エレンの妻です   作:ホワイト3

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51:神の子③

 世界を救っても、日常は変わらなかった。

 

 朝は収容区の検問を通って軍本部へ出向き、夜には同じ検問を経て帰る。左腕には、今日も九つの星の腕章がある。多少待遇が良くなったとはいえ、かつて夢見た自由には程遠く、壁の外で暮らすことなど夢のまた夢だった。

 

 その日、ライナーは緊急の軍事会議に呼び出された。通された会議室では、上層部の面々が苦虫を噛み潰したような顔を突き合わせていた。

 

 誰かの拳が机を叩き、書類が跳ねる。

 

「どうなっている!中東諸国が宣戦布告だと!」

 

 彼らの狼狽ももっともだった。

 

 マーレが『始祖の巨人』の獲得を世界へ公表して以来、世界を覆っていたパラディ島脅威論は影を潜め、諸外国との緊張は目に見えて緩んだ。人々は英雄国マーレを称え、束の間の平和を享受していた。

 

 しかしひと月も経たぬうちに、とある小国の資源をめぐって、マーレと諸外国の対立が表面化した。

 

 当初マーレ上層部は事態を歯牙にもかけていなかった。軍勢の差は明白であり、何よりこちらの手には『始祖の巨人』がある。

 逆らうというなら、貴様らの国土を丸ごと更地に変えてやる――そう恫喝してみせれば、他国は震え上がって引き下がるに違いない。上層部はそう高を括り、交渉の席でも高圧的な態度を崩さなかった。

 

 だが諸国は同盟を結び、宣戦布告を叩きつけてきた。それはマーレの想定にない一手であり、極秘裏にパラディ島への再侵攻を計画していた彼らにとって、最も避けたい事態だった。

 

「ハッタリに決まっている!所詮は小国共の悪あがきよ」

 

「そうとも。見せしめに一都市でも焼いてやれば、すぐに泣きついてこよう」

 

「しかし奴ら、『地鳴らし』が恐ろしくないのか……?」

 

 誰かが発したその疑問にテオ・マガトが間髪入れず割り込んだ。

 

「……恐れていないのではありません。恐れる必要がないと、連中は知っているのでしょう」

 

 低く落ち着いた声が、卓上のざわめきを静めた。一斉に視線が集まる中、彼は手元の戦況図から顔も上げずに続けた。

 

「『始祖』の行使には王家の血が要る。そして現状、我々の手にその血はない。奴らがそこまで掴んでいるのなら、此度の宣戦布告は無謀どころか実に理に適った一手です」

 

「馬鹿な!『始祖』の情報は最高機密だぞ!なぜ奴らが知っているのだ!」

 

「情報が漏れていると考えるべきでしょう」

 

 マガトはようやく顔を上げた。

 

「それだけではありません。奴らは交渉の余地を自ら捨て、早々に武力行使へ踏み切った。我々が王家の血を求め、再びパラディ島への侵攻を計画していることまで掴んでいるのなら――『始祖』が牙を剥く前に叩いておく。そう考えれば、奴らの動きは全て辻褄が合います」

 

「マガト。まさか貴様、マーレ軍内……いやこの中に裏切り者がいると言いたいのではあるまいな」

 

「私はあくまで可能性を申し上げたまでですが……まあ、居てもおかしくはありませんな」

 

 その一言で、会議室の空気が変わった。将官達は互いの顔色を盗み見るようになり、しまいには日頃の不和を持ち出して、貴様こそ怪しいと罵り合う者まで現れる始末だった。

 

「……すべては、あの悪魔のせいだ」

 

 醜い応酬を断ち切ったのは、上座から漏れた低い呟きだった。

 

 全員の脳裏に同じ人間の顔が浮かんでいるようだった。年嵩の将官ほど、露骨に顔を強張らせている。輪の外にいるのは、かつての混沌を知らぬライナーただ一人だった。

 

「ジルケ・クルーガー」

 

 カルヴィ元帥はその名を忌々しげに舌へ乗せた。

 

