エレンの妻です   作:ホワイト3

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閑話です。


幕間①:とある休日

「立て、シュタイナー!その程度で根を上げるなら最初から訓練を申し出るな!」

 

 人気の絶えた訓練場に、シャーディス教官の罵声が突き刺さるように響く。

 

 何度目になるか分からない投げを喰らい、私は乾いた地面に大の字で転がっていた。全身の筋肉が悲鳴を上げ、口の中に入り込んだ土埃が舌に張り付く。見上げた空は嫌に青く、日差しが容赦なく目を刺した。

 

(……死んじゃう)

 

 膝に手をつき、震える脚で何とか上体を起こす。汗と砂埃が混じり合った不快な液体が、こめかみから顎を伝って地面に滴った。

 構えなど取れる状態ではない。教官は太い腕を組み、鼻で笑うように私を見下ろしている。

 

 見立てが甘かった。3か月前の自分の頬を引っ叩いてやりたくなる。

 

 私が休日返上でこの地獄に身を投じているのは、表向きには民間人の避難誘導や、有事の際に兵士として最低限動けるようになるためだ……表向きには。

 

 立体機動と対人格闘術の習得。それが私の真の目的だった。

 

 立体機動については語るに及ばない。覚えておいて損などあるはずがない。

 対人格闘術はより具体的な戦闘を前提としている。仮に(アギト)の力を振るう瞬間が訪れたとして、そもそもの戦闘力が伴わなければ、巨人化能力など宝の持ち腐れになる。

 

 これから始まるかもしれない『九つの巨人』や、マーレ軍との衝突――場合によっては調査兵団とも刃を交えることになるかもしれない――を生き延びるためには、肉体そのものを鍛え直すよりほかにない。

 

 ……と、訓練を始める前の私は、ずいぶん立派な理屈を並べていた。合理的な選択をしているつもりでいた。だが、それが何とも甘い見立てだったことを私は半月もしないうちに身をもって知る羽目になった。

 

(医療に携わる人間として、人体の限界はそれなりに把握しているつもりだったのだけど)

 

 机上の知識と実体験の間には、底の見えない深い谷が横たわっていた。

 

 身体を限界まで酷使した夜は、空腹なはずなのに食事が喉を通らない。泥のように眠れるはずが、翌日も翌々日も疲労が筋繊維の奥に居座って取れない。診察中、訓練兵に「先生、具合悪いんですか」と気遣われる始末だった。

 

 施す側の医者が、施される側の少年少女に体調を案じられる。何の倒錯だろうかといっそ笑えてくる。

 

 巨人の再生能力という反則のような恩恵がなければ、とうに再起不能になっていただろう。並の人間なら骨にひびが入るような打撲も、私にとっては一晩眠れば消えるかすり傷でしかない。

 もっとも、目に見えて治癒が早ければ教官に怪しまれかねないので、こっそり治る速度を抑えてはいるのだが。

 

 そんなインチキ能力を以てしても、現実は容赦がなかった。

 

 立体機動はまだ恵まれている部類だった。何度も死を覚悟する場面に出くわしたものの、肌身で上達の手応えを感じられる瞬間はあったし、ほんの束の間だけ意のままに空を駆けた時の浮遊感は、どんな言葉に置き換えても足りない。

 

 空を飛ぶというのはこんなにも身軽なことだったのか。

 

 問題は対人格闘術だった。

 

 とにかく、教官に投げられる。投げられる。投げられる。

 組手と称して向き合った瞬間に襟を取られ、気がつけば視界が反転して背中から土に叩きつけられている。受け身を取る間も、何が起きたかを認識する暇もない。立ち上がる頃には、また同じ景色が始まる。

 

 ……そもそも体格が違いすぎた。

 

 頭一つ分どころか、肩幅も腕の太さも教官は私の二倍はあろうかという有様で、実戦経験など比べる気にもならない。仮に生まれた瞬間から人生すべてを鍛錬に費やしたところで、この差は埋まらないだろう。

 

「思い違いするな。お前は自分が考えているよりも、ずっと筋がいい」

 

