エレンの妻です   作:ホワイト3

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41:終幕③

「『不戦の契り』に『ユミルの呪い』、それとグリシャ・イェーガーの記憶……か。私が怪我してる間に、随分と興味深いことが起きていたらしいじゃないか」

 

 荷馬車の揺れに身体を預けたまま、ハンジがぼやくように言った。

 口調だけ聞けばいつも通りの軽さだが、呼吸は浅い。先の中央憲兵との戦闘で負った傷は決して軽くないはずで、巻かれた包帯の隙間からはまだ新しい血が滲んでいた。

 

 地下礼拝堂からの脱出には成功した。あの崩落の中で全員が押し潰されずに済んだのは、ひとえにエレンが土壇場で硬質化能力を発現させたからだ。本人の話では『ヨロイ』と書かれた小瓶の中身を咄嗟に口にしたらしいが、おそらくは歴代の鎧の巨人継承者から採取した脊髄液を、レイス家が後生大事に抱え込んでいたのだろう。

 

「……まあ、面白がってる場合じゃないね」

 

 ハンジはそう言って短く息を吐いた。その視線の先では、ロッド・レイスの成れの果てがなおも大地を這い進んでいる。

 

 地下礼拝堂での騒ぎが終わっても、長い一日は終わらなかった。

 

 あれはもはや巨人というより災害だった。

 超大型巨人の倍近い体躯が腹ばいのまま地面を削りながら進むたび、大地が低く唸る。尋常ではない高熱を発しているのだろう。進路上の木々は触れた端から火を噴き、崩れ落ち、奴が通った後には焼け焦げた土と灰しか残らない。

 

 大地の悪魔――巨人の力はそう呼ばれ、世界から恐れられてきた。なるほど、その所以がよく分かる光景だった。

 

 しかも不気味なのは、近くの人間には目もくれないことだ。囮を務める兵や馬車の列がすぐ脇を通ろうが、奴は一切反応を示さない。ただひたすら、何かに引き寄せられるように一方向へ進み続けていた。

 

 私たちは荷馬車の上から、その地獄じみた有様を見ていた。

 

「ねぇ、ジルケ。君の『叫び』で、あの巨人の進路を変えられないかな?」

 

「どうだろうな……」

 

 短時間で何度も巨人化した反動が、まだ身体の芯に残っている。皮膚の下には嫌な熱が燻り、拘束の痕が残る両腕は馬車の揺れだけでも痛んだ。今まともに巨人化できるかどうかも怪しい。

 

 仮に『叫び』で進路を変えられたとしてだ。この壁内であの質量を拘束しておく術があるとも思えなかった。

 

(海まで連れて行く……?いや、道中には大勢の巨人もいるし、私の体力も持つまい。現実的じゃないな)

 

 エレンの話からしてグリシャ・イェーガーが王家から『始祖』を奪い、その『始祖』と『進撃』を息子へ継承させたことは、ほぼ間違いない。

 そして『不戦の契り』の正体が判明した以上、ロッド・レイスにエレンを食わせるわけにはいかない。あんなものを王家へ戻せば、壁内は鳥籠の中へ逆戻りだ。

 

 ならば結論は一つしかない――ここで討つ。

 

 私は隣にいるヒストリアへ視線を向けた。

 

 彼女は儀式用の白いローブを脱ぎ捨て、血と煤で汚れたまま馬車の縁に手を置いていた。白かった横顔は疲労のせいでやや青ざめていたが、その目だけは妙に澄んでいる。注射薬を叩き割った時と同じ、何かを決めた人間の顔だった。

 

 彼女の父親を殺すことになる。たとえクソみたいな男でも、親殺しを軽々しく口にするのは躊躇われた。

 

 私の視線の意味に気づいたのだろう。ヒストリアは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに私を見返した。

 

「ありがとう、ジル」

 

 短い言葉だったが、それで十分だった。

 

 この子なりにもう整理をつけたのだろう。少なくとも、さっきまでのように過去へ縋って目を閉じるつもりはないらしい。

 ハンジが私たちの顔を交互に見比べ、胡散臭そうに眉を上げた。

 

