エレンの妻です   作:ホワイト3

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05:ままならない

 凱旋式典を包んだ熱狂はまるで遠い昔の夢だったかのようだ。私の日常は再び、消毒液の匂いが支配する静謐な病院へと回帰していた。

 でもすべてが元通りというわけではない。決定的に何かが変質してしまった。

 

 廊下を歩けば、すれ違う医師や看護師たちが以前とは明らかに質の違う視線を投げかけてくる。戦場へ赴く前の、ただの同僚を見る目ではない。それは畏敬と好奇の色を隠そうともしない、まるで珍しい生き物でも見るかのような眼差し。

 

 彼らの視線が私をただの「ジルケ・クルーガー」ではなく、『白衣の女神』という名の偶像へと仕立て上げていく感じがする。

 その一つ一つが、私と皆の間に分厚いガラスの壁を作っていくようで、息苦しくてたまらなかった。

 

「先生!見てください!!今日の新聞にも先生の記事がこんなに大きく!」

 

 回診の準備をしていると、セラが興奮した様子で新聞を広げて見せてきた。周りの皆が腫れ物に触るような視線を向けてくる中で、この子だけは以前と少しも変わらない(いや、元からこれくらい過剰な尊敬を向けてきていたから、今さら変化に気付かないだけかもしれないけれど)

 

 大袈裟な見出しと共に、式典で笑みを貼り付けた私の写真が載っている。

 ここ数日嫌というほど目にした自分の顔。それなのに、まるで知らない誰かを見ているような奇妙な隔たりを感じずにはいられない。

 

「ありがとう、セラ。でもあまり浮かれないようにね。私たちは新聞を賑わす見世物じゃないわよ」

 

「は、はい! 申し訳ありません! ですが……やっぱり先生は、私の誇りです!」

 

 一点の曇りもない純粋な尊敬の光が、セラの瞳から真っ直ぐに私を射抜く。そのあまりの眩しさに、思わず目を逸らしてしまった。

 この少女の純粋さが今は刃物のように胸に突き刺さる。彼女が見ているのはマーレと革命軍、それぞれの思惑で作り上げられた虚像にすぎない。

 

 この白衣の下にスパイという裏切り者の顔と、ただ生きたいと願う臆病な自分が隠れているなんて、セラは知らない。

 私に向けられる光が強ければ強いほど、内面の影は更に濃くなる。そのどうしようもないギャップがいつも私の心を沈ませていた。

 

 その日の仕事を終え、鉛を引きずるような重い足取りで自宅のドアを開ける。『白衣の女神』なんて重たい仮面を外して、ただの自分に戻れるはずの、たった一つの場所だ。

 

 しかしドアを開けた瞬間、そのささやかな希望は木っ端微塵に砕け散った。

 玄関の石畳に見慣れない来客用の革靴が無造作に脱ぎ捨てられていた。上等な革を使っていることは一目で分かるが、手入れは行き届いておらず、つま先には擦れた傷が目立つ。持ち主のがさつな性格が、靴一つからも透けて見えるようだった。

 

 リビングの方から低く響く男の下品な笑い声と、夫の相槌ともつかない曖昧な声が微かに漏れ聞こえてくる。私は深くため息をつき、見えない敵が待ち受ける戦場へ赴く兵士のような覚悟で、リビングへと向かった。

 

 案の定、我が家のソファには夫であるエレン・クルーガーと、もう一人の見知らぬ、しかし強烈に見覚えのある男がふんぞり返っていた。

 

 だらしなく突き出た腹。権威を象徴するかのように高価だが皺の寄ったスーツ。そして何より、人を値踏みして、いたぶるのがたまらなく好きだと言いたげな嗜虐的な視線。

 

 その全部が、私の記憶の底でけたたましく警報を鳴らしていた。

 

(マーレ治安局の……!)

