フェリシア・シュタイナーと知り合ってから、数日が経った。
その日もライナーは、収容区の外れにある空き地で走り込みをしていた。決められた周回を終え、膝に手をついて息を整えていると、ふいに背後から声が降ってきた。
「肩に力入りすぎ。それ、無駄な体力使うだけだよ」
振り返ると、フェリスが木箱の上に腰掛けていた。いつからそこにいたのか、まるで気配がなかった。
「な……いつからいたんだよ!」
「芋虫くんが十周目でへばり始めたあたりから」
「見てたなら声かけろよ!」
「かけたら休むでしょ。ほら、続けて続けて」
ひらひらと手を振る仕草に、ライナーはむっとしたが、言い返す言葉が見つからなかった。実際、彼女が来てから身体から力が抜ける自覚があった。
「私もね、戦士候補生を目指してるの」
「は?」
ライナーは間の抜けた声を上げた。聞き間違いかと思った。だが、彼女の顔にからかいの色はなかった。
「お前が?なんで――」
「理由はいいでしょ、別に。それより、一人で走ってるだけじゃ強くなれないよ。組み合う相手がいないと」
「それは……そうだけど」
「でしょ?ちょうどいいじゃん。練習相手が手に入るんだよ、お互い損しないわ」
まるで市場の取引でも持ちかけるような口ぶりだった。ライナーが呑み込めずにいるうちに、話は勝手にまとまっていた。
「ただし」
フェリスは木箱から飛び降りると、一歩近付いて声を落とした。
「目指してること、あんまり言いふらさないでね」
「どうしてだ?セラさんにも内緒なのか?」
「あの人はどうだっていい」
彼女はわずかに眉を寄せ、面白くもなさそうに視線を逸らした。
「それより、一緒に住んでる兄貴……といっても血の繋がりはないんだけど、そっちが色々口うるさいのよ。絶対にバレたくない」
「お前、兄貴いるのか?」
「今、私が居候してる診療所があるでしょ。あそこに元から住んでたのよ、そいつ。んで、なぜか知らないけど私にめちゃくちゃ兄貴面してくるのよね。気持ち悪いったらありゃしないわ」
「なんだそれ……」
「知らないわよ。出会って三日目に『俺のことお兄ちゃんって呼んでいいぞ』って言ってきたのよ。三日目よ、三日目。ほんと何様なのよ」
彼女は心底面倒そうに息を吐いた。
「とにかく、知られたらあれこれ言われるの。危ないとか、向いてないとか。ま、軍に入っちゃえばどうにでもなるからそれまで黙っててもらえればいいから」
「……心配してるんじゃないのか?」
「心配って言えば何でも許されると思ってる人、嫌いなのよね」
軽く言ったようでいて、その声には棘があった。ライナーはそれ以上踏み込まず、黙って汗を拭った。
こうして二人の特訓が始まった。
収容区の外れの空き地や、使われなくなった倉庫の裏手で、二人は走り込みをし、腕立て伏せをし、見よう見まねの格闘術を繰り返した。
ライナーは母に言われた通り、マーレの戦士になって名誉マーレ人の称号を得るつもりだった。そうすれば、母はもう惨めな思いをしなくて済む。少なくとも、今よりはずっとましな暮らしが手に入るはずだった。
だが、彼女が何のために戦士を目指すのかは、あの日はぐらかされたきり、分からないままだった。
(いや、そんなことはどうでもいい……こいつは――)
「ほら、よそ見しない!そんなんじゃ戦士になれないわよ!」
フェリスは線の細い子供だった。けれど、実際に組み合ってみると、その印象は一変した。
彼女は強かった。体格はライナーの方が大きいし、力もあるはずなのに、格闘術となると、気付いた時には足を払われて地面に転がされている。掴みかかれば体をずらされ、押し倒そうとすれば逆に体勢を崩される。
「だから、もっと頭使いなよ」
仰向けに倒れたライナーを見下ろして、彼女は呆れたように言った。
