また章タイトルに832年〜と入ってますが、時系列行ったり来たりするので目安程度でお願いします。
(本話の内容も832年の出来事じゃないです)
49:神の子①
凱旋の祝祭は幾日も続いたが、世間はライナーを離そうとしなかった。
通りを歩けば人だかりができ、誰もが彼を英雄だと讃えた。島へ渡っている間に普及したというラジオが街角に据えられ、そこからは日々、戦士達の功績を称えるニュースが流れ続けている。あれほどエルディア人を蔑んでいたマーレ軍の人間でさえ、今ではライナーを見る目に確かな敬意を宿していた。
だが、ライナーが何より嬉しかったのは、母の労いの言葉だった。それだけで、これまで費やしてきた全てが報われた気がした。
「ついに手に入れたぞ……自由を。なぁ、フェリス!」
しかし、その言葉を返してくれる幼馴染は、どこにもいなかった。
悪魔の島から戻った戦士達を、世界は英雄として迎え入れた。どれほどのものを失って戻ってきたのかなど、誰も知ろうとはしなかった。
気付けば、ライナーは夕暮れ時の路地裏の前に立っていた。
全てはここから始まったのだろうか。
とある少女に有無を言わさず手を引かれた日のことを、ライナーは思い返した。
◇◇◇◇
「私達は『神』に選ばれたのよ」
夜眠る前、ライナー・ブラウンはその言葉とともに、母からよく頭を撫でられていた。
生まれた時から、彼に父親はいなかった。表向きは父親が分からないということになっているが、実態は異なる。若気の至り、という言葉で済ませるにはあまりに危うい火遊びだった。
カリナは幼いライナーに、自分たちにはかつて罪を犯した悪魔の血が流れているのだと教え込んだ。壁の外にいる人々の迷惑になってしまうから、自分たちは収容区で暮らしているのだと、まるでそれが当然の理であるかのように言い聞かせた。
ライナーに父親がいない理由も、彼女は同じ理屈で説明した。
父はマーレ人であり、本来ならエルディア人との間に子を成すことは固く禁じられている。その事実は決して外へ漏らしてはならない秘密であり、自分たちが悪魔の血を引くエルディア人である以上、あの人と共に生きることは許されないのだと――そう語るカリナの頬を、涙が伝った。
すべては百年前、自分たちを見捨てて島へ逃げ込んだ悪魔のせいなのだ。
「でも……あの御方だけは見捨てなかった。愚かな私達兄妹を気にかけ、あろうことか救いの手を差し伸べてくださったのよ……」
カリナの首元には、収容区には不釣り合いな上等のネックレスが今日も光っている。質に入れれば当面は食うに困らない品を、彼女は一度も外したことがない。
幼い頃から、ライナーは繰り返しその話を聞かされてきた。
ライナーが生まれるずっと前、戦場でエルディア人の命を救った奇特なマーレ人医師がいた。新聞に大きく載り、軍から勲章を授けられ、世界的な発明をもたらした偉人だ。人は彼女を『白衣の女神』と呼んだ。
そして母はかつて、英雄ヘーロス像の前で『白衣の女神』その人と話したことがあるという。
軍施設から脱走し楽園送りになった伯父の死を詫び、母の愚かな恋を責めず、むしろその恋を後押しするかのようにこの首飾りを贈ってくれたのだと、カリナは何度も語った。
父は去った。母が一度会ったきりのその女医も、いつしか軍病院でも新聞でも見かけなくなったという。けれど祝福だけは首元に残った。
あなたは『神』に祝福された恋から生まれた『選ばれた子』なのだと、カリナは繰り返した。
その言葉を口にする時の母は、いつもどこか誇らしげだった。しかし誇らしさの後には、決まって薄い翳りが差した。
選ばれた子であるはずのライナーは、収容区の外へ自由に出ることもできず、母は父の名を口にすることさえ許されない。首飾りだけは眩しいほど綺麗なのに、それを身に着ける母の服は擦り切れていて、食卓に並ぶパンは硬く、窓の外には今日も高い壁がある。