「あの悪魔がかつて『フクロウ』と張り巡らせた反マーレの網は今なお我が国を蝕む最大の癌だ。『始祖』の機密の出所も、マーレ軍内の内通者も元を辿れば必ず奴に行き着くだろう。奴の息の根を止めぬ限り、マーレに真の平穏は訪れん」

 

「……元帥殿。内通者の件でしたら、炙り出す手が無いわけではありません」

 

 マガトが口を開くと、全員の視線が再び彼へ集まった。

 

「内通者があの悪魔の手先であるなら、十中八九エルディア人でしょう。ならば話は単純です。疑わしき者に巨人化薬を呑ませればいい。マーレ人には何の変化もありませんが、悪魔の血だけが嫌でも正体を現すでしょう。ここにお集まりの皆様の潔白も、すぐに証明できます」

 

 一瞬の静寂の後、弾けたのは怒声だった。

 

「ふざけるな!」

 

「あんな汚らわしいものを口にするくらいなら、ゴキブリを食った方がマシだ!」

 

 将官達の声は上擦っていた。その剣幕には単なる嫌悪を超えた、骨身に染みついた怯えのようなものが滲んでいる。マガトもその反応を予想していたようで、「……でしょうな」と深追いせず静かに頷いた。

 

 結局のところ誰も本気で内通者を炙り出す気などないのだと、暗に言っているような調子だった。

 

「……尚更、諸悪の根源を断つほかあるまい」

 

 元帥が言った。

 

「パラディ島だ。作戦を前倒しし、王家の血の確保と併せて、あの悪魔の首を獲る」

 

「お言葉ですが、元帥殿。今更あの女を追ったところで、事態は好転しません。あの夫婦がエルディア革命軍を率いていたのは、二十年近く昔の話です。それに東で戦端が開かれた以上、島への侵攻と二正面で事を進める余力は今の我が軍にありません」

 

「侵攻作戦を捨てろと言うのか、マガト」

 

「延期を、と申し上げております。そもそも、島で王家の血を探し出すこと自体が生易しい話ではない。あちらには、あの悪魔がいるのですから」

 

 マガトは淡々と続けた。

 

「王家の血の価値を、奴は誰よりも知り尽くしている。肝心の王家は、今ごろ壁の奥深くに匿われているでしょう。見つけ出すだけで何年かかることか――その間に東を焼かれては元も子もありません。今は過去の亡霊ではなく、目の前の戦争と、現在反マーレ勢力を率いていると思しき当代の『フクロウ』にこそ、目を向けるべきかと」

 

「確かに連中は目障りだ。お灸を据える必要があろう。だが戦士隊の報告では、奴は未だパラディ島に潜み、王家を傀儡にエルディアの復権を企んでいるのだろう?これを危機と言わずして何と言う」

 

「……『白衣の女神』などと勝手に持て囃し、勲章を与え、軍の中枢にまで招き入れた。その壮大なツケを払う時が来たということでしょう」

 

「ああ、そうだ。もとはと言えば、貴様があの悪魔を見出さなければ、今日の混沌は生まれなかったのだ」

 

「元帥殿。今は責任の所在を論じている場合では――」

 

「黙れ。あの一件で貴様の首が飛ぶところを庇ってやったのが誰か忘れたのか?」

 

 元帥は生気のない瞳のまま遮る。鼻を鳴らし、会議卓の末席のライナーへと視線を移した。

 

「『救世の英雄』ライナーよ。『始祖』を当てにできん以上、貴様らマーレの戦士隊が柱だ。戦士長として、中東の蛮人共を皆殺しにしてこい」

 

「元帥!他の戦士はともかく、戦士長(ライナー)の前線投入は戦局を見極めてからでも――」

 

「くどいぞ、マガト。我々は世界に冠たる英雄国なのだ。これ以上、周辺国の増長を赦すわけにはいかん」

 

 マガトは今度こそ何も言わなかった。

 

「いいか、ライナー。マーレの誇る英雄として無様な姿を晒すのではないぞ」

 

 ライナーは頷いた。頷くより他になかった。

 

