エレンの妻です   作:ホワイト3

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54:神の子⑥

 消毒液の匂いを嗅ぐたび、私は決まってオディハの港町を思い出す。

 

 物心ついた頃の居場所は、(セラ)が勤める病院の託児スペースだった。白い壁に囲まれて絵本をめくり、正午を告げる造船所の汽笛が鳴ると、白衣のまま顔を見せに来てくれる母を窓に張り付いて待った。

 

あの頃はそれだけで一日が過ぎていった。

 

 休みの日には二人で海へ出かけ、飽きもせず砂の城を作った。波が城を攫うたび、次はもっと大きなものを作ろうと誓ったものだ。

 

 腕章も検問も知らないまま、世界は水平線までまっすぐに広がっていて、そのすべてが自分のものだと思っていた。

 

「すべて自分のものか。さすがは『神の子』、とても豪気だ」

 

 一度だけ、あの海辺で不思議な人に話しかけられたことがある。

 

 母が浜の売店へ飲み物を買いに行っていた、ほんの短い間のことだ。波打ち際で膝を抱えて海を眺めていると、隣に人の気配が立った。見上げれば、真夏だというのに首へ厚いマフラーを巻いた男が私と同じ方角を眺めていた。

 

 しばらく取り留めのない話をしたあと、男はふと水平線へ目を細めた。

 

「知っているかい。海の向こうにはね――神様がいるんだ」

 

 私は首を傾げた。大人たちはみな、海の向こうには悪魔の島があると言っていたからだ。

 

「フェリス!」

 

 浜の向こうから母の呼ぶ声がした。声の方を振り向き、もう一度波打ち際へ視線を戻した時には、砂の上に男の足跡だけが点々と残っていた。

 

「ねえ、ママ。海の向こうに悪魔がいるって……本当?」

 

 何にも縛られず、自由に空を駆けていく鳥の姿を、私は何の感慨もなく見つめながら尋ねた。

 

 母がなんと答えたのか、私は覚えていない。ただ、優しく髪を撫でてくれたことだけははっきりと記憶している。

 

 今、私の鼻腔を同じ消毒液の匂いがくすぐっている。

 

 けれど、ここのはあの頃のものとは違う。血と煤の匂いが下に幾重もの層を成して沈み、その匂いをまとった兵士達が、荷馬車で次から次へと運び込まれてくる。

 

「担架だ!担架を持ってこい!」

 

「そっちは後回しだ!額を見ろ、三角からだ!」

 

 野戦病院はいつも怒号で満ちていた。私は人の間を縫って走り、包帯やハサミを求める声のもとへ、必要なものを届けて回った。

 

 初めて見た時は奇妙に思ったが、兵士の額には炭で印が書かれていた。

 

 丸なら軽傷、三角なら急を要し、×印はもはや手の施しようがない。誰が考えたのかは知らないが、印一つで手当ての順番を決めるこの仕組みは、軍医学の教本の最初の頁に載るほど当たり前のものらしい。

 

 湯に塩と砂糖を溶かしただけの水を、まだ動ける負傷兵へ配って回るのも私の仕事だった。こんなもので本当に人が助かるのかと最初は疑ったが、年嵩の軍医は「昔からの決まりだ」としか教えてくれなかった。

 

 戦場はマーレ本国から遠く離れた、地図の隅に載っているような小国だった。

 

 そこで始まった戦争は、新たに巨人を継承した五人の戦士にとって初めての実戦でもあった。ジークを含む六体の巨人が投入され、一つの国が着実に版図を削られつつあった。

 

 前線から届く報せは、どれも景気のよいものばかりだった。

 だが、後方の野戦病院には、その景気のよさとは釣り合わないほど多くの負傷兵が運ばれてきた。

 

 そして私とポルコはその後方にいた。戦士候補生――ただし、選ばれなかった側として。

 

 選抜から漏れた候補生も実戦を学ぶという名目で戦地へ同行させられ、前線から離れた場所で物資の運搬や負傷兵の世話を命じられていた。巨人を継いだ仲間たちが戦果を挙げる傍らで、その後始末を手伝うのが私たちの役目だった。

