギリの抵抗を試みているのだ。
「二つ目、君への出頭命令が中央から出ている。これも極力プロセスの不備を突いて引き伸ばすそうだが、それも限界がある。憲兵団が君の元を訪ねるタイミングはまた連携してくれるから、それまでには身辺を綺麗にしておいてくれってね」
「わかった。ハンジ、お前から預かった報告書にも至急目を通そう」
「読み終わったらモブリットにでも渡しておいてくれ……そして三つ目」
ハンジは少しだけ表情を緩めた。
「『家族を保護してくれて、改めて感謝する』……だってさ」
「……そうか」
短い返答に、エルヴィンは万感の思いを込める。かつて同じ女性を愛し、異なる道を選んだ友。彼の取った選択に言葉を挟む気は毛頭ないが、それでも訓練兵団以来の友と共に事をなすのは、エルヴィンに微かな安らぎをもたらした。
「――舞台は整いつつある。あとは当初の予定通り、司令と一芝居打って王宮を抑える」
エルヴィンは執務机上の地図を指でなぞった。
「王政が人類を見捨てる瞬間を、兵士の目前で演出する。忠誠心の高い末端の兵士たちに、現体制を見限らせるんだ。併せてレイス卿の身柄も司令と連携して抑えよう」
「ああ……でも、肝心の主役がまだ戻らないね」
ハンジの言葉に、室内の空気が一瞬にして重く澱んだ。エルヴィンの脳裏に、あの不敵な女医の顔が浮かんだ。
壁を破壊してから既に数時間が経過しているというのに、ジルケとニファ、そして彼女らを陰から追尾していたハンジ班の面々が兵団本部に誰一人として帰還していない。明らかな異常事態だ。
「ジルケは我々の切り札だ。彼女の持つ情報と巨人の力がなければ、外の敵に打ち勝つことは不可能に近い」
「わかってるよ。私だって心配してる……でも、あのジルケだよ?今のところトロスト区内に巨人が現れたという目撃情報は届いていないが……何か予期せぬトラブルがあっても、ジルケなら強引にねじ伏せて帰ってきそうじゃない?」
「……否定はしない」
そう応じながらも、エルヴィンの胸中には黒い予感が渦巻いていた。
その時、廊下から騒がしい足音が響いてきた。
「道を開けてください!」
エルヴィンとハンジが顔を見合わせた直後、執務室のドアが乱暴に開かれた。
「団長!!」
転がり込んできたのはモブリット、そして彼に支えられた小柄な兵士。青白い顔で足を引きずるその姿に、ハンジが息を呑んだ。
「ニファ!?」
調査兵団のマントは泥と血で汚れ、肩口からは鮮血が止めどなく溢れている。ハンジが慌てて衛生兵を呼ぼうとするが、ニファはそれを手で制止した。
「分隊長、治療は後で結構です……先に報告を……」
「馬鹿言うな!部下がそんな状態で放っておけるか!」
「報告を優先させてください!」
鬼気迫るニファの声に、ハンジが言葉を呑む。エルヴィンは静かに歩み寄り、死力を振り絞る彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「……聞こう」
ニファは荒い息を整え、血の気のない唇を開いた。
「申し訳……ありません。ジルケさんが、中央憲兵と思われる二人組に……連れ去られました」
「中央憲兵だと?」
「はい。長身の男と、サポート役の女です……女の装備に憲兵団の紋章を確認しました。彼らは……銃火器と一体化した、特殊な立体機動装置を装備していました」
エルヴィンは眉ひとつ動かさず、しかし脳内では高速で脅威度を計算していた。
銃など巨人は無力だろうが、人を殺すなら打って付けだ。加えて、未知の立体機動装置。それは中央憲兵が、対調査兵団用の戦力を秘密裏に備えていた証拠だ。
ニファは悔しさに顔を歪め、言葉を絞り出す。
「一瞬でした……私は成す術もなく撃たれ、戦闘不能に陥りました。辛うじて壁にアンカーを突き立てられたので事なきを得ましたが……男は、リヴァイ兵長に匹敵するほどの手練れでした。ジルケさんも巨人化して応戦していましたが、散弾のようなもので牽制され……」
「巨人が銃火器で制圧されたというのか?」