「使ってる!」
「使ってそれなら、使ってない方がまだましじゃない?言い訳できるし」
彼女は軽く足先でライナーの肩をつつき、口の端で笑った。そう言われても、簡単にできるものではない。
ライナーはむきになって何度も向かっていった。そのたびに転ばされ、服を汚し、膝や肘の擦り傷を増やした。悔しかった。悔しかったが、路地裏で殴られていた時とは違い、不思議と嫌ではなかった。
「やるじゃん。その意気ね」
「お前、何か格闘技でもやってたのか……?」
「やったことないわよ。ま、才能の差ね」
彼女と出会ったあの日、ライナーはただ地面に沈んでいくだけだった。けれど今は、転んでも立ち上がればいい。立ち上がれば、彼女はまたこちらを見てくれる。
それが、悪い気はしなかった。
フェリスは運動神経が良いだけでなく、物知りでもあった。
休憩のたび、彼女は色々なことを教えてくれた。灼熱の炎が流れる川、氷で覆われた大地、どこまでも広がる砂の世界……ライナーが聞いたこともない話が、彼女の口からは当たり前のように出てきた。
母も外の話をする時がある。けれど母の話は、いつも「そういうものだから」で終わった。
フェリスは違った。ライナーが「なんで」と聞けば、「なんで」に答えが返ってきた。それが妙に嬉しくて、ライナーは休憩のたびに何かしら質問するようになった。
話が歴史に及んだ時も、その調子で聞いてしまった。
かつて悪魔のエルディア帝国は巨人の力で世界を支配し、二千年にわたって悪逆の限りを尽くした。百年前、英雄ヘーロスとマーレがそれを打ち破ったものの、島へ逃げた王は今も世界を脅かし続けている。
二千年分の罪は、百年で消えるものではない。自分達は、悪魔の末裔として償い続けなければならない――母や収容区の大人達は歴史を語る時、最後に必ずそう付け加えた。
「――って母さん達はいつも言ってるけど、島の悪魔ってどんな奴らだと思う?」
「島の悪魔ねぇ……」
「なんだよ、その反応」
「別に。知ってる話を長々とされて退屈だなって」
それだけ言うと、彼女はふと思い出したように続けた。
「そんな説教話よりさ、ライナーはタイバー家って知ってる?」
「タイバー家?えっと、どこかで聞いたことが……」
「巨人大戦の時、ヘーロスと一緒に戦ったエルディア人の一族。世界を救った英雄の家系よ」
「世界を救う……エルディア人が、か」
「そ。だからあの一族だけは特別なの。収容区の外に住んでて、塀もない広ーいお屋敷で暮らしてる。腕章もなし。マーレ人が向こうから頭を下げに来るんだって」
同じ九つの星の血を引きながら、そんな暮らしをしているエルディア人がいるなど、ライナーは考えたこともなかった。
「同じ悪魔の血が流れてても、世界を救えば扱いは変わるのねぇ」
感慨深そうに語るフェリス。それがどういう意図なのか、ライナーには分からなかった。彼女もそれ以上は語らず、話はそこで終わった。
相変わらず不思議な少女であった。しかし、ライナーにもだんだんと彼女のことが分かりかけてきていた。
特に海の話をする時だけは、彼女の声から皮肉が抜けた。
彼女の語る海は収容区よりも、マーレよりもずっと広いものらしい。ライナーにはうまく想像できなかった。
フェリスは時々、ライナーよりもずっと遠くを見ているような目をした。収容区の壁の向こう、マーレの街の向こう、そのさらに先にある何かを見ているようだった。
「なあ。お前はなんで戦士になりたいんだ?」
何度目かの訓練の後、ライナーは思い切って聞いた。
彼女は膝の土を払う手を止め、少しだけ考えるように目を伏せた。
「自由を手に入れたいから」
「自由?」
「うん」
「名誉マーレ人になりたいってことか?」
「……それとは、ちょっと違う」
彼女は少しだけ口元を緩めた。
