これでようやく終わるのだと、ヒストリアは注射器を握り締めながら思った。
指先に伝わる硝子の感触は冷たく、その細い筒の中に詰められた液体の向こうには確かに取り返しのつかない何かが待っているはずだった。人のままでいられなくなることへの恐怖がないわけではなかったが、不思議なことに、その恐怖は彼女の手を止めるほどのものではなかった。
脳裏に浮かぶのは、失ってしまった人たちの顔ばかりだった。母の無表情な横顔、フリーダの優しい手つき、訓練兵団で過ごしたささやかな日々、そして白い湯気の向こうから穏やかな眼差しで自分を見つめてくれたジル先生。
ようやく会えるのだ。母にも、フリーダにも、ミーナたちにも、そしてジル先生にも。もう二度と手の届かない場所へ行ってしまったはずの人たちに、自分ももう一度だけ手を伸ばせるのだと思うと、それだけで胸がいっぱいになり、今まで必死に押し込めていたものが一気に溢れ出しそうになる。
鳥籠の外には自由があるのだと、かつては信じていた。しかし外で待っていたのはどうしようもない現実と、どこまで行っても尽きることのない悪意ばかりだった。これなら何も知らずに壁の中へ閉じ込められていた頃の方が、幾分か幸福だったのではないかとさえ思えてしまう。
(……違う)
だが、ヒストリアはすぐに小さく首を振った。
どこにいようと結局この世界はずっと残酷で、自分のような人間に安らげる場所など最初からどこにもなかったのだ。それならばせめて最後くらいは自分で行き先を選びたかった。
そうしてヒストリアが震える指先に力を込め、注射器の中の液体を押し込もうとしたその瞬間だった。
地下礼拝堂の静寂を切り裂くように銃声が轟き、彼女の手の中で注射器があっけなく砕け散った。鋭い破裂音とともに硝子片がきらきらと白い床へ飛び散り、薬液が指先から掌へと生温く流れ落ちていく。
何が起きたのか理解する前に、頭上から低く投げ捨てるような声が降ってきた。
「くだらねぇ」
ヒストリアは弾かれたように顔を上げた。
礼拝堂の高い天井近くで立体機動装置のワイヤーが甲高い音を響かせる。その後、黒い影が空中から滑り降りるようにして石床へ舞い降りた。
忘れようがなかった。自分とエレンを攫った中央憲兵の男であり、そして何より母アルマをその手で殺した男でもある。ヒストリアの喉の奥で息がひゅっと細く鳴り、胸の奥に焼けるような嫌悪がせり上がった。
ケニー・アッカーマン。
王政の番犬そのもののような男が、今は主人であるはずのロッドへ平然と銃口を向けていた。
「ケ、ケニー! 何のつもりだ!?」
ロッドの声は怯えと狼狽で無様に裏返っていたが、ケニーはそれを意にも介さない。肩の力を抜いたまま、まるで退屈な芝居の一幕でも眺めるような顔で口を開いた。
「ああ?謀反だよ、ムホン。てめぇらレイス家の茶番には、もううんざりしたってだけだ」
「……お前の魂胆は分かっているぞ。『始祖』を奪うつもりなんだろう!?だが無駄だ、それは王家の血を引く者でなければ――」
「知ってるっつーの。王家じゃねぇ人間が『始祖』を持っても意味ねぇんだろ?ま、どうやら俺達アッカーマン家はそもそも巨人にもなれねぇみてえだがな」
「なら何故邪魔をする!?この楽園を壊したいのか!?」
「楽園だァ?寝言は寝て言え」
その言葉が終わるより早く、二発目の銃声が短く響いた。ロッドの脚が撃ち抜かれ、白い石床に鮮やかな赤が散る。
悲鳴は高い天井や並んだ柱に反響して何重にも増幅され、耳障りな余韻となって空間に残ったが、ヒストリアはほとんど身じろぎもしなかった。ただ砕けた注射器の残骸を握ったまま、じっとケニーを見つめ返していた。
「なぁ、ヒストリアちゃんよぉ」
ケニーは銃口をだらりと下げたまま、ひどく気怠げな調子で言った。
「テメェは壁の外がどうなってるか、あの魔女から聞いてんだろ?」
「……そうだけど。それが何?」
口にした声は思ったよりも冷たかったが、その奥には自分でも制御しきれないかすかな震えがあった。ケニーはそれを見逃さなかったのだろう。口元に薄い笑みを浮かべながら、一歩だけ近づいてくる。