 顔を上げた時、ふとマガトと目が合った。値踏みとも、案じるともつかない眼差しが、一拍だけライナーの上に留まる。ライナーが見返すより早く、その視線は手元の戦況図へ戻っていた。

 

 会議は島への侵攻作戦の判断を持ち越したまま、開戦準備の大綱だけを決めて散会となった。会議室を出ると、廊下の窓から西日が差し込んでいた。

 

 重い足取りで歩くうち、中庭の方から若い掛け声が聞こえてくる。

 

 戦士候補生達だ。隊長の怒号の下、重い銃器を抱えたまま走り込みを繰り返している。先頭を駆けるのはガビだった。年上の少年達を軽々と引き離し、得意げに振り返っている。

 

 列の後方で、小柄な少年が足をもつれさせて転んだ。それでもすぐに起き上がり、列を追いかけていく。その姿がかつての自分そっくりであった。

 

 ここのところ、妙に昔のことを思い出す。

 

 理由は分からなかった。『始祖』を奪還し、英雄などと呼ばれるようになってから過去はむしろ遠ざかったはずだった。

 

 もう戻れない場所で……戻る資格もない時間なのに、ふとした瞬間、土埃の匂いや夕日の色が忘れたい出来事を引きずり出してくる。

 

 目を閉じる。候補生達の掛け声が、遠い日の記憶と静かに重なっていった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 戦士候補生としての日々は、それまで受けてきた軍事訓練とは質の違うものだった。

 

 数年に及ぶ訓練と選抜試験をくぐり抜け、候補生の席を得た者は、志願者のほんの一握りに過ぎない。だが、選ばれた喜びに浸ることができたのは最初の数日だけだった。ここから先は、些細な動作や言動全てが考課の対象になる。『九つの巨人』の継承者の座を巡って、候補生達は互いをふるい落とすための日々を重ねていた。

 

 その中で、ライナーの成績は最下位だった。

 

 筆記、とりわけ試験で綴るマーレへの忠誠心こそ並々ならぬ評価を得ていたが、体術も射撃も判断力も、どれを取っても同期の中では見劣りした。隊長の怒声を最も多く浴びるのはいつも彼で、組手で引き倒される回数も群を抜いている。

 

「おいドベ。今日もビリか?安定してるなぁ、おい」

 

 その日も最後尾で外周走を終えたライナーの背中に、聞き慣れた声が降ってきた。振り返らなくても分かる。ポルコ・ガリアードだった。

 

 口の悪さなら候補生随一。実力が伴っているだけに質が悪く、ライナーのことは頑なに「ドベ」としか呼ばない。入隊初日、整列の並び順を間違えたライナーを鼻で笑ったのが始まりで、以来この調子が一日も欠かさず続いている。

 

「よくもまあ、その実力で候補生になれたもんだぜ」

 

「……次は勝つ」

 

「次も何も、百回やって百回同じだろうが」

 

 走り終わりの朝は、決まってこうだった。ライナーも慣れた――ことにしていた。勝てた試しがないのだから、慣れたことにするしかなかった。

 

 だがポルコが突っかかる相手は、ライナーだけではなかった。

 

「どうだろうね」

 

 息一つ乱さず割り込んできたのは、とうに走り終えていたフェリスだった。

 

「私からすれば、ポルコもライナーも似たようなものだけど。どっちもどっち」

 

 ポルコの眉が跳ね上がった。「適当なことを言うんじゃねぇ」と切って捨てられないのが、なにより腹立たしいのだろう。実技総合で彼の上にいる同期は数えるほどしかいないが、フェリスはその一人だった。

 

「ドベと一緒にすんじゃねぇ!白髪頭!」

 

「悪口のセンスまで私以下なんてね。いっそ黙ってた方が賢そうに見えるんじゃない?」

 

「テメェ……!」

 

 この二人も、初日から反りが合わなかった。

 

 きっかけが何だったのかは、もう誰も覚えていない。ただ、実技で組ませれば互いに本気で潰しにかかり、座学で隣に座らせれば小声の応酬が止まらず、マガト隊長が何度組分けを変えても視線だけで火花を散らした。