「いえ、銃だけではありません。聞いたことのない……雷のような爆発音がしました。おそらく、何か強力な爆弾を隠し持っていたのかと」
対人制圧に特化した銃器。
「爆発を受けたジルケさんは巨人のうなじから引きずり出され、最終的に女によってどこかへ連れ去られ……」
そこまで言うと、ニファは糸が切れたように膝をついた。モブリットが慌てて彼女を抱き留め、衛生兵を呼ぶよう叫んだ。
「……状況は理解した。ニファ、よく戻った。ゆっくり休んでくれ」
エルヴィンは低く呟き、拳を強く握りしめた。不確定要素の介入により、描いた絵図が根底から揺らいでいる。
だが、立ち止まることは許されない。彼は決意を固め、ハンジへと振り返った。
「急ぐぞ、ハンジ。敵が強力な手駒を持っている以上、時間をかければこちらが狩られる」
「分かっている。エレンとヒストリアの保護が完了次第、我々も王都へ向かおう」
ハンジが頷き、踵を返そうとしたその背中にエルヴィンが声を投げた。その響きは、どこまでも静かで、そして冷徹なほどに真剣だった。
「敵はなりふり構わず仕掛けてくる。王都へ到着するまでに私が生きている保証なんてどこにもない。そうなっても臨機応変に対応しろ」
「……縁起でもないことを言うなよ、馬鹿。エルヴィンが死んだら兵団はどうするんだよ」
「次の調査兵団団長はハンジ・ゾエ。お前だ」
ハンジは冗談めかして笑ったが、エルヴィンの瞳に宿る覚悟を見て、その笑みは凍りついた。
◇◇◇◇
昼下がりのトロスト区。路地裏にひっそりと店を構える酒場の窓際で、ピーク・フィンガーは憂鬱な溜息を噛み殺した。
目の前に置かれた皿には、ふやけた芋と少量の肉片が浮いたスープ、そして石のように硬い黒パンが鎮座している。
長期間の『車力』の任務から解放され、久しぶりに人間の姿で食事ができると密かに期待していたのだが、壁の中の食文化は想像以上に貧相だった。
(……期待した私が馬鹿だった)
フォークでつついた芋は頼りなく崩れ、味付けは薄い塩味のみ。これなら軍の配給食の方が幾分かマシかもしれない。落胆しながらスプーンを動かすピークの正面で、豪快に喉を鳴らす音がした。
「んー!
戦士長であるジーク・イェーガーは、真昼間だというのにジョッキを傾け、上機嫌で口髭についた泡を拭っている。
「ピークちゃんも飲む?」
「遠慮しておきます。任務中ですよ」
「つれないなぁ。あ、もしかしてワインの方が好みだった?アジトに結構残ってたはずだし、後で開けようか?」
ピークは嫌悪感を隠さず顔を歪めた
「結構です。あんな得体の知れないもの、死んでも飲みたくありません。ていうか、そもそも年齢的にNGなんで」
「おっと、そうだった。ピークちゃんはまだ育ち盛りだったね」
ジークは肩をすくめ、再びジョッキに口をつける。その瞳の奥には、冗談めかした口調とは裏腹な、冷徹な光が揺らめいていた。
ピークも視線を皿に戻し、冷めたスープを機械的に口へ運んだ。咀嚼しながら、思考は今朝の出来事へと遡った。
(……あの壁の巨人)
夜明け前、トロスト区の外壁の一部が崩落し、中から超大型巨人の顔が現れた。
遠目から巨人の顔を見た時、ピークは心臓が止まるかと思った。パラディ島勢力による宣戦布告、および『地鳴らし』の発動かと身構えたが、巨人はただ虚ろな目で街を見下ろしているだけで、動き出す気配は見せなかった。
(ひとまず最悪の事態……『地鳴らし』が起きなかったことには安堵したけど……)
なぜ、あんなものが露わになったのか。
壁の老朽化による事故か? それとも何者かが意図的に壁を破壊したのか?
もし後者なら、一体誰が何の目的で?自分達の守りを削るような真似をする意味が分からない。
(それにあの破壊痕……人の仕業とは思えない)
巨人の仕業だとすると、エレン・イェーガーかジルケ・クルーガーのいずれかが破壊したことになるが……『地鳴らし』の脅威を知るジルケが実行するとも思えない。であれば、推定『始祖』の継承者であるエレン・イェーガーが?