「だったら分かってるはずだ。『始祖』を持ったテメェがクソみてぇ妄想に入り浸ってみる間に、壁の中の連中が皆殺しにされてもいいってのか。ええ?ずいぶん勝手な話じゃねぇか」
「……勝手で何が悪いの。もういいのよ。壁の中がどうなろうと私には関係ない」
「嘘はよくねぇな」
ケニーの言葉にヒストリアの肩がぴくりと揺れる。
「死んだ人間に会いてぇだぁ?馬鹿な妄想もたいがいにしろよ。それに本当は分かってんだろ。もう降りてぇんだろ。このクソみてぇ現実から」
「……違う」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「違わねぇよ」
ケニーは容赦なく言い切った。
「良い子ちゃんのテメェは自分がどれだけアホなことをしようとしてるか、本当はちゃんと分かってる。だからそんな顔をしてやがる」
そんな顔と言われて、ヒストリアは思わず歯を食いしばった。どんな顔だと言い返したかったが、喉の奥が痛むばかりで声にならない。ケニーに見透かされていることへの怒りと、図星を突かれた羞恥がごちゃ混ぜになって胸の中でぐちゃぐちゃにかき回されていた。
それでも引き下がるわけにはいかなかった。
静かに微笑みながら、自分の拙い言葉にもきちんと耳を傾けてくれた人。どこにも居場所がないと思っていた自分に、ここにいてもいいのだと言葉にしなくてもそう思わせてくれた人。
あの穏やかな眼差しと、温かな指先と名前を呼ぶ声を思い出すたびに、胸の奥の、とうに諦めたはずの部分がみっともないくらい必死にその面影へ手を伸ばしてしまう。
今のジルケはもう自分の知っている『ジル先生』ではない。分かっていてもなお、もし『始祖』の力が本当に失った記憶の先へ届くのなら、あの頃のジル先生がまだどこかにいるのではないかと、そんな馬鹿げた期待を捨てきれなかったのだ。
「……何と言われようと、私は先生に会いに行く」
ヒストリアはそう言って顔を上げた。視線だけは逸らさず、まっすぐケニーを見返す。
「『始祖』はそのための唯一の方法かもしれない。誰にも邪魔をさせない」
最後の言葉は半ば叫びに近かった。ケニーはそれを聞いて鼻で笑ったが、その笑いにはどこか呆れに近い響きが混じっていた。
「やっぱガキだな。自分の都合ばっか押し付けやがって」
「うるさい!!いい子のクリスタはもういないの!」
呼吸は乱れ、頬は熱く、声は思うように整わなかった。それでも彼女は自分の中に生まれた揺らぎごと押し殺すように、さらに言葉を重ねる。
「これは私の意思よ……!私が自分で決めたことなの!」
ケニーは大きく溜め息をつくと、どこかうんざりしたように首を振った。
「悪ぶってりゃ自由になれるってんならそりゃ楽な話だ。だがな、テメェが今やろうとしてるのは自由でも反抗でもねぇ。ただの身勝手な現実逃避だ」
「……それでも私にはこれしかないの」
掠れた声でそう返したヒストリアの言葉を、ケニーはしばらく黙って受け止めていた。その沈黙の間、ロッドの荒い呼吸だけが白い礼拝堂のどこかで小さく響いた。
自分でも分かっているのだ。壁の中の行く末が本当にどうでもいいわけではないことも、王家の血が途絶えれば『始祖』の力の扱いが変わることも、そして今ここで自分が選ぼうとしていることがとても利己的で、ひどく身勝手な願いに支えられていることも。
「……けっ、死人とのお人形遊びに夢中になってる野郎に巻き込まれる身にもなってくれよ。半端なテメェじゃウーリの力にふさわしくねぇ。いや、『不戦の契り』に呑まれるのが見えてやがる。面白くもなんともねぇよ」
「……それで、私を殺す気?壁内人類の為に?」
ヒストリアは仕返しとばかりに続けた。
「私とお父さんをここで殺し、王家の血が途絶えれば『始祖』の真価を引き出す機会は永久に失われる。それで、あとに残った人をどうするつもり?壁の外から来る敵を『始祖』の力なしでどうやって退けるの?」
ケニーはすぐには答えず、ただ鼻の奥で小さく笑った。その笑いは愉快そうというより、半ば呆れたような響きを帯びていた。
「さあな」
肩を竦めるようにしてからケニーは銃をだらりと提げたまま言う。
「だが、一つだけはっきり分かったことがある。レイス家が俺達の頭に乗っかってる限り、この壁ん中に自由なんざ来ねぇ」