「そっちはそっちで便利そうだけどね。腕章つけてても偉そうにできるし」
「なんだよそれ」
「家族の生活を考えてる芋虫くんは立派ってことだよ」
「だからその呼び方やめろって!」
彼女は肩を揺らして笑ったが、それ以上は説明しなかった。
ライナーには、その違いが分からなかった。名誉マーレ人になること以上の自由など、考えたこともなかったからだ。
訓練のたびに怪我を増やすライナーは、フェリスの住む診療所を訪れることも多くなった。彼女曰く、昼間は家の人間がほとんどいないから快適なのだという。
実際、彼女が毛嫌いするセラと顔を合わせることはほぼなく、例の兄貴分とやらにも一度も会わなかった。出会うのはせいぜい、奥の部屋から時折顔を出す老婆くらいだった(兄貴分の祖母らしい)
診療所の昼下がりは、不思議なほど静かだった。
フェリスがライナーの傷に薬を塗ると、ライナーが痛みに顔をしかめ、彼女がそれを見て笑う。時には、戦士隊や壁の外の話をする。外では大人達が腕章を揺らして働き、壁の向こうからはマーレの街のざわめきがかすかに聞こえてくる。
そんな日々が、しばらく続いた。
◇◇◇◇
その日の訓練が終わる頃には、日が傾き始めていた。
夏の終わりが近いとはいえ、日中の空気にはまだ熱が残っている。ライナーの服は汗と土埃でひどい有様になり、肘には新しい擦り傷ができていた。
「また増やした。ほら、見せて」
「これくらい平気だってば」
「はいはい。じっとしといてねー」
フェリスは鞄から布を取り出し、手早く泥を払った。訓練の邪魔になるからと、彼女は上着を近くの木箱に放っていた。腕章も一緒に外してあるのを、ライナーはぼんやりと眺めていた。暑い日は、彼女がそうすることも珍しくなかった。
「今日はもう帰ろ」
「まだだ!お前に負けっぱなしで終われるか!」
「そっちはよくても私が飽きたの。それに遅く帰ったら、またカリナさんが心配するでしょ」
フェリスはそう言って、木箱の上の上着を掴んだ。ライナーも土を払いながら立ち上がる。二人はいつものように、ライナーの家がある方へ歩き出した。
しばらく歩いたところで、ライナーはフェリスの左腕に目を留めた。
(あれ……そういえば)
その違和感に気づくよりも早く、前方から歩いてきた大人達が足を止めた。
「おい、そこの子」
低い声にフェリスが立ち止まる。
声をかけてきたのは、収容区の住人だった。腕にはライナー達と同じ九つの星の腕章を巻いている。仕事帰りなのか、肩から布袋を提げた男と、その後ろに二、三人の大人達がいた。
男の視線は、フェリスの左腕に向けられていた。
「腕章はどうした」
そこでようやくライナーも気づいた。彼女の左腕には何も巻かれていなかった。
収容区の中で腕章を着け忘れてしまうことは、子供のうっかりで済まされることもある。だがライナーには、そんなふうに軽く考えることができなかった。
腕章は自分達が何者であるかを示す義務であり、もしここが収容区の外だったなら、うっかりでは決して済まされない――そう教えられて育ったからこそ胸がざわついた。
フェリスも自分の左腕を見下ろした。そこに何もないことを確かめると、ほんの一瞬だけ『しまった』という顔をした。
「……忘れてました。すぐ取ってきます」
だが、彼女のそれはただ事実を認める声であり、決して謝罪ではなかった。その態度に、男の眉間の皺が深くなった。
「悪びれもしないんだな。子供だからって、何をしても許されるわけじゃないぞ」
「……そうですか?ここ、収容区ですよ。誰が見たってエルディア人しかいないじゃないですか」
「そういう問題じゃない。規則は規則だ」
「規則を守って、頭を下げて、黙っていればご主人様に褒めてもらえるんですか。犬みたいですね」