「なんか君たち、ちょっと仲良くなってない?何かあったの?」

 

「怪我人は黙ってろ」

 

「ええー、いいじゃんかよー。教えてくれてもさぁ」

 

「地下での出来事は後で報告する。今はロッド巨人の後始末が先だろ」

 

 私が切って捨てると、ハンジは不満げに口を尖らせたが、すぐに顔つきを引き締めた。

 

「エレンやジルケをロッド・レイスに食わせるわけにいかないし、あのサイズじゃあ拘束もできない。となると、君の父親を殺す他なくなるが……ヒストリア。君はそれでいいのかい」

 

「……仕方ありません。もう、お別れしないと」

 

 ヒストリアは少しだけ間を置いてから答えた。

 

「そっか。君は強いね」

 

 そのやり取りを傍らで聞きながら、私は改めてヒストリアの横顔を見た。

 強くなった――というより、ようやく自分で選ぶことを覚えたのかもしれない。

 

 オルブド区へ着く頃には、兵団支部は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

 その喧騒の中心で、エルヴィンが駐屯兵団の支部長らしき男と対峙していた。

 

「何を考えている、エルヴィン!住民を避難させず、街に留めるだと!?」

 

 怒号を浴びせられても、エルヴィンは眉一つ動かさず、静かに作戦を告げた。

 

 奴の考えはこうだ。

 ロッド巨人はより大勢の人間が密集する方へと吸い寄せられる、いわゆる奇行種だ。今から急に住民をウォール・シーナへ避難させれば目標はそれに引き寄せられ、ウォールシーナを破壊し突き進むだろう。

 

 果ては最も人々の密集した王都ミットラスに到達し、人類は破滅的被害を被ることになる。

 

 つまり、ロッド巨人はこのオルブド区外壁で仕留めなければならない。そのためには囮となる大勢の住民が必要だった。

 

「目標はかつてないほど巨大な体ですが、それ故にノロマで的がデカい。壁上固定砲の砲撃は大変有効なはずですが、もしそれでも倒せない場合は――」

 

 エルヴィンは淡々と告げたあと、わずかにこちら――正確には私の後方にいるエレンへ視線を向ける。

 

「調査兵団最大の兵力を駆使するしかありません」

 

 支部長は何か言い返しかけたが、結局は歯噛みするように黙り込んだ。

 ここで時間を浪費する愚を、彼とて悟っているのだろう。壁内人類を生かす為には、この非情な決断を呑むしかないと。

 

 実は調査兵団内部の会議では、代案として私の『叫び』で巨人の進路を操作し、住民を避難させた後のオルブド区内へ誘導する案も出た。だが案の定というべきか、私は巨人化できなかった。体力の回復を待つ猶予はないし、待ったところで確実に成功する保証もない。

 

 結局、エルヴィンの作戦を実行するより他はなかった。

 

 方針が決まると、兵たちはさらに忙しなく動き始める。

 緊急避難訓練と称して住民の家々を回る者。壁上固定砲の整備へ走る者。弾薬を運ぶ者。誰もが目前に迫る災厄へ備えていた。

 

 その光景を眺めながら、私はふと別のことを考えていた。

 

(それにしても、この『叫び』の正体は結局分からずじまいか)

 

 どうやらグリシャ・イェーガーの記憶の中に私――いや、シュタイナーの方か――が現れたらしい。その隣には、(エレン)が掌を切り裂き、巨人の使い方の手本を見せると言っていたという。

 

 グリシャが(エレン)から『進撃』を継承したのはまず間違いない。だが、マーレ人に成りすまして動いていた私達が、収容区出身と思しきグリシャと一体どこでどう接点を持った?