 

 中でも、とびきりたちが悪い男。確か名前は……グロス。

 その名を思い出した途端、背中に氷を押し当てられたみたいな悪寒が走り、胃がぎゅっと縮こまる。

 

 原作知識というフィルターがなくとも、この男が放つ腐臭のような雰囲気だけで関わるべきではない危険な存在だと本能が叫んでいた。

 

「おお、これはこれは! 噂をすれば、とはこのことか。『白衣の女神』様のご帰宅だ!」

 

 グロスは立ち上がりもせず、品定めするような視線を私に投げかける。クルーガーはいつものように無表情で、私に視線で着席を促すだけだ。

 まるで、道端の石ころでも見るかのような無関心さで。

 

「初めまして、ジルケ・クルーガーと申します」

 

「あんたの名は、今やマーレ中で知らねぇ者はいないだろうよ。実際大したもんですよ。あの薄汚ねぇエルディアの豚どもを、その細腕で救ってやったんですってなァ?」

 

 グロスの言葉には、称賛の響きなど微塵もなかった。あるのは、自分たちマーレ人が、悪魔の末裔エルディア人に情けをかけてやったのだという、歪みきった優越感だけだ。

 そして私の脳裏にはこの男がグリシャ・イェーガーの幼い妹、フェイを犬に食わせ、それを嗤いながら見ていたという、おぞましい光景が焼き付いていた。

 

(……吐き気がする)

 

 氷のように冷たい怒りが込み上げてくる。だが、顔には出さない。私は穏やかな笑みを浮かべ、当たり障りのない言葉を返す。

 

「医者としての務めを果たしたに過ぎません。彼らもまた、マーレのために戦った兵士ですから」

 

「はっ、兵士ねぇ。まあせいぜい肉壁としての役には立ったか。それにしてもあんたのような美しい方が、わざわざエルディア人の血にまみれてやるとは酔狂なもんだ。なあクルーガー。お前も隅に置けないな。こんな上玉を嫁さんにするとはよ」

 

 下卑た視線が私の全身を舐め回すように這う。隣に座るクルーガーは、この侮辱的な会話に一切関与せず、ただ静かに煙草を燻らせている。

 クルーガーにとってこの男は利用価値のある「駒」でしかなく、その男が妻に投げかける汚らわしい言葉など、気にも留める価値がないのだろう。

 

 その徹底した無関心さがグロスの下劣さよりもずっと鋭い刃物になって、私の心を抉った。

 

 早くこの場から立ち去りたかった。この男と同じ空気を吸っているだけで自分まで汚れていく気がする。私は適当な理由をつけて自室へと逃げ込んだ。

 ドアを閉めて鍵をかけた瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れ、その場に崩れ落ちる。

 

 改めて世界の残酷さを直視した気がして、息もできなくなるほどの絶望が私にのしかかってくるのを感じた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 翌日。案の定、というべきか。革命軍の若者を通じて長老からの呼び出しがかかった。

 指定されたのはいつもの病室ではなく、レベリオ区の奥まった場所にある古びた集会所だった。

 

 扉を開けた途端、長年放置された書物が腐るような湿ったカビの匂いが鼻をついた。空気は澱み、薄暗い空間には息苦しいほどの沈黙が満ちている。

 

 重い鉄の扉の先では長老と数人の幹部たちが顔を揃えていた。クルーガーもその中にいた。

 厳しい顔つきの長老が私を認めると、その目に冷たい光を宿して尊大な態度で口を開く。

 

「来たか、ジルケ。戦場での働き、実に見事であった。我らが同胞を救ったばかりか、マーレの犬どもにまでその名を轟かせるとはな」

 

 その声色に労いの響きはない。ただ、計画通りに事が運んだことへの満足感が滲んでいるだけだ。まるで優秀な道具の性能を褒めるかのような口ぶりだった。

 

「お前が得た名声を我らが悲願のために使わぬ手はない。これこそ、始祖ユミルが与えたもうた好機。マーレの愚民どもは自らが作り上げた偶像に熱狂している。美しい女が流す涙と微笑みは、どんな武器よりも雄弁に奴らの心を掴むだろう。手懐けるのは造作もない」