男の顔色が変わる。後ろにいた女が慌てたように周囲を見回した。
「おい、滅多なことを言うんじゃない。誰が聞いているか分からないんだぞ」
男は声を落とした。叱っているというより、周囲の壁や窓にまで怯えているような声だった。
収容区では近頃、反体制派がまだどこかに潜んでいるだの、それを探すマーレ治安局の内通者が住民の中にも紛れているだの、そんな噂が絶えなかった。誰が本当に信頼のおける者で、誰が密告のために耳を澄ませているのか、大人達にも分からないのだろう。
「いいから、今すぐ家に戻って腕章を着けてこい。お前みたいなのがいると、こっちまで目をつけられる」
「目をつけられる?」
フェリスはその言葉を繰り返した。
「私が腕章を着け忘れたら、あなた達が困るんだ?」
「当たり前だろう。ここで暮らすなら、ここでの決まりに従え」
「ここで暮らしたいなんて私は一度も言ってない」
その瞬間、周囲の空気がすっと冷えた。
男達はすぐには言葉を返せなかった。フェリスは彼らを睨みつけていた。子供が大人に向ける目ではない。自分を叱る相手への反抗ではなく、自分を縛りつけるもの全てを憎んでいるような目だった。
「フェリス!」
背後から、聞き慣れた声が響いた。
振り返ると、セラが息を切らして駆け寄ってくるところだった。買い物帰りなのか、片手には籠を提げている。彼女は大人達へ何度も頭を下げると、フェリスの左腕を見て、痛ましそうに目を細めた。
「すみません。この子、まだここでの暮らしに慣れていなくて。私からよく言っておきます」
「ちゃんと見ておいてくれ。こんなことで目をつけられたら、たまったもんじゃない」
「はい。本当に申し訳ありません」
セラはもう一度深く頭を下げた。
フェリスは、そんなセラを横目で見ていた。怒っているようにも、傷ついているようにも見える顔だった。
「ほら、フェリス」
セラは籠の中から予備らしい腕章を取り出した。フェリスの左腕へそっと手を伸ばす。
その手が触れた瞬間、彼女は身を引いた。
「触らないで」
声は小さかった。
けれど、その場にいた全員に聞こえた。
セラの手が宙で止まる。フェリスは彼女の手から腕章を奪うように掴むと、胸元で握り締めた。だが、それを自分の腕に巻くことはしなかった。
「こんなの、着けたくない」
「フェリス……」
「あなたにだけは、着けさせられたくない」
そう言うなり、フェリスは身を翻した。
ライナーが呼び止める間もなく、灰がかった髪が夕方の光を弾き、細い背中が人混みの隙間へ消えていく。
セラは追いかけようとして、一歩を踏み出しかけた。けれど、すぐに足を止める。自分が追えば、かえってフェリスを追い詰めると分かっているようだった。
走り出す拍子に落ちたのだろう。地面には、フェリスが握り損ねた腕章が一つ残っていた。
セラはそれを拾い上げ、しばらく見つめていた。
「……ライナーくん」
呼ばれてライナーはセラの方を向いた。
セラは腕章を差し出した。いつもの明るさは、そこにはなかった。
「お願い。あの子を見つけたら、これを渡してくれる?」
「俺が、ですか」
「ええ。私が行っても、たぶん受け取ってくれないから」
セラは困ったように笑った。笑おうとして、うまく笑えなかったような顔だった。
「あの子は、まだ私のことを許してくれていないから」
その言葉の意味は、ライナーには分からなかった。
だが、分からないなりに胸の奥がざわついた。セラは悪い人ではない。少なくとも、ライナーにはそう見えた。優しくて、明るくて、フェリスのことを本当に心配していた。
それなのに、フェリスは彼女を避けていた。触れられることさえ、拒んでいた。
「……分かりました」
ライナーは腕章を受け取った。