その声には先ほどまでの軽薄さとは違う、冷えた確信があった。
「贖罪だの楽園だの綺麗事ばっか並べやがって。やってることは何だ?記憶をいじってまで都合の悪いことは全部隠してるだけじゃねぇか。それで理想郷気取りとは笑わせやがる」
未だ蹲るロッドが何か言い返そうとしたが、痛みのせいかうまく声にならない。
「外に敵がいようが、この先もっとひでぇ地獄が待ってようが知ったこっちゃねぇ。俺はてめぇらレイス家に支配されたまま生きるなんて真っ平御免だ」
ヒストリアが答えようと口を開きかけた、そのときだった。
礼拝堂のずっと奥。柱のさらに向こうから雷鳴のような轟音が響き渡った。地面がわずかに震え、白い石の空間全体がびりびりと共鳴する。
その音を聞いた瞬間、ヒストリアの背筋を冷たいものが走る。聞き間違えるはずがなかった。巨人化の音だ。
一方のケニーはそれを理解した途端口元をにやりと歪め、愉快そうに肩を揺らす。
「はは……やっぱり持ってるな、あの女」
しばらくして一つの影が現れた。目元には放射状に広がる巨人化の痕が走り、まだ消えきらない蒸気が身体の周囲に薄くまとわりついている。その女は乱れた呼吸を隠そうともせず、それでも迷いのない足取りでこちらへ歩いてきた。
ケニーはヒストリアへ顎をしゃくり、気軽な調子で言った。
「ヒストリア、心ゆくまであの化け物と話しな。安心しろ、誰にもテメェらの邪魔はさせねぇ。ただし――これが最後のチャンスだ」
仮にリヴァイが乱入してきても、それを捻じ伏せてみせる。ケニーは豪胆に言い切ってみせた。
ヒストリアはゆっくりと息を吸い込んだ。胸の奥に込み上げてくるのは憎しみだけではなかった。怒りと、裏切られた痛みと、それでも消えない執着と懐かしさが互いを打ち消し合うこともなく一度に疼いている。
「……そうね」
かすれた声でそう答えた後、ヒストリアはまっすぐその影を見据えた。
「私もあの人と話さないまま決めるなんて嫌だ」
白い礼拝堂の中をその女がこちらへ歩いてくる。ヒストリアが最も愛し、同時に最も憎んでいる相手――ジルケ・クルーガーが。
◇◇◇◇
礼拝堂へ現れたジルケはひどい有様だった。兵服はあちこち裂け、自由の翼に薄い血痕が残されている。乱れた髪の隙間から覗く顔色も悪く、巨人化の代償を思わせた。
腕には金属で強く締めつけられていたらしい赤黒い痕が走っていて、ほんの少し身じろぎするだけでも痛みがあるのだろうことが見て取れた。
それでも彼女は立っていた。礼拝堂の白い床に踏み込み、生贄のように拘束されたエレン、脚を撃たれて這いつくばるロッド・レイス、儀式用の白いローブに身を包み思いつめた様子をするヒストリア、その全てへ順に視線を走らせ、ようやく低く問いを落とした。
「……ヒストリア。どういう状況だ」
問いに答えるより先に、ケニー・アッカーマンが鼻で笑った。
「女王様がエレンを食って『始祖』を継ごうとしてたところだ。初代王の思想に呑まれるかもしれねぇと知った上でな」
「初代王の思想……」
「ああ。先祖の罪を贖う為なら自殺もウェルカムっつークソみてぇな洗脳だよ。もっとも、そいつはそれを知ってなおやるつもりだったらしいぜ。神様みてぇな力に縋ってでも、前のテメェに会いてぇんだとさ」
ケニーの言葉が白い空間に乾いて響いた。ジルケはすぐには何も言わず、しばらく考え込むように黙っていた。その沈黙がかえって居心地悪くて、ヒストリアは先に口を開く。
「生きてた……のね。中央憲兵に殺されてるのかと思ってた」
ジルケは肩の力を少しだけ抜き、皮肉とも疲労ともつかない息を吐いた。
「まあな。ついさっきまで地下牢に放り込まれていたし、殺されてもおかしくはなかった。死んでいた方が良かったか?」
「ううん」
ヒストリアは首を振った。
「先生の身体をこれ以上傷つけられるのが嫌だっただけ」
その言葉にジルケの表情がわずかに揺れた気がした。しかし彼女は何も返さない。ただ、ヒストリアを真っ直ぐ見ている。
その眼差しの冷たさはかつてのジル先生とはやはり違っていたのに、こうして目を合わせていると、どこか違和感を感じた。しかし、それを押し殺してヒストリアは続けた。
