エレンの妻です   作:ホワイト3

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お久しぶりです。


39:終幕①

 夢はいつも断片的だった。

 

 壁の上を吹き抜ける風の匂い。頭上の空は妙に青みが薄く、見上げた瞬間、視界の端から白く滲んだ。

 ああ、これは――あの奪還作戦の前に見た景色だろうか。

 

 そう考えたそばから、景色は指の間をすり抜ける水のように消えていった。

 

 次の瞬間には私は木造の廊下を歩いていた。

 

 靴底が床板を軋ませる。きい、きい、と規則正しく鳴る音だけがやけに耳についた。

 廊下の先を誰かが歩いている。小柄な背中だった。消えてしまいそうなほど華奢なのに、不思議と頼りなさはない。

 

 その背中がひどく遠く感じられて、私は理由もなく焦った。追いつかなければならない気がした。

 歩幅を広げる。床を踏む音が少しだけ大きくなる。

 それでも、距離は縮まらなかった。

 

 追いかけようとした瞬間に、ふっとその背中が遠のいた。

 

 また場面が切り替わった。

 

 今度は机の上に置かれた白い湯気が見えた。  

 

 微かに甘く、青々しく、それでいて喉の奥をじんわり温めるような匂いだった。香りがハーブティーだと教えてくれた。

 

 私に茶を嗜む趣味はない。なのに夢の中の私は、慣れた手つきで湯を注ぎ、茶葉を蒸らし、まるで長年の習慣であるかのように自然にカップを差し出していた。  

 

 向かいに座っているのは、さっき廊下の先を歩いていた小柄な背中の主だった。

 

 少女は両手でカップを包み込む。陶器に触れた指先は少し冷えていて、わずかに震えていた。

 その震えが、立ちのぼる湯気の中でゆっくりほどけていく。こわばっていた肩がほんの少し落ち、寄せられていた眉間の皺が緩む。青い瞳の奥に、ようやくひと息ついたような光が差した。

 

 日が変わる。季節が変わる。

 窓から射し込む光の色が移ろい、少女の髪は少しずつ伸び、纏う空気も徐々に大人びていく。

 それでも、カップを手のひらで包み込む仕草はいつも同じだった。最初の一口を飲む前に、楽しむように香りを吸い込み、それから音も立てずに啜るのだ。

 

「同じ味ばかりで飽きないの?」

 

 呆れ半分でそう聞く私に、少女は顔を上げて笑った。

 

「うん!」

 

 ためらいのない返事だった。

 

 ああ。きっと(シュタイナー)はこの顔と返事を求めて、少女に何度も茶を振舞ったのだろう。

 

 ヒストリア。

 

 白い湯気が視界いっぱいに膨らみ、鼻腔を塞ぐほど満ちて――私は目を覚ました。湿った空気が、肺の奥に重たく張りついていた。

 

 夢の中の温かな匂いとは違う。

 土と石と鉄が混じり合った、地下特有の淀んだ臭気。長いあいだ日の当たらない場所にだけ漂う、冷えた水気の匂いだ。ひと息吸うだけで胸が痛くなってくる。

 

 だが、その湿っぽい臭気の底に、夢と同じ香りがかすかに混じっていた。

 

 私はすぐには動かなかった。目だけを開け、呼吸の深さも変えずに、鉄格子の向こうを探る。

 

 壁に背を預ける女が一人いた。

 

 銃を抱えている。

 目つきは険しく、顔立ちも愛想がない。いかにも「近寄るな」と全身で告げている風情だ。だが、姿勢は見張りのそれとは言い難かった。

 片方の踵を床へ投げ出し、肩からは妙に力が抜けている。視線は虚ろに宙を彷徨っていて、何かを警戒しているというより、もっと別の場所を見ているようだった。

 

 まるで自分がここにいる意味そのものに倦みきっているみたいに。

 

 それなのに、手元だけは妙に整っていた。

 傍らの丸机には、小ぶりなティーカップが二つ置かれていた。

 

 片方は彼女の手の中にある。

 もう片方は、まるで誰かを待っているみたいに、持ち手の向きまで揃えて几帳面に置かれていた。粗末な地下牢にあって、そこだけ別の部屋から切り取ってきたみたいに場違いだった。

 