薄い布の重みはほとんどない。けれど、その軽さが妙に気持ち悪かった。こんな布一枚で、何者であるか決めつけられる。それが、フェリスには耐えがたいのだろうか。
ライナーは腕章を握り締め、彼女の走っていった方へ向かった。
彼女の姿は、すぐには見つからなかった。
収容区の路地は狭く、似たような建物が並んでいる。何度か角を曲がるうちに、ライナーは自分がどこを走っているのか分からなくなりかけた。
彼女の行きそうな場所など、考えてみたがほとんど思い付かなかった。診療所へ戻るとは思えなかったし、いつもの空き地にも姿はなかった。
名前を呼ぶのもなぜか躊躇われた。
大声を出せば、さっきの大人達や、もっと面倒な誰かに聞かれるかもしれない。そう思うと、ライナーは路地を覗き込みながら、ただ足を動かし続けるしかなかった。
やがて建物の密度が少しずつ薄くなっていった。
収容区の端だった。石造りの護岸の下を、細い川が流れている。街の排水が混じるせいで水は綺麗とは言い難かったが、夕日を受けた水面だけは、濁りを隠すように金色に光っていた。
その川辺に、彼女はいた。
護岸に腰を下ろし、膝を抱えている。左腕にはやはり腕章がない。
「……見つけた」
ライナーが声をかけると、彼女は振り返らずに答えた。
「よく分かったね」
「分かったっていうか……探してたら、ここまで来た」
「そっか」
フェリスは小さく笑ったようだった。
「川は海に繋がってるからね」
ライナーは彼女の隣に立った。座っていいのか分からずにいると、彼女が何も言わないまま、少しだけ横へ詰めた。遠慮がちに腰かける。
並んで見下ろした川は、彼女の語る海のように広くはないのだろう。綺麗でもなかった。ただ、それでも水は壁の外へ流れていた。
「セラさんから」
ライナーが腕章を差し出すと、彼女はそれをちらりと見て、顔をしかめた。
「いらない」
「いるだろ。さっきみたいになるじゃねぇか」
「別にいいじゃん」
「よくないだろ」
「ライナーはそういうとこ、ちゃんとしてるよね」
褒めているようには聞こえなかった。
ライナーは少しむっとしたが、腕章を引っ込めることはしなかった。
「ちゃんとしてるとかじゃなくて、見つかったら困るだろ。お前だけじゃなくて、セラさんだって――」
「あの人の話しないで」
鋭い声が割り込んだ。
川の流れる音だけが、二人の間に細く残る。やがて彼女は、ぽつりと言った。
「海のそばに住んでたって、前に言ったじゃん?」
「ああ」
「私ね。前までは、収容区の外でマーレ人として暮らしてたの」
ライナーは、すぐには意味を理解できなかった。
彼女は腕章のない左腕を、自分の袖で隠すように抱え込んだ。
「腕章なんてなかった。外を歩く時に誰かの許可を取る必要もなかった。お店に入っても変な目で見られなかった。休みの日は海に行けたし、砂でお城も作れた――自分が何者なのかなんて、考えたこともなかった」
その声は淡々としていた。
けれど、淡々とした声の下に、ずっと押し込められていたものが滲んでいた。
「でも、ある日から全部変わった。あの人が本当はエルディア人だったってことが分かって……私も一緒に収容区へ入れられた」
――違うもん。
出会った日、袖の九つの星に目をやった時の、あの小さな声が耳の奥で蘇った。あれは嘘でも、負け惜しみでもなかったのだ。
彼女は少なくとも、つい数ヶ月前まで自分を悪魔の末裔だとは思わずに生きていた。そう腑に落ちた次の瞬間、遅れて背筋が冷えた。
エルディア人の血を隠して、マーレ人として暮らす。それが発覚すればどうなるか。
運が良ければマーレ軍への奉仕。運が悪ければ……
「それって、バレてたら……!」
楽園送り、という言葉が喉まで出かかって、口にできなかった。目の前の彼女とその言葉とが、どうしても結びつかなかった。結びつけたくなかった。