 

 物資庫の前で包帯の在庫を漁っていると、背後から不機嫌な声が飛んできた。

 

「おい、白髪頭。手ぇ空いてんなら薬箱運べ」

 

「見て分からない?手も足も塞がってるんだけど」

 

 ……ついでに心も。

 言い返してくるかと思ったが、ポルコは薬箱を抱えたまま、しばらくその場を動かなかった。

 

「……なあ。なんであのドベが選ばれて、俺とお前がこんなところにいるんだろうな」

 

「さあね。軍の目が節穴だったんじゃない?」

 

「だな」

 

 珍しく意見が一致したのも束の間、ポルコは鼻を鳴らした。

 

「まあ、どうせお前はお偉方に減らず口でも叩いたんだろ」

 

「あんたは態度のでかさで落とされたんでしょ」

 

「うるせぇな……次は獲る。十三年後だろうが何だろうが、次は絶対に俺だ」

 

 そう吐き捨てると、ポルコは乱暴な足取りで歩いていった。その背中が苛立っているのは、抱えた箱が重いからではないだろう。

 

 兄は前線で華々しく戦っているのに、弟は後方で芋の皮を剥き、薬箱を運んでいる。

 その不甲斐なさは分かる。分かるから、私もそれ以上はからかわなかった。

 

 ――なぜ、選ばれなかったんだろう。

 

 手を動かしている間も、その問いは奥歯の裏に貼りついたまま剥がれなかった。座学でも体術でも、成績表の上ではずっとライナーより上だった。あの『ドベ』が鎧の巨人で、私が包帯係になる計算はどう並べ替えても答えが出ない。

 

 だが、私がどう思おうと現実は変わらなかった。

 

 継承の機会は失われ、次は十三年後。

 

 あの狭い収容区の中で腕章を巻き、頭を下げながら十三年を待つ。考えただけで喉の奥から何かがせり上がってきた。

 

(……もっと忠誠心でも示しておけばよかったのかな)

 

 成績以外に自分へ足りなかったものがあるとすれば、軍への忠誠心くらいしか思い当たらなかった。

 

 そう考えた時、いつかの夜にマルセルが打ち明けた話が蘇った。

 

 治安当局から、収容区内の復権派の捜査に協力しろと迫られ、断ることができなかったこと。拒めば家族がどうなるか分からなかったこと。

 

 そうして彼は治安当局の手先となり、同胞たちの動向をマーレへ売り渡す役目を負った。そんな彼の働きは、軍への忠誠心として評価されたのではないか――ふと、そんな考えが頭をよぎった。

 

(私もコネ作っとけば良かったのかなぁ……)

 

 彼の言い分をすべて信じたわけではない。私はマルセルの口の上手さを知っている。もっともらしい嘘で煙に巻いているだけではないかと思った。

 

 それでも、最後の一言だけは作り物には見えなかった。

 

『ポルコにだけは……弟にだけは、裏切り者だなんて言われたくないんだ』

 

 よどみなく事情を語る彼の声が、その時だけ震えていた。彼は私に、誰にも話さないでほしいと頼み込んできた。

 

「……ずるいよね、そういうところ」

 

 どういうわけか、皆で海へ行ったあの夏の日に、砂の城を褒めてくれたことを私は思い出した。

 

 夕方、私は一人のエルディア人兵士の包帯を替えた。前線へ真っ先に駆り出されるのは彼らなのだから、私が診る相手も自然とエルディア人が多くなる。

 

 私とは二回りほど歳の離れた兵士で、額の印は三角だった。右腕は肘から先が包帯の塊になっていて、その中身がどうなっているのかは想像しないことにしていた。

 

「嬢ちゃん、手際いいな。さすがは戦士候補生様ってか」

 

「……でしょ。将来有望なの」

 

