エレンの妻です   作:ホワイト3

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42:明日

 オルブド区に現れた異形の巨人と、それが真の王によって討たれたという報せはあっという間に壁内中へ広がった。

 ベルク社の新聞は号外を打ち、酒場では目撃者が得意げに巨人の大きさを語り、広場では子供達が「女王様が巨人をやっつけた」と目を輝かせて囃し立てる。

 

 新たな王を支持する声は、日ごとに大きくなっていった。今より一週間後に予定されている女王陛下の即位には、壁内中の期待と熱狂が集まりつつある。

 

 もっとも、それですべてが丸く収まるわけではない。

 

 王政を倒した兵政権への不信感は依然として燻っていたし、民衆の中には「結局、兵団が王を担ぎ上げただけではないか」と冷めた目を向ける者も少なくなかった。

 

 兵政権が直面する課題はいくつもあった。

 だが、その中でも何より重かったのは二つ――すなわち、世界の秘密を公表するのか否か。そして今後壁外勢力とどう対峙していくのかである。

 

 オルブド区の一件が終わった直後、王都の兵団本部にて三兵団が集う会議が催された。100人はいようかという会議室では侃侃諤諤の議論が交わされ、憲兵団や駐屯兵団の一部は壁内の混乱を恐れて情報の隠匿を主張した。

 

「今この情報を公表すれば、民衆は恐慌状態に陥りかねん。兵政権はまだ足場固めの最中だぞ」

 

「第一そんな話をいきなり信じろという方が無理だ。疑心暗鬼が広がれば、余計な騒ぎを招くだけだろう」

 

 彼らの主張もわかる。

 

 何も知らされず、100年もの間壁の中だけを世界だと教えられてきた人間達に、ある日突然「外には人類がいて、お前達は悪魔と呼ばれている」などと告げたところで、すんなり受け入れられるはずがない。

 

 だが、それに真っ向から異を唱えたのがピクシスだった。

 

「ならばまた民を騙すのか?」

 

 その一声で、ざわめいていた場がぴたりと静まる。

 

「歴代のレイス王がやったように、何も知らない民を飼おうというのか。ならば我々には何の大義があってレイス王から王冠を奪うのだ?」

 

 老獪な司令官はゆっくりと広い室内を見回した。そして最後に私へ視線を向ける。

 

「クルーガー君。君の考えをお聞かせ願おうか」

 

 この会議中、壁外を知るオブザーバー的な立ち位置で私は何度か発言を求められるのだが、その度に一部の層から鋭い視線が飛んでくる。

 無理もない。壁外の事情を知り、なおかつ巨人の力まで持つ人間など彼らからすれば危険物以外の何物でもないだろう。

 

 そういうお偉方を安心させるために、私は皆から少し離れた席に配置されており、隣にはリヴァイが控えている(ご苦労なことだ)

 

「――私見を述べさせていただくと、壁外勢力が既に壁内へ潜り込んでいる可能性がある以上、本来ならば世界の歴史を公表することには相応のリスクが伴いましょう。しかし、マーレはライナー達を通じて壁内勢力に与する巨人化能力者……すなわち私の存在を認知しているはずです。であれば、公表そのものにそう目くじらを立てる必要はありません」

 

 視線の重さを受け流しながら続ける。

 

「私はピクシス司令の判断を支持します。これから壁内人類は団結し、一つとなって敵と戦わなければなりません。それは単に、襲い来る知性巨人をちまちま撃退するという意味ではなく……」

 

 そこで一度言葉を切り、室内の反応を見た。

 

「人口だけで見ても壁内の何百、何千倍はあろうかという壁外文明そのものと、いずれ向き合わねばならないということです」

 

 ピクシス司令、そしてエルヴィンへ視線を送ると二人は無言のまま頷いた。

 

 私が話し終えて席に着くと、室内に重たいどよめきが広がった。敵の規模感を、ようやく現実として捉え始めたのだろう。

 むろん壁外とて一枚岩ではない。国ごとの思惑もマーレへの不満もある。だが、少なくとも世界各国がパラディ島を憎悪し恐れていることを思えば、私の言葉は大袈裟でも何でもなかった。

 