幼いライナーがその矛盾に気付くより早く、カリナの方が耐えきれなくなったように、ぽつりと呟いた。
「……マーレ人に生まれていれば」
母は言葉を継がなかった。
ライナーには母の沈黙の意味が分からなかったが、撫でられていたはずの頭が急に冷たくなったような、言いようのない不安だけが胸に残った。
マーレ人に生まれていれば。
それはライナーの運命を決定づける言葉となった。
◇◇◇◇
戦士候補生の募集時期はある程度決まっており、例年通りなら恐らく数ヶ月後になる。
決めたからには、止まっている暇はなかった。ライナーは戦士候補生を目指し、猛然と鍛え始めた。
と言っても、幼い子供が考えつく修練などたかが知れている。ひたすら走り、誰かがやっていた見よう見まねの格闘術を繰り返し、地面に転がっては起き上がる。傍から見れば、無茶な遊びをする子供にしか見えなかっただろう。
その日も走り込みを終えたライナーは、息を切らしながら路地を抜けようとして、数人の子供達とぶつかった。その拍子に、相手の一人が抱えていたパンが地面に落ち、泥を被った。
彼らにしてみれば、最初はちょっとした腹いせだったのだろう。せっかくのパンを落とされたのだ。少し殴って憂さ晴らしすれば、それで終わらせるつもりだったはずだ。
だが、幼きライナーはやられっぱなしでは気が済まなかった。地面に膝をつきながら、唇を噛んで彼らを睨み返した。
「俺は……お前らと違う!」
「あ?」
「俺は、神に選ばれた人間なんだ!」
母が何度も繰り返した言葉だ。真実に違いない。それに、その言葉を口にすれば、自分が惨めなだけの子供ではなくなるような気がした。
しかし、それは逆効果だった。
「何が選ばれてる、だよ!!」
「頭おかしいんじゃねぇのか、コイツ」
全員が同じ腕章を着け、同じ壁の内側で、マーレからの迫害を受けている収容区で、自分だけが神に選ばれているなどという言葉はあまりに傲慢に響いた。当初は一発二発の拳で済まそうとしていた彼らも、ついカッとなって手を止めなかった。
殴られ、蹴られ、ライナーは路地裏の地面に沈んだ。大通りから路地の様子は見えているはずなのに、誰も足を止めなかった。
やがて暴力が止み、彼らは飽きたようにどこかへ去っていく。身を丸めたまま、ライナーはしばらく動けなかった。
本当に自分は選ばれた人間なのだろうか。こんな自分のどこが選ばれているというのか。母の言葉は嘘だったのではないか。
撫でられた手の温もりも、首飾りの輝きも、神に祝福された恋という物語も、何もかもが遠いおとぎ話のように思えて——ライナーは、それ以上考えるのが怖くなった。
「早く立ちなよ。虫みたいに丸まってないでさ」
蹲るライナーの頭上から、鈴のような声が届いた。思わず顔を上げる。
ちょうど傾いた陽が建物と建物の隙間から細く差し込む路地の入口。
見慣れない少女が、空を閉じ込めたような青い瞳で彼を見下ろしていた。
逆光に滲んだ小さな影の輪郭は、陽の中に溶けるように淡い。肩口で緩く波打つ灰がかった髪は、光を受けて銀色にも薄い菫色にも見え、そこだけ周囲から切り離されているようだった。
顔立ちが特別派手なわけではない。むしろ年相応の幼さが残っている。
けれど、埃とゴミであふれた路地裏に立っているのに、彼女は不思議とその薄暗さに沈まなかった。服も靴も収容区の子供達と大差ない。なのに収容区の空気の中で、その青い瞳だけが澄んでいた。
神様の使いかもしれない。そう思った直後に、ライナーはその考えを取り下げた。
「君のことだよ、芋虫くん。もしかして私に踏まれたいのかな」
そこに立っていたのは、神様などではなかった。神秘的なまでに綺麗で、どことなくシニカルな少女だった。
