エレンの妻です   作:ホワイト3

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本編です。


45:奪還作戦の夜

 獣がもたらした被害は目を逸らしたくなるほど甚大だった。

 ケニーが命と引き換えに連中を退けたとはいえ、獣に生み出された巨人達は手当たり次第に喰らい続け、兵団が刈り尽くすまでに無視できない数の人間が腹に収められた。

 

 本来であれば全員を拘束し、後日マーレの戦士を喰わせて人間に戻してやりたいところだった。だがそこにいる巨人達は、通常の無垢の巨人とは比較にならぬほど運動性能が高く、討伐以外の選択肢は事実上存在しなかった。

 

 同胞を、それもついさっきまで人間だった彼らを殺すことに対して、兵士達が負った精神的負荷は計り知れない。

 

 だが、最も心に傷をつけたのは間違いなくエレンだろう――暴走するハンネス巨人に止めを刺したのは、彼だったのだから。

 

 あの時エレンは、叫んでいた。

 

 言葉になっていたのかどうかは分からない。巨人の喉から漏れる音は怒号にも、泣き声にも聞こえた。ただ一つ確かなのは彼がハンネス巨人を押し倒し、そのうなじへ拳を叩き込むまで、誰も止めることができなかったということだ。

 

 討伐後、人間に戻ったエレンは血と蒸気の中でしばらく立ち尽くしていた。

 

 ミカサが名前を呼んでも、アルミンが肩に触れても彼は動かなかった。ただ、自分の手を見下ろしていた。巨人の体ではなく、人間に戻った己の手を。

 

 その手で何を殺したのか、彼自身が一番よく分かっていたのだろう。

 

 即位式から数日。

 

 ひとまず敵勢力が再度押し寄せてくることはなく、つかの間の平穏が壁内を覆っていた。しかし市民の心中は穏やかさとは程遠かっただろう。

 

 彼らも理解したのだ。壁外の敵が、自分達を滅ぼすためにやって来るということを。

 

 そんな中、本日兵団内で会議が開かれた。獣襲来の調査報告と、それを踏まえた今後の方針を検討するためだ。

 

 女王の面前だというのに三兵団の幹部達は、連日の対応に追われて一様に疲れた顔をしていた。

 

「調査の結果、巨人化した人々にはとある共通点が見られました」

 

 書類を片手にハンジが立ち上がる。普段の調子のいい弾みは抑えられ、声は低く張られていた。

 

「皆、巨人化前に赤黒い酒……ジルケ曰く、ワインと呼ばれる果実酒を摂取していたことが判明しました。身元不明の駐屯兵がそれを配っていたという目撃情報が複数あり、その中には獣の本体と思しき金髪髭面の男もいたことから、おそらく奴は兵士に化けて我々の中に潜り込み、祝杯と称してワインを配って――」

 

「駐屯兵団は何をやっているのだ!」

 

 ハンジの言葉を遮るように、憲兵団の幹部が机を叩いて立ち上がった。

 

「得体の知れぬ兵士に気付かぬばかりか、見たこともない酒を嬉々として飲むだと?考えられん!」

 

「ほう?」

 

 軍服の襟元を緩めたピクシスが、酒杯でも傾けるような調子で口を挟んだ。

 

「アニ・レオンハートを招き入れた兵団はどこじゃったかのう?」

 

「ぐっ……だが、それを言えば調査兵団だって……!」

 

「不毛な議論に時間を費やそうとするでない。問題の本質はそこではあるまい。じゃろう、クルーガー君?」

 

 ピクシスは軽くいなして、私に視線を送った。

 

「司令の仰る通りです。おそらくワインの中身には獣の本体の脊髄液が混入していたのでしょう。獣が叫ぶことで脊髄液を摂取した人間は巨人化する、そういうカラクリです。私も獣の巨人にそのような特性があるなど聞いたことがありません」

 

 獣と問答を経たことで、いくらか信頼を勝ち得たのか、兵団幹部から向けられる視線の鋭さは以前より幾分か減っているように感じる。

 

 利用価値が猜疑心を上回ったと表現する方が正確かもしれないが。

 

「問題はワインだけに気を付ければよい、という単純な話でないことでしょう……ラガコ村の損壊状況から見て獣の巨人は村民を一斉に巨人化させましたが、老若男女が酒を口にしたとは考えにくい」