 ポルコが吠え、フェリスが刺す。刺された分だけポルコがまた吠える。兵舎の誰もが見慣れた光景だった。

 

 ライナーには、フェリスが自分を庇ってくれているのかどうか、いつも分からなかった。ポルコはそんな彼に対し、「いっつも女の後ろに隠れてやがる。ダセぇんだよ」と言うが、それを聞くとフェリスが割って入るなり

 

「そうだよ、ライナーはダサいよ。でも、それを言っていいのは私だけだから」

 

 と擁護かどうかわからない言葉を続けるのであった。

 その日も、いつもの応酬で終わるはずだった。ポルコが掴みかかり、フェリスがその手首を払う。その時だった。

 

「――随分と賑やかだな」

 

 低い声が落ちた瞬間、二人の動きが止まった。

 テオ・マガト。戦士候補生の生殺与奪を握る男が、腕を組んでそこに立っていた。二人の対決を遠目で見ていた者達は弾かれたように姿勢を正し、ポルコとフェリスは掴み合いの形のまま固まっている。

 

「訓練場を喧嘩の場と勘違いしている者がいるようだ。ちょうどいい、考課に――」

 

 マガトの口が開きかけた、その半瞬早く、一人の候補生が進み出た。

 

「報告します」

 

 マルセル・ガリアードだった。よく通る声で、姿勢は微塵も崩れていない。

 

「次の組手の順番を決めていたところ、二人とも自分が先にやると譲らず、白熱してしまいました。気の緩みではなく、むしろその逆です」

 

 よくもまあ、すらすらと。それもマーレ人の隊長相手に。ライナーは内心で舌を巻いた。

 

「とはいえ、お見苦しいところをお見せしたのは事実です。頭を冷やさせます。二人に外周十周、自分が責任を持って監督いたします」

 

 マガトは何も言わなかった。ただ、値踏みするような目でマルセルを見据えている。この男が候補生の口車に乗るはずがない。皆がそう思い、息を詰めた数秒の後――マガトは短く息を吐いた。

 

「……二十周だ。三人で走れ」

 

「はっ」

 

 マガトはそのまま何も言わず、訓練場を後にした。

 

「……っだよ!兄貴、余計なこと言いやがって。黙ってりゃ説教で済んだかもしれねぇだろ!」

 

「済むか。考課に喧嘩両成敗と書かれるより、二十周の方がよっぽど安いだろ。ほら、走るぞ。日が暮れる」

 

「私、悪くなくない?」

 

「お前もだ、フェリス」

 

 これが、マルセル・ガリアードという男だった。

 

 機転が利き、口がうまい。教官達の機嫌の波から同期の不調まで、聞く前に先回りして把握している。ポルコとフェリスという二つの火種を抱えたこの集団が曲がりなりにも回っているのは、半分以上この男のおかげだと、ライナーですら分かっていた。

 

 罰走を終えた三人が戻ってくる頃には、訓練場はいつもの騒がしさを取り戻していた。ポルコはまだ不満げに兄へ文句を言い、フェリスは汗一つ見せずに「この程度で根を上げるなんて」と彼を煽っている。

 

 ライナーは水筒を握ったまま、その光景をぼんやり眺めた。

 

 候補生になったばかりの頃は、周りを見る余裕などなかった。自分が落とされないように、母を失望させないように、それだけで精一杯だった。

 

 けれど日々が積み重なるにつれ、嫌でも分かってくる。ここにいる者達だって何かを背負っていることを。

 

 アニ・レオンハートはいつも輪の外にいた。

 

 誰とも群れたがらず、話しかけても返事は最小限。近付きがたいというより、近付くなと全身で告げているような少女だった。

 

 ただ、格闘術の時間だけは少し違った。

 相手の懐へ踏み込み、地面へ叩きつけるその瞬間だけ、すました横顔の奥にわずかな熱が灯るのをライナーは何度か見たことがあった。

 

 一度、フェリスが組手の相手として名乗りを上げたことがある。ライナーを毎日転がしている張本人なら、いい勝負になるはずだった。

 