 膝を抱えて項垂れる私に、教官は息一つ切らさずそう言い放つ……息一つ切らさず言われた時点で、慰めとして成立しないことにこの人は気付いているのだろうか。

 

「とはいえ、本来はこれほど体格差のある相手と対人格闘の稽古をするのは望ましくない。お前自身、もう骨身に沁みて分かっているだろう」

 

「……はい」

 

 体重と体格。訓練を始めるまで、その二つの言葉をこれほど真剣に噛み締める日が来るとは思わなかった。

 技術以前に勝負の半分以上が決まっているということなのだ。

 

 であれば、体格の近い相手と一度組んでみるのはどうか――そう話が転がった。

 

 ところが適当な相手が意外と思いつかない。

 

(兵団内で私と背格好が同じくらいで、かつ気軽に手合いを頼めそうな人か……)

 

 最終的に白羽の矢が立ったのは――

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

「ごめん……本当にごめんなさいね、アルミン。せっかくの休日にこんなことに付き合わせちゃって……」

 

「い、いえ、いいんです!ジル先生のお願いですから……」

 

 たまたま訓練場の脇を通りかかったエレン達。教官の視界に入ったのが運の尽きだった。

 

 エレンとミカサだと、こちらの身に危険が及ぶかもしれない。一番実力が拮抗しそうな――というよりも、私の身を案じてくれそうな――アルミンに、後ろめたさを抱えて頭を下げることとなった。

 

 せめてものお礼にと、訓練が終わったら好きな本を一冊買ってあげると約束した。すると彼の顔がぱっと明るくなった。彼もずいぶん現金な人間だ。

 

「先生、頑張ってください!アルミンも負けるんじゃねぇぞ!」

 

「アルミン、無理に勝ちにいかなくていい。シュタイナー先生に怪我をさせない方が大事」

 

 エレンが拳を突き上げて応援し、ミカサが感情の読めない瞳でそう釘を刺す。

 

 私が暴漢役、アルミンが応戦する兵士側として模擬戦をすることになった。武器を持って襲い掛かる賊を兵士役が制圧する。訓練兵団の組手で用いられる定番の形式だ。

 

 互いに一礼を交わし、距離を取って構える。アルミンは丸腰、両の手のひらをこちらに向け、半身に構えた。教科書通り、力みも気負いもない。

 

 正直言うと……行ける、と思った。

 

 体格はほぼ同等。腕の長さも大差ない。短剣がある分こちらが有利だし、アルミンは座学で同期を圧倒する優等生だが、対人格闘術ではドベを争っているという話は何度か耳にしている。

 

 いくら私が素人に毛が生えた程度とはいえ、二度や三度は有効打を入れられるはずだ。

 

 そう、私は本気で思っていた。

 

 合図と同時に、私は地を蹴った。半身を切って踏み込み、短剣を上から振り下ろす。アルミンは半歩退きながら、最小限の動きでそれを躱した。

 

 手応えなし。

 

 すぐさま身を翻し、今度は下から薙ぎ払う。アルミンの腰のあたりを抜けるように刃が空を切った。彼の身体はもう右へ滑り、私の死角に回り込んでいる。

 

(思ったより早い……いや、私が遅いのか)

 

 思考に身体が追いつかない。

 息を整える間も惜しんで、第三撃。短剣を腰だめに構え、突きの形でアルミンの脇腹に向かって全身ごとぶつけにいく。

 

 アルミンが半歩引いて捌こうとするが、その動きが見えた。引いた先へ追い込むように角度を変え、さらに踏み込む。

 

 私の刃の切っ先と、彼の脇腹との距離が、紙一枚の隙間まで縮まった。

 

 アルミンの目が、初めて少しだけ見開かれる。

 

(――取れる)

 

 だが、現実は甘くなかった。

 気が付けば、彼の手が私の手首と肩口に添えられ、重心を横へ流されていた。突きに全力を乗せた分だけ身体が空を泳ぐ。堪えようとした足が縺れ、膝が地面についた(アルミンが慌てて支えてくれた)

 

「……降参」

 

 掠れた声で私はそう告げた。膝をついたまま、肩で息をする。

 