 

「ど、どういう意味だ!?」

 

「……簡単な話です。敵が水源に脊髄液を混入させてしまえば、我々はなす術もありません。獣が一声叫ぶだけで終わりです」

 

 会議室にどよめきが走った。一部の者は青ざめた顔で目の前の水差しに視線を落とし、生唾を飲み込んだ。

 

 今この瞬間、自分達が口にしているものが安全である保証など何処にもない――その事実を全員が同時に理解した顔だった。

 

 もっとも脊髄液なんて簡単に水で希釈されてしまうから、そう単純な話ではないだろう。

 

 しかし理論上は可能だ。

 

 それに即位式の襲来時には使わなかっただけで、マーレ軍が既にガス兵器を発明していても全く不思議ではない。悪夢などいくらでも描けた。

 

 恐怖で人を動かす。ケニーはそれを「陰気でつまらねぇ」と切り捨てたが、私は今回もそれに縋るしかなかった。

 

(結局私にはこれしか能がないのかもな)

 

 そう自嘲するが、脅威は脅威として正しく恐怖されるべきだと思い直し、頭を切り替えた。

 

「マーレは手段を選びません」

 

 間を置いてエルヴィンが告げた。低く、確信に染まった声だった。

 

「今回の襲撃で明らかになったように、敵は『始祖の巨人』を奪うためなら、これだけのことをやってのける。獣を退けられたのは、奴の油断以外の何者でもありません」

 

「まあの。あんな奇跡はそうそう続くまいて」

 

 ピクシスが肩をすくめて同調する。

 

「敵も馬鹿ではありません。次は容赦しないでしょう。極論、奴らの内の誰かが『始祖』を継承してしまえば、それで全ての問題が解決するのですから」

 

 一人の人間に幾つも巨人を継承させるなど通常は愚策だが、『始祖』ともなれば話は別だ。マーレも嬉々としてその愚策を取るだろう。

 

「敵を退け、依然風前の灯火である我々の生存権を恒久的に確保する方法はほんのわずか。それが――」

 

 エルヴィンは言葉を切った。だが、誰も先を言わなかった。

 言わずとも、その単語は会議に出た全員の脳裏を等しく駆け抜けていたからだ。

 

『地鳴らし』

 

 壁の中で眠り続ける超大型巨人達を起こし、世界を蹂躙する力。全人類を踏み砕く前代未聞の大虐殺だ。

 

 この場の誰一人としてその名を口にしない事実が、何よりも雄弁にそれが選ばれざる切り札であることを物語っていた。

 

「そして先程ご報告した通り、『始祖』を縛る『不戦の契り』を破る方法がエレン・イェーガーの生家、シガンシナ区の地下室に眠っているかもしれません」

 

「し、しかし……」

 

 憲兵団の幹部が、ようやく押し出すように声を絞った。

 

「グリシャ・イェーガーがその記録を残した確証はないのではないか……」

 

「エレン・イェーガーや、そこの女の記憶が蘇るのを待つという方法もあるはずだ」

 

 駐屯兵団からも保守的な声が上がる。

 

 ごもっともな反論ではある。記憶がいつ蘇るか分からないものの、不確実なシガンシナ行きより、壁内で態勢を整える方が安全だ。

 

 だが、その合理は前提を一つ忘れている。

 

「お言葉ですが」

 

 私は机の縁を指先で軽く叩いた。

 

「皆さんが想像している以上に、壁の外と内で文明に開きがあります。私の知る当時ですら、壁外では空を飛ぶ乗り物が存在していました。それが軍事的に転用されていれば、敵は空から来ても不思議ではない」

 

 続けて私は外の世界の技術(ガス兵器の構想含め)を紹介した。その度に兵団の連中の顔が一段青くなる。

 

「私の知識は何十年も前で止まっていますが、技術というものは年月の分だけ着実に進歩します。今この瞬間にマーレ軍がどこまで進んでいるか、私には見当もつきません」

 

 会議室が静まり返った。皆、自分の頭の中の最悪のシナリオを更新している顔だった。

 

「つまり敵に時間を与えるほど、我々は不利になる」

 

 エルヴィンが集約するように私の後に続いた。

 