 そして最後に決定的な一声が落ちた。

 

「公表しましょう。100年前に王が奪った記憶を100年後の民にお返しするだけです」

 

 ヒストリア女王の一言で場は決した。

 

 真実はベルク社を通じて、即位式の3日前に公表された。予想通り壁内は混乱に陥ったが、暴動の類が起こらなかったことは幸運だったと言っていい。

 

「調査報告が我々の飯代だ。情報は納税者に委ねられる」

 

 などとハンジは記者達の前で妙に格好をつけていたが、公表できる情報にはまだまだ線引きがあった。グリシャ・イェーガーの記憶はあまりに不確定要素が多く、結局伏せられたままだった。

 

 世界の真実を公表すると決した会議の後、今度は調査兵団内部で密会が開かれた。参加者はエルヴィン、ハンジ、リヴァイら幹部級と、エレン達104期生、それに私だ。

 

「……さて、ハンジ。色々あって後回しになっていたが、改めて詳細を聞かせてもらおうか」

 

 エルヴィンに促され、ハンジはレイス領地下礼拝堂での出来事を一通り報告した。

 私が『ユミルの呪い』を黙っていたことについては当然問題視されたものの、程なくして場の関心はエレンの見た白昼夢――グリシャ・イェーガーの記憶へ移った。

 

「『不戦の契り』を破る方法を知る女……だと?」

 

 エルヴィンの仏頂面に、目に見えてひびが入った。

 もしそれが正しければ、強大な外敵の侵攻を退ける唯一の術――『地鳴らし』の発動が現実味を帯びることになる。降って湧いたような話であった。

 

「それに加えて」

 

 ハンジが流し目でこちらを見る。

 

「グリシャ・イェーガーはジルケ――正確には彼女の別人格であるジルケ・シュタイナーと顔見知りらしい。まあ、ジルケ本人には全く心当たりがないみたいだけど。そうだよね?」

 

「……ああ。少なくとも私の知る時期の革命軍に、『グリシャ・イェーガー』なる人物はいない。その謎の女とやらも、まず間違いなく以前から革命軍に属していた人間ではない。おそらくは、私が眠っている間に何かがあった」

 

「ふむ……仮にイェーガー氏が革命軍に所属していたとして、『ユミルの呪い』を踏まえるならイェーガー氏が『進撃』を継承したのは本人の継承期間13年とエレンの継承期間5年で……最長18年前、か。イェーガー氏の革命軍加入時期ともなると更に遡ることになる」

 

「こうなってくると私が記憶を失ったのも20年前どころじゃ済まないかもな」

 

「あ、あのう……」

 

 アルミンがおずおずと手を挙げた。

 

「もう少し状況を整理しませんか?でないと、その……肝心のエレンが付いていけなくなるので……」

 

 名指しされたエレンはやや不服そうな顔をしたが、実際その通りだったのか特に否定しなかった。

 エルヴィンの眉間の皺が少しだけ緩む。ハンジも便乗するように頷いた。

 

「だよねー。私もちょっとこんがらがってきちゃってさ。ジルケ、皆に君の推察を聞かせてやってくれないか。まずはグリシャ・イェーガーが何者なのか整理しないとね」

 

「……ああ。ただし、かなり私の仮説に寄る話になる。私自身、全容を把握しているわけじゃない。その点は承知してくれ」

 

 そう前置きして私は己の考えを告げた。

 

「グリシャ・イェーガーは何者か。これは先ほども述べたが、おそらく革命軍に与する収容区出身のエルディア人だ。シュタイナーや(エレン)と顔見知りであり、かつ私の知る時期の革命軍にその名に心当たりのある者がいない以上、外部から加わったと見るのが自然だろう」

 

 そもそも現代人にとって『始祖の巨人』など御伽噺に等しい。存在そのものは知られていても、その実力や機能を具体的に把握している者はほとんどいない。

 

 王家やタイバー家、革命軍の長老共を除いては。

 

 そしてグリシャは『始祖』の力を王家から奪うべく動き、遂には我々の悲願を成し遂げた。この一連の行動だけを見てもグリシャが革命軍と無関係である、と考えるのは無理があるだろう。

 