「今まで、ずっと隠れてたってことだろ……!なんで、そんな……よく無事に収容区に――」
「さぁ?」
彼女は首を振った。取り乱すライナーとは対照的に、その横顔は静かなままだった。
「運が良かっただけかもしれない。とりあえず、私はこの収容区に引っ越して、あの診療所で暮らすことになった」
彼女は川の向こうを見つめた。
「それで、あの人が腕章を着けてた」
ライナーは、ようやく少しだけ分かった気がした。
フェリスにとって、腕章はただの布ではない。自分が何者にされたのか。何を失ったのか。その全部を目の前に突きつけてくる証だ。そしてそれがセラの腕にも、彼女の腕にも巻かれている。
「前にさ、巨人大戦の話をしたじゃん。覚えてる?」
「……ああ、それがどうかしたのか?」
「同じエルディア人でも、タイバー家は壁の外で暮らしてる。世界を救った英雄の一族だからって。腕章なんか着けなくても、マーレの外でも中でも好きに生きてる。なんでだと思う?」
「タイバー家は特別だって、お前自身が言ってたじゃねぇか」
「そう、特別になればいい」
彼女は顔を上げる。夕日の光が青い瞳の奥に差し込んだ。
「悪魔の島には、『始祖の巨人』がある。世界中の人間が怖がってる『地鳴らし』を起こす力……もし、私が戦士になってそれを奪還すればどうなると思う?」
「どうって……」
「みんなが怖がってるものが消える……そう、百年前の英雄ヘーロスとタイバー家みたいに、世界を救うことになる。そうしたら、誰も私に文句なんて言えない。腕章も、外出許可も全部いらなくなる」
彼女は一息に言い切った。
「私は取り戻す。『始祖の巨人』を手に入れて、昔みたいに自由に暮らしてみせる。誰にも咎められず、何にも怯えず、好きな場所で好きなように生きる。それがマーレの戦士を目指す理由よ」
ライナーは、声を出せなかった。
始祖の巨人。悪魔の島に逃げ込んだ王が持つとされる巨人の力。誰もが知るおとぎ話に登場する名だ。
けれど、こんな風に自身の現状を変えるための鍵として語る人間を、ライナーは見たことがなかった。
名誉マーレ人としてマーレに認められ、母と共に少しでもましな暮らしを手に入れる。それが、ライナーの考えられる精一杯だった。
だが、彼女は違った。マーレに認められるのではない。世界を救って、認めさせる。彼女が見ているのは、収容区の壁も、名誉マーレ人という称号さえも越えた、そのずっと先にあるものだった。
「分からないだろうね」
彼女は小さく言った。
「生まれてからずっと壁の中で暮らしてきた君には――海すら見たことのない芋虫くんには、私の悩みなんて分からないよ。どっちが辛いって言いたいわけじゃない……でも外の空気を知ってるから、私は余計に息ができない。最初から知らなければ、こんな思いをしなくて済んだのに」
ライナーは何か言い返したかった。
自分だって、苦しくないわけじゃない。母は今も、父の名前を口にすることさえ許されない。擦り切れた服のまま、あの首飾りだけを握り締めて泣く夜があることを、ライナーは知っている。生まれた時から壁の中で、外を知らないまま――その息苦しさだけは十分に知っているつもりだった。
けれど、それを並べたところで、彼女の痛みに届く気がしなかった。
慰めの言葉はきっと薄っぺらく響く。『仕方ない』と諭すのは筋違いだ。かといって、黙り込めば彼女の言う通りだと認めるようなものだ。
何を言えばいいのか分からないまま、ライナーの頭に浮かんだのは――彼女が唯一、皮肉抜きで語るものだった。
「俺も海を見てみたい」
フェリスが「……は?」と瞬きをしながら言うが、ライナーは構わず続けた。
「お前に自慢されるだけなんて嫌だ。俺だって見てみたい。砂の城を……お前より上手く作ってみせる」
