今話はちょっと社会問題的な内容に触れますので苦手な方はご注意を。
※「44:即位式②」までの内容を含みます。
レベリオに快晴と呼べる日は存在しない。
工業発展著しいこの街では、無数の煙突から信じられないほどの煤煙が日々空へと吐き出されている。
窓枠には常に黒い煤が積もり、風の強い日には洗濯物が一日でくすんだ。ため息混じりに、せっかく洗った白いシーツを取り込み直す光景も珍しくはない。
市民病院に勤めていた頃、呼吸器疾患を抱える患者が途切れることはなかった。細い手で胸を押さえながら肩を上下させる少年。煤と汗の混じった臭いを纏った労働者。彼らは診察を待つ列の中に、いつも当たり前のように並んでいた。
現代社会を知る私からすると、この大気汚染は明らかに異常な光景として映る。
しかし、この時代のこの世界では公害や産業衛生という概念はほとんど受け入れられていない。それどころか、そういう発想にすら至っていないのが現状だ。
ましてやこの黒煙は、あらゆる兵器の土台となる製鉄工場から吐き出されているものだ。鉄鋼業はマーレの軍事力を支える基盤であり、煙突から立ち昇る黒煙は「国力」の象徴ですらあった。
軍病院に異動し、血液検査法の確立を機に軍上層部とのつながりがある程度できた頃、私は何度かそれとなく煤煙被害について口にしてみた。だが、返ってくるのは決まり文句ばかりだった。
「工場町に咳は付き物だ」
「煙が出るほど国が豊かになるんだ」
軍病院の同僚達でさえ、手放しに私の意見に賛同することはなかった。彼らの診察室には肺が黒煤に塗れて咳き込む労働者など一人もやって来ないのだから、無理もないのかもしれない。
結局私と思いを同じくしてくれるのは、煙に苦しむ人々を現場で目の当たりにしてきたセラなど、ごく一部の者に限られていた。
とはいえ、草の根活動を起こすほどの熱量が私にあるわけでもなかった。
一医者にできることなど限られている。
そうだ。かつての日本も似たような轍を踏んだ。これは近代化に伴う成長痛のようなものなのかもしれない。
私はそう自分に言い聞かせ、半ば諦めていた。
けれど、たまの休みに外を出歩くたび、路地の奥から細い咳が聞こえてくる。乾いた、それでいて妙に芯のあるあの音を耳にするたび、胸の奥には小さな棘が残った。
半ば諦めていると嘯きながら、結局私はその音から耳を背けきれなかったらしい。
◇◇◇◇
ある日、私はマガトに呼び出された。
マガトとは中東戦線以来、懇意にさせてもらっている。何かと後ろ盾になってくれるのはありがたいが、いつか法外な見返りを求められそうで、内心ひやりとすることもしばしばだ。
心臓を高鳴らせながら執務室へ向かうと、机の向こうで紙束を整えていたマガトは私を一瞥し、煙草に火をつけながら短く告げた。
「一週間後、製鉄工場の視察がある。同行しろ」
「……はい?」
聞けば、レベリオ最大規模の鉄鋼工場(私でも名前くらいは耳にしたことがある)の視察に、同行してほしいということらしい。近年の科学技術と軍事産業の発展を支える重要拠点であり、軍部としてもその動向は逐一押さえておきたいのだという。
なんでまた私が、と思わず眉根を寄せる。
「マガトさん。私は鉄鋼業については素人もいいところでして、お役に立てるとは思いませんが……」
「貴様は事実を事実として認めることができる。それだけで、百人の御用学者より有用なのは明らかだ」
マガトは私の言葉を遮り、紫煙を細く吐き出した。
要するにお世辞が言えないということじゃないか。そう思うと、褒められている気がしなかった。
「それと、工場のオーナーが貴様の熱心なファンだそうだ。みっともない姿を見せたくないなら、そのくたびれた白衣を新調してこい」
「はぁ……経費が降りるなら」
「存外みみっちいな」
後に判明することだが、『白衣の女神』と呼ばれるようになった私にどうしても会いたいオーナーが、軍部に賄賂を渡してまでこの同行を実現させたのだった。もちろん、その時の私は夢にも思っていない。
マガトに逆らうとどうなるか、わかったものではない。特段嫌というわけでもないので、引き受けることにした。
「お受けします」
そう告げると、マガトは短く頷き、もう用は済んだとばかりに次の書類へ目を落とした。
◇◇◇◇
視察当日、私達は件の工場へ向かった。
工場はレベリオ収容区の境界線にほど近い地区にあった。