(……っ、悔しい)

 

 胸の奥で、行き場のない熱がぐるりと渦を巻いた。

 敗北自体は順当な結果だ。経験も鍛錬の量も、比べるのが失礼なほどに違う。頭ではちゃんと分かっている。

 

 だが、それと感情は別の話だった。

 

(悔しいけど、絶対に顔に出すな)

 

 くだらないプライド以外の何でもない感情で必死に微笑みを作った。年下の少年に手も足も出なかった事実は、想像していたよりずっと深い場所を引っ掻いていた。

 

 ……いい歳をして何をやっているのだろうか。

 

 それより最後の一撃だ。 

 行けると思った。確かに、行けると思ったのだ。短剣を握る掌に、まだあの「取れる」と確信した一瞬の熱が残っている。それなのに気が付けば膝が土に着いていた。

 

 アルミンが思ったよりも一枚上手だった、ということだろうか。

 

 膝をつく私の前に、アルミンが屈んで視線を合わせる。汗で少し湿った金髪の下から、水色の目がこちらを覗き込んでいた。

 

 何か言いたげに、一度口を開いて閉じる。

 

 それから改めて口を開いた。

 

「先生……気になった点を、いくつかお伝えしてもいいですか」

 

「……ええ、お願い」

 

 アルミンの指導は、地面に膝をついたまま続いた。体格が近い相手ならではの具体的な話で、教官のそれより腑に落ちた。

 体格が近いというだけで、ここまで実用的な助言になるものなのか。あるいは、彼の教え方が単純に優れているのか。多分その両方だろう。

 

「俺もちょっと外から見てて、気になったんですけど」

 

 エレンが腕を組みながら、思案げに首を傾げた。

 

「なんていうか……先生から、あんまり気迫を感じられなかったです」

 

「気迫?」

 

「はい。俺もガキの頃から喧嘩してきて思ったんですけど、なんかこう……『絶対にぶっ倒してやる』って気迫で来られると、相手が格下だろうと厄介に感じるんです」

 

 エレンが妙に悔しそうに鼻を鳴らしながら続けた。

 

「最近ジャンの野郎とやり合った時も思いました。技術だとライナーの方が随分上なのに、どちらが手強いかといわれるとジャンの方が断然やりづらい」

 

 横からアルミンも控えめに口を開いた。

 

「あの、先生」

 

 少し間を置いて、言いにくそうに続けた。

 

「さっきの三度目の突きなんですけど、あれ本気でやってました?」

 

「別に手なんて抜いてないわよ?」

 

「……僕は正直、やられたと思いました。受けに回るのが半瞬遅れた自覚があったので――先生。最後の一瞬、刃を止めませんでしたか?」

 

 私は言葉に詰まった。

 

 止めた、という感覚は無かった。あの瞬間、私はただ真っ直ぐ踏み込んだつもりだった。アルミンが素早く捌いたから倒れたとしか理解していなかった。

 

「手首の動きが寸前で変わって見えました。振り抜く方向ではなく、逸らす方向に。だから僕は横にずれるだけで対応できた、という感じで……」

 

 アルミンは慰めるように続けた。

 

「技術自体は僕とそれほど変わらないと思います。たぶん、もう少し攻めの意識を持ってくださったら僕は普通に負けてました」

 

「アルミンの言う通り、もうちょっと『やっつけてやる!』って気概を持てば相手にも圧力を与えられますし、もっと強く出れますよ!」

 

 そこまで話して、エレンが急に居心地悪そうに頭をぼりぼりと掻いた。

 

「……まあジル先生に無理して意識してもらう話じゃないですけどね」

 

「僕もジル先生が誰かを威圧するところなんて見たくないですし……まあ、こういう意見もある、くらいに留めておいてください」

 

 そうして二人はきまり悪そうに口を結んだ。

 

 これまで私は喧嘩の一つをしたことがない。だから、かなり目から鱗だった。

 とても精神論と切って捨てる気にはなれなかった。

 

 力を持つだけでなく、その力を行使してこそ真価を発揮する。いつか訪れる戦いの日、私は力を適切に使うことができるだろうか。

 