 結果は五秒だった。

 

「……もう一回」

 

「無駄」

 

「もう一回」

 

 むきになったフェリスを、ライナーは初めて見た。結局その日、彼女は七回投げられ、七回目にようやくアニの足を半歩だけ下がらせた。アニは何も言わなかったが、去り際ほんのわずかに眉を動かして「やるじゃん」と呟いていた。

 

 ピーク・フィンガーは、いつも眠たげだった。

 

 瞼は常に半分落ちていて、返事はワンテンポ遅く、歩き方まで気だるげときている。ところが図上演習で判断を問われると、誰よりも早く、誰よりも正確な答えを出した。

 

 休憩時間、フェリスがそんなピークの隣に腰を下ろすことがある。

 

「また寝てるの?」

 

「寝てないよ。体力を温存してるだけ」

 

「便利な言い訳ね。今度使おうかな」

 

「フェリスが使ったら、多分外を百周は走らされると思うよ」

 

「なんで私だけそんな扱いなのよ」

 

 眠たげな声で返され、フェリスは少しだけ口を尖らせる。だが、ピークの隣にいる時だけはいつもより棘が抜けている気がした。

 

 ベルトルト・フーバーは、ライナーにとって初めてできた同性の友人であった。

 

 背丈と潜在能力なら人並み以上なのに、いるのかいないのか分からないほど影が薄い。自分から口を開くことはほとんどなく、ポルコに凄まれれば俯き、フェリスに軽口を叩かれれば曖昧に笑う。

 

 だがライナーが訓練で倒れ込んだ時、真っ先に手を差し伸べてくるのは、決まって彼だった。

 

「……大丈夫?」

 

 声はいつも遠慮がちで、言葉もそれきりだった。それでも差し出された手を掴んで立ち上がるたび、ライナーは思い出す。かつて路地裏で、有無を言わさず自分の手を引いてくれた彼女のことを。

 

 ライナーの世界は一気に広くなった。

 

 候補生になって変わったことの一つに、外出許可がある。収容区の外へ出る手続きが、候補生の身分なら格段に通りやすいのだ。

 もちろん完全な自由ではない。行き先、同行者、帰還時刻まで書かされ、軍の気分一つで却下される。それでもただの収容区民だった頃に比べれば、門の向こうはずっと近くなった。

 

 ある休日を前に、それを使って出かけようと言い出したのはフェリスだった。行き先を聞いて、ライナーは耳を疑った。

 

 海だという。

 

 冗談だと思った。だが翌日には軍の任務で不在のジークを除く人数分の許可証がマルセルの手で揃えられ、当日、門を潜った一行は本当に港の外れまで歩いていた。壁の外の道をこんなふうに歩くこと自体、ライナーには初めての経験だった。

 

 防波堤の切れ目を抜けた瞬間、視界のすべてが青に変わった。

 

 どこまで目を凝らしても、水と空の境目しかない。遮るものが何もないというのは、こういうことか。

 

 彼女の自慢話は、誇張でも何でもなかった。呆然と立ち尽くすライナーの横を、真っ先に靴を脱ぎ捨てたフェリスが駆け抜けていく。ポルコが「ガキかよ」と悪態をつきながら、結局その後に続いた。

 

 だが、波打ち際まで走ったフェリスは、一瞬だけ足を止めた。

 

 はしゃいでいたはずの横顔から、ふっと表情が抜け落ちる。寄せてきた波が裸足のつま先に触れても、彼女は逃げなかった。ただ、目の前に広がる海を見つめていた。まるで、ずっと前に置いてきたものが、そこにまだ残っているかを確かめているようだった。

 

 ライナーが声をかけるより早く、フェリスはいつものように振り返った。

 

「ね、言った通りでしょ」

 

 得意げに笑ったその顔は、もう普段の彼女に戻っていた。

 

 ベルトルトは所在なげに全員分の荷物を抱え、渋るところを半ば強引に連れてこられたアニは離れた岩に腰を下ろし、ピークは波を眺めたまま砂の上に座り込んだ。

 