理由は単純だ。
悪魔の血が棲む場所の近くなど、まともなマーレ人は住みたがらない。となれば地価が安く、集まってくるのは貧しい者ばかり。煙による苦情も握り潰しやすく、さらに安価な労働力たるエルディア人を確保しやすい。
商売をするうえでは実に都合がいいということだ。
もっとも、いくら労働単価が安いからとはいえ、エルディア人を雇おうとする企業は少ない。マーレ人の客が離れたり、同業者から白い目で見られたり、何かとリスクが付き纏う。
それを踏まえてもなお採算が合うと判断する経営者は、よほど切羽詰まった者か、よほど商売に振り切った人間に限られる。
馬車から降りた私達を出迎えたのは、後者の方だった。
「ようこそお越しくださいました、ジル先生!」
出会って早々、ファーストネーム呼びで握手を求められる。私はなるべく柔和な笑みを崩さずに応じてみせた。
「いやはや、まさか本物の『白衣の女神』様をお招きできる日が来るとは!今日という日のために、新しい仕立てのスーツを用意したんですよ!」
仕立ての良い濃紺の三つ揃えに、油で撫でつけた髪。胸ポケットにきっちりと収まったハンカチ、磨き上げられた革靴。
第一印象は商人そのものだった。少なくとも工場長というよりは、宝石商か高級時計商の佇まいである。
名はガストンと名乗った。
「さて、工場をご案内――する前にどうしても先生にお願いしたいことがございまして」
彼が指を一つ鳴らすと、大型のカメラを抱えた男が現れた。三脚に据えられた箱型の機材は油で磨かれた木枠が鈍く光っている。傍らの助手らしき青年が慣れた手つきで蛇腹を伸ばし、布を被せて準備に取りかかった。
「先生と並んで記念に撮らせてはいただけませんか。なにぶん滅多にない機会ですので」
わざわざカメラマンを呼び寄せたらしい。私はわずかに面食らった。
この時代の写真撮影といえば、相応の準備と手間を伴う一大事である。それを私の来訪に合わせて手配するあたり、この男の俗っぽさが如実に表れていた。
私が返答する前に、ガストンは私の立ち位置まで指定していた。工場の看板前に立てとのことだ。
「ささ、先生。こちらへ。マガト大尉もお差し支えなければご一緒に」
「私はいい」
マガトは煙草を地面に落として踏み消し、関心のない顔で一歩下がった。ガストンも分かっていて言ったのだろう、特に気にする素振りを見せなかった。
助手が「動かないでください、はい、そのままで」と指示を出す。ガストンは胸ポケットのハンカチの位置をさりげなく整え、日々の生活で造られたであろう笑みを浮かべた。
マグネシウムが焚かれる白い閃光と、低い破裂音。一瞬、視界が真っ白に染まった。
残像が引いていく中、ガストンは満足そうに何度も頷いている。
「いやはや、ありがとうございます。この写真は家宝にさせてもらいます。それでは、ようやくご案内できますね。マガト大尉、先生、こちらへ」
時間をかけたのは誰のせいだ。なんて言葉は飲み込んで私たちは彼に続いた。
工場の内部に入ると、まず音が違った。
遠雷のような連続した低音。金属同士が擦れ合う高い悲鳴。蒸気の噴き出す断続的な破裂音。それらが幾重にも重なり、皮膚の表面で振動として感じ取れるほどだった。
巨大な炉。
赤く焼けた鉄。
天へ伸びる煙突。
黒い煙。
ガストンは誇らしげに腕を広げる。
「ここがマーレの未来そのものです。これからの時代、鉄こそが国家なんです」
なんだか、どこかで聞いたことのあるフレーズだった。
私は黒い煙を見上げる。
確かに近代化には重工業が欠かせないのだろう。
だが、その黒々しさは明るい未来というより、それを食い潰す怪物のように見えた。
「工場から出る煤煙への対策は何か取られていますか? 」
「ああ、それですか」
ガストンの顔から愛想笑いは消えなかった。むしろ慣れた様子で軽く首を振る。
「煙の出ない工場など無用の長物です。多少の咳で騒ぐ者は工場勤めには向きません。それにこの煙こそが、マーレを強くしているのです」
「しかしまあ、住民への影響もございますので、煤煙を減らす努力といいますか……」
「この辺りに住んでいるのなんて貧民や
ガストンは極めてあっけらかんとしていた。
「煙が出るところには金が落ちる。彼らがここを離れないのは、誰よりも彼ら自身がそれを分かっているからですよ」