「エレンの見た記憶は、おそらく(エレン)から『進撃』を受け継いだ瞬間だ。革命軍の保守層をも黙らせるほどの功績を上げ、部外者を重用しないという通例を覆して継承権を得たのか。それとも何かの成り行きで選ばれたのか……そこまでは分からん」

 

 私は一度、エレンへ視線を向けた。

 

「だが少なくともグリシャが反マーレとエルディア復権の意思のもと、『進撃』を受け継いだのはまず間違いない」

 

 エレンやアルミンの顔が青ざめていく。

 彼らの話では、グリシャ・イェーガーは善良な医師だった。

 それが、まさか私と同じエルディア復権の意思を共有する同志であり、過激な民族主義者であった可能性があるなど信じたくないのだろう。

 

「そして我々の命運を握る謎の女についてだが……私には三つ、可能性があると思っている。一つは――」

 

「――大陸に潜伏していた王家の末裔、だろう?」

 

 エルヴィンが見透かしたように言う。

 

「流石だ。『始祖』の力はおろか、『不戦の契り』の正体と破り方まで知っているとなれば、まず王家を疑うべきだろう」

 

 革命軍ですら知り得ない情報だ。大陸に残った王家の血筋がそれを代々、断片的にでも受け継いでいたとしても不思議ではない。

 

「そうなると革命軍は王家の血筋を見つけたことになる。そこで『不戦の契り』の正体と、その破り方を知った。グリシャ・イェーガーはその情報を携え、王から『始祖』を奪還すべく壁内へ潜入した……か。一応、筋は通っている」

 

「ああ。私も、それが最も可能性として高いと思っている」

 

 エルヴィンは顎に手を当て、しばし思案した。

 

「二つ目は巨人大戦の顛末を知るタイバー家の関係者……そこまでは分かる。他に思い当たるのは何だ?」

 

「……正直に言えば、三つ目は可能性と呼ぶのも躊躇われる」

 

「なに……?」

 

「なにせ私が思い浮かべている相手は、そもそも私が革命軍の人間であることすら知らないはずなんだ。『不戦の契り』などという王家の秘事に辿り着ける道理も、本来なら無い」

 

 それでも。

 

 エレンから聞かされた女の特徴を繋ぎ合わせていくと、どうしても一人の姿が浮かんでしまう。

 浮かんでしまう以上、完全に無視することもできなかった。

 

「誰なんだ、そいつは」

 

 リヴァイの一言で、皆の視線が一斉にこちらへ向いた。

 私はほんの一瞬だけ躊躇ってから、その名を告げる。

 

「……セラ・シュタイナー。私が勤務していたレベリオ市民病院の看護師だ」

 

 自分で口にした途端、やはりおかしさばかりが際立った。

 セラはマーレに故郷を潰された小国の民であり、エルディア人でないことは彼女を治療したことのある私が誰よりも知っている。

 

 それに彼女は何らかの反マーレ組織に属していないはずだ。そういう人間にも見えなかった。

 

 目の前の命を救うことしか考えていない、青臭く善良な看護師。それが私の知るセラだ。

 

「その女がもし本当にセラであるなら……私か、あるいは同じ病院に潜伏していた同志を経由して革命軍と接触した可能性はある。そこからグリシャと知り合った、という筋書きも一応は立つ」

 

 だが、と私はすぐに続けた。

 

「……それでも、やはり飛躍が大きすぎる。正直、言ってる当人が一番信じられていない。無理やり線を繋いでいるだけかもしれん」

 

「……テメェの病院は反体制派の温床なのか?そんなとこに掛かりたくねぇな」

 

 リヴァイの憎まれ口にも、私はまともに返せなかった。内心ではまだどうしても引っかかりが消えない。

 

 あり得ない。理屈で考えれば、そう結論するしかない。

 

 なのにエレンから聞かされた女の輪郭は、どうしてもセラのそれと重なってしまう。とりわけ決定的だったのは、その女の医療用の装いだ。そこまで一致してしまうと、ただの空似だと切って捨てるには無理があった。

 

「……もっとも、その女が仮にセラであろうとなかろうとだ」

 

 私は半ば自分に言い聞かせるように続けた。

 