「私は今からエレンを食べて『始祖』を継承する」
自分で口にしてみると、その言葉は不思議なほど冷たく聞こえた。
「そして貴方の中に眠っている先生を呼び起こす。たとえ今の貴方の中に、先生の人格がほとんど残っていないとしても、『始祖』の力なら記憶のもっと奥へ届くかもしれない。死んだ人にだって会えるっていうのなら、なおさら……何としてでも会う。それが私の望みよ」
「……『ユミルの呪い』も覚悟の上か」
「呪い?『不戦の契り』のこと?……そりゃあ自分が自分で無くなるのは怖いに決まってるじゃない。それでも私はやる」
「……なるほどな。お前の父親と言い、クソ野郎の考えつくことは同じらしい」
言い終えたあと、ジルケはすぐには答えなかった。ただ、ひどく静かな顔でヒストリアを見つめていた。その沈黙が責めているようにも、呆れているようにも見えて、ヒストリアは無意識に顎を引く。
「壁の世界もエルディア人にまつわる全ての問題も、まとめて置き去りにしてでもか」
「……貴方には分からないでしょうね」
ほとんど反射みたいに言葉が出た。どうせこの女は自分のことを浅はかだと思っているに違いない。今の彼女から見れば、自分の願いなど子供じみた逃避にしか映らないはずだ。
「私は誰からも愛されなかった。生まれてきたことを祝われたことも、ここにいていいんだって思わせてもらったことも一度もなかった。誰も私を望んでいなかった」
そこで一度言葉を切る。喉の奥がひりついて、うまく息が吸えなかった。
「そんな中で、初めて私に優しくしてくれたのがジル先生だったの。先生は、私が何を言ってもちゃんと聞いてくれた。くだらないことを話しても笑わなかったし、何もできなくて立ち尽くしている時も見放したりしなかった。私を哀れんだわけでも、都合のいい駒として扱ったわけでもなくて……ただ、そこにいる一人の人間として見てくれた」
訓練兵団の医務室の匂いが、ふと鼻先をかすめた気がした。あの頃はまだ、世界がこんなふうに壊れきってはいなかった。
「そこから何年も一緒にいて……私にとって先生は世界より大切になったのよ」
言い切った瞬間、自分でもそれがどれほど身勝手な言葉か分かって、ヒストリアはほんの少しだけ唇を噛んだ。
「私だって分かってるわ。自分が間違ってることくらい。こんなの正しいはずがない。壁の外の世界が私たちの生存を許してくれないことも、かといって初代王のやり方が歪んでいることも全部分かってる。私が今やろうとしてることが現実から目を逸らして、自分の願いだけに縋る卑怯なことだって……ちゃんと分かってる」
分かっている。分かっているからこそ苦しいのだ。
「もう嫌なの。何が正しいか、誰のために生きるべきか、何を選べば誰が死ぬのか、そんなことばかり考えて……何かを守ろうとするたびに別の何かを失って……そんなのもう嫌」
胸の奥に沈めていた疲れが、ようやく言葉になって溢れ出してくる。
「帰りたい」
ぽつりと落ちたその一言は、自分でも驚くほど弱かった。ヒストリアはそう言って、初めてほんの少しだけ視線を落とした。
「全てを流れに任せて、何も知らなかった頃に帰りたい。サシャがいて、ミーナがいて、訓練兵団の皆がいて……先生がいて。まだ何も壊れていなかったあの頃に帰りたい」
あの頃だって不安がなかったわけではない。けれど少なくとも、今みたいに世界の重みが肩にのしかかってくることはなかった。明日のことを怖がりながらも、先生の淹れてくれた温かい茶の匂いに、少しだけ救われる時間が確かにあったのだ。
「……貴方には、きっと分からないでしょうね」
そう言い切ったあと、ヒストリアは自分でも少し息が上がっているのに気づいた。言うつもりのなかったことまで口にしてしまったはずなのに、不思議と後悔はなかった。
ジルケはしばらく黙っていたが、やがて小さく首を振った。
「……ああ。私には理解できないな。仮に私が『始祖』の力を有したとしても、そんな使い方はしないだろう」
「でしょうね」
ヒストリアはすぐに言い返した。半ば意地のようなものだった。だがジルケはその皮肉を受け流すように視線を伏せる。
「でも私にだって……会えることなら、もう一度会いたい人はいる」