自分でも、何を言っているのかよく分からなかった。だが、口にしてみるとその言葉は思ったよりもすんなり胸に落ちた。
自分は外の世界を知らない。見たこともない。どんな匂いがして、どんな音がして、どれほど広いのかも分からない。
分からないから見てみたいと思った。できるなら、隣の少女と一緒に。それを彼女に伝えたかった。
フェリスはしばらくぽかんとしていた。それから急に吹き出した。
「……っ、ふ、あはは!」
「な、なんだよ!」
「あはははは!何それ、そこで海?普通さ。もっとこう、励ますとか色々あるでしょ」
「うるせぇな!お前がずっと海の話ばっかするからだろ!」
「ばっかってほどしてないし」
「してる!」
彼女は肩を震わせ、目尻に涙まで滲ませて笑っていた。
ライナーは、そんな姿を初めて見た気がした。
いつもの皮肉っぽい笑みでも、呆れたような笑いでもない。ただおかしくて、堪えきれずに零れたような、年相応の笑い声だった。
「あーあ」
ひとしきり笑った後、彼女は大きく息を吐いた。
「一人で抱えてた私が馬鹿みたいじゃん」
「……俺が馬鹿って言いたいのか?」
「あれ、自覚なし?」
「お前なぁ」
睨むと、彼女はまた楽しそうに笑った。
その笑い声が少し落ち着いた頃、ライナーはようやく、胸の奥に引っかかっていた疑問を口にした。
「でも……よかったのかよ、俺なんかに話して」
さっき自分の背筋を冷やした言葉が、まだ胸に残っていた。彼女の過去は知られたら終わりの秘密のはずだ。出会って数ヶ月の、ただの特訓相手でしかない自分に明かしていいものではない。
フェリスはすぐには答えなかった。
川面を流れる小さな木片を目で追いながら、何かを考えているようだった。さっきまで笑っていた横顔に、また少しだけ大人びた色が戻る。
「まあ賭けだよね。君が誰かに喋ったら、私は終わり」
「し、しゃべらねぇよ!」
「ふふ、どうだか」
彼女はからかうように言ってから、ふいにこちらを向いた。
「でもね、思ったの。私は『神の子』で、君は神様に選ばれた芋虫くんなんでしょ?」
「芋虫は余計だ」
「じゃあ、神様に選ばれたライナーくん」
わざとらしく言い直してから、彼女は悪戯が成功したように笑った。
「そんな二人が揃ってるんだよ。だったら黙って一人で抱えてるより、賭けてみたくなったの……二人なら、いつかここじゃないどこかへ行けるかもしれないって」
フェリスはライナーの手から腕章を取った。今度は拒まなかった。
彼女はしばらくその布を見下ろしていた。九つの星が夕日の色を受けて、赤黒く沈んで見える。それから、ゆっくりと左腕に巻いた。慣れていないわけではないはずなのに、その手つきはどこか不器用だった。
「今だけだから」
彼女は呟いた。
「いつか、こんなの外してやる」
それは誰に向けた言葉でもなかったのかもしれない。
けれどライナーは、なぜか頷いていた。
フェリスは立ち上がると、川の方へ数歩進んだ。夕日がその背中を照らし、灰がかった髪の輪郭を金色に縁取る。左腕の腕章だけが、その光の中でひどく小さな影のように見えた。
「ねぇ、ライナー知ってる?」
彼女は振り返り、両手を目いっぱい広げた。
「海ってね、こーんなに広いんだよ!」
あの時のフェリスは、半分くらいライナーを揶揄っていただけなのかもしれない。けれど当時の彼はそんなことを思いもしなかった。
夕日を背に受け、両手を広げる少女の姿はどこまでも美しく、自由に見えた。
次話以降、他の戦士達が出てきます。
なお「将来的に退場するキャラのスペックはいくらでも盛っていい」とミトおばさんが教えてくれたので、パワーバランスは娘ちゃん>>>>ライナーになってます。ライナーはこの世界でもドベ生活を楽しんでください。