「グリシャ・イェーガーとジルケ・シュタイナー(わたし)が、エルディアの行く末を左右する重大な秘密を握っていたことだけは間違いない」

 

 ちらりとエレンを見る。

 革命軍が代々受け継いできた『進撃』が、こうして今、私の目の前にある。どういうわけかそこに奇妙な感傷を覚えた。

 

「――ハンジ。ジルケ・シュタイナーの身辺には何も残されていなかったのだな?」

 

「モブリット達に簡単に調べてもらった程度だけど、ウォール教や訓練所には何もなかったし、有力な証言も得られなかったよ」

 

「グリシャ・イェーガーも5年前から行方不明……か」

 

 その呟きを受け、ハンジがはっとしたように顔を上げる。

 

「エルヴィン。君はまさか――」

 

「――シガンシナ区に眠る地下室。そこに答えがあるかもしれない」

 

 遠回りをしたような形にはなったが、ここへ来て調査兵団の中に一つの方向性が固まりつつあった。かつて私が意味が薄いと語り、いつしかエルヴィンも口にしなくなった、あの言葉。

 

 まるで導かれるように、あるいは見えない何かに操られるようにエルヴィンは厳かにその言葉を口にした――ウォール・マリア奪還を。 

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 ウォール・マリア奪還にすべてを賭けるのは言うまでもない。だが、それでも壁内に残された手掛かりを探ることを怠ってはならなかった。

 

 ジルケ・シュタイナーおよびグリシャ・イェーガーの身辺をもう一度洗い直す必要がある。そうエルヴィンは告げ、一部の兵員に調査を命じた。他の者は即位式の準備、未だどこに潜んでいるかも知れぬケニー・アッカーマンの捜索、そして壁外勢力の潜伏調査へと割り振られていく。

 

 ハンジを中心とした調査班がまず真っ先に目をつけたのは、ウォール・マリア陥落時にグリシャと接触していた調査兵団の男だった。あの状況でグリシャと会っていたのだ。何か知っていて当然だろう。

 

 エレン曰く、「どこかで見たことがある顔」のはずだった。だが、人相や背格好をいくら口頭で説明しても、兵団の誰一人としてぴんと来ていなかった。

 

 では仕方がないと、調査班は一から足取りを洗い直すことにした。グリシャの古い友人であるハンネスの属する駐屯兵団、そしてジルケ・シュタイナーが身を寄せていた訓練兵団。その両方を当たることとなる。

 

「しっかし、シャーディス団長に会うのも久しぶりだなぁ!!」

 

 妙に弾んだ声を上げるハンジに、リヴァイが心底うんざりした顔で吐き捨てる。

 

「クソメガネ。目的を忘れるなよ。ただ思い出話をしに行くんじゃねぇんだからな」

 

「わかってるってば。でも5年ぶりに会うんだよ?リヴァイだって来たいんじゃないの?」

 

「ケニーを相手できるのは俺しかいねぇだろ」

 

 ケニー・アッカーマンはあの礼拝堂の崩落以降、姿を消したままだ。どこかで何かを狙っているのかはっきりしたことは分かっていない。あの男が即位式に合わせて何かを仕掛ける可能性も否定できず、リヴァイは王都周辺に残らざるを得なかった。

 

 そんな二人の軽口を聞きながら、ふいにエレンが立ち上がった。

 

「……シャーディス、教官」

 

 ぽつりと落とされたその名に、全員の視線が一斉にエレンへ向いた。

 

「親父と会っていたのはたぶん……キース・シャーディス教官です」

 

 翌日、私達が訓練兵団を訪れた時、シャーディスは意外なほどあっさりと話し合いの席を設けた。

 

 教官室に足を踏み入れた瞬間、サシャは目に見えて肩を強張らせた。よほどこの部屋で絞られた記憶が染みついているのだろう。コニーも落ち着きなく視線を泳がせ、ジャンは気まずそうに口を結び、エレンでさえ普段よりわずかに背筋を正している。

 

 彼らにとって、キース・シャーディスは今もなお教官なのだ。

 たとえ調査兵団に入り、巨人と戦い、王政を転覆させる戦いにまで巻き込まれたとしても、訓練兵団で叩き込まれた恐怖と緊張はそう簡単には消えないらしい。

 