 女は、湯気の立つカップを口元へ運ぶ。その光景が、さっきの夢と妙に重なった。

 

 私は眉を寄せた。

 頭がまだ少し重い。思考の芯に薄く霞がかかっている。

 

 そうだ。

 ケニー・アッカーマンの勧誘に失敗したあと、私は麻酔銃を撃たれ巨人化する暇もないまま意識を刈り取られたのだ。

 あれからどれほど時間が経ったのか。昼夜の概念がない地下では、それすら分からない。

 

「……美味そうじゃないか。茶を嗜むのか?」

 

 声を出すと、喉が思ったより掠れていた。

 

 女は私の問いかけにピクリともしなかった。カップの縁が小さく鳴る音だけが地下の静けさに落ちた。

 

「なあ、上はどうなってる? そもそも私はどれくらい寝ていたんだ」

 

「……」

 

「どうせ囚われの身だ。せめて話し相手くらいにはなってくれてもいいだろう」

 

「もう、どうだっていい」

 

 ようやく返ってきた言葉は驚くほど投げやりだった。

 女はカップを静かに置きながら、心底うんざりしたように吐き捨てる。

 

「お仲間の調査兵団が政権をひっくり返したよ。王政は解体、議会関係者は次々と逮捕。じきにこの場所も嗅ぎつけられるだろうさ」

 

「……驚いたな。まさか教えてくれるとは」

 

「言ったろ。もうどうだっていいって」

 

私は胸の奥で、密かに革命の成就を喜んだ。

 

 けれど、喜びはすぐに冷えた。

 

 まだ終わりではない。

 

 ロッド・レイスが『始祖』を手にすれば、すべては元に戻る。

 いや、元に戻るどころでは済まない。調査兵団は廃止され、王政の支配はより強固な形で固定されるだろう。壁内は再び閉ざされ、私がもたらした情報もこれまで積み上げてきた犠牲も、まるごと闇へ押し返される。

 

 あれだけの血を流して、何一つ変わらない――そんな結末だけは許せなかった。

 

「……ふん。私からすればどっちに転んでも地獄だよ」

 

 私の胸中を読み取ったように、女が鼻で笑った。

 

「仮にレイス卿が『始祖』を手にしたとしても、世界の秘密を知っちまった私は、都合よく記憶をいじられるか、口封じされる。かといって兵団が勝てば、今度は一生お尋ね者だ。この狭い壁の中で逃げ切るなんて無理なこと、私が一番よく知ってる」

 

「同情はしない。お前が選んだ道だろう」

 

「私はただ、この壁の中の秩序を必死で駆け上がっただけなんだがね」

 

 世界だの民族だの大義だの。そういう大きなもののためではなく、もっと個人的で、もっと小さな必死さで足掻いてきた人間の言葉だった。

 

「……ケニー・アッカーマンはどうした?」

 

「隊長ならレイス卿の護衛だよ。まあ、相変わらず何考えてるのかはさっぱりだが。分かったなら、もう放っておいてくれないか。ゆっくりできるのも、最後かもしれないんだから」

 

 私はそこで、鉄格子へ視線を移した。

 

 今なら、牢を抜けられるかもしれない。

 

 ケニー・アッカーマンはいない。

 見張りは目の前の女一人。指先や腕だけを変じる程度の部分巨人化なら、この程度の牢ならこじ開けられる可能性はある。

 

 もちろん賭けだ。調整を失敗すれば天井が抜けて押しつぶされる。だが、何もしないで座っているよりはましだった。

 

 エレンが危機にある以上、一刻も早く向かわなければならない。『始祖』を巡る争いで後手に回れば、それだけで全てが終わる。

 

 ――分かっている。

 

 分かっているのに、私は動かなかった。

 

「一つ、聞きたい」

 

 気付けば私はそう言っていた。

 

 女がようやくこちらを見る。銃口は動かない。ただその目だけが、面倒そうに細められた。

 

「ケニー・アッカーマンはなぜ私の誘いを断った?」

 

「また話を蒸し返す気か?」

 

 女は心底つまらなそうに言った。

 

「隊長が何考えてるかなんて知らん。だが、貴様の誘いに乗らない理由なら分かる。単に貴様のやり方が気に食わないんだろ」

 

「……目前まで敵国が迫っているのに、ずいぶん呑気なことを言う。あんたらは命が惜しくないのか?」

 