 知らず知らずのうちに、土についた指先が震えていた。答えはすぐには見つからなかった。

 

「でも先生、週に一、二回しか訓練できてないですよね?しかも全く鍛えたことがない状態で、僕らよりずっと後から始めて……それを考えたら十分すぎる成長速度ですよ!!」

 

 露骨に話を逸らしてくれたアルミンの優しさが嫌に染みた。

 

 センス、成長速度。皆、判で押したように同じ言葉で慰めてくれる。慰めてくれるだけ有難いと思うべきだろうか。

 

(……いいもん。どうせ巨人化したら、ほぼ関係なくなるんだし)

 

 などと内心で本末転倒な正当化を図ったが、虚しさが胸の底に降り積もっただけだった。

 

 力を振るう覚悟が無ければ、巨人化したところで何の意味もない。分かっていたつもりだったが、改めて自覚できただけでも今日の収穫としては十分だろう。

 

 まあ、覚悟や気迫云々はともあれ、せめて身体だけは仕上げておきたい。仕事終わりに走り込みでも始めようかと考える反面、まずはこの全身を蝕む筋肉痛との戦いを終わらせるのが先だ。

 

「ジル先生、立てます?」

 

「どうにかね」

 

 差し伸べられたアルミンの手を、今日は素直に握り返した。手のひらにささやかなタコの感触があって、この少年が積み重ねてきた日々の重みが伝わってきた。

 

 先の話はひとまず明日の自分に預けてしまおう――そう言い聞かせて、私は埃まみれの足を兵舎の方へと向けた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

()()アルミンにボロ負けしたんですか!」

 

 サシャが大袈裟に目を見開くと、釣られてミーナが吹き出した。クリスタも「やめなよー」と窘めながら、口元を必死に引き結んでぴくぴくさせている。

 

 ここは訓練兵団の医務室。地獄の訓練を終えた直後だ。

 休日の昼下がり、私が淹れたハーブティー目当てに、サシャ達が屯することがしばしばあった。最初の頃は「怪我人でもない人が居座らないように」とやんわり追い返していたものだが、いつの間にか彼女達は自分の部屋のように椅子を引き、私の戸棚から茶菓子まで掘り起こすようになっていた。

 

 医務室とは一体何だったのか。

 

「あのってなによ、あのって。サシャ、もう少し言葉を選びなさい。アルミンにも失礼でしょう」

 

「でも……アルミンですよ?エレンやミカサならともかく、対人格闘術でドベ争いをしてるアルミンですよ?」

 

 これに関しては私も人のことを言えた義理ではないので、サシャを強く叱責しきれなかった。

 少なくとも、一撃も当てられずに降参に追い込まれるとは思っていなかった。

 

「まあ私達と違って、先生は普段お仕事してるんだから。仕方ないよ」

 

「負けは負けでしょ!」

 

 クリスタが控えめに庇ってくれると、ミーナがにやにやと身を乗り出してきた。

 

 ま、3か月でここまで出来れば上出来だって皆言ってくれてるからさほど気にしていないが。

 

「それを負け惜しみって言うんですよ」

 

「サシャ。今度食当たりになっても診てあげないわよ」

 

「すみませんでした!」

 

 即座に頭を下げるサシャを見て、クリスタがとうとう肩を震わせて笑い声を漏らした。

 

 ……意外だった。

 サシャもミーナも、本心からの揶揄ではないと分かっているとはいえ、こういう他人を弄る冗談にクリスタが声を立てて笑うなんて。

 入団した頃の彼女なら、二人をそれとなく注意していたか、愛想笑いを浮かべていただろう。

 

 これを「成長」と呼んでいいのか、私には判断がつかなかった。けれど少なくとも、彼女が変わったことだけは確かだった。

 それを見ていられるだけでも、休日に茶葉と菓子を消費される程度のことは安いものだと思えた。

 

 湯気と他愛のない笑い声に流されるまま、時計の針が二周ほどしただろうか。私達は時間も忘れて談笑した。

 