 シャーディスはそんな104期生達の反応など意に介さず、ただ淡々とグリシャ・イェーガーとの出会いから別れまでを語った。

 

 壁の外で、記憶を失ったグリシャと出会ったこと。

 調査兵団にいた頃、あの男の言葉に強く影響を受けていたこと。

 やがて自分が特別ではないと悟り、壁が破られたあの日に調査兵団を去ったこと。

 そして今日に至るまで、グリシャという男の本質をとうとう掴みきれなかったこと。

 

 語られたのは、それだけだった。

 

 聞き終えた後、教官室には妙な静けさが落ちた。

 正直に言って当てが外れた。グリシャの素性も、革命軍との繋がりも、謎の女のことも結局何一つ分からない。ジルケ・シュタイナー(わたし)が訓練兵団に身を寄せる際グリシャの名を出したという事実以外、めぼしい情報は特に得られなかった。

 

「よく分かりましたよ」

 

 沈黙を破ったのはハンジだった。声音だけは軽いのに、その奥には露骨な苛立ちが混じっている。

 

「あんたが幼稚な理由で調査兵団を離れて、ここに居座ってるってことはね」

 

 シャーディスは眉一つ動かさなかった。反論するでもなく、怒るでもなく、ただその言葉を受け止めている。その無抵抗さが余計にハンジの癇に障ったのだろう。

 

「それで、ジルケを調査兵団に異動させないようにしたのも、何か深い意図があってのことですか?イェーガー氏と旧知の仲である彼女を危険に巻き込みたくなかったとか。あるいは彼女が何者かを薄々察していたとか――」

 

「……いや、違う」

 

 シャーディスは低く答えた。

 

「もっと個人的な感傷だ」

 

「あーそーかい!!ご回答いただきどうもありがとうございました!!」

 

 ハンジは吐き捨てるように言うと、椅子を蹴る勢いで立ち上がりそのまま教官室を後にした。サシャがびくりと肩を震わせ、コニーが「うわ……」と小さく呟く。

 

 誰も止めなかった。止める理屈が無かった。

 

 私も立ち上がり、出口へ向かいかけたところで足を止める。いくつか言葉を投げかけたが、結局彼からは何の返事もなかった。

 

 私はそれ以上何も言わず、教官室を後にした。

 

 外へ出ると訓練場の向こうで沈みかけた陽が土埃を赤く染めていた。ハンジは少し先を苛立たしげな足取りで歩いており、104期生はその後を恐る恐る続いた。

 背後の建物を振り返ると、教官室の窓辺に立つキースの影が一瞬だけ見えた。やけに細く、頼りなく見える背中だった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

「グリシャ・イェーガーに繋がる情報は出てこなかったか」

 

「ああ」

 

 訓練兵団を訪ねてから数日が過ぎ、即位式は明日に迫っていた。

 ハンジが腕を組んだまま答えた。いつものような軽薄さは鳴りを潜めており、代わりに疲労と苛立ちが声の端に滲んでいる。

 

「ハンネスさんにも話を聞いたけど、これといった新情報は無かったよ。ま、グリシャ・イェーガーが壁の外で発見されたっていう二人の証言の裏が取れただけでも収穫と言えば収穫なんだろうけどね」

 

「ジルの情報はどうだ?」

 

「これも特にない。私達以外にもジルケを訪ねて訓練兵団に来た兵士がいたようだけど、肝心のシャーディス(あいつ)が何も知らないんじゃ、その兵士からジルケに繋がる情報を得るのは難しいだろう」

 

 ハンジはそこで一度息を吐き、机の上に広げられた簡易な調査記録へ視線を落とした。そこにはグリシャ・イェーガーの交友関係、ジルケ・シュタイナーが壁内で身を寄せていた場所、訓練兵団時代の証言、ウォール教関係者への聞き取りなど短期間で集められる限りの情報が乱雑に書き込まれていた。だが、どれも決定打には程遠い。

 

「これ以上、グリシャ・イェーガーやジルケ・シュタイナーの足跡を、壁内で追うのは難しいと思う。それでエルヴィン。今後はどうする?」

 