エルディア人が収容区に閉じ込められていることを知りながら、彼は言う。おそらくエルディア人の処遇など眼中にも無いのだろう。
「──まあ、先生のような繊細なお方が本来いらっしゃる場所でないことは間違いありませんがね!」
といって大口を開けて大笑いした。
彼の口調に波はなかった。怒っているわけでも、侮蔑しているわけでもない。
だからこそ、その言葉の根は深い。
マーレ人の常識がこれなのだ。
その後もガストンは私達を工場内を丁寧に案内した。マガトが何か質問をすれば、得意げに答える。視察自体は順調に進み、やがて私達は応接室に戻った。
応接室で茶を出され、視察の総括めいた話に移った頃、ガストンがふと思い出したように手を打った。
「そうそう。先生にもう一人、ぜひご紹介したい者がおりまして」
言うが早いか、彼は控えていた使用人に何やら短く指示を出す。ほどなくして扉が遠慮がちにノックされ、開いた。
「お父さん、お呼びでしょうか」
「入りなさい。ジル先生にご挨拶を」
少年が小走りで駆け寄ってきた。年の頃は10歳前後だろうか。背丈は同年代の子供より少し低いくらい。父親の分身よろしく、装いの隅々まで手入れが行き届いている。
「ご紹介に与りました。お初にお目にかかります、ジル先生」
少年は丁寧に頭を下げ、しかしすぐに顔を上げて私を見た。父親の布教の甲斐もあってか、その瞳には隠しきれぬ憧れと興奮が滲んでいる。
いつぞやクサヴァーさんが息子を連れてきたことがあった。その光景をふと思い出した。
「父さんからお話は伺っていました。中東戦線で多くの兵士を救われた『白衣の女神』様だって!ぼ、僕、先生にお会いできて……」
言葉に詰まり、頬を赤くする少年に、ガストンは目を細める。
「将来はこの工場を継いでもらう予定でしてね。今のうちから現場に親しんでもらおうと思いまして」
「あら、お父さんと同じ仕事をしたいんだ」
「はい!父さんの作る鉄は、マーレで一番なんです」
淀みのない返事だった。父親への素直な敬意と、自分の進む道への迷いのなさ。10歳の少年の言葉とは思えないほど、輪郭がはっきりしている。
……いや、10歳の少年だからこそ軽々と将来への道を決め切れてしまうのか。
ガストンが、この少年の前では仕立て上げた商人の顔を僅かに緩めるのを見た。息子の頭に手を置く動作には社交辞令にはない確かな温度がある。商売の話をする時とは違う、計算抜きの愛情がそこにあった。
なるほど。この男にとって息子はおそらく唯一の例外なのだろう。
「先生、よろしければ僕に工場のことを――」
少年が言葉の途中で軽く咳き込んだ。
「おいおい。先生の前なのに」
ガストンは苦笑し、少年の背を軽く撫でる。
「この子は昔から少し体が弱くて。すみません、先生。お見苦しいところを」
少年自身も、少し決まり悪そうに笑った。
だが、私は笑えなかった。
彼の出す音には、聞き覚えがあった。
咳の後の呼吸。喉の奥で一瞬だけ鳴る、笛のような細い音。息を吸う時のわずかな引っかかり。
それは市民病院に訪れる呼吸器疾患の患者のそれと同じだった。
「ガストンさん」
私は静かに呼びかけた。声の温度を意識的に落とす。
「視察を少し中断させてもらえますか?」
「はて?先生、ご気分でも優れないのですかね?」
「息子さんが呼吸器に疾患を患っている可能性があります。今、確認させていただきたい」
彼の表情から愛想笑いが薄れていった。
「お言葉ですが、ただの咳ですよ」
「これは普通の咳ではありません。以前勤めていた医院でも、同様の症状に罹っている患者を大勢診てきました」
「……」
ガストンの目に、初めて咎めるような色が混じった。
この製鉄工場はマーレ軍との関係が深い。下手なことが発覚し、軍部から不評を買えば、今後の経営に支障が出かねない。
ましてや、自分の跡取り息子を軍の高官の前で病人扱いされている。さらに工場の煙が原因ということにされてしまえば、懇意にしている軍との関係性にも変化が生じ得る。
私の提案は、彼の合理計算と父親としての矜持の両方を同時に逆撫でしたのだ。
「先生に医学的知識がおありなのは存じております。しかし、息子のことは私が一番分かっている。この子はただ少し体が弱いだけで──」
「ガストンさん」
マガトの声は低かった。
「従ってくれませんか」
ガストンが反論しかけた口を、マガトは目だけで制した。