 寄せては返す波に足首を浸したまま、ライナーはしばらく動けなかった。潮の匂いも、波の音も、何もかもが彼女の話の通りで――そのどれも想像以上だった。

 

 帰り道は、日に灼けた鼻の頭を痛がるポルコとライナーをフェリスがさんざん揶揄い、いつもの応酬が始まり、いつものようにマルセルが収めた。

 

 それだけの一日だった。そしてそれだけの一日が、ライナーには何より特別だった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 何日経っても、あの青は瞼の裏から消えなかった。

 名誉マーレ人になれば、今より自由に外へ出られる。母さんだって、もう検問で嫌な顔をされずに済むはずだ――銃器の手入れの合間、つい口に出たその夢は自分でも驚くほど眩しく響いた。

 

 だが、すぐ隣から鼻で笑う声がした。

 

「外に出たいだけかよ」

 

 ポルコだった。

 

「そんなんで戦士になれると思ってんのか、ドベ」

 

「別にそれだけじゃねぇよ!」

 

「噂じゃあ金さえ積めば、裏社会の連中がマーレ人の身分証一式を偽造してくれるらしいぜ。どうしても外に出たいだけなら、そっちを頼ればいいだろ」

 

 ポルコは得意げに言った。どこで聞きかじったのか、知っていることをひけらかさずにはいられないような口ぶりだった。

 

「戦士の座はマーレに命を捧げる覚悟のある奴のもんだ。テメェみたいな半端な理由の奴に回ってくると思うなよ」

 

「へぇ」

 

 その横で、フェリスが感心したように声を上げた。

 

「ずいぶん詳しいんだね」

 

「あ?」

 

「金でマーレの身分を買えるんだってね。そんな噂、どこで聞いたのかなって」

 

 ポルコの顔から、得意げな色がすっと抜けた。

 

「……近所の奴らが言ってただけだ。ただの噂だっつってんだろ」

 

「ポッコを治安当局に売ったら、どれくらい報奨金もらえるかな」

 

「おい、やめろ!冗談でも言っていいことと悪いことがあるだろ!」

 

「あれ、冗談だったんだ。てっきりそっちの筋にツテがあるのかとばかり……」

 

「んなわけねぇだろ!」

 

 いつものようにポルコが吠え、フェリスが肩をすくめる。周りにいた候補生達も、また始まったとばかりに呆れた顔をした(それ以降、ポルコは少しだけ言葉を選ぶようになったような気がする)

 

「うちの弟がいつもすまん。口は悪いが、本心からあんな馬鹿なことを言ったわけじゃないんだ」

 

「知ってる。ま、どっちにしろ馬鹿は馬鹿だけど」

 

「おい!」

 

 ポルコがまた噛みつき、マルセルが苦笑して宥める。見慣れた光景だった。

 

 ただ、その時だけ、ライナーは少しだけ引っかかった。

 マルセルは確かに笑っていた。いつものように、困った弟を庇う兄の顔で、フェリスとポルコの間に立っていた。

 

 その笑みは、ほんのわずかにぎこちなく見えた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 目指すものも、抱えているものも、ばらばらの同期だった。

 それでも同じ釜の飯を食い、同じ怒声に絞られ、同じ罰走を走るうち、候補生達の間には奇妙な連帯が芽生えつつあった。憎まれ口も、皮肉も、遠慮がちな手も込みで――悪くない日々だと、ライナーは思っていた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 日常の底に小さな亀裂が入ったのは、ある夕暮れのことだった。

 その日、二人はマガトの使いで軍本部へ書類を届けた帰りだった。日はすでに傾き、収容区の門限までさほど余裕がない。大通りへ向かおうとしたライナーの袖をフェリスが引いた。

 

「こっち。倉庫街を抜けた方が早いの」

 

「お前、ほんと裏道好きだよな……」

 

「近道って言ってよ」

 

 港に近い倉庫街は、この時間になると人気が絶える。荷揚げはとうに終わり、積み上げられた木箱の谷間を、潮の匂いだけが通り抜けていく。数週間前、皆で見たあの海と同じ匂いのはずなのに、日の落ちかけた倉庫の谷間で嗅ぐそれは、なぜか少し冷たかった。