 サシャが厨房から芋を持ち出して見つかり教官室でこってり絞られた話。

 クリスタが先日ライナーに馬術を教えてあげた話。

 ベルトルトが訓練中にアニばかり見ている話。

 そのアニが先日アルミンに話しかけているところをミーナが目撃した話。

 

 話題は脈絡なく転がっていく。私は二回り近く年下の彼女達の会話を眺めながら、ふと思った――あの子(フェリシア)もこんな風に、誰かと話しているのだろうか。

 

 クリスタ達を見ていると、どうしてもマーレに遺してきた娘の存在が気がかりで仕方なくなった。

 

 一度だけ考えたことがある。

 

 私の出会う人達は、いわば知っている物語の中の、いつか起こる出来事の中で名前と役割を与えられた人々だと。愛しい旦那(エレン)や娘同然のクリスタとて、例外ではない。

 

 けれど、フェリシアだけは違うんじゃないか。そりゃあ原作で描写されていないだけでエレン・クルーガーには妻と娘がいたのかもしれない。

 

 それでも私の腕の中にいたあの子を、物語の一部として片付けることはどうやってもできなかった。 

 

 この先、私は娘に会うという願いに向けて進み続ける。その道中で、巨人の力を使う時が来るかもしれない。

 

 (アギト)の力を振るう時、それは間違いなく争いの瞬間であり、少なくとも誰かは命を落とす。

 

 私に、その一線を踏み越える覚悟があるのだろうか。

 

 せめて目の前の命を救うことだけを支柱にここまで生きてきた。マーレでも、パラディ島でも、私の指針はそれ一本だった。

 その私が誰かを殺す。それも、(アギト)の巨人という化け物の力で惨たらしく。

 

 ――窓の向こうから、誰かの叫び声が風に乗って薄く流れてくる。視線を向ければ、休日返上で組手をしているエレンとミカサの姿があった。

 

 地面に転がされてはまた立ち上がるエレンと、それを淡々と受けて立つミカサ。なんとも絵になる組み合わせだ。

 

 思考が、いつの間にか冷たい方へ滑っていきそうになったのを、二人を見て強引に抑える。

 駄目だ。今だけはこんなことを考えないでおこう。私はそっと目を伏せ、湯気の立つカップに指先を温めさせた。

 

 顔を上げると、サシャがちょうど身を乗り出すところだった。

 

「クリスタって好きな人います?」

 

「えっ……えっ?なに、急に」

 

「だってさ」

 

 すかさず、ミーナが覆いかぶせるように声を被せた。

 

「卒団したら配属でばらばらになっちゃうかもしれないでしょ。聞けるうちに聞いておきたいじゃん、こういうの」

 

 その一言だけはふざけた響きの中で、妙に芯のある音を立てた。

 

 いずれ訪れるであろう別れの時はそれほど遠くない。内地に行く子もいれば、壁外に出ることになる子もいるだろう。

 

 だから、今この瞬間を大切にしたいと考えても何ら不思議じゃない。その方向性が恋愛話という辺りが年頃の少女らしくて微笑ましかった。

 

 クリスタは、ティーカップを両手で抱えるようにして俯いた。陶器の縁で口元を半分隠しているのに、耳まで赤く染まっているのが私の位置からはよく見える。

 

「いないよ……そういうの。ほんとに」

 

 と消え入りそうな声で答えるクリスタ。男女問わず人と距離を取って生きてきたこの子にとって、こういう話題は別世界の言葉なのだろう。

 

「とか言いつつ、こういう子が一番彼氏できるの早かったりするのよね〜」

 

「確かに。クリスタってちゃっかりしてますもんね。いつの間にか恋人居ても不思議じゃないです」

 

「案外、もう居たりしてね!」

 

「そんなことないってば!」

 

 ミーナとサシャは揃って、いかにも悪戯っぽい顔で頷き合っている。クリスタは耳の先まで赤くして否定した。

 

 人を好きになるとはどういう感覚なのだろう、と、いつだったかこの子が真顔で私に相談してきた夜があった。

 

 これまでの人生周囲の人間から疎外されて生きてきたクリスタには、恋愛というものはまだ現実味を持って届いていないのだろう。

 