「隊長が言ってただろ。『恐怖で煽ってるだけじゃ、人はついてこない』って。都合の良い逃げ道を作って都合よく人を扇動するなよ」

 

「しかし私の語っていることは事実だ」

 

「事実かどうかが重要なんじゃない。少なくとも隊長は、そういうやり方をする奴には靡かないってだけだ」

 

 そこでわざとらしく間を置いてから、「もちろん私もな」と付け足した。

 

「あんな暴力の化身にそうまで入れ込むのか」

 

「なんだ?それほど隊長を仲間に引き込みたかったのか?」

 

 ……違う。

 あの男の戦力は惜しいが、それ以上に私は自分の同類に裏切られたような気分になった。

 

 恐怖は人を動かす。

 

 とりわけ死への恐怖は絶対だ。生き物は皆、死を避けるために足掻き、争い、しがみつき、ここまで生き延びてきた。恐怖こそ最も原始的で、最も強力な動力だ。

 

 私だって例外ではない。

 死ぬのは怖い。だがそれ以上に、同胞が蹂躙され、苦しみ、無惨に殺される未来の方がよほど恐ろしい。私が怯えているのは私一人の死ではない。民族の死だ。

 

 私はその恐怖を語った。ここで戦わなければ死ぬと。

 あの男だって、暴力という恐怖で曲がりなりにも中央憲兵の連中を従え、ここまで歩いてきた。恐怖を使う者同士私とまるきり無縁ではないはずだった。

 

 そう告げると女は露骨に顔を顰めていた。

 

「一緒にするなよ。ケニーは無意味な人生と世界に意味を見出してくれた。大いなる夢を見せてくれたお陰で、少しは私も救われた。この世界を生きていてみたいと思えたんだ。貴様が提示するのは最悪の未来だけだろ」

 

 反論しかけてできなかった。

 

 私は生来、まず失うものから数える。

 戦わなければ何が奪われるか。逃げれば何が壊されるか。立ち止まればどれほど残酷に踏み潰されるか。そうやって崖の縁へ追い込み、後ろに下がれなくなって初めて前を見る。

 

「そういう思想を他人にまで強要するなよ。恐怖だけで動くほど人間は単純じゃない。そもそもな、自分だけでも手一杯なのに見ず知らずの同胞なんて知ったことじゃないだろ」

 

「……だが調査兵団は私の話を聞いて動いたぞ」

 

「あんな変人集団と一緒にするなよ。外になんか出なきゃ死なずに済むものを、好奇心に取り憑かれて夥しい血を流し続けてる連中だぞ」

 

「私から見れば、それ以外の連中は家畜同然だがな」

 

「好きに言え。だが、その御自慢の調査兵団にしたって、別に貴様を信用してるわけじゃないだろ」

 

 口元が薄く歪んだ。

 

「赤毛の調査兵との会話を聞いた限りじゃ、積極的に動いてるのなんてごく一部だけだろ。違うか?」

 

 言葉が詰まった。思い当たる節が多すぎた。

 

 リヴァイはまず間違いなく私を嫌っているし、ミカサもアルミンも今の私に好意的とは言い難い。

 ハンジやピクシスとて腹の底では何を考えているか分からない。ヒストリアなど言うまでもない。

 

 エルヴィンが前に立ってくれなければ、王政打倒どころか、私の命そのものがとっくに断たれていただろうだろう。むしろ、なぜあそこまで好意的なのか疑問なくらいだ。

 

 ――思い返せば、革命軍の中でさえ私は浮いていた気がする。

 

 志を同じくするはずの人間たちの中にいてもだ。大義を語りながら、その実やり方があまりにも苛烈で、人の思いを雑に踏みにじってきた。

 

 胸の奥に、言葉にならない棘が立つ。

 その棘を撫でるみたいに、女のカップから立ちのぼる香りがまた夢の残滓を掻き回した。

 

 ウォール教という鳥籠を飛び出すと決めたあの日。湯気の向こうで、ヒストリアは何かに追い立てられている顔をしていなかった。震えてはいた。迷ってもいた。

 それでもあの子は、自分の意志で前へ進もうとしていた。誰かに押されたのではない。自分の足で、自分の行き先を選ぼうとしていた――自由な未来を夢見て。

 

 それなのに今はどうだ。

 