「この女がそこまで断言するんです。それとも御子息の身体で嘘かどうか試しますか?」
「……いえ、そういうつもりは」
「御子息の件は軍の評定に含めませんので」
権威を傘にする一方で、落とし所も用意する。マガトのこういったバランス感覚は、彼にしかなせない業なのかもしれない。
「……マガト大尉がそこまでおっしゃるのなら」
ガストンは絞り出すようにそう言った。
処置は工場の医務室で行った。簡単な診察をするだけでも、この少年が呼吸器疾患を抱えていることは明らかだった。重症化しなかったのはひとえに偶然だろう。
「しばらく入院しましょう」
そう提案しても、なかなか首を縦に振ろうとしないガストンさんに、私は諭す様に言った。
「体面と病、どちらを残したいですか。選んでください」
短く返した私に彼は唇を震わせ、結局何も言えず、やがて黙って頷いた。
遠くで工場の音が鳴り続けていた。
それは彼の人生の伴奏のような音なのだろう。彼に富と誇りをもたらす音であり、なにより彼の家族を養う音だ。
そして今、彼の息子の身体を蝕む音でもあった。
軽い応急処置を終えて廊下に出ると、ガストンは私の前に立ち、一言だけ言った。
「ありがとうございました」
商人としての顔を一瞬だけ脱ぎ捨て、彼はただの父親としてそう言った。
◇◇◇◇
帰路、馬車の中でマガトは窓を細く開け、流れていく灰色の街並みを見るともなく眺めていた。
「本筋から少々外れたが、これで視察は終わりだ。どうだった」
「……マガトさん」
私は意を決して切り出した。
「工場周辺の環境改善をすべきです。ここに限らず、マーレ中で」
マガトは煙草を口から離し、軽く眉を上げる。
「あの少年だけの問題ではありません。工場周辺には同じような兆候を抱えた住民が大勢います。子供も、労働者も、収容区の住人も。何もしなければ、確実に人を蝕んでいます」
「軍は炉を止めん」
マガトは即答した。
「鉄が止まれば兵器が止まる。兵器が止まれば国が止まる」
「鉄を作る民が、鉄に殺される……なかなか皮肉が効いてますね」
マガトは再び煙草を口に咥え、しばらく黙って窓の外を見る。そして、ぽつりと言った。
「ともあれ、今回の視察は上に報告せねばならん。貴様に任せるが、良いな」
「……報告書の体裁を取れば好き勝手意見を述べていい。そう理解しました」
「くだらん言質を取るな」
ぴしゃりと返されたが、マガトは私の言葉を否定しなかった。
馬車の窓の外、工業区の煙突から相変わらず黒煙が立ち昇っている。それは確かにマーレの国力の象徴だった。同時に、見上げるたびに胸の奥に棘を残す、私の長年の敵でもあった。
それから私は、現代の知識をもとに同僚の医師達からも意見を聞きながら、報告書を書いた。
内容はあくまで、この時代でも理解できる形にする。
いつぞやエルディア人病棟の改善を訴えた時と同じ要領だ。理想を語っても、絵に描いた餅だと一蹴されて終わるだけ。
だから現在実現可能な範囲に絞って、上層部の理性に訴えた。
出来上がった報告書はマガトに提出した。彼はそれを読み、短く言った。
「読み物としてはまずまずだ。が、上に通るかは知らんぞ」
最初はほんの少しだけ期待を抱いていた。
もしかしたら、あの時の奇跡がまた起こるかもしれないと。『白衣の女神』という御大層な看板を背負うに至った時のように、私の言葉が世界に届くのではないかと。
しかし、私は少し自惚れていたようだった。
その報告書は、軍病院の一部の同僚から少し評価されるだけで、上層部からは何の反応もなかった。たかが製鉄工場の視察報告にしては異常に分厚い紙束が、軍上層部のどこかの引き出しの奥で徐々に黄ばんでいく光景が容易に想像できた。
ちなみにガストンの息子は軍病院の病室で預かることになった。報告書を提出してしばらく経った頃、退院の日が訪れた。迎えに来た父親の背後には、いつぞやのカメラマンが控えていた。
「先生!ぜひ、退院の記念に一枚!」
弾むような声を上げたのは息子の方だった。父親譲りらしい。ガストンも当然のように相好を崩し、「いやはや先生、本当にお世話になりましたので、是非に」と便乗してくる。
(……この親子、本当に写真が好きね)
私は内心でひっそりとため息をついた。
断る理由もなかったので、私は再び二人と並び、白衣の襟を整えた。今度はマグネシウムの閃光にも少しは慣れていた。