 クリスタの視線が助けを求めるように私の方を彷徨ってきたのが分かったが、ごめんね、これは助けてあげられない。

 

「あ、そういえば」

 

 突然サシャが何かを思い立ったのか、私に目を向けてきた。

 

「ジル先生って、ご結婚されてましたよね?旦那さんのどういう所が好きだったんです?」

 

 私は盛大に茶を吹き出した。

 正確に言えば、口に含もうとしていた最中だったので吹き出すには至らず、咽せた。

 

 飛沫が散らなかったのは僥倖だったが、肺の奥に熱湯が逆流したようになって、しばらく咳が止まらない。クリスタが慌てて背中をさすってくれた。

 

 サシャが悪びれもせず「いやだって、クリスタばっかりに聞くのも悪いし。先生は経験者じゃないですか」と言ってくる。

 

 確かにこれまで具体的な思い出話までは誰にも語ったことはなかったし、誰もそこまで踏み込んでこなかった。こういう所でぶち込んでくるのが実にサシャらしい。

 

 私はその問いに答えるために、夫だった男のことを思い出さなければならない。

 軍帽を深く被って表情を隠していた、あの人。胸の奥が軋むような音を立てる。

 

 隣に座るクリスタが、せわしなく膝の上で手を組み直すのが視界の端に映った。聞いていいのかと迷いながら、それでも聞きたい――そんな両端の気持ちが小さな仕草の中で揺れているように見えた。

 

「ええと……どこから話そうかしらね」

 

 この子の前だから、口が緩むのかもしれない。そう自覚しながら私は一つ息を吐いた。

 

「最初はね、好きでも何でもなかったの」

 

「えっ」

 

 サシャが目を丸くした。

 

「私もね、結婚するまで彼のことをよく知らなかったし、彼も私のことをそんなに知らなかったと思う。お互いそういう年齢で周囲も急かしてきて、流れに乗るような形でね」

 

「そんなことってあるんですか」

 

「あるのよ。世の中、好き合って結婚する夫婦だけじゃないのよ」

 

 少なくとも私達に関して言えば、純然たる契約結婚だった。

 革命軍の同志として組まされた、形だけの夫婦。互いの薬指の指輪もただの偽装だった。

 

「でもね」

 

 カップの上で湯気が薄く揺れている。

 

「一緒に暮らしていくうちに、少しずつ分かるようになってきたの。あの人が意外と甘い食べ物が好きだったりとか、小難しい本を読むくせに世間の流行を全然追えていないとか、夜中に急に起きて煙草を吸いに外に出かけたりとか……最初はそういう観察してるだけだったのが、いつしかそれを見ないと落ち着かなくなっていってね」

 

「いつの間にか好きになったってことですか?」

 

 ミーナが小さく口を挟んだ。

 

「うん。多分そうなんだと思う。でも当時の私は、自分でもよく分からなかった。気付いたのはずっと後よ」

 

 ずっと後――気付いた時には、もう彼の命の灯火は消えかかっていた。

 

 何も間に合わなかった。けれど、最後の一年だけは、私達は確かに普通の夫婦のような時間を持てたと思う。

 

「彼のね、寡黙なところと、分かりにくい優しさみたいなのが好きだったかな。そういう人だったから、何かをしてもらった時の温度差で『ああ、優しくされたんだな』ってじわじわ気付くの。それが、なんていうか……癖になっちゃったみたい」

 

 我ながら、よく回った口だと思う。普段ならここまで素直には話さない。

 サシャ達の真っ直ぐな目のせいか、隣のクリスタの存在のせいか、それともずっと誰にも話せずにいた寂しさのせいか。

 

「お墓は開拓地に?」

 

 クリスタがぽつりと尋ねる。

 

「ううん。ウォール・マリアの方だから、もう……」

 

「あ……ごめんなさい」

 

「いいのよ。私の中に居てくれるから、それで十分」

 

 ウォール・マリアというのは嘘だ。壁の向こう側で死んだあの人に、墓なんて初めから無い。

 けれど、最後の一言だけは芝居ではなかった。私の中にあの人が今も居ることだけは真実だ。

 