 

 極め付けは『不戦の契り』の破り方を仄めかしていた女の存在だろう。エレンの話では、そいつは壁内では見慣れない服を着ていたらしい。丈の長い白衣じみた上着に、栗色のボブカットが印象的だったという。

 列挙される数々の特徴。あり得ないとは思うが、まさか――

 

「ジルケさん」

 

 いつの間にかミカサがすぐ傍まで来ていた。

 顔色がひどく悪い。普段ならもっと鋭い目をしているはずなのに、今はどこか焦点が定まっていなかった。

 

「『ユミルの呪い』……あれは嘘、ですよね?」

 

 マフラーへ顔をうずながら掠れた声で言う。

 

「こんな緊急時に聞くべきじゃないのは分かっています。でも、教えてほしい」

 

 私はちらりとエレンの方を見遣った。あいつ自身は同期達に囲まれ、次々と出てくる作業を黙々とこなしていた。

 だが、この少女にとってはそんなことはどうでもいいのだろう。ただ一つ、「最愛の幼馴染(エレン)があと8年もせずに死ぬ」という事実だけが、胸の中で何度も反響しているのだ。

 

「……悪いが、事実だ」

 

 ミカサはすぐ目を伏せた。

 ぽつりと「嘘だ」と呟く。否定というより、現実逃避に近かった。

 

 この少女のエレンに対する執着は、少し付き合うだけでも嫌というほど分かる。共に歩んでいく未来を、きっと当たり前のように思い描いていたのだろう。

 それが急に、エレンの余命はあと八年もないと突きつけられる。混乱しない方がおかしい。

 

 ――文字通り、ミカサにはエレンがいなければ生きていけないのかもしれない。

 少なくとも今の彼女はそう思えるほど危うかった。

 

「ジルケさんは……怖くないの?」

 

 ミカサは俯いたまま言った。

 声は小さいのに、その一言だけが不思議なくらいはっきり耳に届く。

 

「あなたは前から『ユミルの呪い』を知っていた。20年ぶりに目覚めたら自分の余命が幾ばくもないって……私は嫌だ。とても耐えられない。エレンと一緒に居れなくなるなんて――」

 

「落ち着け。今は目先のことに集中しろ」

 

 肩を揺さぶるが、ミカサの焦点は碌に合わなかった。

 

「……前は平気だったよ。エルディア復権のためなら、寿命くらい安いものだと本気で思っていた。どうせ長生きしたところで、見るのはろくでもない地獄ばかりだとな」

 

 そこまで言って、私は短く息を吐いた。肺の奥に残っていた熱が、少しだけ外へ抜ける。

 

「でも今は少しだけ惜しい」

 

「……惜しい?」

 

「ああ。せっかく見てみたいものができたんだ。知りたい人間も、やってみたいこともな。そういうものができた後で、残り時間は大してありませんと言われるのは……まあ気分の良い話じゃない」

 

 言いながら、つい先ほど礼拝堂で交わした約束が脳裏を掠めた。

 ハーブティーだの、小さな家だの、くだらないくらい平和な暮らしだの。少し前の私なら鼻で笑って終わるような話だったのに今はそれが妙に手放しがたく思える。

 

「お前の反応は普通だよ。大切な人がいなくなると知って、平気でいられる奴の方がおかしい」

 

「でも……それでも私は」

 

 ミカサの声がそこで詰まる。

 言葉の先に何を置けばいいのか、自分でも分からないのだろう。エレンが死ぬことを認めたくないのか、今すぐ抱えて逃げ出したいのか、それとも世界そのものへの絶望か。胸の内の感情が多すぎて、一つの形にならないのだろう。

 

「だが今は先を考えてる場合じゃないだろ」

 

 私は低く言って、ミカサの肩を掴み直した。兵服越しに伝わる身体は驚くほど強張っていた。

 

「ここを乗り切れなければ、8年どころか今日で終わる。ロッド・レイスを止め損ねれば、エレンもお前もまとめて死ぬかもしれない」

 

 壁上から兵士達の騒めきが聞こえる。

 

 現実は待ってくれない。こちらの状態などお構いなしに、災厄は一歩ずつ近づいている。

 

 ミカサの唇がきゅっと結ばれる。

 ようやくその目に、ほんのわずかだが焦点が戻る。

 

「だから今は目の前を見ろ。泣くなとは言わん。恐れるなとも言わん。だが、それは全部この場を生き延びた後にしろ」

 

「……生き延びた後」

 