「もったいねぇなあ。巨人なんかより、嬢ちゃんは医者向きだ。戦争が終わったら俺の収容区に来てくれよ。医者がいねぇんだ」

 

「考えとく。言っとくけど往診料は高いよ?」

 

 兵士は笑い、それから急に真顔になって天幕の天井を見上げた。

 

「……なあ。俺の腕、まだあるかな」

 

 私は答えなかった。

 答える代わりに、包帯の端をいつもより丁寧に留めた。

 

 砲声が近づいていると最初に気付いたのは、誰だったのだろう。

 夜半、大地を叩く音の間隔が急に詰まり、遠雷だったはずの轟きが頭上の雷へと変わった。

 

「馬鹿な、こっちに来てるぞ!」

 

「ここは病院だ!標章が見えないのか!」

 

 年嵩の軍医が天幕から飛び出し、闇に向かって叫んだ。返事の代わりに、次の砲弾が落ちた。

 

 叫びを無視するように――いや、そんな声など最初から聞こえていないかのように、闇の向こうで鉄の駆動音が唸りを上げる。地面を軋ませながら履帯が防護柵を踏み潰していく音がした。

 

 戦車だ。

 

 砲弾が石造りの本棟を直撃し、壁が内側へと崩れた。開いた穴から夜気と火光が病室へ流れ込んでくる。

 

 私は走った。外ではなく、崩れた病室へ。

 

 考えてそうしたわけではない。気付いた時には担架の柄を掴んでいた。額に三角の印を残したままのあの兵士が、剥き出しになった夜空の下で目を見開いていた。

 

「嬢ちゃん、なんで戻ってきてんだよ!俺のことなんて放っておいて、今すぐ逃げろ!」

 

「静かにして!舌噛むよ!」

 

 担架は重かった。瓦礫に足を取られ、ほんの数メートル進むだけなのに、永遠に辿り着けないような気がした。

 

 やがて背後で複数の足音がした。

 振り返ると、崩れた壁の穴から敵国の軍装をまとった男たちが入ってくるところだった。

 

 担架を置いて一人で走れば、間に合ったのかもしれない。

 けれど、その選択肢はなぜか最初から頭に浮かばなかった。

 

 銃口がこちらへ向けられる。

 

 馬鹿みたいだ、と私は自嘲した。

 

 こんな時に頭に浮かんだのは、いつかライナーに話した炎の水や、氷の大地、砂の雪原だった。

 

 私はまだ、そのどれ一つとして見ていない。死への恐怖よりも先に、そのことへの後悔が胸の奥から込み上げてきた。

 

 その時、雷が落ちた。夜が一瞬だけ白く裏返り、遅れて衝撃と熱風が押し寄せる。

 

 敵兵たちが振り向くより早く、闇から飛び出した「それ」が戦車の車体へ横から食らいついた。鉄の塊が玩具のように転がり、地面へ叩きつけられて火を噴く。

 

 小柄な巨人だった。

 

 低い姿勢のまま地を這うように跳ね、剥き出しの牙が炎を照り返して鈍く光る。巨人は目で追うこともできない速さで敵兵の間を駆け抜け、いくつかの銃声が響いたかと思うと、それもすぐに途切れた。

 

 前線にいるはずの――(アギト)の巨人。

 

 なぜ後方にいる、などと考えている余裕はなかった。気付けばこちらへ向いていた銃口は消え、戦車は沈黙し、炎の爆ぜる音だけが夜に残っていた。

 

 巨体が私の前で膝をついた。

 

 うなじが裂けて白い蒸気が噴き出し、その中から見慣れた顔が現れる。汗と熱気で額に髪を貼りつかせ、肩で激しく息をしながら、それでも彼は真っ先にこちらへ手を差し伸べた。

 

「大丈夫か」

 

 炎を背負った彼の輪郭は、眩しい光に縁取られていた。差し伸べられた手のひらを取ることさえ忘れ、私はしばらく彼を見上げた。

 

 ――その姿は、まるでおとぎ話に出てくる王子様のようで、いつまでも目の奥に焼きついて離れなかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 また、あの夢だ。目覚めてすぐ、ライナーはそう思った。