「あなた達も、いつか分かると思うわ」

 

 茶を一口含んで、私はわざと悪戯っぽく嘯いてみせた。

 

「……ベルトルトもそんな感じでアニを見てるのかなぁ」

 

「こら、ミーナ。茶化さない」

 

 クリスタがようやく窘めてくれた。もう少し早くに助けが欲しかった。

 

「あ、でも先生」

 

 ミーナが、急に何かを思いついたみたいに目を輝かせた。

 

「先生が再婚なさる時は、ぜひ式に呼んでくださいね」

 

「再婚?」

 

「教官との結婚式ですよ!」

 

 私は二度目の咳き込みを起こした。

 私はカップを置いて、わざとらしく深く長い溜息をついてみせた。

 

「……ねえ、サシャ。ミーナ。あなた達、想像力が豊かなのは良いことだけれど、想像力の向け方ってものがあるでしょ」

 

「うわっ、大人の余裕の溜息だ」

 

「否定はしないんですか?」

 

「するもしないもありえないわよ。教官がそんな感情を抱くと思う?」

 

「えー。でもジル先生、休日まで教官と二人っきりで訓練してるじゃないですか。訓練兵の中では結構な噂ですよ!」

 

「訓練の付き合いに、噂の余地なんて無いでしょう」

 

 私はもう一度溜息をついて、茶に口をつけた。

 

 シャーディス教官が私の面倒を見続けてくれているのは、入団希望を申し出た時に私が口にした、ある男の名前のためだ。

 困った時はあなたを頼れとグリシャ・イェーガーに勧められた、と。そう告げた瞬間、教官の目の奥が確かに動いた。

 

 不思議な友人であり、街を救った英雄であり、そして彼には手の届かなかった女性(カルラ)を妻にした男。

 きっと教官の心には今でもグリシャの存在が刻まれている。私はその余熱で良くしてもらっているに過ぎない。

 

「冗談ですよ、冗談」

 

 ミーナが、悪びれもせずに笑った。その笑い声が、午後の光の中で妙に綺麗に響く。

 

「でも、もし良いお相手見つけたら……先生、忘れずに教えてくださいね。あ、もちろん相手が教官以外でも」

 

「はいはい」

 

 私は降参の意味で軽く両手を上げた。

 

「あなた達もね。いつか、良い人ができたらちゃんと教えてね」

 

 まだ耳の赤いクリスタが少し驚いたように瞬きをした。

 ミーナはすぐに「もちろんです」と頷いた。

 サシャは「えー、まだ私達には早くないですか?」と笑いながら、それでも「はい、約束です」と返した。

 

 約束ね、と私は念を押す。

 この子達の誰かが照れた顔で私の所にやってきて、「約束、果たしに来ましたよ!」と切り出す日が来てくれることを願って。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 刻まれた名前の溝に、午後の光が斜めに差し込み、文字の縁だけが浅く影を落としている。

 

 兵団所属の墓地の一角、私はサシャ・ブラウスと並んでとある墓標の前に立っていた。

 

 シュタイナーの記憶を辿るのは、他人の日記を盗み読むのに似ている。

 書き手の感情を文字の奥から推し量ることは出来ても、その熱までは肌に届かない。

 

 その記憶の中に色恋の話ばかり繰り返す妙に印象深い少女がいた。

 卒団したら別れるかもしれないから今のうちに好きな人を聞いておきたい、とおさげの黒髪を揺らしながら言う少女。

 

 ただ、シュタイナーがその姿を確かに大切に思っていたことだけは読み取れた。

 

 朝の兵舎食堂で104期の数人を捕まえ、何でもない口調でその名を口にした途端、テーブルの向こうの空気が変わった。トロスト区で、と教えてくれたアルミンの語尾が途切れ、サシャは月に一度ここに来ているのだとそれだけを淡々と続けた。

 

 私も一緒に行くと申し出たのは奴の記憶のせいだろう。

 

「ミーナ・カロライナ……ここに眠る、か」

 

 サシャは枯れかけた花を替え、新しい花を石の前に差し直す。慣れた手つきだった。

 