別れ際、少年が私の白衣の裾を握って離さなかったのは、妙に記憶に残っている。
ガストンも息子の件があったため、工場内の換気改善とある程度の労働環境の改善だけは受け入れたらしい。
だが、それだけだった。
レベリオの空は、相変わらず灰色のまま。
収容区の子供達は咳をし、労働者達は黒い煤にまみれて働き続ける。
結局、世界は変わらなかった。
目の前の一人を助けた後、その一人だけで終わらせないために。いつか人類が学ぶであろうことを、ほんの少しでも早めるために。
(……まあ所詮私にできることなんて限られてるか)
それでも私は、報告書の控えを一部だけ手元に残した。
いつか誰かが読むかもしれない。そんな期待をしたわけではない。
ただ、なかったことにだけはしたくなかった。
◇◇◇◇
パラディ島の沿岸に停泊する船の上、ピーク・フィンガーは大広間の片隅に陣取っていた。
舷窓の外には黒い海と、その向こうに横たわる悪魔の島の輪郭がある。船体は静かで、波が舷側を撫でる鈍い反復音だけが規則正しく聞こえてくる。
次の作戦命令が下るまでの小休止だった。
戦士達が傷を癒し、英気を養うための束の間の時間。しかし、ピークは休むつもりはなかった。
油の染みた木製のテーブルの上、煤けた壁面のランプが光量を落としている。
その光の下で、彼女はボロボロの本を開いた。この本を手に取るのは数年ぶりだった。
即位式で見たジルケ・クルーガーを調べるためピークは彼女に関する記録を漁っていた。その最中、昔読んだ本を思い出したのだ。
諸外国で刊行された産業衛生に関する古い専門書の一冊で、その中に『レベリオ工業区周辺における煤煙被害について』という報告書が掲載されていた。
著者の欄にはジルケ・クルーガーの名が確かに刻まれていた。
当時のピークは、その名前に特別な意味を見出していたわけではない。
この本を最初に読んだのは、まだ戦士候補生だった頃だ。病に伏した父を助けるため、手当たり次第に医学書や衛生学の本を読み漁っていた時に見つけたものだった。
といっても、当時は意味内容を正確に理解できていたとは言い難い。父を助けたいという一心で、とりあえず何か行動しなければ落ち着かなかったのだ。
それを数年ぶりに広げている。当時は読み飛ばしていた注釈や図表の意味も今なら分かる。
文章は淡々としていた。煽動的な響きはどこにもなく、データの羅列と、それに付随する所見が控え目に添えられているだけだ。
だが読み進めるほどに、ピークは背筋にじわりと冷たいものが這うのを感じた。
(改めて読むと……驚きね。これを何十年も前に書いたなんて)
大気汚染なる言葉が世に出てまだそう時は経っていない。今ですら馴染みのない者も多い。
しかしこの報告書が書かれた時代――今から二十数年前は、こうした発想を持つ者自体がほとんどいなかったはずだ。
ピークは小さく息を吐いた。
(私達の時代にようやく注目されていたことを、これほど昔に気付いたとは)
紙の上の文字は静かだ。だがその奥にいる女の輪郭が鮮明に立ち上がってくる。
ピークの記憶する限りでは、レベリオの空はいつも青かった。
兵舎の窓から見える煙突の煙は灰色というよりは白に近く、洗濯物が干せない日というのは滅多になかった。
だからこの報告書の重みを、正直なところピークは受け止められていなかった。
しかし父の時代は別だった。
父が若い頃のレベリオ収容区は、まるで別の街だったという。
窓を開ければ煤の匂いが家中に充満し、酷い時は白いシャツの襟が半日で黒くなる。父自身も若い頃から呼吸器に持病を抱えていたが、それが珍しいことだとは思わなかったと父は語っていた。
ピークの父も、報告書の中に出てくる工場主の息子も、結局は同じ煙を吸っていた被害者の一人だったのだろう。
ピークが『車力の巨人』を継承し、名誉マーレ人としての栄誉がフィンガー家にもたらされた時、父は最新の治療を受けることができた。
最高峰の医師、貴重な薬剤、療養施設での長期静養。桁外れの費用がかかる治療のすべてが無償で父に提供された。
おかげで父の余命は延び、ピークが立派に成長するところを見届けることができた。
父は手厚い治療を施したマーレに深く感謝していた。
(でも――考えてみると、滑稽極まりないわね)
ピークは小さく自嘲する。
父の肺を蝕んだのはマーレの煙であり、その肺を治してくれたのもマーレの医療だった。