 

 いつから見始めたのかは思い出せない。ただ近頃は、目を閉じるたびに同じどこかへ引き戻されている。

 

 中身を掴もうとすると端からほどけるように消えていく。残るのはいつも決まって、鼻の奥に薄く張りついた消毒液の匂いと、炎を背にした誰かを見上げていた角度だけだった。

 

 その据わりの悪さだけが、胸の奥に馴染まないまま沈んでいる。

 

 窓の外から楽隊の音合わせが聞こえてくる。ライナーは重い頭を振り、身支度を整えた。

 

 今日から万国博覧会が始まる。

 

 レベリオの街は朝から浮き足立っていた。大通りには万国旗が張り渡され、その下では色とりどりの露店が軒を連ねている。普段なら門の外で途切れる華やぎが、今日ばかりは収容区の内側まで入り込んでいた。

 

 食べ物や玩具を売る屋台の間を、腕章を巻いた子供たちが歓声を上げながら駆け回っている。いつもはどこか重苦しい空気が残る区域にも、祭りの日に特有の熱気が広がっていた。

 

 見慣れた通りが、まるで別の街になったようだった。

 

 あまりの賑わいに、ライナーは少しばかり気圧された。それでも無邪気に笑う子供たちの姿を見るのは、悪くなかった。

 

 だが、通りを歩き始めると、そんな穏やかな感慨に浸っている余裕はすぐになくなった。

 

「ライナーだ!」

 

「世界を救った英雄だぞ!」

 

 あちこちから声が飛び、マーレの誇る英雄を一目見ようと人々が押し寄せてくる。露店の店主までが持ち場を放り出し、商品を手にしたまま駆け寄ってきた。

 

 住民たちに揉みくちゃにされる中、人垣の向こうに見覚えのある看板が覗いた。

 

 イェーガー診療所だ。足が止まりかける。

 

 建物は記憶にあるよりも、ずっと古びて見えた。壁の塗装はところどころ剥げ落ち、看板の文字も掠れている。それでも、扉の向こうにはぼんやりと灯りが点いていた。

 

 昔はあれほど頻繁に通っていたのに、もう何年もその門を潜っていない。

 

 気付けば、自分を讃える周囲の声も耳に入らなくなっていた。

 

(セラさんは、元気だろうか)

 

 セラ・シュタイナーとは、島からの凱旋式以来、一度も会っていない。娘を殺した人間が、どんな顔をして会えばいいのか、ライナーには分からなかったからだ。

 

(……殺した?)

 

 自分で浮かべたはずの言葉なのに、よそよそしく感じられた。フェリスがどうして死んだのか、自分は何も知らないのに。

 

(……俺は、何を……)

 

「英雄さん!ほら、食ってけ食ってけ!お代はいらねぇよ!」

 

 突然、目の前へ湯気の立つ串が突き出された。

 

 我に返った時には、受け取る間もなく手の中へ押しつけられていた。続く呼び声と人波が、立ち尽くしていたライナーを診療所の前から押し流していく。

 

 それからも行く先々で呼び止められたが、人波を掻き分け、マガトとの約束の時間にはどうにか間に合った。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 万国博覧会の開会式典は、祭りというより大掛かりな国家行事だった。軍関係者や政府高官をはじめ、各国の使節や植民地の代表まで、登壇者の名だけで冊子が一冊できあがる。

 

 式典そのものは昼過ぎに始まるが、開会が宣言されるのは日が落ちてからだった。塔の点灯に合わせるためだという。

 

 関係者で混み合う通路を抜け、係員に案内されて貴賓用区画の一室へ入る。

 窓辺では、マガトが開会を待つ会場を見下ろしていた。片手に持った式次第を、うんざりした様子でめくっている。

 

「来たか。まあ、座れ」

 

「はっ」

 

「まったく、お偉方の話は無駄に長くて敵わん。原稿を全部積み上げれば、塔がもう一本建つぞ」

 