 ヒストリアはすべてを諦めたような顔で、自分に与えられた役目を受け入れようとしていた。自分が女王にならなければ多くの人間が困る。最悪の未来を回避するには仕方ない。まるでそう言わんばかりに。

 

 自分の中で何かが嫌な音を立てた。

 

 私はエルヴィンのようにはなれない。人を束ね、背負い、率いることなどできやしない。

 ケニーのように世界に意味を与えることもできない。

 

 けれど。あの少女にだけは最悪の未来ではなく、その先を見せてやれたのではないか。

 

 見せかけの女王など、結局は今の王政の傀儡と何ら変わらない。自分の意思で立ち、自分で未来を選べる者……少なくともウォール教から抜け出そうとしたあの日の少女には確かにその素質があった。その先にある自由を、自分の手で掴もうとしていた。

 

 地上のことは調査兵団に任せるつもりだった。だが、ヒストリアだけは――今この瞬間、あの子に手を伸ばせるのは私だけな気がした。

 

「……」

 

 喉までせり上がった言葉を、一度飲み込む。そんなものを口にしたら弱さになる、と思ったからだ。

 だが、そうやって何もかもを弱さとして切り捨ててきたこと自体が、私の弱さなのかもしれなかった。

 

「ヒストリアから信用を得たい……いや、違うな。仲良くなりたい。何か良い案はあるか?」

 

「……藪から棒にどうした。まだ麻酔が残っているのか?」

 

 女は珍獣でも見るような顔で目を丸くした。

 やめろ。私だって、らしくないことくらい分かっている。

 

「都合の良い逃げ道を作って扇動するのは……少し虫が良すぎる。あの子と話をして理解してやりたい」

 

「理解しようがしまいが、貴様と兵団は結局ヒストリアを女王に即位させるんだろ。自己満足じゃないのか」

 

「……今までとは違う角度から人を動かしてみようと思った。この言い方なら私っぽくて満足か?」

 

 言ってから、自分でもひどく苦い気分になった。

 結局私は素直な物言い一つできない。歩み寄りたいと口にすることすら、皮肉で包まなければ形にできないのか。

 

 女はすぐには答えなかった。

 見張る目ではなかった。値踏みするような、探るような、もっと言えば拍子抜けしたような目だった。

 さっきまでのこいつに、こんな台詞を吐くつもりはなかったのだろう。私自身、口にした今でも信じ難い。

 

 鼻で笑われると思った。あるいは一蹴されるか。

 

 けれど女は、嘲る代わりに小さく息を吐いた。呆れたようでもあり、毒気を抜かれたようでもある、奇妙に人間臭い吐息だった。

 

「……本気で言ってるのか、それ」

 

「冗談でこんなことを言ってられる状況じゃないだろ」

 

「アンタみたいなのが今さら『仲良くなりたい』ね」

 

 語尾には棘があった。だが、先ほどまでのような剥き出しの拒絶とは違った。

 刃を向けながらも、その切っ先がわずかに鈍っている。そんな声音だった。

 

 女は組んでいた脚を崩し、抱えていた銃を脇へずらした。「撃つ気が失せた」というより、構える意味が薄れたように見えた。

 そしてカップを持ち上げかけ、ふとやめる。唇をつける代わりに、立ちのぼる湯気を一度だけ眺めた。

 

 まるで自分の中で何かを測っているみたいだった。

 

 私は黙って待った。急かせば閉じる。そういう間があることくらいは、さすがに分かる。

 

 やがて女は視線だけをこちらへ戻した。それから、いかにも唐突に言った。

 

「こう見えて、私は同期一の優等生でな。中央憲兵に来る前は猫を被るのも得意だった。自分で言うのも何だが、かなりモテたぞ」

 

 突然なんの話をしてるんだ、こいつ。頭がおかしくなったのか?