病を作り、病を治す。同じ国が、同じ手で。
それは慈悲でも何でもない。ただのマッチポンプだ。
ピークは紙の上の文字を、もう一度なぞる。
ジルケ・クルーガーが表舞台から姿を消す前後、徐々に諸外国で大気汚染による弊害が唱えられるようになった。
最初は大陸中央の小国から、次に東方諸国から、そしてついにマーレ本国でも。
対策が取られるようになる頃には、各国の研究者がこの報告書を引き合いに出した。彼女の存在を公的に抹消したいマーレでさえ、著者の名を伏せたり、別の研究者の名前を附記したりしながら、文中の図表や対策案の枠組みをほとんどそのまま流用する始末だった。
ジルケ・クルーガーがこの報告書を書いた時、父は既に成人に近い年齢だっただろう。
レベリオの裏路地で、咳をしながら働き始めた頃の父。もしこの紙の中の対策が当時の上層部に届いていたら、父の肺はもう少し綺麗だったかもしれない。
何を考えて彼女が筆を執り、紙に残す決断をしたのかまでは読み取れない。でも、そこに悪意がないのは確かだった。
ジルケ・クルーガーを調べれば調べるほど、彼女の人物像はぼやけていった。
当時はおろか、おそらく現代のマーレの誰よりも先進的な視点を持ちながら、エルディア復権を志し、現在進行形で世界に混乱をもたらす存在。
『白衣の女神』と呼ばれた裏で反マーレ勢力の幹部として暗躍し、悪魔の島へ渡って
(あなたは一体、何者なの)
彼女の存在は、ピークの中で常に矛盾を孕んでいた。
「休みなのに読書?勉強熱心だね」
ピークが軽く首を回し、固まった肩をほぐした、まさにその時。頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、ジーク・イェーガーが珈琲のカップを二つ持っていた。片方を当然のように彼女の前に置き、自分は向かいの椅子を引いて腰を下ろす。
即位式から船に乗り込むまでの間に受けた傷はすでに大半が治癒しているが、あの爆発を至近で受けた男とは思えないほど涼しい顔をしていた。
「愛しい愛しいジルケ・クルーガーの著書ですよ。読みます?」
「パス。めんどくさい」
「ああ、暗記するくらい読み込んだんでしたっけ」
「……悪かったって。敵地のど真ん中から助けてくれてさ、本当に感謝してるよ。でも、連中が爆弾片手に特攻してくるなんて普通想像できないだろ?」
ジークは珈琲を一口啜り、軽く目を細める。
「そもそも何回も言ってるでしょ。俺は別に反マーレ組織と関わりを持ってないし、エルディア復権に共鳴してるわけでもないって。ジルケ・クルーガーにもなーんの感情も持ってないってば。事前の打ち合わせでも説明したじゃん」
「上手い嘘のつき方を知ってますか?時折真実を混ぜて話すんですよ」
「全然信じてくれない……ひでぇ部下を持ったもんだ」
「日頃の行いですね」
ピークは珈琲が少し冷めるのを待ってから口につけた。妙に美味しいのが癪だ。
敵地での失態を軽口で済まそうとする男が淹れたものだと思うと、なおさら腹立たしかった。
「もっとマシな嘘をつきましょうよ。クルーガーを見つけた時、泣いてたじゃないですか。あれも嘘だと?巨人の涙腺は台本で動くんですか?」
「俺のは動くんだよ」
ジークはあっさりと言ってのけた。
「第一、マガト隊長も許してくれたんだしさぁ、これ以上蒸し返さなくていいだろ」
思えば、マガトの様子もいつもと異なっているようにピークは思えた。
始祖の巨人と王家の血筋の確保というマーレ軍にとっての悲願。ジークはその成就の目前まで迫っていた。
エレン・イェーガーはジークが操る巨人に拘束され、女王ヒストリア・レイスも獣の掌中にあった。あの場で余計な駆け引きなどせず、二人を連れ去ることだけに徹していれば作戦は成功していたかもしれない。
だがジークは、ジルケ・クルーガーにこだわった。
彼女を引き入れることに言葉を重ね、時間を費やした。そのわずかな停滞がヒストリア奪還の隙を生み、エレン・イェーガーを敵の手に残すこととなった。
あれは紛れもない失態だった。獣を次の候補生に没収されてもおかしくない。
しかしマガトはジークに対して叱責以上のことを加えなかった。最低限の体裁を保つための説教だけで、実質的な処分は一切下されなかった。
(戦士長の存在が、ジルケ・クルーガーの確保に役立つと踏んでいるから……?)