「記憶を待つ方法は否定しません。だが、それは敵の戦力が増強されないという前提の戦略です。猶予を与えれば、奴らは『九つの巨人』のみならず大編隊を組んで侵攻し、壁内を地獄に変えるでしょう。なにより侵略に一切の躊躇がない」

 

 反論する者はいなかった。

 保守派の幹部達の口元が何かを言いかけて閉じる。一度議論の俎上に乗せてしまった「待つ」という選択肢は、エルヴィンの一手で払い落とされた。

 

「時間はありません」

 

 エルヴィンは立ち上がっていた。

 

「我々は、敵が態勢を整える前に動かなければならない。全戦力をもって、残された唯一の希望――シガンシナ区の地下室に眠る『地鳴らし』発動の術を探りに行かねばなりません」

 

 それはウォール・マリアの奪還、ひいては壁内人類の悲願を意味していた。

 だというのに、エルヴィンの言葉を拍手で迎え入れた者は一人も居なかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 即位式から一ヶ月。

 

 調査兵団内では、ウォール・マリア奪還に向けて急ピッチで準備が進められていた。

 

 エレンの巨人化実験は順調そのものだった。先日は、ようやく自分の身の丈以上の洞窟を硬質化で覆えるようになり、シガンシナ区の壁の穴を塞ぐ目処が立ったとして、ハンジが小躍りしていた。

 

 もっとも、エレンを動かしているのは前向きな熱意ばかりではないことは明らかだった。

 

 手も足も出なかった自分への嫌悪、そしてマーレ――とりわけ獣の巨人への灼け付くような敵意。その熱量で己を燃やさんばかりに前へ進んでいた。

 実験中、エレンはしばしば限界を越えて身体を酷使し、鼻血を出していた。後ろ暗い感情に突き動かされた献身は、見ていて気持ちのいいものではなかった。

 

 だが、エレンの努力は無駄ではなかった。

 彼の硬質化能力によって、壁内人類は新しい対巨人兵器を手にしたのだ。

 

 ハンジ発案のそれは、自動式の巨人伐採装置――簡単に言えば、設置すれば周辺の巨人を効率的に屠ってくれる代物だ。

 資源と人命を消費せずに巨人を駆逐できる兵器が出来上がりつつあるという噂は、噂のうちから兵団内に希望をもたらし、奪還作戦への期待は、市民の側からも積み上がりつつあった。

 

 私達の巨人化実験もそこそこ順調と言えるだろう。特に鎧の性質を継承できたのは幸運だった。

 エレンの脊髄液を摂取して、鎧の性質を間接的に発現できないかと試みた結果、不完全ながらも全身の硬質化が可能となった。他の巨人の特徴を発現しやすい性質が幸いした。

 

 といっても、燃費は致命的に悪い。一度の硬質化で大量の物質を生み出せば、その日は碌に巨人化もできない有様で、戦略的に組み込めるものではなかった。やはり間接的な継承では限界があった。

 

 シガンシナの壁の穴を塞ぐスペアとしてなら、辛うじて使い物になる――そのくらいの位置付けだろう。

 

 私達の動きに呼応するように、市民達も兵団への期待を高めていった。

 

 情報が下りてきていない市民達の間にも、このまま手をこまねいていれば滅ぼされるのは自分達なのだという空気が誰に教わるでもなく醸成されていた。領土奪還と壁外勢力への抵抗を掲げる兵団へ向けられる支持は、日を追って強くなっている。

 

 そうして、準備に追われる日々はあっという間に過ぎていき、奪還作戦決行の最終確認のため、調査兵団の幹部級が団長室に集められた。

 

 各団員からの報告が順に上がっていく。

 

 ナナバとゲルガーの両班によって、シガンシナ区への夜間順路の開拓がほぼ完了した。これは、レイス領地下礼拝堂で発見された発光する鉱石のおかげだった。夜間の進軍を可能にする光源の確保は、巨人の活動が鈍る夜の活動に打ってつけだった。

 

 対巨人兵器――雷槍と名付けられた新装備の訓練も、概ね目処が立ったとハンジは早口でまくし立てた。ケニーが押収していた爆弾を応用したものだ。巨人の硬質化能力を貫く威力なのは、既に獣相手に実証済みだ。

 

 そして最後に巨人化実験の内容を報告した。といっても逐次報告していたから、特段話すことなんて残っていないが。

 

「エルヴィン、調子はどうだ?」

 