「そうだ。エレンの寿命を嘆くのは、この一日を生き延びてからだ。エレンを守りたいんだろ」

 

 ミカサはしばらく黙っていた。

 喉が小さく上下し、何かを飲み込むみたいに一度だけ息を詰まらせる。やがて小さく、だが確かに頷いた。

 

「……分かった」

 

 本当に分かったかどうかは怪しい。だが、少なくともさっきよりは幾分マシだろう。

 

 ミカサは一度だけエレンの背中を見つめた。

 その視線にはまだ不安が色濃く残っていたが、それでも先ほどのような虚ろさは薄れている。彼女は小さく私に敬礼すると、マフラーを翻して自分の持ち場へ戻っていった。

 

 

◇◇◇

 

 

 壁上固定砲が火を噴くたび、空気がびりびりと震えた。

 

 砲弾はロッド・レイスの剥き出しの肉を抉り、赤黒い飛沫と蒸気を四方へ撒き散らす。命中そのものはしている。しているはずなのに、あの異形はまるで意に介さなかった。巨大な胴体は腹這いのまま、じりじりと前進を続けている。

 

 焼けた肉の臭いが風に乗って届き、エレンは思わず顔を顰めた。

 

 壁上固定砲で仕留めきれないなら、やはり巨人の力を使うしかない。そう理解した瞬間でさえ、胸の内に湧いたのは使命感より先に、ひどく鈍い自己嫌悪だった。

 

 視界の端で、ヒストリアがエルヴィンに何か食い下がっているのが見えた。彼女もまた、この数日で心身ともに擦り減っているはずなのに、それでも背筋を真っ直ぐに伸ばしていた。

 

「私には疑問です。民衆は名ばかりの王に靡くほど純朴なのでしょうか」

 

 砲声に掻き消されそうになりながらも、その声だけは妙にはっきり耳に届いた。

 

 ヒストリア。

 弱い奴だと思っていた。誰かに守られているだけの、優しいけれど脆い奴だと。

 

 でも逆だった。

 

(あいつは強かった。弱いのは……俺だ)

 

 エレンはどこかで自分を特別だと思っていた。巨人の力を持ち、世界を変える鍵のようなものを握っていて、だから自分のために兵士が死ぬことも、どこかで仕方がないと受け入れていた……今更ながら気付いた。

 

 巨人の力だってそうだ。本当は憎むべきもののはずなのに、気づけば自分の強さとして受け入れていた。人類を救う切り札だと持ち上げられて、知らないうちにそれに縋っていた。弱い人間の典型だとエレンは吐き捨てた。

 

 自分が、今さら何を背負う顔をしているのだろう。壁内人類の命運を握るのがこんな人間だなんて笑えもしない。

 

「フロック!そっちじゃねぇ、こっちに運べっつっただろ!」

 

「碌に説明せずに指示すんじゃねぇよ、ジャン!」

 

「説明不足が調査兵団の十八番なんだよ、諦めろ!」

 

「……テメェも随分と調査兵らしくなったじゃねぇか」

 

 声のする方へ視線を向けると、フロックとジャンが憎まれ口を叩き合いながら、火薬樽を所定の位置へ運んでいる。

 

 フロックは自分たちと同じ訓練兵団の同期で、しかも上位十位内で卒業した人間だ。卒業後はアニと同じくストヘス区の憲兵団支部に配属され、本来なら今ごろ、別の場所で別の任務に就いていたはずだった。

 

 だが女型捕獲作戦の直前、フロックは急遽オルブド区へ回された。

 

 本人は理由など知らない。ただ上の命令で飛ばされただけだと思っているだろう。実際には、兵団側が女型捕獲を円滑に進めるため、意図的にストヘス区から遠ざけたに過ぎないのだが、そんな裏事情を知るはずもない。

 

 本来なら憲兵として住民の避難誘導など比較的安全な後方任務に付けたはずだ。それでもフロックは

 

『俺に何か手伝えることはないか』

 

 と切り出し、調査兵団へ助力を申し出た。

 