ライナーは反射的に顔を背けた。同年代の異性に見られていたという羞恥が、痛みより先に脳天を貫いた。
「……ずっと見てたのかよ」
「うん」
「なら、助けてくれてもよかっただろ」
「五対一だよ。私が入ったって、芋虫が二匹に増えるだけじゃん」
少女は溜息を一つ吐いて、しゃがみ込んできた。
「で、結局のとこ『神に選ばれた』ってのはどうだったの。神様、ちゃんと仕事した?」
少女は「大丈夫?」とは聞かなかった。
有無を言わせず差し出された小さな手は慰めるためというより、地面に転がったままのライナーを許さないためにそこにあるようだった。
「ほら、手」
彼女の手はきめ細かく、路地裏の埃ひとつ知らないかのように白かった。ライナーが躊躇していると、少女は呆れたように眉を上げた。
「もう、めんどくさいなぁ……」
痺れを切らしたように呟くと、少女はライナーの手を取って、強引に引き起こした。少女の指は思ったより冷たかった。
細い指の力は大して強くないはずなのに、ライナーは逆らうタイミングを失い、よろめきながらも立ち上がるしかなかった。思った以上に身体が痛んで、喉の奥から呻きが漏れた。
「ほら、来て」
そう言って手を引かれる。
ライナーは流されるままに付いていったが、大通りに出てようやく自分がどういう状況かに気付いた。
「離せって!自分で歩ける!」
「私の住んでるところ知らないでしょ?迷子になられたら困るんだけど」
「道順教えてくれりゃ迷子にならねぇよ、ガキじゃねぇんだから!」
「ガキじゃん、君も私も」
ライナーは言い返せなかった。
「てか何でお前の家行くことになってんだよ!」
「……今住んでるところ、診療所なの。早く怪我治さないとバイキン入って大変だよ?足とか腐っちゃうかもだし」
「これくらい平気だってば!!」
「腐ったら切らなきゃだよ。シャキーンって。怖くない?」
同い年くらいの異性に心配をかけられている。それが無性に恥ずかしくなり、ライナーは強引に手を振り払った。
少女は足を止めた。からかうようだった声音から、ふっと軽さが抜ける。
「そうやって意地張ったままだと、本当に負けたみたいに見えるよ。悔しくないの?」
痛いところを突かれた気がした。
平気だと言い張れば、まだ負けていないことにできる気がしていた。誰の助けも借りずに歩けると言えば、地面に転がっていた自分をなかったことにできると思っていた。
しかし彼女は、その強がりごとあっさり見抜いてきた。殴られた痛みよりも、それが何より恥辱だった。
「……悪かった。その、心配してくれてんだろ。ついてくよ」
「私の勝手だし謝らなくていいよ。心配っていうか、怪我人ほっとくのが嫌なだけだし」
少女はそっけなく答えてまたライナーの手を掴んだ。声音は軽いままだったが、その軽さの底には隠しきれない苛立ちが混じっていた。
傷ついた人間が傷ついたまま地面に転がっていることが、どうにも気に食わないらしかった。
しかし改めて見ても、この少女にはまるで見覚えがない。この狭い収容区で、全く見たことがないなんてことがあるのだろうか。
光の中で見た時にはひどく遠い存在に思えたのに、今は目の前で当然のように自分の手を引いている。その距離の近さに落ち着かなくなって、ライナーは気まずさを誤魔化すように口を開いた。
「……俺、ライナー・ブラウンっていうんだ。お前は?」
少女はぱちくりと目を瞬かせた。名乗られると思っていなかったのか、あるいは名乗り返すことに一瞬だけ迷ったのか、その青い瞳がわずかに揺れた。
「フェリシア・シュタイナー。フェリスでいいよ」
それから彼女は悪戯っぽく口元を緩めた。
「よろしくね、芋虫くん」
◇◇◇◇
大通りに出ても、フェリスはずんずんとライナーの手を引いて歩いた。
通りすがりの大人達が、二人を見て生温かい目を向けてくる。中には微笑みかけてくる者までいて、ライナーは頬が熱くなっていくのを抑えられなかった。