「悪くないな。君の方こそどうだ?」

 

「私もまあまあかな。後は末端の団員への説明をどうするか……か」

 

「……いや、やめておこう。疑いたくはないが、新しく入ってきた彼らがマーレの手先でないとは断言できない。この作戦を無事に終えれば、伝えよう」

 

 彼ら、とは中途で調査兵に入ってきた者たちのことだろう。領土奪還とマーレの脅威にあてられた世間の熱に押されて、少なくない者が他兵団から移ってきた。

 

「104期の連中にも教えないつもりか?連中がその可能性は相当低いぞ」

 

「ああ」

 

「……アイツらが後で何と言ってくるか考えたくもないが、まあ了解した」

 

 エルヴィンが話すべきでないと判断したのだから、それに従おう。我ながら大人しくなったものというべきか。

 

 一通りの報告が終わると、ハンジが手元の資料を閉じ、わずかに声を落とした。

 

「エルヴィン。最後に一つだけ、確認しておきたいことがある。エレンを……『始祖』を、本当に連れていくのかい?」

 

「もちろんだ」

 

「……シガンシナ区にはライナー達が潜んでいるかもしれない。連中の狙いは最初から『始祖』だ。わざわざ敵の待つ場所に、こちらから運んでいくことになる」

 

 ハンジの口調は糾弾ではなく純粋な懸念だった。幹部の何人かも同調するように頷いた。

 

 エレンが奪われれば、あるいは死ねば、壁内人類に逆転の目はなくなる。ひいては樹立したばかりのエルディアは無残にも消え失せてしまうだろう。

 

 我々の積み上げてきた全てが、たった一人の少年の生死に集約されているのが現状だった。

 

 エルヴィンは組んだ手の上に視線を落としたまま、ゆっくりと口を開いた。

 

「二つ理由がある。まずエレン自身が、絶対について行こうとするだろう」

 

「説得しろ。お前の仕事だろうが」

 

「無理だ。あの目を見たろう」

 

 リヴァイの発言を真っ向からエルヴィンは否定する。

 

「以前お前も言っていた通り、エレンの意思を服従させることは誰にもできない。鎖につないで大人しくしていると思うか?」

 

「……壁内人類の切り札をここで失うわけにもいかねぇだろ」

 

「切り札も使いようだ。これが二つ目の理由だが――今この瞬間こそが、我々の戦力の頂点だからだ」

 

 ハンジが肩をすくめながら口を挟む。

 

「まあ確かにこれ以上大幅な増強なんてできっこないけどさ」

 

「そうだ。人員も、兵器も、巨人の力も壁内で集められるものは全て揃えた。ならば出し惜しみは緩慢な死だ」

 

 全戦力を一度の作戦に注ぎ込む。エレンという最大の切り札すらも、賭け金の上に乗せる。それが調査兵団団長エルヴィン・スミスという男だった。

 

 彼はもう一度全員を見渡してから、低く告げた。

 

「本日で準備が整った。ウォール・マリア奪還作戦は、二日後に決行する」

 

 皆が重々しく頷き、会議が散会する。

 

 ハンジ達は景気づけに若い兵士達にも肉を食わせてやろうかと話しながら、ぞろぞろと団長室を出ていく。私も席を立ちかけた時、短い視線が飛んできた。

 

 リヴァイだ。眼力だけで私の腰を椅子に縫いつけるような重みだった。

 

 私は短く息を吐き、再び椅子に腰を下ろした。団長室にはエルヴィン、リヴァイ、私だけが残った。

 

「気の早い話だが……ウォール・マリアを奪還し、お目当ての情報が地下室にあったとしよう。その後はどうする、エルヴィン?」

 

「以前司令やジルケと話したが、いずれ壁内に来るであろうマーレ軍を限定的な『地鳴らし』の運用によって壊滅する必要があるだろう。その後はマーレ含む世界各国と接触して和平交渉を進めつつ、エルディア国の国力増強を図り――」

 

「『地鳴らし』の脅威を盾に、か?」

 

「……ああ」

 

 リヴァイは吐き捨てるように言った。

 

「俺達が夢見た世界がこれか。アイツらやお前が捧げた心臓は人類に自由をもたらす為じゃなかったのか?」

 

「らしくないな。いくら嘆こうが現実が変わらないことくらい、お前ならよく知っているはずだ」

 

