戦っても戦っても、戦争は終わらなかった。
中東連合との開戦当初、世界最強の軍事国家たるマーレの勝利を疑う者は少なかった。英雄国の名に相応しい力を見せつければ、寄せ集めの小国共などすぐに膝を折る。マーレ国内の誰もがそう考えていた。
だが、現実はそうならなかった。一つの戦線を押し上げれば、その後方で反乱が起きる。主要都市を制圧すれば、今度は郊外で武装蜂起だ。マーレ軍は勝ち続けているはずなのに、踏み潰した火種が別の場所で燃え上がるように、戦火は広がり続けた。
気付けばそれは中東連合との戦争であると同時に、マーレからの独立を求める者達との戦いへと、様相を変えつつあった。
ライナー達戦士隊も、戦火に応じて各地を転々とした。勝ったはずの土地の名を覚える前に、次の命令が下る。その夜も、ライナーは新たな戦地へ向かう列車に乗っていた。
車内は薄暗く、軍服姿の兵士達が思い思いに身体を休めている。車輪が線路を叩く規則的な音と、時折どこかで軋む鉄の音だけが車内に満ちていた。
ライナーは窓際の席に座り、膝の上で組んだ手を見下ろしていた。爪の間には、洗っても落ちきらなかった土が残っている。鎧の巨人になれば、生身の足で戦場の土を踏むことはない。
それでも、どれだけ水で洗い流しても、戦地の汚れは体のどこかに残り続けた。
「おつかれー」
通路の方から気だるげな声がした。
顔を上げると、ピーク・フィンガーが立っていた。いつものように瞼は半分落ちていて、今にも眠りそうな顔をしている。けれど、その足取りにふらつきはない。彼女は空いていた向かいの席に腰を下ろすと、背もたれに身体を預けた。
「同じ列車だったんだ。珍しいね」
「……ピークも次の戦地か」
「うん。車力は便利だからね。ライナーほどじゃないけど、あっちこっちに引っ張りだこだよ」
ピークはそう言って、窓の外へ目を向けた。冗談めかした響きに、どこか皮肉るような色も混じっていた。
「ベルトルトは?」
「他の植民地に回されてるよ。超大型の力を見せつけておきたいんだって。反乱の芽をあらかじめ摘んでおきたいんだろうね」
「……そうか」
「心配?」
「……あいつならやれるだろうよ」
「世界を救った英雄様に太鼓判を押されちゃベルトルトも安泰だね」
「くだらん冗談はよせ」
「ああ、一応ベルトルトも英雄の片割れだったっけ。ごめん、忘れてたよ」
「そういうことじゃないんだが……」
ピークは小さく笑った。それきりしばらく、二人は列車の揺れに身を任せていた。
「でも、この戦争もようやく終わりが見えてきたらしいよ」
「終わり?」
「うん。マガト隊長はそう言ってたよ。敵勢力の主だった抵抗拠点も、もうだいぶ潰したからね。今回の方面を押さえれば、あとは講和条件をどこまで飲ませるかって話になるんじゃないかな」
そうしてピークは「四年か」と感慨深そうに呟いた。
「長かったよねぇ。最初はすぐ終わると思ってたのに」
「……ああ。家族とも碌に顔を合わせられてねぇな」
「ねー。ライナーなんて島から帰ってきて、それからずっと戦争だもんね。よく働くよ、実際」
ピークのねぎらいの言葉も、ライナーにはあまり響かなかった。
窓に映る自分の顔を見る。英雄と呼ばれる男の顔には見えなかった。くたびれた軍服を着た、ただの兵士の顔だった。
「この戦争が一段落すれば、私達も少しは息をつけるんじゃないかな。前線ばっかり回されるのも、そろそろ勘弁してほしいしね」
「休めると思うか?」
「少しはね。ほら、マーレには次の大きな見せ場があるでしょ。世界へ威信を見せつけるのに、ちょうどいい大舞台が」
「……何の話だ?」
「『万博』だよ……ああ、そっか。ライナーが島にいた頃に進んでた話だから、詳しく知らなくても無理ないか」
万国博覧会――世界中から人や技術を集め、各国の文化が一堂に会する祭典。ヒィズルとマーレの国際交流から派生して生まれた催しだ。その程度の知識なら、ライナーにもあった。
「今回の開催地、レベリオだよ」
「レベリオでやるのか?」
「そ。本当なら、ライナーが島から戻った翌年に開くはずだったんだけどね。戦争で延期になっちゃった」
ふと、ライナーは軍本部の近くに聳える巨大な鉄塔を思い出した。遠目にも分かるほど高く、レベリオのどこからでも目に入る。随分と大仰なものを建てると思っていたが――