 

 始まった。いつもの『栄光のエルディア帝国』講座。私は黙って、その狂信に満ちた瞳を見つめ返す。

 

 この男の目には、私という人間は映っていない。

 ただ、エルディア復権という大義のための、都合のいい象徴が見えているだけだ。私の功績も苦悩も、この男にとっては大義を飾るための装飾品に過ぎない。

 

「さて、本題だ。ジルケ、お前に新たな任務を与える。マーレ軍の病院へ移れ」

 

 長老は、テーブルに広げられたレベリオの地図を、骨張った指でとんとんと叩いた。その指が示すのは、マーレ軍の主要施設が集中するレベリオの心臓部。

 

「先の戦争での実績と名声をもってすれば、軍直属の中央病院に入ることは容易いだろう。そこで我らのネットワークを築き、軍の内部情報を探り出すのだ。『九つの巨人』の運用計画、他国との軍事バランス、そして兵器開発の現状。通常兵器の拡大を唱える不届き者が台頭しつつある今、奴らの懐に深く潜り込む必要がある」

 

 簡単に言ってくれるな、このボケ老人め。

 

 それはこれまでの血液検査の改竄などとは比較にならないほど危険な任務だった。軍の心臓部へ潜入するスパイ。失敗すれば楽園送りどころでは済まない。私だけでなく、私がこの世界で築いてきたすべてが一瞬にして消し飛ぶだろう。

 

 脳裏にセラの屈託のない笑顔が浮かんだ。この殺伐とした世界で、唯一の陽だまりのような存在。

 

 彼女のいるこの病院を自ら離れなければならないのか。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。

 

 だが、今度は戦場で泥と血にまみれながら必死に私を支えてくれたハンスの顔がよぎる。そういえば、彼はレベリオの軍病院に所属していると言っていた。

 

「戦いが終われば、またそこへ戻るだけですよ」と、ハンスは少し寂しそうに笑っていた。

 

 まさかこんな形で再会するかもしれないなんて。この薄暗く非情な計画の中で、あの実直な顔が唯一の、そして頼りない光明のように思えた。

 

「……お受けいたします」

 

 断るという選択肢は初めから用意されていなかった。ここで「否」と言えば、この老人は「裏切り者」の烙印を押す。そうなれば、このレベリオに私の居場所はない。

 

 どうせ逃げられないのなら、いっそ流れの中心に飛び込んでやるしかない。諦めにも似た、しかしどこか冷徹な感情が、私を支配していた。

 

 その返事を聞き、長老は満足げに頷いた。

 

「うむ、話が早くて助かる。ジルケこそ我らがエルディアを復権へと導く真の女神よ」

 

 女神、か。私は心の中で乾いた笑いを浮かべた。

 マーレに祭り上げられ、革命軍に利用されるだけの不自由な存在が、だ。

 

 人生ままならないなぁ……。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 長老から新たな任務を拝命してから数週間。私の大層な肩書きは異動の手続きを驚くほどスムーズに進めてくれた。

 軍は『マーレの慈悲』の象徴を丁重に、そして迅速に、軍が望む場所へと配置したのだ。私の意思なんてお構いなしに。

 

 そして長年勤めた病院を去る前夜。私のために、盛大な送別会が開かれた。

 

 場所は病院の大食堂。普段は味気ない食事を並べるだけの大食堂が、今夜ばかりは手作りの旗や野の花で飾られ、温かい光で満ちている。

 テーブルにはレベリオ名物の海産品や、ささやかな果実酒。素朴だけど心のこもったもてなしだった。

 

「クルーガー先生、本当にありがとうございました!」

 

「軍の病院に行ってもお身体に気をつけてください!無理は禁物ですよ!」

 

 ひっきりなしに同僚たちが私の席へやってきては名残惜しそうに言葉をかけてくれる。

 ついこの間までの、祭り上げられた偶像を遠巻きに眺めるようなあの居心地の悪い視線はなかった。彼らにとって私は遠い世界の英雄ではなく、明日にはもう会えなくなる一人の「仲間」に戻ったようだ。