 

「貴様なんかより、よっぽど人との関わり方を知ってるってことさ」

 

 私の困惑を見抜き、女がそう言った瞬間だった。

 彼女の顔から、氷みたいに張りついていた険しさがふっとほどけた。

 

 自慢するだけはある、と認めざるを得ないくらい人目を引く笑顔だった。口元だけではなく、目元まできちんと緩む。今まで棘ばかり見せていた女がそんな顔をするものだから、不意打ちみたいに印象が変わった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 エレンが最初に感じたのは、瞼の裏に刺さるような白い光だった。

 

 眠りの底からいきなり乱暴に引きずり上げられたせいで、意識はしばらく現実の輪郭を結ばず、目を開けてもただ眩しさに眉を顰めることしかできなかった。

 視界いっぱいに広がる白は、最初のうちこそ意味のない塊にしか見えなかったが、やがて少しずつ輪郭を持ち始め、それが光を反射する石の天井なのだと分かってくる。

 

 高い天井だった。地下にいるはずなのに圧迫感はなく、むしろ異様なほど開けていて、その広さがかえって落ち着かなかった。天井も壁も、磨き上げられた鉱石のように白く鈍い光を返しており、左右には太い柱がずらりと等間隔に並んでいる。

 

 その列は遠く奥まで続いていて、果てがどこにあるのか見当もつかない。灯りの数そのものは多くないはずなのに、どこもかしこも白々と明るく見えるのは石そのものが光を抱え込み、内側から滲ませているようだった。

 

 見たことのない場所だ、とエレンは思った。

 

 けれど、その認識と同時に胸の奥が妙にざわついた。ただ知らない場所を見ているというだけではない。

 自分の知らないはずの場所を前にしているのに、まるでずっと前から知っていたものを今さら思い出しかけているような、ひどく気味の悪い感覚が同時に押し寄せてくる。

 

(……俺はここを知っている?)

 

 そう思って上半身を起こそうとした瞬間、じゃらりと重い金属の擦れる音が響き、エレンははっとして手元を見た。両手首に鎖が嵌められている。反射的に腕を引くと、太い鎖が石の台座に擦れ、鈍く濁った反響音がだだっ広い地下空間いっぱいに広がっていった。

 

 そこでようやく自分がどういう状態に置かれているのかを理解する。

 

 両手首、両足首、そして腰。全身が石の台座に固定されていた。仰向けに寝かされているのではなく、上体だけ少し起こされた格好で据えつけられているその姿勢は囚人というよりも、まるで見世物か、あるいは何かの供物みたいだった。

 

「――ッ!」

 

 思わず叫ぼうとしたが、口にはすでに口枷が噛まされていて、喉の奥で弾かれた声は濁った息にしかならない。

 目を凝らして見れば、手には何重にも布が巻かれており、指先はほとんど動かなかった。

 

 爪を立てることも、舌を噛み切ることもできない。巨人化を封じるためだと考えるまでもなく分かった。

 

 ふざけるな、とエレンは心の中で吐き捨てた。

 

 立てないことよりも、立たせてもらえないことの方が腹立たしかった。抵抗する余地さえ奪われ、ただここに置かれている。自分の意思とは何の関係もなく、何かをされるためだけに。

 

 そうだ。自分とヒストリアは、ピクシスの隠れ家へ向かう途中で中央憲兵に攫われたのだ。

 

(外はどうなってる……皆、生きているのか……?)

 

 兵長はどうなった。ミカサとアルミンは。ハンジさんは。不安を覚えた矢先、階下から足音が聞こえてきた。

 

 こつ、こつ、と乾いた靴音が石床を叩き、この白く広い地下空間の中で不自然なほど大きく膨らんで響く。音は一つではない。複数ある。だが、先頭を行く一人の足音だけが妙に規則正しく、迷いがなかった。

 

「どうした?君はここに来るのは初めてのはずだぞ」

 

 声とともに姿を現したのは、小柄な男だった。

 

 気を失う前に一度見た顔だ。肥えた身体に整えられた髭、丁寧な物腰。だが、その上品さの奥には、どうにも拭いきれない不気味さがある。人を諭す口調をしているくせに目だけは少しも温かくない。

 

 ヒストリアの父。ロッド・レイス。

 そして、その隣にヒストリアがいた。

 

 彼女の金髪は白い天井の光を受けて、ひどく色を失って見えた。肌まで透けるように白く、ロッドの隣に立つその姿は訓練兵時代の小柄でおどおどした印象からは少し遠い。背筋は伸びて顎も引かれ、その立ち姿だけを見れば、王族然としていると言えなくもなかった。

 

 けれど、エレンにはそうは見えなかった。

 

 あれは堂々としているのではない。何かを諦めた人間が、もう逃げるのをやめただけだ。そういう立ち方だった。

 