『俺だって最初はこんな辺鄙なクソ田舎に来るの嫌だったよ。でもよ、少しの間でもここで暮らしてたら、妙に愛着が湧いちまったんだ。だから……俺にも何かさせてくれ』

 

 あの時のフロックの声は震えていた。強がってはいても、恐怖が消えていないのは明らかだった。それでも逃げずに前線へ立っていた。

 

「あ。おい、エレン!何サボってやがる」

 

 フロックが重苦しい顔をするエレンに気付いた。

 

「人類の希望様がしけた面するなよ」

 

「ああ、悪い……」

 

 生返事を返したエレンに、フロックは眉をひそめた。

 

「テメェが何考えてんのか知らねぇけどよ……ちったぁ俺達の身にもなってくれよ。お前がそんな顔してたら、こっちまで不安になるだろうが」

 

 その言い方は乱暴だったが、どこか切実だった。壁の外から届く熱風が二人のマントをばたばたと揺らす。

 

「ストヘス区じゃ女型の巨人が暴れて、今度はウォール・ローゼの中に巨人が現れて、その上王政までひっくり返った。何がどうなってんのか俺にはさっぱり分からねぇよ」

 

 フロックは一度、壁の下の街へ目をやった。避難誘導される住民たちが蟻みたいに右往左往している。

 

「上の連中は何か知ってるらしい。けど、俺達には何も見えない。いつだってそうだ。訳も分からねぇまま巻き込まれて、逃げろだの戦えだの言われるだけだ」

 

「てめぇが人類の命運を握ってんだぞ。もっとドッシリ構えてろよ……俺達はお前みたいに巨人になれるわけじゃねぇんだ」

 

「二人共、止まっている暇はない。手を動かして」

 

 ミカサが割って入る。声は冷静だったが、いつもよりわずかに硬い。先ほどまでジルケと話していた時の青ざめた顔色は幾分ましになっていたものの、目の奥に沈んだ不安までは拭えていないようだった。

 隣ではアルミンが黙々と火薬樽同士を紐で括りつけている。細い指先は休みなく動いていたが、その横顔にも余裕はない。時折、壁外へ視線を走らせては唇をきつく引き結んでいた。

 

 フロックは樽を抱えたまま、不満げに舌打ちした。

 

「……分かってるよ」

 

 そう返す声には棘があった。だがそれ以上食ってかかりはしない。今ここで言い争っている暇などないことくらい、彼にも分かっているのだろう。

 

「でもな、これだけは言っとくぞエレン。妙にスカしてるくらいなら、前みてぇに死に急いでた方がマシだったよ」

 

 吐き捨てるようにそう言って、フロックは踵を返した。ジャンのところへ戻っていく背を、エレンはしばらく動けずに見ていた。

 

 前の自分。その一言が妙に胸に刺さった。

 

 五年前。壁が破られ、街が潰され、母が巨人に食われたあの日。あの時の自分には何もできなかった。

 

 巨人の口が開く。母の悲鳴。飛び散る血。あの日の空気の色まで、今も鮮明に思い出せる。

 

 あの時、確かに誓ったはずだ。巨人を一匹残らず駆逐してやると。

 

 エレンは自分の頬を殴った。鈍い音がして、口の中に鉄の味が広がる。

 

「「エレン!?」」

 

 アルミンが目を見開き、ミカサが一歩踏み出しかける。だがエレンは殴った方の拳を握り締めたまま、もう一度自分の中の何かを睨み据えるように歯を食いしばる。

 

「傷を作ったの?まだ早いよ」

 

 アルミンの問いにエレンは乱暴に口元を拭う。指先に薄く血がついた。

 

「いや……どうしようもねぇクソガキをぶん殴っただけなんだけど……死んでたらいいな」

 

 自嘲みたいに零れた言葉だった。

 

 壁の外には絶望が広がっている。自分が巨人の力を制御できなければ、この壁に未来がないことも分かっている。

 それでも今だけは……もう二度とあの日の惨劇は繰り返させない為にも。そう誓い、エレンは自身のなすべきことに目を向けた。

 

 

◇◇◇◇

 

 

「私には疑問です。民衆は名ばかりの王に靡くほど純朴なのでしょうか」

 