その声音はさっきまでとは少し違っていた。どこか、ひどく遠いところを見つめているようだった。
「マーレ当局によって、生きたまま焼き殺された両親だ。私がエルディア復権を本気で誓ったのはあの一件以降だよ」
「それは……お気の毒ね」
「同情はいらない。ただ、今でも時折思うんだ、両親が生きていたら違う道もあったんじゃないかって」
その言葉が妙に胸に残った。過去に囚われ、もしもの分岐を考えてしまうのは自分だけではない。この冷酷な革命戦士ですらそうなのか。
そしてその流れのまま、ほとんど反射的に別の問いが口をついていた。
「……旦那さんはどうなの?」
「は?」
今度こそジルケが素で聞き返したので、ヒストリアは少しだけ唇の端を上げた。
「いやいや。あなた、結婚してたでしょ?もう一度会いたいとか思わないの?」
ジルケは先ほど以上に真剣な顔で考え込み、珍しくすぐに答えを出せずにいた。その様子を見ているうちに、ヒストリアの脳裏には、まったく別の光景がふいに浮かび上がる。
「……諜報活動をする上で、仮の夫婦を演じていただけだからな」
ようやくジルケが口を開く。声はいつもの調子に戻っていたが、それでもどこか歯切れが悪い。
「異性として好きだったかと聞かれると、今でもきっぱりとは言えない。夫というより、長いこと同じ目的のために働いてきた相棒とか、ビジネスパートナーの方が感覚としては近い気もする」
「ふうん」
ヒストリアはわざとらしく相槌を打った。
「なのに、ずいぶん大事そうに指輪をつけてるのね」
その瞬間、ジルケは嫌なところを突かれたとばかりに顔を顰めた。視線が自分の手元へ落ち、指輪の存在を改めて意識したような、ほんの一拍の間ができる。次いで現れた表情を見て、ヒストリアは胸の奥で何かが小さく軋むのを感じた。
『クリスタって好きな人います?』
年頃の少女らしく、時折サシャやミーナと恋バナをすることがあった。
とはいえ話題を振るのはたいていミーナで、勝手に同期同士の組み合わせを作っては盛り上がり、意外とそういう話が好きなサシャが面白がって食いつく。ヒストリアは、そんな二人を苦笑まじりに眺めていることがほとんどだった。
これまでの人生、周囲の人間から疎外されてきた彼女には、恋愛というものがいまひとつ現実味を持って迫ってこなかった。ウォール教の開拓地を出て訓練所で同世代の異性に囲まれるようになっても、その感覚はあまり変わらない。
無論、ヒストリアにだって好きな人はいる。サシャもミーナも、そしてジル先生のことも大好きだった。
だが、それが恋愛の『好き』とは別物であることくらいは分かっていた。
人を好きになるとはいったいどういう感覚なのだろう――そう真剣に悩み、ジル先生に相談したことさえあるくらいだ。
だからサシャに何気なくそう聞かれても、うまく答えることができず、ただ曖昧に微笑むしかなかった。
『とか言いつつ、こういう子が一番彼氏できるの早かったりするのよね〜』
「確かにクリスタってちゃっかりしてますもんね。いつの間にか恋人居ても不思議じゃないです」
ミーナとサシャは揃ってにやにやと悪そうな顔をした。
『あ、そういえばジル先生ってご結婚されてましたよね?旦那さんのどういう所が好きだったんです?』
その日は休日で、よりにもよって三人が駄弁っていた場所は医務室だった。ジル先生にしてみれば、それが運の尽きだったのだろう。たまたまその場に居合わせた彼女はサシャの一言を聞いた瞬間、盛大にお茶を吹き出した。
未亡人に亡くなった夫の話を振るなど、普通なら気まずくて誰もできない。だが、そういう機微に疎いサシャには、まるで通じなかったのである。
突然、何故こんなことを思い出すのか。目の前で答えに詰まっているジルケの表情が、あの時のジル先生の顔と妙に重なって見えたのだ。
その顔は冷酷な過激派のものではなかった。
少し困っていて、少し照れていて、どう誤魔化せばいいのか分からないとでも言いたげな、ひどく人間くさい顔だった。
「……やっぱりあいつを「恋しい夫」みたいな言葉で括ってしまうのは、私にはまだしっくりこない。でも――」
そこで彼女はほんのわずかに頬を掻いた。
「――指輪をくれたあの日だけは