「ご名答。それが今回の目玉だよ。金の無駄だってさんざん叩かれて、工事も遅れに遅れて……ま、最近ようやく完成したらしいけど」
ピークは肩をすくめた。
「ただ皮肉な話だけど、今となっては延期して正解だったのかもね。ライナー様が始祖を奪還してくれたおかげで、少なくとも外向きにはマーレの地位は盤石になった。新しい時代の頂点は誰か――そのお披露目をするには、絶好の舞台になったってわけ」
「……ずいぶん饒舌だな。楽しみなのか?」
「え、当たり前じゃん。世界各国の美味しいものが集まるんだよ?」
「そう……か」
その答えは、どこか壁の中の、かつての同期を思い起こさせた。
ライナーは小さく首を振り、その面影を振り払った。あの島のことは思い出したくなかった。
「顔に出てるよ」
ピークの眠たげな目が、いつの間にかこちらを見ていた。
「今、何か考えてたでしょ。島のこと?それとも――フェリス?」
「……何も考えてねぇよ。お前の勘違いだ」
「嘘つき」
自分でも分かるほど、返事が硬くなった。ピークはしばらくライナーの顔を眺め、それから得心したように小さく息を吐いた。
「島の方かぁ……」
「なんでわかるんだよ」
「フェリスの方なら、もっと分かりやすい顔をするだろうからね」
どう分かりやすいのか、とも聞かずライナーは黙るしかなかった。窓の外へ目を逃がす。
「まあ、どうせ嫌でも向き合うことになると思うよ。この戦争が終われば、島への侵攻作戦も再開するだろうからね。ただ――」
ピークはそこで言葉を切った。
「ねぇ、ライナー。知ってる?軍はパラディ島への大攻勢を見据えて、この三年間で三十二隻の調査船を出したんだけど……そのどれも、帰ってきてないんだって」
「一隻もか?」
「そう。一隻も」
ピークは頷いた。だが、その声にはいつもの気だるさだけではない、薄い警戒のようなものが混じっていた。
「全て沈められているなら、巨人の仕業だろうな」
「だろうね。少なくとも、海が大荒れしてるわけじゃなさそう」
そこでピークは、打って変わって軽い調子に戻った。
「ああ、ごめんね。血生臭い話をしたかったわけじゃなくてさ。何が言いたかったかというと……万博までは死なずにいようね、ってだけ」
ピークは背もたれに頭を預け、目を閉じた。眠るつもりなのか、ただ考えることをやめたのかは分からない。ライナーもまた、車窓へ向き直った。
外には灯りのない平野が広がっていた。月は雲に隠れ、列車の窓には、車内の薄暗い灯りと自分の顔だけがぼんやり映っている。
線路の先に何があるのか、どれほど目を凝らしても見えなかった。ただ夜の闇だけが、どこまでも続いていた。
◇◇◇◇
倉庫街の一件から数日が経った。
マルセルは何も変わらなかった。相変わらず訓練場では優れた成績を修め、ポルコとフェリスの火種を踏み消し、教官達の信頼を集めている。あの夕暮れに見た強張った背中が、まるで夢だったかのようだった。
ただ、フェリスの方は、少しだけ様子が違った。
あの日から、彼女がマルセルと交わす言葉は心なしか減っていた。
それが――ある朝を境に、ぱたりと元へ戻ったのだ。少しずつではない。まるで何かが済んだかのように、一晩で。
気になって、ライナーは一度だけ話を蒸し返そうとした。返ってきたのは短い一言だった。
「その話なら、もう終わったから」
終わった。何がどう終わったのか。それ以上を問い返す隙のない声だった。
その日の訓練の合間、フェリスとマルセルが一瞬だけ視線を交わすのを、ライナーは見た。同期同士の目配せというには少し長く、かといって探り合う目でもない。強いて言えば、互いに何かを了解し合った者同士の――そんな目だった。
それきり倉庫街の夕暮れが彼女の口に上ることはなかった。
そんな折、候補生達の間を一つの報せが駆け巡った。
ジーク・イェーガーが、次期『獣の巨人』の継承者に正式に決まったのだ。
ジークはフェリス達より一世代早くから候補生になっていた先輩格で、軍部からの信頼も厚かった。人懐こく、掴みどころがなく、それでいて実力だけは別格。任期の終わりが近い『獣』を先んじて継がせることは前々から決まっていたようだ。誰もが頷く順当な結果で、訓練場もしばらくその話で持ちきりだった。