 冊子を窓辺の机へ放り、マガトが皮肉げに吐き捨てる。どう返せばよいのか分からず、曖昧に頭を下げた。

 

「……愚痴を聞かせるために呼んだわけではない。この手の場は性に合わんのでな。ブラウン、お前はもう慣れたものだろうが」

 

「いえ、自分も得意ではありません」

 

「冗談の通じん奴だ」

 

 煙草に火をつけ、マガトはようやく本題へ移った。

 

「お前に会わせたい……いや、お前に会いたいと仰る人物がいらっしゃる。その方の御命令で、今日ここへ呼んだ」

 

 島から帰還して以来、英雄に会いたいという者は後を絶たなかった。またその類かと、込み上げる辟易を押し隠す。

 

「その顔を見る限り、見当違いの想像をしているようだな。今までの相手とは一線を画す。なんせ、お前と同じく世界を救った御方なのだからな」

 

「正確に言えば、世界を救ったのは我が祖先だがね」

 

 不意に扉の方から声が届いた。

 弾かれたようにマガトが直立し、ライナーも反射的に立ち上がる。

 

「そう堅苦しくしないでくれ、マガト隊長。無理を言ったのは私の方だ。どうか楽にしたまえ」

 

「……貴方の御前で楽にできるほどの胆力は持ち合わせておりませんが、御命令とあらば」

 

「冗談の通じる方で安心したよ」

 

 上質な礼服に身を包み、長い髪を後ろで結った男が、供の者を廊下に残して入ってきた。

 

「ヴィリー・タイバーだ。ライナー・ブラウン戦士長、噂はかねがね聞いている。会えるのを楽しみにしていたよ」

 

「じ、自分などにもったいないお言葉です」

 

「とんでもない」

 

 柔らかな笑みを浮かべ、ライナーへ椅子を勧める。その向かいに腰を下ろすと、ヴィリーはさっそく口を開いた。

 

「スラバ要塞での働きは実に見事だった。対巨人砲に肩を貫かれてなお、砲兵陣地を沈黙させたそうだね。あの日の勝敗を決めたのは、巨人の力ではない。君自身の意志だ」

 

 そこまで語ったところで口元を緩めた。

 

「新聞の記事を読んだだけの私が語るのも妙な話だがね」

 

「……恐縮です」

 

「身体の傷は、もう塞がったのかな」

 

「はい。大した傷ではありませんでしたので」

 

「それは何よりだ」

 

 ひとつ頷いたあと、ヴィリーの声音がわずかに低くなる。

 

「ただ、戦場の傷は身体にだけ残るものではない。塹壕を離れてからも砲声に悩まされ、眠れなくなる兵士もいると聞く。君はどうかね?」

 

「……夢見は、あまり良くありません」

 

「そうか。あれほどの戦いを終えたばかりなのだから、無理もない」

 

 労る眼差しに不自然なところは見当たらない。それでも居心地の悪さが拭えなかった。

 ヴィリーはそれ以上踏み込まず、話を切り替えるように両手を軽く打ち合わせた。

 

「さて、本題に入ろう。マガト隊長から聞いているかと思うが、今日は君に頼みがあって来た」

 

 先ほどまでの柔らかな空気が引き締まった。

 

「今夜の開会宣言に先立ち、私が演説を行う。そこで巨人の時代の終わりと、科学の時代の始まりを告げるつもりだ」

 

 時代が終わりかけていることは、誰よりも自分の身体が知っている。だが、それを国が公の場で認めるとなれば話は別だ。巨人はマーレが世界へ突きつけてきた刃であり、その刃がもう鈍いのだと、自ら世界へ告げることになる。

 

「……失礼を承知で申し上げます。それは、我が国から力が失われたと公言するようなものでは」

 

「隠しても、世界はとうに知っているよ。先の戦争の結果は各国の新聞が一面に載せた通りだろう」

 

 ヴィリーはあっさりと言った。

 

「……ですが、それをタイバー公が?」

 