ヒストリアはしばし言葉を失った。
「……エルヴィンといい、お前達は私にどういう印象を抱いているんだ。まあらしくないことは自覚しているがな」
ジルケが心底困ったように言ったのでヒストリアは小さく息を漏らした。それが笑いに近いものだと自分で気づき、少しだけ驚く。
「なぁ、ヒストリア」
その呼びかけに、ヒストリアは反射的に身構えた。だが続いた言葉は予想していたものとはまるで違った。
「この戦いが終わったら私の淹れたハーブティを一度飲んでくれないか?」
どれだけこの短時間で驚かされれば良いのだろうか。
ヒストリアが呆然としていると、ジルケは言い訳がましく続けた。
「トラウテ……ケニーの部下にそういうのが得意な奴がいてな。地下牢で少し世話になった。この戦いが終わったら淹れ方を教わる約束までしたんだ。あっちからすれば、獄中生活の暇潰し程度なんだろうが」
「なんで急に……」
「お前、これからやりたいことがないんだろ」
「……え?」
「私にはあるぞ。エルディア復権を成し遂げた後の話だ」
礼拝堂の空気がほんのわずかに変わった気がした。ジルケは一度視線を伏せてから、どこか照れくさそうに続けた。
「大したものじゃない。小さな家でも持って、穏やかに暮らしてみたいと思ってる。朝起きて、誰かのために茶を淹れて、庭に少し手を入れて、仕事があるなら仕事をして……そういう、くだらないくらい平和な生活だ」
ジルケは肩を竦めるようにして続けた。
「まあ、残り時間を考えれば無理かもしれないがな。だが、できるところまではやってみようと思ってる」
「……貴方にも、そんなこと考える時があるのね」
「失礼だな。私を何だと思ってる」
「人より先に大義を選ぶ過激派」
「それは否定しない。エルディア復権を諦める気なんて毛頭ない」
ジルケはあっさり言ったあと、少しだけ表情を和らげる。
「でも、大義だけじゃ駄目なんだろうと今は思える。もっと身近な……そういうものがないと、結局空っぽになるんじゃないかって思うんだ」
ヒストリアは何も言わなかった。返せないのではなく、返す言葉が見つからないようだった。
「やりたいことってやつを一緒に見つけてやるよ。お前を理解してな」
ジルケはそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「その手始めにハーブティーだ。夢の中で見た限り、お前の好みの香りと味は大体分かってる。要領は悪くないし、多分不味くはならない」
「……エルディア復権の為に私を懐柔しようってわけ?」
「なんとでも言ってくれ。ただ、お前がここで『始祖』を継承しようがしまいが、一度は飲んでもらうつもりだ」
「それで私が妄想の世界に逃げちゃってもいいの?そうしたらエルディア復権どころか、エルディア人はみんな殺されるかもしれないのに?」
「それは別だ。ぶん殴ってでも止める」
「『始祖』の力を持った私相手に?」
「ああ」
言っていることは滅茶苦茶だった。理解したいと言っておきながら選択そのものは容赦なく止めるという。けれど、その滅茶苦茶さが嘘くさくなくて妙に心地よかった。
「そっちの都合ばかり通す気じゃん」
「当たり前だ。私のエルディア復権への意欲ならよくご存知のはずだろ」
「……子どもみたい」
「お前にだけは言われたくない。お前は放っておくと勝手に死に急ぐからな、見守っておかないと危なっかしいったらありゃしない」
「……本気で私の理解者になるつもり?」
「理解者なんて大層なものじゃない。少し……知りたいだけだ」
ヒストリアの胸の奥に、雪山での会話がふいに蘇った。
『私がたった一人の理解者だなんて、そんな悲しいこと思わないで。いくらでも増やしていけばいいのよ。104期の同期でも、これから出会う人たちでも』
皮肉なものだった。かつて自分の世界を広げてくれたジル先生はいなくなってしまったと思っていたのに、今こうして新しく自分のことを知ろうとしてくれているのは、その先生の姿をした別の人なのだから。
『あなたが思っているより外の世界は広いんだから』
「ヒストリア!!!」
ロッド・レイスが、床を擦るように這い寄ってくる。血と汗で汚れた手が黒い鞄へ伸び、そこから新しい注射薬が取り出された。それを娘へ差し出して、ほとんど悲鳴みたいな声で叫ぶ。