もっとも、フェリスの反応は同期達の熱気とは程遠かった。
彼女のジーク評はいつも決まっている。気持ち悪い。うざい。兄貴面が鬱陶しい。
「でも……優秀なのは認める」
あれで手を抜いているところは一度も見たことがない、と。悪態を散々並べた最後に、渋々一つだけ褒めるのが常だった。
ただ、彼女が何より嫌っているのは、兄貴面そのものではないらしい。いつだったか、フェリスは吐き捨てるように言っていた。あの人は事あるごとに私に「母親そっくりだな」と言う。あれが一番嫌いだと。
母親と折り合いの悪い彼女のことだ、無理もないとライナーは思った。
それに、ジークがフェリスの戦士志望を快く思っていないことを、ライナーは知っていた。もっとも、これは候補生達の知る話ではない。ジークは人前では決してそれを口にしないのだ。フェリスと二人きり――正確には、おまけのようにライナーが居合わせる時――にだけ、声を落として「まだ間に合うぞ、辞めるなら」と水を差す。フェリスは毎度、聞こえないふりで受け流していた。
「でもとうとう俺達の中から巨人の継承権を獲得する奴が出るのか……なんか、感慨深いな」
「ジークはズルみたいなもんだけどね」
「それでもだろ。俺達の夢が一歩ずつ近づいているってことだぞ」
「……そうね」
その日の夕方、ライナー達は訓練後に機材を戻している途中だった。研究棟へ続く渡り廊下に差しかかったところで、フェリスの足が止まった。
廊下の先に、ジークがいた。誰かと立ち話をしている。相手は特徴的な眼鏡を付けた黒髪の男だった。軍服ではなく、袖のよれた白衣のようなものを羽織っている。ジークの手には、なぜか古びた革のグローブが提げられていた。
「……回れ右」
フェリスが小声で言い、踵を返しかけたが遅かった。
「おーい、フェリス!」
ジークが目ざとく手を振っていた。フェリスの舌打ちが廊下に小さく響いた。逃げるわけにもいかず、二人はのろのろと歩み寄った。
「どうしたんだ?まさかお兄ちゃんを探してくれたのか?」
「なんでそうなるのよ。さっき機材返しに来ただけ」
「またまたー。本当は一緒に帰りたかったんだろ?」
フェリスがごく小さな声で「うざ……」と零したのを、ライナーは聞こえなかったふりをした。眼鏡の男も、同じように曖昧な笑みを浮かべている。彼女とジークの距離感が伝わったらしい。
そこでふと、ライナーの視線が男の左腕に留まった。
赤い腕章。それが『マーレの戦士』にのみ許される『名誉マーレ人』の証だと気付いた瞬間、ライナーの背筋がぎこちなく伸びた。
「二人にも紹介するよ。この人はトム・クサヴァーさん。獣の巨人の現継承者だ」
ライナーは、自分の背筋が音を立てて伸びるのが分かった。
現役の『マーレの戦士』。訓練場の遠くから眺めることはあっても、言葉を交わしたことなど一度もない。雲の上の存在だ。その実物が目の前にいる。
だが同時に、頭のどこかが混乱してもいた。目の前の男は戦士というより、書類仕事に疲れた官吏のように見えた。差し出された手は細く、傷の一つもついていない。
「ら、ライナー・ブラウンです!戦士候補生です!」
「そう固くならないでくれ」
クサヴァーは可笑しそうに肩を揺らした。
「戦士といっても、本業は巨人学の研究者なんだけどね。『獣の巨人』はあまり戦争の役に立たないから、もっぱら研究とキャッチボールばかりしているよ」
「キャッチボール?」
「ジークとね。彼とは古い付き合いなんだ。それでそっちの君は何て名前なんだい?」
「フェリシア・シュタイナーです……ああ。一応言っておくと、今は諸事情でイェーガー診療所でお世話になっているだけでジークとは兄妹じゃないです」
彼女の名乗りを聞いた途端、クサヴァーの動きが止まった。
「……そうか。君が……」
「? あの……私のこと、知ってるんですか」
「いや、失礼。ジークからよく聞いていてね。可愛い妹がいるって」
「何度でも言いますけどジークとは兄妹じゃないです」
「ね、こうやって意固地なとこも可愛いでしょ?」
「誰が妹よ」
「ほら、すぐそうやって照れる」
「照れてない。訂正してるの」
「うんうん、そういうところも昔から――」