 自分が無茶を言っていることくらい、ヒストリアにも分かっていた。

 

 王が自ら前線に立つなど正気の沙汰ではない。ここで命を落とせば、それこそ壁内は再び混乱の只中へ突き落とされるだろう。ようやく掴みかけた秩序も希望もたちまち瓦解する。

 

 それでも引き下がるわけにはいかない。

 自分の過去と運命にきちんと決着をつけなければならなかった。

 それが義務であり、同時に自分が置いていくものへの最低限の礼儀のように思えた。

 

「そのために今、私はここにいます。ここで戦わなければいけないんです」

 

 なおも頷かないエルヴィンへ、ヒストリアは畳みかけるように続けた。

 

「私が巨人にとどめを刺したことにしてください!そうすればこの壁の求心力となって、情勢は固まるはずです」

 

 エルヴィンは仏頂面のままヒストリアを見下ろしていた。

 その眼差しにあるのは苛立ちではなく、冷静な計算だった。王を戦場へ出す危険と、それでも出す意味を秤にかけている目だと分かる。沈黙が重かった。

 

「却下だ」

 

 返ってきた判決は短く、容赦のないものだった。

 

「君はこれから壁内の秩序の中心になる人間だ。こんな場所で万が一にも命を落とすわけにはいかない」

 

 ヒストリアだって頭では分かっている。当然の言い分だ。

 だが正しい理屈に従うだけなら、きっとまたここで運命と向き合わないまま終わる。父を、過去を、自分自身を置き去りにしたまま。

 

 唇を噛みかけたその時だった。

 

「認めてやれよ、エルヴィン団長。王の親征なんて壁内じゃ前代未聞だろ。民衆に強いリーダーシップを見せるにはこれ以上ない舞台だ」

 

 背後から聞き慣れた声が割って入った。

 

 拘束の痕が残る腕で兵服の襟を整えながら、いつものように不遜な顔をしている。顔色はまだ悪い。ここまで休む間もなく動き続けたのだから当然だろう。それでも彼女の目だけは妙に冴えていた。

 

「……君も変わったな」

 

 エルヴィンが苦笑混じりに言うと、ジルケは鼻で笑った。

 

「私は最初から戦う王を求めていた。それにな、あの程度の敵相手に逃げてるようじゃこの先やっていけるわけないだろう」

 

 言葉は突き放しているのに、不思議と冷たくはなかった。ヒストリアの意思をちゃんと扱ってくれているのだと分かる声音だった。

 

 ややあって、エルヴィンは小さく肩を竦めた。

 

(アギト)の巨人まで味方されると私の力では止めきれないな」

 

 呆れたような口調だったが、それは事実上の許可だった。

 ヒストリアはほっと息を吐き、それからすぐジルケへ向き直った。

 

「……私の味方をしてくれるなんてね」

 

「臆病な王は懲り懲りなんだよ」

 

 そう言ってジルケはピッと壁の外ーーロッド巨人を指差した。

 

「お前には嘘ではなく、本当にアイツにとどめを刺してもらうぞ」

 

 それはさっき自分がエルヴィンへ訴えた言葉の、意趣返しのようでもあった。

 

「そのつもりよ。ジルも……約束守ってよ」

 

「もちろんだとも、女王陛下」

 

 壁上固定砲の轟音が不意に止んだ。

 ロッド・レイスの巨体が壁際まで迫り、もはやうなじを狙える角度が取れなくなったのだ。

 

 砲煙の向こうで、異形の巨体がゆっくりと身を起こし始める。

 

 壁の倍はあろうかというその姿は熱と肉でできた山のようだった。全身から立ちのぼる蒸気で景色が歪み、近くの石壁まで焦げたように煙が登っている。

 思わず足が竦みそうになった。

 

「……どうやら今回の博打も勝てたようだな」

 

 だが、隣にいるジルケは物怖じせず、ロッド巨人を見てぽつりと呟いた。

 

 事前の作戦会議でエルヴィンが推理した通り、巨人の顔には口がなかった。あるのは地面を擦り潰しながら這ってきたせいで削られた肉の窪みだけ。人を食う巨人としてもあまりに異様な姿だった。