診療所へ連れて行ってもらっているだけだと分かっている。それなのに、周囲の視線が妙に気になった。ライナーはなんとか指を抜こうとしたが、フェリスの手はそれに気付いているのかいないのか、しっかりと絡められたままだった。
「お前さ、人目とか気にならねぇのかよ」
「何で? 他の人とかどうでもよくない?」
「……いや、まあ。そうだな、悪い」
フェリスは「変なの」と短く返しただけだった。
恥ずかしがっているのは自分一人らしい。ライナーはそれ以上の抵抗を諦めた。
道すがら、断片的にだが彼女のことが分かってきた。どうやら数ヶ月前にレベリオ収容区に移ってきたばかりらしい。道理でライナーも見覚えがないわけだ。
前はどこの収容区にいたのか聞くと、フェリスは少しだけ考えるように上を向いた。
「海のそば」
「は?」
「前に住んでた場所よ。休みの日はよく浜辺で砂のお城作ってたわ。ここよりもずっと良いところだった」
それまでどこか人を食ったようだった声に、初めて本物の温度が混じった。本当に好きなことを語る時の熱が確かにそこにあった。
「……なぁ、海ってどんなもんなんだ?」
ライナーが何の気なしに聞くと、フェリスは目を見開いて振り向いた。
数秒、彼女はライナーの顔をまじまじと見つめてから、納得したように呟いた。
「そっか。エルディア人は滅多なことがないと収容区から出れないんだっけ」
「なに他人事みたいに言ってるんだよ。お前もエルディア人じゃねぇか」
ライナーが彼女の袖口に縫い付けられた九つの星に目をやって言うと、フェリスは「……違うもん」と小さく顔を背けた。
彼女が何に対して「違う」と言ったのか分からかった。問い詰めようにも、フェリスの横顔はそれ以上の言葉を受け付けないように見えた。いったん黙って歩くしかなかった。
そうだ。違和感は他にもあった。収容区のエルディア人が休みの日に海へ行くなど聞いたことがない。外へ出るには許可がいるし、その許可だって簡単に下りるものではない。彼女の話を収容区育ちのライナーはにわかに信じられなかった。
「ところでさ」
彼女の真意を測りかねていると、フェリスが先回りするように口を開いた。話を逸らされた、と思うより先に彼女は言葉を続けた。
「何で路地裏なんかにいたの?」
「だから、絡まれたんだって」
「うん。それは知ってる。私がしてるのはその前の話。用もないのに、普通あんな路地裏に入る?」
「お前に言われたくねぇよ」
「あそこ、帰る時いつも通るのよ。大通り使うより早く帰れるし。もしかして芋虫くんの家って近所さんだったりする?」
「……特訓してたんだよ」
「特訓?」
「ああ。俺は戦士候補生になりたいんだ。あと数ヶ月で募集が始まるから、まずは体力付けるために走り込みをしてた」
言ってから、「しまった」と思った。母以外の人間にこの目標を口にしたのは、初めてだった。
「それで、いつの間にか路地裏に居て……」
「君、もしかしてお馬鹿さん?」
とても否定することはできなかった。ライナーとて自覚があったのだから。
「でも、戦士候補生か」
フェリスは少し考えるように、ライナーの横顔を見た。
「将来は名誉マーレ人になりたいの?」
「……そうだよ」
「ふうん。じゃあ、さっきのもその夢の話?」
「さっきの?」
「ほら。『神』に選ばれた人間なんだ、って言ってたじゃん。あれも戦士候補生と関係あるの?」
「どうもこうも……母さんに言われたまんまだよ」
カリナから繰り返し聞かされてきた話を、ライナーはそのまま語った。聞き終えたフェリスは、足元の小石を爪先で蹴りながらぽつりと言った。
「ジルケ・クルーガーねぇ……聞いたこともないなぁ」
興味があるのかないのか分からない、平らな反応だった。だがライナーには、その反応の方が新鮮だった。