「……そうするしかねぇのは承知済みだ。その上で聞くぞ、エルヴィン」

 

「なんだ?」

 

「悔いは、ないのか」

 

 不器用な言い回しだったが、私とエルヴィンはすぐに意図を察した。

 

「ないな」

 

 真っ向から否定する。迷いのない声だった。

 

「長い間、俺も自分の夢に縛られて生きてきた……だが、ようやく自由になれた気がする」

 

「悪魔になることが、お前の自由意思の結果だとでも言いてぇのか?そこのクソ隈女に唆されたわけじゃねぇだろうな?」

 

「――そうだな。ある意味、唆されたのかもしれない」

 

「……あ?」

 

「だが、悔いはない」

 

 リヴァイは何も言わなかった。ただ、その横顔のどこかに、苦いものが滲んでいた。

 長年隣に立ってきた男が「悪魔になる」と決めたのだ。胸の内で何かが軋まないはずがない。

 

 しばらく経ってリヴァイが壁から背を離した。

 

「……エルヴィン。お前の判断を信じよう」

 

 それだけ言って、彼は先に部屋を出ていった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 奪還作戦の前夜は、思いがけない肉の匂いから始まった。

 

 食堂の長卓に並べられた皿の上で、厚切りの肉が湯気を立てている。普段の硬いパンと薄いスープの食事を見慣れた目には、信じがたい光景のようだった。聞けば景気づけとして二ヶ月分の食費をこの夜につぎ込んだという。

 

 食堂のあちこちで歓声と悲鳴が入り混じる。

 

 サシャが堂々と全員分の肉にかじりつき、それをジャンとコニーが阻止しようと躍起になり、その傍らで憲兵団から流れてきたばかりのマルロが「調査兵団は肉も食えないのか。不憫だな」と上から目線で呟くと、既に意識を失ったサシャから鉄拳制裁を受けていた。

 

 アルミンは目の前でいつものように騒ぐ彼らを眺めながら、自分の皿の肉を切り分ける手を一度止めた。同じテーブルの片隅に視線を流す――エレンがいた。

 

 彼は周囲の喧騒から一歩離れたように黙々と食事をとっていた。サシャの暴走にも、そんな彼女を柱に縛り上げるジャンとコニーにも、マルロの鼻血にも、ミカサの心配にも目もくれない。その横顔に、アルミンは正面から向き合うのが少し怖かった。

 

 即位式の日からエレンは変わった。

 いや、変わったというよりも、『戻った』と言うべきかもしれない。

 

 五年前にシガンシナの壁が破壊され、目の前で母親が巨人に食われたあの日。瞳の奥に灯った激情が今のエレンにそのまま戻ってきた。

 

(……それだけじゃない)

 

 あまり考えたくはなかったが、アルミンの胸の片隅にずっと引っかかっていることがあった。

 

 9歳の頃、エレンはミカサを助けるために人攫いの男達を殺している。

 その場にアルミンはいなかった。詳しい話を聞かされたわけでもない。だが、断片からくみ取れる事実だけでも嫌な予感を想起させた。

 

 エレンは「でけぇ害虫を駆除しただけ」だと語った。

 その害虫の枠の中に、顔も名前も知らない人間が入ったら、彼はどうするのだろうか。

 

 その問いはアルミンの中で答えを持たないまま、ただ重く沈んでいた。

 

 宴は続いた。

 最初の高揚が一段落して、皆の食べる速度が落ちてくる。落ち着いた話ができる温度になっていた。

 

「本当に、こんなやり方しかないんだろうか」

 

 そうした中、不意にマルロがこぼす。たまたま顔を上げたジャンとアルミンの目が合った。

 

「なんだ、調査兵団お得意の大博打に文句タラタラか?奇遇だな、マルロ。実は俺もそのクチだよ」

 

「いや、もっと根本的な話だ。『地鳴らし』で世界を脅すことでしか、俺達を守る術はないのかと少し考えただけだ」

 

「……っつてもよぉ。連中が俺達を攻撃してきてるじゃねぇか。それを甘んじて受け入れろってのか?」

 

 自衛を否定するつもりはない、と言いながらマルロは苦虫を噛み潰したような顔で続けた。

 