 タイバー家といえば、マーレを影から支配しているとさえ囁かれる名門である。その当主が公の場に立つなど、ライナーの知る限り一度もなかった。

 

「我が家にとっては百年ぶりの大舞台だ。タイバー家の当主が巨人の終焉を告げる。配役としては申し分ないだろう」

 

 窓の外へ向けられた視線の先では、観客席が少しずつ埋まり始めていた。その向こうには、勝利の塔が高くそびえている。

 日が暮れれば、この場に集まった者だけでなく、マーレ全土が彼の言葉を聞くことになる。

 

「頼みというのは、その先だ。万博は数ヶ月にわたって開催される。その閉会式で――マーレに新しい時代が訪れたことを、君の口から宣言してほしい」

 

「……自分が、ですか」

 

 声が裏返りかけた。

 

「開会では、百年前の英雄の家が古い時代を閉じる。そして閉会では、今を生きる英雄が新しい時代を開く。物語には、それに相応しい語り手が必要なのだよ」

 

「し、しかし自分はエルディア人です。国の未来を語るような身分では――」

 

「私もエルディア人だよ、戦士長」

 

 可笑しそうに目を細められ、ライナーは耳まで熱くなった。

 

「もっとも、私と君が同じ立場にあるなどと言うつもりはない。タイバー家は百年前、世界から『例外』の札を与えられた一族だ。腕章を巻き、収容区で暮らしてきた君とは、受けてきた扱いがまるで違う」

 

 その声に同情めいた響きはなかった。ただ、否定しようのない事実を述べているだけだった。

 

「そして私は、その違いが演説一つで消えるなどという夢物語を語るつもりもない。国の仕組みも、人々の感情も、それほど単純ではないからね」

 

 ライナーは口を挟めず、黙って続きを待った。

 

「だが、巨人の力だけでエルディア人の価値が決まる時代は終わらせなければならない。マーレは君たちを、巨人になれる兵器として扱ってきた。その兵器が戦場の主役でなくなれば、関係も変えざるを得ない」

 

「それは……エルディア人が必要とされなくなる、ということではありませんか」

 

「そうなる可能性もある」

 

 あまりにも率直な答えに、ライナーは息を詰めた。

 

「だからこそ、その前に示しておく必要がある。君が世界を救ったのは、エルディア人だからでも、鎧の巨人だったからでもない。祖国のために戦い、命令を果たした一人の兵士だったからだ」

 

「……ですが、それを自分が言ったところで」

 

「私が言えば、なお届かないよ」

 

 ヴィリーは身を乗り出した。

 

「例外が何を成し遂げようと、人々はそれを例外のまま片づけてしまうからね。腕章を巻いて育った君が語るなら話は別だ」

 

 返す言葉が見つからなかった。

 この男の語る未来は、決して優しいものではない。要らなくなるかもしれないと、面と向かって言われたばかりだ。

 

 『悪魔の末裔』と吐き捨てられるか、『名誉マーレ人』という餌をぶら下げられるか。ライナーが向けられてきた言葉は、そのどちらかだった。

 

 都合の悪いところを削らずに話をされたのは、初めてかもしれない。

 

「恐れながら」

 

 沈黙を破ったのはマガトだった。

 

「タイバー公、貴方は四年前の凱旋式には姿をお見せになりませんでした。表に立たれるおつもりがあったのなら、なぜ今なのですか」

 

「もっともな疑問だ」

 

 気分を害した様子もなく、ヴィリーが頷く。

 

「四年前の凱旋式は、巨人の勝利を祝う舞台だった。あの場で私が口を開けば、タイバー家が巨人の時代を祝福する絵になっていただろう。だが、ここは科学と文化の進歩を世界へ示す祭典だ。次の時代を語るなら、これ以上の舞台はない。どの舞台で口を開くかが重要だと私は思っている」

 

「マーレの舵を切り直すと」

 

「舵はとうに切られているさ、マガト隊長。私の意思にかかわらず、だ。私は新時代の到来を、世界へ向けて言葉にするだけだ」

 