「お前は洗脳されている!!あの悪魔の言うことなど信用するな!!『始祖』を継承し、ケニー共々早く殺すんだ!!これ以上、私達の楽園を壊される前に!!」
「洗脳はどっちだ、クソ野郎。『ユミルの呪い』を伏せたまま継承させようなんて」
ロッドの顔が引き攣る。
「巨人の力を継承した者は例外なく13年で死ぬ。例外なく、な。何代も継承の儀を繰り返してきたレイス家の当主だ、知らないなんて言わせないぞ」
「で、出鱈目だ!安心しろ、ヒストリア!奴は嘘を言ってる!」
「ま、死にたがりのヒストリアならそんなこと歯牙にもかけずに『始祖』を継承するだろうよ。ちょっとくらい娘を理解してやれ、王様」
ジルケはそこで、申し訳なさそうにエレン、そしてヒストリアへ視線を向けた。
「今まで黙ってて悪かった」
「ーーもし兵団が
「……まあな」
やはり、この人はどこまでも優しい『ジル先生』ではない。
ヒストリアはゆっくりと注射器を受け取った。ロッドの目が一瞬期待に濡れる。礼拝堂の誰もがその次の動きを見守っていた。
「さっきの約束だけど」
ヒストリアが静かに言う。
「ジル先生が淹れてくれたお茶はみんな大好きだった」
訓練兵時代の医務室、湯気、香り、肩の力が抜けるあの時間。その記憶は自分一人だけのものではなかった。サシャも、アルミンも、エレンも。死んでいった同期達だってきっと覚えている。だから――
「私だけじゃなくてサシャやアルミンにも……ううん、兵団のみんなにも振る舞いなさい。これは女王命令です」
次の瞬間、真新しい注射器を白い床へ思いきり叩きつけた。
◇◇◇◇
絶望に染まったロッド・レイスの慟哭など意にも介さず、ヒストリアは黒鞄を抱えたまま、囚われたエレンのもとへ駆けていった。
その背中を一瞬だけ見送り、私はすぐに視線をケニーへ戻す。いつでも巨人化できるよう、さりげなく手元に歯を立てながら口を開いた。
「で、私たちはあんたのお眼鏡に叶ったのか? ケニー・アッカーマン」
礼拝堂へ辿り着くまでに一度、中央憲兵の守りを突破するためにもう一度……いや、地下牢を破るのに部分的に巨人化もしたか。短時間で何度も巨人化したせいで、正直なところまともに力を引き出せるだけの余力が残っているかは怪しかった。
だが、虚勢を張らないわけにもいかない。この男は少しでも隙を見せれば平然とちゃぶ台をひっくり返してくる。
しかしケニーは私の警戒など見透かしているのかいないのか、ただ口の端を吊り上げて妙に楽しそうに笑うばかりだった。
「へっ。まあ、及第点ってとこだな。そこのオウサマよりは見込みがあるんじゃねぇの?」
「あんな奴と比べられても、嬉しくもなんともない」
「ちげぇねぇ」
けらけらと笑っていたくせに、ケニーはふいに周囲へ目を走らせた。
「トラウテがこの場所を教えたのか? よくあの堅物が敵のお前にそこまで心を許したものだ」
「ああ、アイツには世話になりっぱなしだ……その癖、私には何も要求しなかった。兵団に捕まったら惨めな生活が待っているというのに奴は最後まで命乞いをしなかった」
「だから堅物なんだよ。それで、礼拝堂を守ってた部下はどうなった?命張ってまで戦う必要はねぇと言っといたんだが」
「……さあな。私だけ先にここへ来たから顛末は知らないが、兵団との交戦で既に何人かは死んだよ」
「そうか」
感慨があるのかないのか、判別しづらい声だった。
私は改めて、目の前の男を見据えた。
「もう一度だけ聞くぞ、ケニー。お前はこれからどうしたい?兵団にその心臓を捧げるというなら、助命の手伝いくらいはしてやれるぞ」
「魅力的な提案だが、男が一度口にしたことを反故にするのは気に入らねぇな。なにより、俺はまだテメェら二人を認めちゃいねぇよ」
「どっちなんだよ。さっきは認めるって言った癖に……」
「及第点っつったろ」
相変わらず、何を考えているのかよく分からない男だ。
だが少なくとも、この場に限って言えばこいつがこれ以上こちらへ牙を剥くことはあるまい――そう思えた。ヒストリアは父を見限り、エレンのもとへ駆けていった。ケニーはそれを見てなお手を出さなかった。