 エルヴィンはしばし沈黙した。机の上に置かれた地図を見下ろし、ウォール・ローゼ、ウォール・マリア、そしてシガンシナ区の位置をゆっくりと目でなぞっている。

 

 やがて彼は低く口を開いた。

 

「……グリシャ・イェーガーが死に際に『すべてがある』と言い残した地下室。そこに『不戦の契り』の破り方が記されていると信じて進むしかない」

 

「それはつまり……」

 

「待ってください」

 

 アルミンが不安げに口を挟んだ。声は控えめだったが、その目には必死に思考を巡らせている時の鋭さがあった。

 

「ジルケさんやエレンの記憶が蘇るのを待つという手もあります。もちろん、いつ記憶の継承が起きるか分かりませんし、これ以上何かが戻る保証もありません。でも、地下室に『不戦の契り』の破り方が残っている保証だってない……あまりにリスクが大きすぎませんか?」

 

「分かっている。だが、時間が経てば経つほど不利になるのは我々だ。準備を整えられ、戦力を増強され、再び壁内へ侵入されれば後手に回る。リスクを冒さずして勝利を得ることは不可能だろう」

 

 そこでエルヴィンは私へ視線を向けた。

 

「ジル。君はどう思う?」

 

 ……さて、どう答えるべきか。

 

 私個人としては、やはり奪還作戦に全面的に賛成する気にはなれなかった。少なくとも、エレンを安易に参戦させるわけにはいかない。仮に地下室に何も無ければただの徒労だ。

 

 よほど確信があるか、あるいは()()()()()()()()()()()()()()()()、無闇に博打を打ちたくない。

 

 かといって、私やエレンの記憶が戻るのを待つという案もいただけない。あまりに神頼みじみている。継承者の記憶など、必要な時に都合よく蘇るものではない。待てば答えが降ってくるなどと考えるのは問題の先送りと大差ない。

 

 それに、エルヴィンの言う通り、時間が経てば経つほど敵の戦力は補強されていく。

 

 仮に私が眠りについてから、すでに30年近くの時が経っているとしよう。もはや外の世界でどれほど技術が発展しているのか想像すらつかない。私の知るマーレ軍の兵器体系など、今となっては古びたものに過ぎない可能性が高い。

 

 いや、仮に新兵器など無かったとしてもだ。

 

 もし現状の壁内の戦力でライナー達と交戦するとなれば、硬質化した鎧に兵士の刃が立たぬ以上、エレンと私だけで奴らをどうにかしなければならない。獣や車力まで加われば、なおさら分が悪い。

 

(やはり『始祖』のコントロールを何よりも優先すべきか……いやしかしーー)

 

 次々と懸念が浮かび、答えあぐねているとエルヴィンはふっと笑った。

 

「……まあ、我々もすぐに奪還作戦へ乗り出せるわけではない。即位式すらまだ終わっていないんだ。ハンジやアルレルトの案――巨人化したエレンの硬質化能力で壁の穴を塞ぐ作戦を実行するにしても、相応の準備期間が必要になるだろう」

 

 その間に二人の記憶が戻るなら、それが最善だ。エルヴィンはそう付け加えた後、「だが」と口調を強めた。

 

「ウォール・マリアを取り戻すことは、そのまま失われた領土の回復を意味する。耕作地と居住地が増えれば、人口圧迫と食糧問題の緩和に繋がる」

 

「確かにね。それに今後壁外勢力と相対するなら、壁外への進出拠点が必要になってくる。その意味でもウォール・マリアの領土は欠かせないだろう」

 

 ハンジが付け加える。エルヴィンは頷いた後、続けた。

 

「なにより――新たな王政の下で、失われた領土を実際に取り戻すこと。その事実自体が壁内人類にとって強烈な意味を持つ。壁の内側へ民を閉じ込め、外の世界を忘れさせた従来の王政とは異なり、我々は奪われた土地を取り返し、民へ外へ進む意志を示す。壁内人類が再び未来を選ぶための、象徴的な一歩となるだろう」

 