今まで母の話をすると、相手は決まって笑った。あるいは、痛々しいものを見るような目を向けてきた。母の作り話だと思われていることも、頭のおかしい
なのに、目の前の少女は笑わなかった。彼女なら軽口の一つや二つ、叩きそうなものなのに。ただ「聞いたこともない」と呟いて、それで終わりにした。
「私もね、似たようなこと言われたことがあるの」
「似たようなこと?」
「私は『神の子』だって。意味わかんないでしょ?」
フェリスは前を向いたまま歩いていた。視線は道の先に向いているのに、その瞳だけが、ライナーには見えない別の場所を眺めているようだった。
「誰に言われたんだよ」
「知らない人。まあ、暑い日なのにマフラー付けてた変人の言葉だし、別に気にしてないわ」
でも、と彼女は続けた。
「そう言われたことだけは、変にはっきり覚えてる」
自慢している様子はなかった。かといって嫌がっているのでもない。フェリス自身も、その言葉をどう扱えばいいのか分からないまま、ずっと手の中で転がしている――そんな話し方だった。
ライナーが返事に迷っていると、フェリスがふいに足を止めた。
「着いたよ」
顔を上げた先に、古めかしい二階建ての建物が立っていた。
壁のレンガは黒ずみ、窓枠の塗装はあちこち剥げている。入口の上には木の看板が下がっていて、薬瓶と十字の意匠の下に、擦れた文字で『▪️▪️▪️診療所』と刻まれていた。
「……お前ん家、本当に診療所なのかよ」
「ほぼ廃業してるようなもんだけどね。ほら、入って入って。外はアレだけど、中は綺麗だから」
フェリスはあっさり答えて、扉を押し開けた。
診療所の中は、外から受けた印象よりもずっと清潔だった。
古びた木の床はよく磨かれていて、鼻をくすぐる消毒液と草の匂いに、ライナーは思わず顔をしかめた。
入口からすぐ左手には診察室らしい部屋があり、白い布の掛けられた診察台と、薬瓶の並んだ棚が見える。けれどフェリスの言う通り患者の気配はなく、午後の光だけが静かに床へ落ちていた。
「あら、フェリス?早かったのね」
柔らかな声とともに姿を現したのは、栗色のボブカットの女性だった。濡れた布巾を持っているところを見るに、掃除の途中だったらしい。
年はライナーの母より少し若いくらいだろうか。小動物のような愛らしい顔立ちをしていたが、目元には薄い疲労の影があった。それでもフェリスに向けた声は、優しく響いた。
「……なんでいるの?」
その温もりを、フェリスの声が冷たく遮った。
ライナーは思わず隣を見た。さっきまで大通りで好き勝手に喋っていた少女と同じ人間とは思えなかった。人を小馬鹿にするような響きも、軽い調子も消えている。
「今日は午後から病院の方がお休みでね。せっかくだし、家の掃除でもしようと思って」
女はフェリスの冷たい口調に慣れているのか、少し困ったように笑うだけだった。だが、そこでようやく隣にいるライナーに気付き、一瞬目を丸くする。
そして次の瞬間には、ぱっと表情を明るくした。
「もしかしてお友達?」
「違うよ。ただの怪我人」
フェリスは短く答えた。
それだけ言うと、彼女は女の脇をすり抜けるようにして診察室へ向かった。残された女は、慣れたように小さく苦笑してからライナーへ向き直った。
「挨拶遅れちゃってごめんね。私はセラ。普段は近くの病院で看護師をしているの。あなたは?」
「あ……ライナー・ブラウンです」
「ライナーくんね。あの子が誰かを連れてくるなんて初めてだから、ちょっとびっくりしちゃったわ」
セラが柔和な笑みを浮かべると、その穏やかな雰囲気に絆されるように肩の力が抜けた。
そしてセラの視線が、ライナーの腫れた頬と泥に汚れた服へ移った。
「その怪我……喧嘩でもしたの?」