(なんで……)

 

 ヒストリアは王政に命を狙われていたはずだ。父に捨てられ、追われ、居場所を失い、ようやく兵団で居場所を見つけようとしていたのに、今彼女は父親の隣にいる。しかも怯えて縋りついているのではない。逃げ出そうともしていない。まるで、自分の足でそこに立つことを選んだみたいに見えた。

 

「だが、見覚えがあっても不思議ではない」

 

「……お父さん。エレンに説明してあげないと」

 

 ヒストリアが言う。その声は落ち着いていたが、どこか乾いていた。

 

「ああ、そのつもりだよ。だがその前に、一つ試してみようと思ってね。こうすれば彼は思い出すかもしれない」

 

 ロッドがそう言って視線を向けるのと同時に、エレンの背後へ二人が回り込む気配がした。何をされるのかと身を強張らせた次の瞬間、背中に二つの手が触れ、全身を雷に打たれたような衝撃が脊髄を貫いた。

 

『罪から逃れてはいけません。我々ユミルの民が裁かれる日が来たのです』

 

 知らない声だった。だが、その声音に宿る冷たさはあまりにも人間離れしていた。

 

 視界が白く弾けた。

 巨人の手が見えた。その直後、幼い子どもの身体が巨大な指に握り潰されていた。甲高い悲鳴が耳を裂き、血飛沫が散り、骨の折れる湿った音が遅れて響く。足元にはちぎれた腕が転がった。祈りの場だったはずの礼拝堂が、原形をとどめぬほど破壊し尽くされた姿を晒していた。

 

 夢なんかじゃない。そう分かってしまうほど鮮明で、重く、吐き気を催すような現実感を伴っていた。

 

(違う……!これは俺の記憶じゃねぇ)

 

 その光景は少しも容赦せず、エレンの中に流れ込み続ける。

 

 また場面が変わる。逃げ惑う群衆の中で、調査兵の一人が驚愕に目を見開いて、エレンではない誰かを見ていた。

 

『エレン、お前にはできる』

 

 不意に父の声が響き、場面はさらに激しく移り変わる。

 

『――『不戦の契り』を無視して、『始祖の巨人』の真価が発揮される』

 

 今度は栗色の髪をした女が小動物のように怯えた声でそう言った。

 

『……『地鳴らし』が本当に起こるかもしれない』

 

 その言葉だけが妙に重く耳に残る。

 

 声が次々に重なり、途切れ、また別の声が割り込んでくる。男の声。女の声。怒り。懇願。命令。絶望。そのどれもが自分の記憶ではないはずなのに、耳を通らず脳の奥へ直接押し込まれてくるようで、エレンはひどい眩暈に襲われた。

 

 それでも、その混線する声の奔流の中にたしかに聞き覚えのあるものがあった。

 

『母さんの仇はお前が討つんだ!!』 

 

『エレン。あとは、お願い』

 

『ああ――覚えておけよ、グリシャ。巨人の力はこうやって使う』

 

 父さんの声。そして――ジルケ・クルーガーと、彼女に『エレン』と呼ばれた男の声。

 

 以前、ジルケは言っていた。王家の血を持つ者との接触は記憶の扉を開く鍵になり得るのだと。

 その言葉が今になって現実の重みを持ってのしかかってきた。

 

(……これが、前の継承者の記憶ってやつか?)

 

 ごくりと喉が鳴る。

 なら、今見たのは――父さんの。

 

「お姉さん……?」

 

 不意にヒストリアの声がした。

 

 エレンは荒くなった息のままそちらを見る。ヒストリアもまた何かを見ていた。あるいは思い出していた。もともと白い顔がさらに青ざめ、瞳が小さく揺れている。

 

 その揺れ方はただ驚いているというより、自分の中の何かが無理やりこじ開けられる時の怯えに近かった。

 

「どうした? ヒストリア」

 

「なんで……」

 

 彼女の唇が震えていた。

 

「なんで、私……今まで忘れてたんだろう……?」

 

 ロッドはその言葉を待っていたかのように、柔らかな声で答えた。

 

「その子が長い黒髪の若い女性だったのなら、おそらく彼女はフリーダ・レイス。お前の腹違いの姉だ。フリーダはお前を気にかけて、ときどき面倒を見ていたのだろう。お前の記憶を消していたのも、お前を守るためだ」