 ウォール・マリア奪還。それは壁内人類の悲願だった。

 五年前壁は破られ、人々は土地を失い、家を失い、家族を失った。多くの難民が口減らし同然の奪還作戦へ送り出され、二度と戻らなかった。ウォール・マリアという言葉は、単なる地名ではなく、壁内の人間にとって喪失そのものを意味している。

 

 それを取り戻すということは、奪われた過去をもう一度こちらの手で掴み直すということだ。

 

 そう改めて言語化されると、場の空気が少し変わったのが分かった。アルミンはまだ不安を消しきれていない顔をしていたが、それでも反論の言葉は呑み込んでいた。

 

「……まあ、そっちの方が調査兵団らしいな」

 

「新参者が言うねぇ」

 

 私が嘯くと、ハンジがにやりと口元を歪める。

 エルヴィンは短く息を吐き、場を締めるように言った。

 

「ひとまずピクシス司令やザックレー総統にも相談しよう。壁内の混乱を抑えつつ、作戦準備を進める必要があるからな。各人は明日の即位式の準備に当たってくれ」

 

 その言葉で会議は解散となった。

 

 兵舎の外へ出ると、夜気の中にいつもより幾分浮ついたざわめきが混じっていた。広場の方では憲兵が人の流れを確認し、駐屯兵が仮設の壇を整えている。

 街路には簡素ながら新しい王家の旗が張られ、窓辺からは明日の式を一目見ようと場所取りの話をする住民達の声が漏れ聞こえてきた。

 

 王政が倒れ、世界の真実が公表され、壁の外には敵がいると知らされた後だというのに人々はそれでも明日を祝おうとしている。

 

 いや、だからこそなのかもしれない。

 

 100年続いた偽りの平和が終わったからこそ、彼らには新しい王を見届けるための祝祭が必要なのだろう。恐怖だけでは人は前へ進めない。希望の形を、目に見える場所へ置かなければならないのだろう。

 

 104期の連中も、年頃らしく浮かれているらしい。

 

「……にしても、あのクリスタが女王かあ」

 

「もうクリスタじゃねぇよ」

 

 コニーが感慨深げに呟くとジャンがすかさず訂正した。

 

「分かってるよ。でもよ、訓練兵団で一緒に飯食ってた奴が明日には女王様だぞ?なんか変な感じしねぇ?」

 

「まあな。ジル先生にべったりしてた奴が壁内の王か……」

 

 ジャンはそう言ってから、少し気まずそうに視線を逸らした。

 

「……いや今思えば俺達が勝手にそう見てただけかもしれねぇな。あいつはあいつで、ずっと何か抱えてたんだろ」

 

「ヒストリアなら大丈夫ですよ」

 

 サシャが珍しく真面目な顔で言った。

 

「あの大きな巨人をやっつけたんですよ。きっと女王様だって務まります」

 

「お前がまともなこと言うと、なんか調子狂うな」

 

「失礼ですね!」

 

 サシャはむっと頬を膨らませたが、すぐに表情を明るくした。

 

「それに、明日はどんなご馳走が出てくるのかも気になって仕方ないです!」

 

 サシャが真顔で言い切ると、コニーが吹き出した。

 

「お前なあ、即位式をなんだと思ってんだよ」

 

「祝う場なんでしょう!?なら美味しい食べ物も出るはずです!」

 

「お前はどこまで行っても食い物だな……」

 

 呆れたように言いながらも、ジャンの口元はわずかに緩んでいた。コニーも肩を揺らして笑っている。つい先ほどまでウォール・マリア奪還だの、壁外勢力だのと重苦しい話をしていたのが嘘のようだった。

 

 アルミンは期待と不安をない混ぜにしながら広場を見つめ、ミカサは何も言わずエレンの様子を窺っている。

 

 エレンはと言うと、まだ胸の奥に沈んだものを抱えているのだろう。それでも仲間達のやり取りと、シャーディスから伝えられた母親(カルラ・イェーガー)の愛情――特別じゃなくてもいいという言葉のおかげか、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。

 

 私はその光景を少し離れたところから眺め、一つ息を吐いた。

 

 壁内は明日を祝おうとしていた。そして、その先に待つのが希望か地獄か。それは誰にも分からなかった。

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