問いかけながらも、彼女の目はすでに傷の具合を確かめていた。頬、腕、膝へと順に視線を走らせる様子は、ただ心配している大人というより、怪我人を見慣れた人間のそれだった。
「いえ、その……絡まれてるところをフェリスに助けてもらって――」
「ほら、芋虫くん。無駄口叩いてないでこっち来て」
診察室からフェリスが顔を出す。片手には救急箱を抱えていた。
「私がやる。母さんはあっち行ってて」
母さん、と呼ぶ声に親しさはなかった。ライナーは引っかかったが、フェリスの目が「早く来い」と告げていたので、それ以上考える暇はなかった。
「でも――」
「別にいいから」
フェリスの声は大きくなかった。けれど、それ以上踏み込ませない意思を感じさせるには十分であった。
セラは布巾を持ったまま立ち尽くしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かったわ。包帯は下の段よ。消毒液は刺激が強いから、使いすぎないようにね」
「知ってる」
そっけなく答えると、フェリスは診察台の脇に椅子を引いた。ライナーが腰を下ろすと、彼女は手際よく救急箱を開け、綿と消毒液を取り出す。
「痛かったら言ってね?」
「これくらい平気だって」
「はいはい。じゃあ遠慮なくいくよ」
「おい、待――っ!」
消毒液を含ませた綿が擦り傷に触れた瞬間、ライナーは思わず声を上げた。フェリスは悪びれもせず、ふっと鼻で笑う。
「平気なんじゃないの、弱虫くん?」
「限度ってもんがあるだろ……あとしれっと弱虫呼ばわりするんじゃねぇよ」
「限度を知らないで喧嘩するから、こうなるんじゃん」
フェリスの手つきは、同い年くらいの子供のものとは思えないほど慣れていた。傷の周りの汚れを落とし、消毒し、軟膏を塗り、包帯を巻く。その動きはやや乱暴ではあるものの、無駄はほとんどない。
消毒液が傷に染みるたび、ライナーは奥歯を噛み締めた。情けない声を上げたくなくて、痛みから逃げるように診察室の中へ視線を移す。
そこで、窓辺の隅に小さな写真立てが置かれているのに気付いた。
茶色がかった古い写真だった。写っているのは二人の子供だ。一人は利発そうな顔つきの少年で、もう一人は少年より少し小さな女の子だった。兄妹だろうか。少女はにこにこと笑っていて、少年はその隣で、守るように彼女の手をしっかり握っている。
ライナーは、手当てを受けながらしばらくその写真を眺めていた。
フェリスの親戚だろうか。だが、少年も少女も、フェリスはおろかセラにもあまり似ていない。少女の年頃は今のフェリスに近いように見えたが、髪の色も顔立ちも別物だった。
「はい、終わり」
気付けば、肘や膝には包帯が巻かれていた。フェリスは救急箱の蓋を閉めながら、満足げに頷く。
「弱虫くんにしては、まあまあ我慢できたんじゃない?」
手当てはあっという間に終わった。ライナーはぼそっと礼を言って立ち上がったが、思ったよりも体のあちこちが痛んで、椅子の背に手をついた。
「送ってくよ。君一人だと迷っちゃうだろうし」
「なんで最近引っ越してきたヤツに心配されなくちゃなんねぇんだよ……俺一人で帰れるって」
「いいからいいから」
結局ライナーの家までフェリスが付いて行くことになった。
セラが戸口まで二人を見送ってくれた。彼女はライナーに向かって「気をつけて帰ってね」と明るく笑い、続けてフェリスにも声をかける。
「フェリスも、暗くなる前に帰ってくるのよ」
「分かってる」
フェリスは振り返らなかった。
その短い返事を聞いたセラの顔に、ほんの少しだけ影が差した。ライナーはそれが気になったが、二人の間にあるものを尋ねるには、自分はまだ何も知らなさすぎた。
診療所を出ると、フェリスは来た時と同じように、ずんずんと先を歩いた。だが今度は、ライナーの手を引こうとはしない。ライナーは少し遅れてその隣に並んだ。
「さっきの人、母さん?」