 

 記憶を消す。

 

 その一言が、ヒストリアの内側の何かに触れたのが分かった。目に見えたわけではないが、彼女の周囲の空気がすっと冷えた気がした。

 

「……それが『始祖』の力なんだよね」

 

 ヒストリアは父を見た。声そのものは静かだったが、その静けさには薄く研がれた刃があった。

 

「そうやって王家(わたしたち)は、百年間この壁の人たちを騙してきたんだ」

 

「騙したのではない。我々は民を世界の悪意から守ってきたのだ」

 

 ロッドの返答は早く、そこに迷いはなかった。

 

「お前は外から入り込んだ悪魔に洗脳されている。二千年間、我々がどれほど多くの命を弄んできたのか、お前は知らないだろう……ラーゴの惨劇、モンテの惨害、ヴィレの惨禍……取り返しのつかぬ罪だ。あの悪魔はその罪を黙っていただろう」

 

「壁の中の人達は違う」

 

 ヒストリアは一歩も引かなかった。

 

「彼らは何も知らない。誰も、自分たちの先祖が何をしたのか知らないまま生きてきたでしょう」

 

「ヒストリア!!」

 

 ロッドの声が急に荒くなる。その怒鳴り声にエレンの肩がびくりと反応した。ヒストリアは一瞬だけ視線を落とし、気まずそうに睫毛を伏せる。

 

「……ごめんね、お父さん。この話はもうしない約束だったよね」

 

「いや、こちらこそ怒鳴ってすまなかった。我が娘よ」

 

 ロッドはそう言ってヒストリアを抱き寄せた。

 

 エレンの位置からは、その抱擁は横目でしか見えない。けれど、ヒストリアの表情だけはよく見えた。どう反応していいのか分からず、じっと耐えているみたいな酷く疲れた顔だった。

 

「それで……フリーダお姉さんはやっぱり……」

 

「ああ。お前の想像通りだ、ヒストリア」

 

 ロッドはゆっくりとエレンへ視線を向ける。

 

「そこにいるエレン・イェーガーの父、グリシャ・イェーガーによって無惨にも喰い殺された」

 

 そのあとロッドは、罪状を読み上げるように語った。自分の妻と五人の子どもたちが皆殺しにされたこと、『始祖の巨人』が奪われたこと、そのせいで壁内世界は混乱に叩き落とされたことを、一つ一つ丁寧に。聞かせるというより刻みつけるように。

 

 エレンは黙ってそれを聞くしかなかった。口枷の奥で歯を食いしばる。否定したくても、父の記憶が今なお脳裏に残っていた。

 

「分かったか?エレン・イェーガー。お前の父親がどれほど罪深い人間だったか」

 

「もういいよ、お父さん」

 

 その流れを断ち切ったのはヒストリアだった。

 彼女はロッドの袖を軽く引いた。感情を抑えた声だったが、その奥にはわずかな焦りが滲んでいる。

 

「早く済ませよう。ここも、すぐ兵団に見つかるかもしれないし」

 

 エレンは目を見開いた。

 

 早く済ませよう。フリーダの死も、グリシャの罪も、エレンがこれからどうなるかも――この先に起こることに比べれば取るに足らぬとでも言いたげかのように。

 

 ロッドもまたわずかに目を細めていた。娘の口から亡き姉を悼む響きよりも先に、事を急かすような声音が出てきたことに、一瞬だけ違和を覚えたのかもしれない。

 

「ヒストリア、お前……」

 

「……勘違いしないでね、お父さん。私だってフリーダお姉さんがいなくなって悲しい。あの人がいなかったら、今の私はない。でも――お父さんが教えてくれたじゃない。『始祖』の力を使えば死んだ人間に……お姉さんや……ジル先生ともまた会えるって」

 

 そうしてヒストリアはゆっくりとエレンへ向き直った。

 

あの人(ジルケ)の言う通りだったよ」

 

 その瞳は不思議なくらい澄んでいた。だからこそ危うかった。濁っていればまだ止められる気がした。だが今の彼女は、自分の欲望を正しいこととしてではなく、仕方のないこととして受け入れてしまっている。

 