(ひとまず最悪の局面は乗り越えた……か)
ほんのわずかに、安堵の息が胸の奥から抜けていく。
次の瞬間だった。
地下空洞全体を根こそぎ揺るがすような轟音と閃光が、足元から突き上げてきた。私の巨人化など比べものにならない衝撃で、天井が一斉に震える。
「ロッド・レイス……!あの野郎、巨人になりやがったな!」
私は反射的に振り返る。さっきまで地を這っていた男のいたあたりから、尋常ではない熱と圧が吹き上がっていた。空気が焼ける匂いが鼻を刺し、地下礼拝堂そのものが悲鳴を上げるみたいに軋み続けている。
ケニーはもう状況を見切ったのだろう。帽子を押さえ、立体機動装置へ手をかけながら言った。
「俺は逃げる。あの巨人からも、テメェら兵団からもな」
「この狭い壁の中をか?」
「余計なお節介だ、テメェの心配でもしてろ」
その言い方には、いつもの軽さの奥に、妙な含みがあった。けれど問い返す暇はない。すぐ近くで、もはや人の形を逸脱した何かが際限なく膨れ上がろうとしている。
ケニーは立体機動のワイヤーを射出する寸前、こちらを振り向いて口の端を吊り上げた。
「じゃあな化け物。女王陛下の即位、楽しみにしてるぜ」
それだけ言い残すと、その姿は地下空洞の闇へ吸い込まれるように消えていった。どこか不穏で、冗談とも警告ともつかない一言だけを残して。
――いや、今はあいつのことなどどうでもいい。
私は意識を切り替え、ヒストリアとエレンの方へ駆け出した。ほとんど同時に、兵団の連中も礼拝堂へ雪崩れ込んでくる。
「くそっ!どの鍵だ、これ!」
「いいか半裸野郎!?巨人だけじゃねぇぞ!鉄砲持った敵も飛んで来たんだ!」
憎まれ口を叩き合いながら、ジャンとコニーがエレンを縛る鎖を外そうと悪戦苦闘している。その声を背に聞きながら私はリヴァイの方を見た。
「おい、クソ隈女。
「いや、チビの
ちらりとリヴァイを見ると妙に目つきが鋭かった。さては「チビ」というワードに反応しやがったなコイツ。
その間にも、ロッド・レイスの巨体はなお膨張を続けていた。超大型巨人どころの騒ぎではない。地下空洞ごと呑み込んでなお余るような質量が、地上へ溢れようとしている。
このままでは、じきに天井は崩れる。
皆の視線が一点に……エレンに集中した。この場を切り抜けるには結局またあいつの力に頼るしかない。誰も口には出さなかったが、それはこの場にいる全員が同じように理解していることだった。
だというのに、肝心のエレンは口枷を外された途端、「ごめん、みんな……俺は役立たずだ」だの「俺を食って『始祖』を継承してくれ、ヒストリア」だの、泣き言を吐き始める。
喝を入れてやろうとした矢先、ヒストリアが一歩前に出て「うるさい馬鹿!」とエレンの頭を叩いた。
「口枷を外して、ようやく喋れるようになったと思ったらそれ!?少しは根性見せなさいよ!」
奴の記憶で見たヒストリアはもっと穏和で優しい子だったはずだが……
(シュタイナーさんが見たらなんて思うんだろうな)
などと場違いな感想を抱きながら、私は気持ち悪い走り方で飛び出すエレンを見送った。
どこが舞台の閑話が良い?(なるべく原作ネームドキャラを登場させる予定)
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革命軍
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レベリオの市民病院
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マーレ軍病院
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ヒィズル国
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ウォール教開拓地
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訓練兵団
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調査兵団(王政編後)