「……みたいなもの」
「みたいなものって何だよ」
「そのままの意味」
話はそこで終わった。
聞いてはいけないことだったのかもしれない。ライナーはそう思い、別の話題を探したが、結局何も思いつかなかった。
家の近くまで来ると、ちょうど外へ出ていたカリナがライナーの姿に気付き、血相を変えて駆け寄ってきた。
「ライナー!その顔、どうしたの!」
「だ、大丈夫だよ。ちょっと転んだだけで――」
「転んだだけでそんなに腫れるわけないでしょう!」
母に肩を掴まれ、ライナーはどう言い訳したものかと言葉を詰まらせた。するとフェリスが、横から淡々と口を挟んだ。
「街の子に殴られてたんで、手当てしました」
カリナはそこでようやく、ライナーを連れてきた少女をまじまじと見た。一瞬だけ目を瞬かせ、それからほっとしたように表情を和らげた。
「まあ……あなたが助けてくれたのね。ありがとう。ライナーに、こんな可愛いお友達ができるなんて」
「友達じゃないです」
「おい!」
即答されて、ライナーは思わず声を上げた。
「友達になってあげてくれないかしら?」
「うーん。今日拾ったばかりなんで……」
「俺は猫か」
「だって、路地裏で寝転んでたじゃん」
悪びれもせず言うフェリスに、カリナはくすりと笑った。ライナーは顔を熱くして睨んだが、涼しい顔で受け流された。
その時、フェリスの視線がふとカリナの首元で止まった。
「それ、すごく綺麗ですね」
カリナは少し驚いたように首飾りへ手を添えた。それから、どこか誇らしげに微笑む。
「ええ。昔、とても立派な方からいただいたの。私とライナーにとって、大切なお守りみたいなものよ」
「お守りですか」
フェリスはその言葉を繰り返し、まじまじと首飾りを眺めた。それからふっと視線を外し、ライナーへ向けた。
「芋虫くん。おばさんの近くで転ばないようにね。うっかり引っかけたりしたら大変だよ。すごく大事なものなんでしょ」
「俺が何かやらかす前提で話すなよ!」
「今日の君を見たら、誰だって心配すると思うけど」
フェリスは軽く肩をすくめて、一歩下がった。
「じゃ、そろそろ帰るね」
「あ、ああ。送ってくれてありがとうな、フェリス」
「別にいいよ。また怪我したら治してあげる」
ひらりと手を振って背を向ける。その動きがあまりにあっさりしていて、ライナーは少し拍子抜けした。
ついさっきまで当然のように自分の手を引いていたのに、もう手の届かないところへ行ってしまったような感覚だった。
「またね、芋虫くん」
ライナーはその後ろ姿を見送った。夕暮れの光の中で、彼女の鈍い銀の髪がわずかに赤く染まっていた。
「綺麗な子だったわね」
カリナがぽつりと呟いた。
「そうか?」
「ライナー、女の子には優しくしなさいね」
「……分かってるよ」
「本当かしら。助けてもらったのに、あんなにむきになって」
「だってあいつ、俺のことずっと馬鹿にしてくるんだよ!結局、一度も名前で呼ばなかったし」
「じゃあ、次に会う時には見返さないとね」
カリナは楽しそうに笑った。ライナーは不満げに口を尖らせたが、フェリスの背中から目を離すことはできなかった。
灰色の路地の向こうへ、小さな背中が遠ざかっていく。カリナが自分の首元の飾りへ指を添えているのに、ふと気付いた。
「それにしてもあの子……誰かに似てるような」
「似てる?誰に?」
「……さあ。なんだか不思議な子ね」
母親の呟きに、ライナーは何も答えなかった。彼もまた、そう思っていたのだから。
◇◇◇◇
あの時のライナーは、まだ何も知らなかった。
母が首元に下げていた祝福の意味も、フェリスが「違う」と呟いた理由も、彼女の行く末も。
ただ、手を差し伸べられた少年は、あの日から彼女の背中を追うようになった。
しばらく娘ちゃん回想(に見せかけたライ虐)です。