「昔からじゃない。勝手に過去を捏造するな」
二人の応酬を、クサヴァーは目を細めて眺めていた。そして穏やかな口調で「せっかくだ。少し話していかないかい?」と声をかける。
こうして四人は、研究棟の奥にあるクサヴァーの部屋へ向かうことになった。
通されたのは戦士の居室というより、書庫に机を押し込んだような空間だった。壁一面の本棚に、書類の山。クサヴァーは客を座らせると、自分で茶を淹れ始めた。
戦士が、候補生に手ずから茶を淹れる。ライナーはそれだけで恐縮して、座面の端に浅く腰かけた。
「研究って何を調べてるんですか」
遠慮のえの字もなく聞いたのは、もちろんフェリスだった。
「巨人の記憶についてだよ」
クサヴァーは茶器を並べながら、こともなげに答えた。
「九つの巨人は、継承のたびに前任者の記憶の断片を残す。それがどう受け継がれ、どこまで遡れるのか。……まあ、地味な仕事だ。軍の連中には、暇人の道楽だと思われている」
「へぇ……」
フェリスの目の色がわずかに変わった。揶揄いでも社交辞令でもなく、本当に興味を引かれた時の顔だった。
そこからは質問の雨だった。記憶はどのように受け継がれるのか。継がれる記憶は選べるのか。彼女が矢継ぎ早に重ねる問いに、クサヴァーは一つ一つ、面白がるように丁寧に答えていく。
「いやぁ、君は着眼点がいいな。優秀な研究者になれるだろうね」
「まあ自慢の妹なんで」
「……ジークが彼女と同じ歳の頃なんて、成績は下から数えた方が早かったのにね」
「待ってくれクサヴァーさん。その話、今する必要ないでしょ!」
ジークが腰を浮かせた。ちらりとフェリスの方を窺う目が、露骨に泳いでいる。
「へぇ?今まで聞いてた話と全然違うなぁ……『ガキの頃から何をやらせても一番だった』って言ったのは誰だったかなぁ」
「いや、そのアレだ。クサヴァーさんは継承の任期が近づいてきてるだろ?だから、ボケて昔のことよく覚えてないんだよ」
「こら、ジーク。年寄り扱いするのはやめろと言ったろ」
「……元はと言えばクサヴァーさんが余計なこと言うからだろ」
フェリスは心底意外そうな声で「……そんな顔、できたんだ」とぽつりと呟いた。ライナーも同感だった。いつも飄々としているあの男が、格好がつかないの一点でこれほど慌てるとは。
ひとしきり笑い終えたクサヴァーはふと、二人の候補生を順に見た。
「ところで。君達はどうして戦士になりたいんだい」
何気ない問いだった。だが生真面目なライナーは、現役の戦士から資質を試されているように感じてしまった。
「島の悪魔を討伐し、世界を救うためです!」
声が裏返りかけた。クサヴァーは急かさず、続きを待つように頷く。その穏やかさに釣られて、本音が後から滑り出た。
「それで……その、名誉マーレ人になれたら、収容区の母を少しでも楽にしてやれます。世界の役に立って、母さんと二人、胸を張って暮らすのが……俺の夢です」
言い終えてから、模範解答に私事を継ぎ足した不格好さに気付いてライナーは俯いた。だがクサヴァーは笑わなかった。
「いい夢だ」
それだけ言って、視線をフェリスへ移す。
「君は?」
「自由を手に入れるためです」
簡潔な答えだった。それ以上を付け足す気配もない。
クサヴァーは、彼女の顔をじっと見つめた。
「君は親御さんのためではないのかい」
「親は関係ありません。あんな人……どうだっていい」
即答だった。声の温度が、二段は下がっていた。
「こら、フェリス。セラおばさんのことを悪い風に言うのはやめろって、いつも言ってるだろ」
ジークがたしなめたが、フェリスはそっぽを向いたきり答えなかった。部屋に、気まずい沈黙が落ちる。
「……話せるうちは、話しておいた方がいい。後悔したくなければね」
溜息と共に吐き出すクサヴァー。彼の言葉にフェリスは怪訝そうに眉を寄せる。
「どういう意味ですか」
「いや。すまない。年寄りの悪い癖だよ。君達くらいの子を見ると、つい余計なことを言いたくなる」
クサヴァーは薄く笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
「私にもね、かつて君達と同じくらいの息子がいたんだ」
「クサヴァーさん!」