「憲兵団にいた頃、腐った上官共が市民を脅して黙らせる現場を何度か見た。逆らえばお前や家族がどうなるか分からないぞと……俺達がこれからやろうとしてるのは、結局それと同じことなんじゃないか。相手が壁の中から、壁の外の世界に変わっただけで」

 

 マルロらしい問いだ、とアルミンは思った。世界の不正を正したいと恥ずかしげもなく語ることのできる彼だからこそ、口にできる問いだった。

 

「……そうだね」

 

 アルミンはゆっくりと言葉を選びながら言う。

 

「僕もマルロと同意見だ」

 

「おまっ、アルミンまで!」

 

「別に兵団のやり方を否定したいわけじゃないよ、ジャン。壁の民の命を預かってる以上、『地鳴らし』を盾に国を守るのが一番現実的で、堅実な方法だと思う。それは分かってる」

 

 でも、とアルミンは穏やかに首を振った。

 

「一度外の人達と話し合うこともできないかな、とも思うんだ。時間がかかるかもしれないし簡単じゃないことは承知だ。だけど、話し合えばいつかは誤解も解けて――」

 

「誤解?」

 

 卓の端で、それまで会話に加わらず黙々と食事を続けていたエレンが初めて口を開いた。

 

 声は静かだった。

 怒鳴っているわけではない。激していたわけでもない。だが、その静けさがかえって食堂の喧騒を一段遠くに押しやった。

 

「誤解って何のことだよ?」

 

「そりゃあ……」

 

 アルミンは少しだけ言葉を詰まらせる。

 

「僕達は怖い存在じゃないって。話せば分かるって、そういう……」

 

「世界から見れば俺達は巨人に化ける怪物だ。そこに誤解は無いだろ?」

 

 事実認識として、エレンの言うことは正しい。反論の余地はない。

 対話を望もうが望むまいが、世界から見たエルディア人が「巨人に化ける怪物」であることは誰の主観でもなく事実だ。

 

 それが事実であることは、即位式の騒動に居合わせたアルミン達がよくわかっていた。

 

 それでもアルミンは引き下がらなかった。

 

「……うん。それは僕も分かってる。でも怪物にも怪物の事情があるって、伝えることはできるはずだよ。少なくとも伝えようと試みるべきだ。最初から相手を脅すんじゃなくてさ」

 

「伝えてどうするんだ?」

 

「お互い落としどころを模索していくんだよ。手探りでもね。そうすれば血で血を洗うような争いを避けることだって――」

 

「アルミン」

 

 エレンがゆっくりとアルミンを見た。その目は冷静そのものだった。

 

「母さんやハンネスさんは、もう戻ってこねぇんだぞ。お前の爺ちゃんだってそうだ」

 

 気に食わない意見に、真っ向から反発するエレンを何度も見たことがある。

 だが今のエレンには違う。いっそ怒鳴ってくれた方がまだ良かった。

 

「どんな落としどころを用意されりゃあ、お前は『仕方なかった』って納得できるんだよ」

 

「あー、もうやめろ!めんどくせぇ!今日くらい大人しく肉喰っとけ!」

 

 ジャンが大きく腕を伸ばして、空気そのものを散らすように声を張り上げた。エレンは「……わりぃ」とバツが悪そうに零して席を立った。

 

「……エレン、食べないの」

 

 これまで成り行きを見守ってきたミカサが心配そうに言う。エレンは「腹いっぱいなんだ」と言って、柱にぐるぐる巻きにされたサシャの前に皿を置いた。

 

「先に休む」

 

 泣き叫びながらエレンへ感謝するサシャを尻目に、食堂を後にしようとする。だが、扉に手をかけたところで彼は一度だけ振り返った。

 

「アルミン。悪かったな、変な空気にして」

 

「……うん。あ、エレ――」

 

「じゃあな。明日の作戦、頑張ろうぜ」

 

 しっかりと頭を下げた後、エレンは扉の向こうへ消えていった。不貞腐れて出ていったわけでないのがアルミンに言い知れぬ恐怖を与えた。




世界の謎を明かさんとする原作と異なり、なんともワクワクしない理由でウォール・マリアを奪還しようといるのが本作ならではな気がします。
また、再び賛否というか好みが凄く分かれそうな展開を想定している為、既に皆さんの反応に戦々恐々としていますが、引き続きご愛読いただけますと幸いです。
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