 

 遠くへ行ってしまうからこそ、近づけるのか。何とも皮肉な感じがした。

 

 この身体の持ち主である「ジルケ・クルーガー」が、不器用ながらも真摯に築き上げてきた信頼の証。それを何の関係もない転生者の私が享受している。奇妙な罪悪感と、それを上回る温かい感情が胸の奥で混ざり合う。

 

 宴もたけなわの頃、一人の老医師がワイングラスを片手に私の隣に腰を下ろした。この病院で最も古株のマーレ人の先生だ。

 いつもは厳しい顔をしているが、今日ばかりは目元が和らいでいる。

 

「ジルケ君。君も随分と変わったな」

 

 穏やかな声で彼はぽつりと言った。

 

「……そんなに変わりましたか?」

 

「ああ。特にあの落下事故で頭を打ってからは、まるで別人が乗り移ったかのようだ」

 

 その言葉に、心臓がどきりと大きく跳ねる。顔には出さず、努めて平静を装って彼の言葉の続きを待った。

 

「以前の君はもっと近寄りがたかった。常に刃物のような鋭さがあってね。誰もが君の能力を信頼し尊敬した反面、同時に恐れられてもいた。完璧な医師だったが、どこか人間味に欠けていたよ。以前の君なら決してエルディア人に救いの手を差し伸べなかったと思う」

 

「そんな風に思われてたんですか…」

 

「だけど、今の君は違う。君は時折ひどくお人好しな顔をする。特にセラのような若い子に向ける目は随分と優しくなった」

 

 核心を突くような言葉に冷や汗が背中を伝う。私は曖昧に微笑んで、グラスのワインを一口煽ることで、動揺を隠した。

 

「……色々経験しましたから。セラ達と話しているうちに、私も少しは丸くなったのかもしれません」

 

「ふむ。そうかもしれんな」

 

 老医師はそれ以上追及することなく、ただ穏やかに頷いた。だが、その瞳の奥にはすべてを見通しているかのような深い光が宿っていた。

 

 送別会が終わりに近づいた頃、ずっと輪の隅で俯いていたセラが意を決したように私の元へやってくる。その目は、泣き続けた後なのだろう、真っ赤に腫れ上がっていた。

 

「先生……」

 

 か細い声で私を呼ぶと、彼女は堰を切ったように言葉を紡ぎ始める。

 

「先生が行ってしまうなんて嫌です……!先生は私の憧れなんです!被災した私を助けてくれた先生みたいになりたくて、私……っ」

 

 言葉に詰まり、セラの瞳からまた大粒の涙がこぼれ落ちた。その涙が私の心を締め付ける。

 

「でも……先生が決めたことなら、私は精一杯応援します。だから待っていてください!私、もっともっと勉強して、必ず先生の隣で働けるようになりますから!だから……それまでどうか待っていてください!」

 

 その純粋であまりに真っ直ぐな言葉が胸を強く打つ。この殺伐とした世界で、彼女の存在がどれほどの救いだったか。

 

 私はそっと手を伸ばし、彼女の震える肩を抱き寄せる。

 

「うん。待っているよ、セラ。あなたが来るのをずっと待ってる」

 

 それは偽りのない私の本心だ。この子の真っ直ぐな瞳に見つめられていると、自分が進むべき道を見失わずにいられる気がした。

 

 宴は終わり、人々が去った後の静かな食堂で、私は一人窓の外を眺めていた。同僚たちの温かい言葉。老医師の鋭い指摘。そしてセラの涙と誓い。それらすべてが、私の心に深く染み渡っていく。

 

 夜は静かに更けていく。レベリオの街の灯りが遠くで瞬いていた。私は窓に映る自分の顔にそっと笑いかける。それはもう、見知らぬ誰かではない。ジルケ・クルーガーという名の、したたかなスパイの顔だった。

 

「新しい舞台の始まりね、女神様」

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