ジークが遮ろうとした。だがクサヴァーは、緩く手を上げてそれを制した。
「ごめんな、ジーク。どうせ私も長くないんだ――せめて、この子にだけは話しておきたくてね」
この子、とクサヴァーの目はフェリスを見ていた。
「若く、愚かだった私は腕章を外した。エルディア人であることを隠したまま、マーレ人の妻と暮らし、子を作ったんだ」
それは――いつだったか。数年前に夕暮れの川辺で聞いた、彼女の告白と同じ形をしていた。思わず隣を窺いそうになって、できなかった。視界の端で、カップを包んだフェリスの手がさっきから少しも動いていなかった。
「しかし、いつまでも騙し通せるわけもなかった。私がエルディア人だと知った妻は……自分と、息子の喉を裂いた」
フェリスが神妙な顔で口を開く。
「……亡くなったんですか」
「妻はね。息子は、命からがら助かったよ」
クサヴァーは疲れたような笑みを浮かべた。
「だが、その息子とも、もう二十年以上会えていない……当然だ。息子共々、楽園送りにされてもおかしくない罪を私は犯したのだから」
「――クサヴァーさんはどうやって戦士になれたんですか。話をお伺いする限り、軍が『九つの巨人』の選考にそんな人物を登用するとは思えないのですが」
「おい、フェリス。やめろって」
「ライナーは黙ってて」
彼女が「気になったら徹底的に調べないと気が済まないタチ」なのは知っていたが、こうも無遠慮なのは彼女の母とクサヴァーの境遇が似通っているから、だろうか。
それに大罪を犯した男が、なぜか処刑されないどころか栄誉ある『マーレの戦士』の座にいる。確かに、道理の通らない話ではあった。それでも本人に面と向かって聞くかと、ライナーは冷や汗をかいた。
怒声は返ってこなかった。クサヴァーは少し目を伏せて――
「『神』だ」
出し抜けにそう言った。
「私は、『神』に助けてもらったんだ」
冗談めかした響きはなかった。その一言だけ、クサヴァーの声から温度が消えていた。
どういうわけか、ライナーの脳裏に母の姿がよぎった。首飾りに指を添えて、「私達は神に選ばれた」と繰り返すあの横顔と、目の前の研究者の横顔が、一瞬重なって見えた。
しかし、それも数瞬のことだった。クサヴァーは眼鏡の位置を直すと、温和な研究者の顔に戻った。先ほどの翳りなど最初からなかったように、困ったような笑みを浮かべる。
「ま、簡単なことさ。私はこう見えて優秀でね。処刑するより、巨人の謎を解き明かすために使った方が得だと思われたんだ」
そして、どこか他人事のように続けた。
「それに『獣』は、継いでみるまでどんな性質が発現するか分からない。戦場で役に立つ姿かどうかも運任せだ。そんなものは軍としても戦術に組み込みづらい。だから研究者上がりの私に回しても、そこまで惜しくなかったんだろう。君達の頃と違って、まだ始祖奪還計画も立案されていなかったしね」
「……ジルケ・クルーガー」
フェリスが呟く。
「え?」
「ライナーから聞いたことがあります。以前、マーレには『白衣の女神』と呼ばれた医者がいたって……あなたの言う神様も、その人ですか」
沈黙が一拍。
クサヴァーの指先が、茶器の縁に触れたまま止まる。ジークもまた、ほんのわずかに目を細めた。どちらもすぐに元の顔へ戻ったが、フェリスが何かを感じ取ったかのように息を呑む。
「どうしてそう思ったのかな?」
「ただの勘です。クサヴァーさん、あまり信仰心が厚そうには見えないので。なのに『神様に助けてもらった』なんて言い方をするのが、少し不自然だなと思っただけです」
「……君は本当に面白い着眼点をしてるね」
「で――クサヴァーさんは、結局何が言いたかったんです?」
ジークが二人の間に割って入るように口を挟んだ。
「今のは下手に広める話じゃないでしょう。長々と聞かせたからには、落とし所まで頼みますよ」
「……それもそうだ」
フェリスは何か言いたげにジークを見たが、結局口を閉じた。
クサヴァーは眼鏡を外し、目頭を揉んだ。
「すまないね、湿っぽい話になって。私が言いたかったのは……失ってからでは後悔しても遅すぎる、ということだよ」
フェリスはしばらく黙っていた。反発するかと思った。だが彼女は、不貞腐れたように視線を斜めに逃がしたまま、小さく言った。