考えても答えは出ない。ピークはスプーンを置き、話題を変えるように口を開いた。
「……アニは、どこにいるんでしょうかね」
「さあねぇ」
ジークは頬杖をつき、琥珀色の液体を揺らした。
「ライナーの馬鹿がアニちゃんの正体をバラしちゃったからなぁ……どこかに潜伏しているか、はたまた兵団に捕まったか」
「ええ。正体が割れた以上、アニも必死に逃げ回っているはずです。捕まっていれば兵団が厳格に監視しているでしょう」
「今更アニちゃんのいたストヘス区の憲兵団を探ったところで意味ないだろうね。むしろ、藪蛇になる可能性が高い。まったく厄介な……」
「ということは……予定通り、アニの捜索は優先度低めですかね?」
「……現状、そうするしかないかな」
ジークが言葉を濁し、ピークが皿に残ったソーセージにフォークを突き刺そうとした、その時だった。
ガシャアンッ!!凄まじい破砕音と共に、店の入り口の扉が弾け飛んだ。
扉の木片が店内に散乱し、賑やかな空気が一変する。ピークは反射的に身を低くし、ジークも目を丸くしてジョッキを置いた。
舞い上がる粉塵を裂き、深緑のマントを羽織った小柄な影が躍り出る。その男は獣めいた俊敏さでカウンターを飛び越えると、瞬時に死角へと身を潜めた。
「おい……あれ……」
店の奥で震えていた客の一人が、恐怖に引き攣った声を漏らした。
「リヴァイだ……調査兵団の……!」
その名が鼓膜を叩いた瞬間、ピークの背筋に戦慄が走る。ライナーとベルトルトが口を揃えて「危険だ」と警戒していた名もソレだった。
(まさか……こんな小男が)
眼前に現れたこの男こそが『人類最強』と謳われるリヴァイ兵士長。硬質化能力を持たぬ巨人であれば、九つの巨人ですら単独で討ち取り得ると、ライナーはその常軌を逸した戦闘力を恐れていた。
「――どうもこの店から、薄汚ねぇネズミの匂いがするなァ。どチビのネズミのよぉ」
「ケニー……久しぶりだな」
ピークが息を殺して様子を窺っていると、砕け散った入り口から長身の男がぬらりと足を踏み入れた。その手に握られているのは、立体機動装置と一体化した異形の銃器。
野太く、それでいて愉悦を含んだ低い声。思わずジークと目配せをする。
『ケニー』と呼ばれたその男は、一般人の巻き添えなど歯牙にもかけぬ濃厚な殺気を撒き散らしていた。
ピーク達は無力な市民を装い、固唾を飲んで二人の怪物の対峙を見守った。
しばしの間二人は互いに軽口を叩き合うが、そこに再会の喜びなど微塵もない。張り詰めた空気の中、殺意だけが交錯していた。
「大いなる夢の為なら殺しまくりだ。お前だっててめぇのために殺すだろ?」
不敵な笑みと共に、ケニーがリヴァイの潜むカウンターへ迫る。銃口は微動だにせず、一切の隙がない。
刹那、リヴァイが動いた。カウンターの下からライフルだけを取り出し、躊躇なく引き金を絞る。銃弾は吸い込まれるようにケニーの腹部に命中した。
ケニーの身体が紙切れのように吹き飛び、店の外へと弾き出された。
「ひぃぃぃぃ!?」
店主が悲鳴を上げる中、リヴァイの動きは止まらない。手近な椅子を掴むや否や、力任せに窓ガラスへと投擲した。
椅子が窓を突き破り、外へ転がり落ちる。直後、待ち構えていた敵兵たちが反応し、一斉射撃の轟音が響いた。
しかしそれは囮だった。敵の注意が逸れたコンマ数秒の隙。リヴァイは窓枠を蹴り、外へと飛び出していった。
「リヴァイを殺せぇ!!」
外から銃声と立体機動装置のアンカーが射出される音が響く。あとに残されたのは、半壊した店と腰を抜かした店主、そして呆然とするピーク含む客だけだ。
遅る恐る窓際から身を乗り出すと、そこには信じがたい光景が広がっていた。
リヴァイは空中で体を回転させながら、屋根の上にいる憲兵の一人を切り裂き、その死体を盾にして別の憲兵の銃撃を防いでいる。遂には憲兵二人の胴体を切断した。
あまりに洗練された殺戮は、舞踏と見紛うほどだった。
「……化け物かよ」
隣でジークが低い声で吐き捨てた。憲兵たちを次々と切り伏せ、血の雨を降らせながら逃走するリヴァイの姿を、その眼鏡の奥で冷たく観察している。
「……さすがは悪魔の島って感じだな。さっきの人攫いといい、ほんとどうなってんだ
ピークは数刻前の光景を思い出した。
大通りを歩いていた時のことだ。猛スピードで走ってきた馬車に、若い男女の二人組が無理やり押し込まれ、連れ去られる現場を目撃した。白昼堂々、衆人環視の中での犯行だった。
「治安も何もあったもんじゃないですね」
ジークは呆れたように頷き、空になったジョッキを揺らした。
遠ざかっていく銃声と怒号を聞きながら、ピークは冷たくなったソーセージを口に運んだ。砂を噛んでいるようだった。
「あれがリヴァイ……人間離れした動きをしてましたね」