「ミーナ。先生が来てくれましたよ」

 

 先生じゃない、とは言えなかった。

 

 私には親しい友人と呼べるものはいない。それでもサシャがミーナという少女に対して抱えていた感情は私でも理解できた。

 

「先生」

 

 サシャが墓標を向いたまま言った。

 

「約束、ですからね」

 

「……何のだ」

 

「ジル先生が私達と約束したんです。ミーナと、ヒストリアと、私の三人で。お互い良い人ができたら教え合おうって」

 

 午後の光が斜めに差し込む医務室。湯気の上がる三つのティーカップ。菓子の屑。耳の先まで赤くしていたヒストリア。「もちろんです」と頷いたミーナ。「えーまだ早くないですか」と笑いながら、それでも「はい、約束です」と返したサシャ。

 

 シュタイナーの記憶の中に、確かにその場面はあった。

 

 ヒストリアはもはや気軽に会える存在ではない。シュタイナーも、戻ってこないかもしれない。ミーナは、もう約束を果たすことなど出来ない。

 

 四人で交わした約束の中で、ぽつんと残されたのはサシャだけだった。

 

「……ああ」

 

 短く、私はそう返した。

 あの約束は私が交わしたものではない。それでも、否定する気にはどうしてもなれなかった。

 

 サシャは満足したように頷くと、再び墓標の方を向いて両手を合わせた。私もそれに倣った。

 

 壁内での正しい祈り方など知らない。それでも、目の前で手を合わせている少女と同じ姿勢を取ること自体が何かの意味を持ってくれるだろうと思った。

 

 サシャは拝み終えると、目を開け、それから立ち上がって伸びをした。

 

「この後、トロスト区の市場でご飯食べていきませんか?美味しいお店、知ってますよ!」

 

 切り替えが早いな、とは口に出さなかった。

 

「明日の即位式の準備があるだろ。もう帰るぞ」

 

「えー、まだ時間あるじゃないですかー。トロスト区まで来たら必ず寄れって噂のお店なんですよ!明日の式でも出店が……」

 

 そこまで言いかけて、サシャは一度口を閉じた。

 

「……だったら明日でもいいだろ」

 

「ち、違うんですよ。今日だからこそなんです」

 

 サシャは振り返って、墓標の方を一度だけ見やった。

 

「明日は皆、新しい女王様で頭がいっぱいでしょう?今日なら、ミーナの話をしながら食べられますから」

 

 言い終えたサシャの口元がほんの一瞬だけ、ぎこちなく歪んだ。それを誤魔化すように彼女は大きく息を吸っていつもの調子で続けた。

 

「あ、もちろん先生の奢りですからね」

 

「なんでだよ。あと先生じゃないと言ってるだろ」

 

「はいはい、ジルケさん」

 

 呼び方を切り替える時の声色だけ、サシャは少し改まった音を出した。「先生」と「ジルケさん」の間に、彼女なりの境界線を引いてくれている。

 シュタイナーを置き去りにしないための線でもあり、目の前の私を遠ざけないための線でもあるのだろう。

 

 優しい少女だと素直に思った。

 

「……ま、今日くらいは奢ってやるよ」

 

「やった!ありがとうございます!」

 

 歩き出して数歩、サシャがふと何かに気付いたように振り返った。

 

「……あれ、ちょっと待ってください。よく考えたら、それ先生が稼いだお金じゃないですか?ジルケさんじゃなくて」

 

 バレていたか。思ったより目敏い。

 

 だがサシャはすぐに開き直ったように「ま、奢ってくれるならどっちでもいいですけどね」と言い、市場の方角へ軽い足取りで歩き出した。

 

 私は墓標に刻まれた名を一度だけ見下ろし、それからサシャの後を追った。踏み出した足の下で、枯れた草が短く鳴った。




世にも珍しいアルミンの戦闘描写と久しぶりのシュタイナーさんを書けて楽しかったです。

どっちの人格のオリ主が好き?(閑話の参考にします)

  • 転生ネキ(シュタイナー人格)
  • 頭復権派(クルーガー人格)
  • どっちも同じくらい
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