「……分かりました」
分かっていない返事の見本のような声だった。それでもクサヴァーは、満足そうに頷いた。
帰り道、日はもう傾いていた。
ジークは「俺はもう少し残るよ」と言って研究棟に留まり、残った二人は、いつもより口数少なく収容区への道を歩いた。
ライナーは、不思議な心持ちを持て余していた。
憧れだったマーレの戦士に会えて、言葉まで交わした。夢が一つ叶ったはずなのに、胸の中に当初の興奮はなかった。
あの部屋にいたのは、雲の上の英雄ではなかった。腕章を外したことを生涯に亘って悔い続け、会えない息子を想い、神に助けられたと語る――自分と同じように苦しみ、悩み抜いたただの一人の人間だった。
◇◇◇◇
「私は余計なことを言ってしまったのかもしれないな」
「……いえ、クサヴァーさんのせいじゃありません。誰のせいでもないんです」
「そう言ってくれると助かるよ。それで、君は止めるのかい?あの子の夢でもあるんだろう?」
「止めて見せます。アイツに嫌われることになろうと、絶対に。先生もそう望んでいるはずです」
「……そうだな」
◇◇◇◇
春には、収容区の片隅で花見をした。
花見という言葉をライナーはその時初めて聞いた。フェリス曰く、ヒィズルには春になると桃色の花をつけた木の下に集まり、食べ物を広げて季節を楽しむ文化があるらしい。レベリオの収容区にヒィズルのような花木はない。それでも広場の隅にある古い木が枝先に小さな花をつけているのを見つけると、フェリスは「これで十分」と勝手に決めた。
そうして翌日の訓練後、彼女はライナーとベルトルトを半ば強引に連れ出した。
「ただ木の下でパンを食べるだけじゃないか」とライナーが言うと、フェリスは「分かってないなぁ」と大袈裟に肩を竦めた。大事なのは花そのものではなく、花を見るために誰かと集まることなのだと彼女は得意げに語った。
夏には、また外出許可を使って海へ行った。
強い日差しに焼かれた砂浜で、フェリスが妙に凝った砂の城を作った。最初は子供の遊びだと笑っていたポルコが気付けばすぐ崩れる砂相手に文句をつけ始め、ライナーが積んだ塔は波に攫われる前から傾いていた。
その中で、フェリスの城だけは最後まで形を保っていた。湿った砂を細い指で押さえ、貝殻を並べ、流れ込む海水の道まで計算している。彼女は本当に器用だった。
マルセルが「すごいな、これ。俺にはできないよ」と褒めた時、フェリスはほんの一瞬だけ言葉に詰まった。だが、すぐに「当然でしょ」と顎を上げ、最初から褒められることなど分かっていたような顔をした。
ただ、耳の先だけが少し赤くなっていることにライナーは気付いてしまった。
だからだろうか。
ライナーは結局その城を褒めなかった。褒めれば負けたような気がしたし、
ちなみに帰り道、収容区の門で外出許可証を見せると、門兵はフェリス達の靴や服に付いた砂を見て「楽しそうじゃねぇかよ。俺達なんざ、このクソ暑い中ずっと立ちっぱなしだってのに」と恨めしそうに言った。だが、それ以上は何も言わず、面倒そうに許可証を返すだけだった。
秋には、日が落ちるのが少しずつ早くなった。
訓練を終えた帰り道、収容区へ続く空が赤く染まっていた。フェリスとポルコがくだらないことで言い合いになり、マルセルが二人の間に入って「明日も訓練なんだから体力を残しておけ」と苦笑していたこと。フェリスは不満そうに唇を尖らせながらも、彼の言葉には素直に従った。
今にして思えば、あの頃からだったのかもしれない。マルセルを見るフェリスの目が、少しだけ違っていたのは。
冬には、吐く息が白くなった。
凍えるような朝の走り込みで、誰より早く音を上げそうな細い身体をしているくせに、フェリスは最後まで足を止めなかった。指先が赤くなっても、膝を擦り剥いても、彼女は決して自分から訓練を降りようとはしなかった。
そしてまた春が来て『九つの巨人』の継承権が決まった時――そこに、フェリシア・シュタイナーの名前はなかった。
レベリオ万博、実は36話で少しだけ名前を出していました。
だいぶ寝かせてしまいましたが、ようやく出番です。
また、そろそろ過去回想終わります(回想で謎増やしまる構成になってしまいすみません…)