「ああ。他の兵士と練度がまるで違う。それと、ケニーって大男も要注意だな。ライナー達の報告を聞いた時は『大袈裟だ』と思っていたが……」
ジークは眼鏡の位置を直し、その奥にある瞳を鋭く細めた。
「こりゃあ気を抜けないなぁ」
ピークちゃんが目撃した人攫いですが、あれはエレンとヒストリアに扮したジャンとアルミンが、リーブス商会に連れ去られる原作のシーンです。
後の主要キャラが原作の裏側や重要イベント(リヴァイとケニーのやり取りなど)を別視点で目撃する展開大好きドラゴンなので、書いていて非常に楽しかったです。
また、今話で出てきた独自設定を以下補足いたします(長いので気になる方だけ読んでください)
①壁の巨人について
原作の設定では、巨人は基本的に日の光があれば活動できる存在とされています。この前提のみに従えば、『地鳴らし』発動中にジークが死亡しても太陽が出ている限り巨人の行進は止まらないはずです。
しかし原作終盤の「天と地の戦い」では、ジークが殺された瞬間に『地鳴らし』が止まりました(また、夜であろうが『地鳴らし』は止まらず、壁の巨人は動いていました)
この描写から逆算すると、壁の巨人は通常の無垢の巨人とは異なる、何らかの特殊な条件下に置かれていた存在だったのではないか、という解釈が成り立つと考えています。
本作ではその一つの解釈として、
・『始祖』や王家(ジークが生み出した巨人等)の明確な命令下にある場合、巨人は太陽光に依存せず活動できる。
・そうでない場合は、従来どおり太陽光をエネルギー源とする。
という仮定を置いています。
仮に壁の巨人が『始祖』等の命令下にないとしても、原作で語られている「超大型巨人は燃費が悪い」という設定と照らし合わせてると、 100年以上にわたって完全に遮光された状態から50m級の巨体を即座に稼働させるには、相応のエネルギーが必要になると考えられます。
仮には壁の巨人に全身日光浴させれば動き出すのかと言われると、それはそれで初代レイス王の思想に反していると思われます。作中でもジルケが指摘している通り、『不戦の契り』を結び、端から『地鳴らし』を発動させる気のない初代王が不慮の事故を考慮しない方が不自然であるように感じます。
以上を踏まえて『始祖』の命令無しで壁の巨人が自然に歩き出すとは考えにくく、この設定にしました。
※仮に壁の巨人が動き出しそうなら、作中で触れた通り「兵団総出でシートを被せて遮光する」という物理的なバックアッププランが用意されているので、エルヴィンやジルケ視点では「壁の破壊」作戦はどっちに転んでも良かった(成功すれば嬉しいな程度)ものとお考えください。
②ケニーの持っていた爆弾について
ケニーが使用していた爆弾は、後に登場する「雷槍」の原型という位置づけです。
原作ではこれまで中央憲兵が回転式拳銃などの技術革新を隠蔽・弾圧していた一方、王政編後、雷槍の原型となる技術が一部の中央憲兵によって個人的、あるいは非公式に保持されていたことが示唆されています。
本作では、「一部の中央憲兵が勝手に持ち出していた技術をケニーが押収し、将来的に予期される巨人との戦闘――具体的にはエレンやジルケとの交戦に活用できると踏んだ」というイメージで描写しています。
※ケニーがその技術に気付いたきっかけも今後書こうかなと(気分が乗ればですが……)
なお、雷槍の具体的な仕組みについては原作でも詳細な説明がありません。
作中の技術水準であれほどの兵器を成立させるためには、『進撃の巨人』世界における最大の不思議アイテムである「氷爆石」が関与していなければ説明が難しいと判断し、「氷爆石」の転用という設定にしました。
どこが舞台の閑話が良い?(なるべく原作ネームドキャラを登場させる予定)
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革命軍
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レベリオの市民病院
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マーレ軍病院
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ヒィズル国
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ウォール教開拓地
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訓練兵団
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調査兵団(王政編後)