特に根拠のある推測ではなかったが、ともあれマーレ軍上層とマガト隊長は彼女の奪還に異様なまでに熱心だ。
目の前で確実な死を見届けたいのだろうか。
そこまで考え、思考を打ち切った。
上層部の判断の意図を深読みしすぎるのは得策ではない。上が決めたならそれでいいし、深入りして収容区の家族に危険を及ぼす愚を犯すわけにもいかない。
ピークはそういう割り切りが上手だった。
「ま、戦士長がエルディア復権派でも全然不思議じゃありませんけどね」
「おいおいおい。俺は親を売って祖国マーレに忠誠を示したんだぞ?信用できないのってのか?」
「親を捨てる人間を信用しろって方が無理あると思いますけど」
「確かに」
ジークは小さく笑った。怒った様子は微塵もない
しかし、これ以上は危険だとピークは直感的に悟った。
ジルケ・クルーガーの話になった時から、ジークの目の奥にわずかな光も差さない場所が生まれていた。「親を売る」という言葉が出て、その闇はさらに濃く、深くなった。
その深淵を覗き込もうとした者がどうなるか――ピークには何となくだが、想像がついた。
口を噤み、珈琲のカップを両手で包む。ジークは窓の外、夜の海の方へ目をやっていた。黒い波の表面が、船のランプを反射して鈍く光っていた。
ジークは何も言わない。ピークも何も言わない。
しばらくして、ジークは「じゃ」とだけ言って立ち上がり、片手を上げて去っていった。
一人になったピークは、もう一度本を開いた。文字は変わらず淡々としている。
即位式で目撃したジルケ・クルーガーは、まさしく嵐を具現化したような覇気があった。獣の巨人相手に、一切怯むことなく豪胆に話したあの態度。あれが彼女の現在の姿だ。
しかし、紙の上の文字は別の存在を告げているように思えた。
ライナーみたく彼女の心は二つに分裂してしまっているというジークの読みは当たっているのだろう。一言二言交わしただけでそう判断してしまえるなんて、気味が悪いとしか言えなかった。
(……ジークにとって、ジルケ・クルーガーは親以上の存在なんでしょうね。やはり、危険な人だ)
とはいえマガトに相談するつもりなんてないし、ジークと敵対するつもりも毛頭ない。自分や家族に火の粉が降ってこなければそれでいいのだ。
夜も更けて眠気を帯びてきたところで、ピークはそっと船窓に映る自分を見つめた。
結局ジルケ・クルーガーが何者なのかは依然としてよくわかっていない。
でもまあ。とピークは思う。故郷の青い空と、収容区の空気を守ってくれたことだけは彼女に感謝しよう。
父が門出を見届けてくれた日もレベリオの空は澄んでいたのだから。
マーレの戦士として、彼女を殺すことになろうとも。あるいは、彼女の手で自分が殺されることになるとしても。
(それでも、これだけは)
ピークは上官の淹れた珈琲を啜り、古びた本を静かに閉じた。
原作でピークは「たった一人の家族である父にまともな医療を受けさせるために戦士になった」と言っていたので、マーレの世相も踏まえてそのあたりのエピソードを書きたいなと思っていました。その結果、無駄に社会派っぽい雰囲気が出ましたが、特に深い意図はありません。
次話から本編に戻ります。
どっちの人格のオリ主が好き?(閑話の参考にします)
-
転生ネキ(シュタイナー人格)
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頭復権派(クルーガー人格)
-
どっちも同じくらい