「私たちレイス家は世界の記憶と一緒に『始祖の巨人』を何代も継承してきた。すべての巨人を支配する力を百年間ずっと持っていたのに、巨人を駆逐して人類を解放しようとはしなかった」

 

 彼女の声は静かだった。静かな分だけ、一語一語が重かった。

 

「お父さんの弟……ウーリ叔父さんも、最初はエレンみたいに巨人を駆逐しようとしてたらしいわ。でも『始祖』を継いで、世界の歴史を見て……この小さな楽園に閉じこもることを選んだ。どうしてだと思う?」

 

「んーッ!んーッ!」

 

 エレンは叫ぶ。だが口枷が声を押し潰し、それはみっともない呻きにしかならない。

 

「『始祖』を継いだウーリ叔父さんは世界の歴史を見た。そして理解したの。私たちエルディア人がどれだけ罪深い存在なのか」

 

 ヒストリアは淡々と語った。

 『始祖』の力が再び弱い人間の手に落ちないよう、初代王が契りを結んだこと。王家の人間が継承するたびに、初代王の思想に呑まれていくこと。それが『不戦の契り』であり、何代にも渡ってレイス家を縛ってきた呪いなのだということを。

 

 そこまで言い終えると、ヒストリアはふっと息を吐いた。張り詰めていた糸がほんの少しだけ緩んだように見え、手が無意識に髪へ伸びて毛先をいじる。

 

「……ごめんね、エレン。いきなりいっぱい喋っちゃって」

 

 少し困ったように笑う。その笑い方が訓練兵の頃の『クリスタ』に一瞬だけ戻ったみたいで、エレンは余計に苦しくなった。

 

「色々言ったけど……本当はね。私には王家の使命とか、世界がどうとか……もう、どうでもいいの」

 

 帰りたい。ヒストリアはぽつりと呟いた。

 

「お父さんから聞いた『始祖』は、まるで神様みたいだった。ユミルの民の記憶も身体も自由に操れるなら失った記憶を取り戻すことだってできる。信じられないけど……死んだ人にだって会えるんだって」

 

 その一言で、エレンは全てを察した。

 

 ヒストリアは王家の使命に目覚めたわけではない。壁の自由と平和のために覚悟を決めたわけでもない。

 

 ただ会いたいのだ。自分を救ってくれた人に。失ってしまった人に。もう戻らないはずのものに。そのためなら何を犠牲にしてもいいと、そう思い詰めている。

 

 嫌な予感がゆっくりと輪郭を持ち始めた。

 

 そのときロッドが何かを差し出した。注射器だった。

 

 エレンの背筋が一気に冷える。見覚えがある。見間違えるはずがない。あれは父グリシャが自分に打ったものと同じだ。

 

(やっぱり)

 

 ヒストリアがそれを受け取る。細い指が硝子の胴を握る。

 

(俺は、ここで喰われるのか?)

 

 その考えが頭をよぎった瞬間、全身の血が逆流するみたいだった。エレンは全力で身体を捩る。鎖が激しく鳴る。だが台座はびくともしない。

 

 ほんの一瞬だけヒストリアの視線が揺れる。

 父を見るでもなく、エレンを見るでもなく、どこにも行き場を持たないまま宙をさまよって、それからようやく注射器へ戻った。

 

 怖いのだ、とエレンには分かった。

 

 当然だった。どれだけ言葉を重ねても、どれだけ自分に言い聞かせても、これを打てば後戻りはできない。人間のままではいられない。その事実だけはどんな理屈よりも残酷に、針の細さの中へ凝縮されていた。

 

 それでもヒストリアは、逃げるように目を閉じた。睫毛がわずかに震えている。信念が揺らがなかったわけではない。今この瞬間にも、手を離してしまいたい気持ちは確かにあったはずだ。

 

 それでも彼女は震える指先で注射器を自分の腕へ当て、その針を押し込もうとした。

 

 次の瞬間――

 

 バァンッ、と銃声が礼拝堂を裂いた。




王政編もあと数話で終わります(長かった……)
近日中に次話投稿しますので、引き続きご愛読ください。

どこが舞台の閑話が良い?(なるべく原作ネームドキャラを登場させる予定)

  • 革命軍
  • レベリオの市民病院
  • マーレ軍病院
  • ヒィズル国
  • ウォール教開拓地
  • 訓練兵団
  • 調査兵団(王政編後)
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