 

 角を曲がりかけてライナーは足を止めた。

 

「……あれ、マルセル?」

 

 倉庫と倉庫の隙間、薄闇の溜まった袋小路に見慣れた背中があった。間違いない、マルセルだ。

 だが、その向かいに立つ人影を認めた瞬間、ライナーは足の裏が地面に貼りついたように動けなくなった。

 

 男は外套を羽織っていた。けれど襟元から覗いた徽章をライナーは見逃さなかった。

 

 マーレ治安当局だ。収容区の人間なら、誰でも見分けられる。

 

 マルセルが、捕まっている?

 

 考えるより先に、足が前へ出かけた。その襟首を、フェリスの手が掴んで引き戻す。振り向くと、彼女は唇に人差し指を立てていた。いつもの揶揄うような色は、その顔のどこにもなかった。

 

 二人は陰に身を沈め、息を殺した。

 

 マルセルは直立していた。背筋は伸びているのに、どこか強張って見える。目は伏せがちで、男の言葉に短く頷くばかりだった。訓練場では誰より落ち着き払っているあの男が、明らかに緊張していた。

 

 男は他の治安局の人間のようにエルディア人(マルセル)を小突きもせず、壁へ押し付けもしない。ただ、低い声で何やら言葉を交わしている。その静けさが、かえってライナーには気味悪く思えた。

 

 やがて、マルセルは小さく折り畳まれた紙片のようなものを取り出すと、ほんの一瞬だけ固まった後、それを男へ差し出した。男は指先で摘まみ上げると、何も言わずに外套の内側へしまった。

 

 男が先に踵を返し、倉庫の向こうへ消えていく。

 残されたマルセルは、しばらくその場を動かなかった。それから大きく息を吐くと、反対の方角へ歩き出す。最初の数歩は重かった。けれど角を曲がる頃には、その足取りは訓練場で見るいつもの軽いものに戻っていた。

 

 足音が完全に消えるまで、フェリスは動かなかった。

 

 倉庫街を抜け、大通りの雑踏に紛れてから、ライナーはようやく口を開いた。

 

「……今の、なんだったんだ。マルセル、治安当局に目をつけられて……」

 

「られてない」

 

 フェリスの声は静かだった。

 

「どうして分かるんだよ」

 

「あいつらがエルディア人を呼び止める時はね、もっと騒がしいの。わざと人の多い場所でやるんだから。見せしめだもの」

 

 収容区に来てからまだ長くはないはずなのに、その声には、見たくもないものを何度も見て覚えた者の確信があった。

 

 フェリスは前を向いたまま、早足を緩めずに続ける。

 

「人目のない場所を選んで、静かに済ませる用事……ろくなものじゃないね」

 

「どうする?本人に聞くか?」

 

「聞いてどうするの」

 

 フェリスは初めてこちらを見た。

 

「マガト隊長相手にすら口が回るマルセルだよ。私達が聞いたところで丸め込まれて終わりだし……藪蛇になるかもしれない」

 

「でも……」

 

「でも、何?」

 

 短く返され、ライナーは言葉に詰まった。

 

「……とにかく帰ろう」

 

 それきりフェリスは口を閉ざした。収容区の門を潜り、診療所への道が分かれるところで、彼女は「じゃ、また明日」といつもの調子で手を振った。まるで、何も見なかったかのように。

 

 その夜、ライナーは寝台の上でなかなか寝付けなかった。

 いつか聞いた噂がふいに頭をよぎる。

 

 収容区の住民の中に、治安当局の内通者が紛れ込んでいる――。

 

 ライナーは慌ててそれを打ち消した。マルセルに限って、そんなはずがない。あれは何かの間違いだ。呼び出されて上手く切り抜けただけだ。きっとそうだ。

 

 そう思い込もうとするたび、薄闇の中で強張ったマルセルの背中が瞼の裏に浮かんだ。




もう何話か過去編続きます。
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