 

 両手を爆破し体勢を崩すロッド巨人。その顔の裂け目めがけて、巨人化したエレンが火薬樽を抱えて突っ込んでいく。

 

 次の瞬間、ロッド巨人の身体が内側から膨れ上がるように歪み、爆発が顔面の内側から一気に走る。

 頭部が弾け、首が吹き飛び、そこから連なる肥大した上半身がまとめて砕け散った。火柱と蒸気が天へ噴き上がり、焼けた肉と骨片が四方八方へ撒き散る。

 

 あれほど巨大だった胴体が一瞬で原型を失った。

 

「総員!立体機動でとどめを刺せ!」

 

 オルブド区の空が赤黒い肉片で埋まる。

 爆散したロッド・レイスの肉片は、なおも蒸気を噴き上げながら夥しい数で空に散っており、兵士達はその一つ一つへ斬りかかっていった。しかしどれを切っても手応えはなかった。

 

 縦一メートル、横十センチほどの本体を潰さない限り、あの異形は再び肉を膨らませ、何度でも巨体を取り戻してしまう。

 

 ならば、見つけなければならない。

 

(私の手で……!)

 

 ヒストリアもまた躊躇わず空へ身を投げた。ふわりと身体が宙へ放り出され、次の瞬間には肌を叩く風の冷たさが頬に走る。

 視界の下で、砕けた肉片が煙を引きながら無数に落ちていく。その中に一つだけ妙に目を引く塊があった。

 

 理屈ではなく、ほとんど直感だった。

 

 ヒストリアは迷わずワイヤーを打ち込み、その塊へ向かって身体を引き寄せた。装置の軋む音とともに身体が一気に加速し、空中で視界がぶれる。風圧に髪が激しく煽られ、それでも目を逸らさなかった。赤黒い肉塊の中心へ狙いを定め、両手の刃に力を込める。

 

 刃が肉へ沈み込んだ瞬間、ぶつりと何かが繋がるような感覚があった。視界が白く明滅し、脳裏へ一気に流れ込んでくる。

 

 父――ロッド・レイスの記憶だった。

 

 父はヒストリアにとって許しがたい存在だった。実際、父はどうしようもなく身勝手で、自分を傷つけ続けた男だった。

 しかし流れ込んでくるその断片の奥には、ただ権力に固執しただけでは済まされない、ひどく空虚でみじめな執着も見えた。

 

『アルマ……君だけだ。僕を分かってくれるのは……』

 

『……神よ』

 

 自分が過去を求めて神に等しき力に縋ったように、父もまた神に縋らざるを得なかったのだろうか。

 どれほど醜くても、どれほど身勝手でも、縋りつきたくたくなる気持ちは分かる。分かってしまうからこそ胸の奥が痛んだ。

 

 それでもヒストリアはまだ見ぬ未来を選んだ。あの頃へ帰らず、もう少しだけこの世界を広げていこうと。

 

「さよなら、お父さん」

 

 それは責める声でも、許す声でもなかった。これで過去と決別するための、最初で最後となる父への別れの言葉だった。

 

 呟きと同時に、刃を突き立てた肉塊がどろりと力を失う。

 支えをなくしたヒストリアの身体はそのまま空中へ放り出され、下方に張り出していた商店の天幕へ激しく叩きつけられた。

 

 厚布が大きくたわみ、遅れて全身に衝撃が走る。肺の中の空気が一気に押し出され、ヒストリアはしばらく息もできないまま仰向けに倒れ込んでいた。

 

「君があの巨人にとどめをさしたのか!?」

 

「この街は救われたんだな!?」

 

 ざわめきが波のように広がっていく中、ヒストリアは何かに導かれるように立ち上がり、高らかに宣言した。

 

「私はヒストリア・レイス。この壁の真の王です」

 

 こうして百年に及ぶ偽りの平和は幕を閉じた。

 鳥籠の安寧に閉じこもる時代は終わりを告げて、これから始まるのは外の敵との戦いだった。




もうちっとだけ王政編が続きます。
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