 ヴィリーは再びライナーへ向き直った。

 

「返事は急がない。閉会式まではまだ時間があるからね」

 

 そう告げて、ヴィリーは席を立った。

 

「まずは今夜の演説を聞いてくれ。そのうえで、改めて考えてもらえればいい。君にこの役目を頼む意味も、きっと分かるはずだ」

 

 マガトが懐中時計に目を落とした。

 

「ブラウン、お前は観覧区画へ戻って家族にでも顔を見せてこい。それと、会場で少しでも不審な動きを見かけたら、すぐに私へ報告しろ」

 

「了解しました。失礼します」

 

 二人へ敬礼し、部屋を後にする。

 

 扉が閉じきる直前、ライナーは窓辺へ目を戻した。逆光の中で、ヴィリーだけがまだ彼を見ていた。その表情までは読み取れなかった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 観覧区画へ戻ると、候補生用に確保された座席のそばにガビとファルコが立っていた。二人ともまだ席には着かず、ガビは紙カップのジュースを片手に、張り出した観覧席から眼下の会場を覗き込んでいる。

 

 少し離れた通路では、ウドとゾフィアが人混みを掻き分けながら、こちらへ向かってきていた。

 

「ライナー!見てよ、この席!すごくない?」

 

「口の周りが汚れてるぞ、ガビ」

 

「細かいことは気にしないの!今日はお祭りなんだから!」

 

 先ほど食べた砂糖菓子の粉をつけたまま、ガビは気にした様子もなく笑った。その隣では、ファルコも穏やかな顔で会釈した。

 

 二人がこうして屈託なく笑っているのを見ると、それだけでもここへ来た甲斐があったような気がした。

 

 ふと、周囲を見回す。他の戦士の姿がどこにもなかった。

 

「ピーク達はどうした」

 

「さっきマーレの兵士が呼びに来て、みんな連れていかれちゃった。マガト隊長のところだって」

 

 ガビが面倒くさそうに答えた。

 

 つい先ほどまで、自分もそのマガトと顔を突き合わせていた。その場で何も言われなかったのだから、おおかた警備の割り振りでも言い渡されているのだろう。ライナーは小さな引っかかりを飲み込んだ。

 

「あ、そういえばさ。さっき、すっごく綺麗なおばさんがライナーを探してたよ」

 

「おい、ガビ。失礼だろ、そんな言い方」

 

 すかさずファルコが窘めたが、ライナーには心当たりがなかった。

 

「おばさん……?誰だ、それ」

 

「さあ? ライナーと会いたいから、見つけたら自分の部屋まで来るよう伝えてほしいって。でも、どこかで見たことがあるんだよなぁ……きゃっ!」

 

 その時、人混みの中で背後から押されたウドがよろめき、ガビの肩へぶつかった。傾いた紙カップから橙色のジュースが溢れ、ガビの袖と床を濡らす。

 

「あー、もう!あんた何してくれんのよ!まだ口付けてなかったのに!弁償しなさい!」

 

「悪かったって……人多すぎるんだよ、ここ」

 

「それ、自分で買ったわけじゃないだろ。許してやれよ」

 

「いーや! この罪はちゃんと償ってもらうから!」

 

 濡れた袖を気にしながら、ガビはなおもウドへ食ってかかった。間に入ったファルコをよそに、ゾフィアだけが我関せずといった顔で成り行きを眺めていた。

 

 放っておけばいつまでも続きそうだったため、ライナーは口を挟んだ。

 

「それで、俺を探していた人はどこにいるんだ」

 

「え?ああ、あそこ」

 

 ウドへ詰め寄ったまま、ガビは片手だけで会場の上方を指差した。

 その先にあったのは、一般観覧席から隔てられた上層階の一室だった。正面には大きなガラス窓が設けられ、会場全体を見渡せる造りになっている。

 

 貴賓用の個室。それも政府高官か、それに類する有力者にしか与えられない部屋だ。

 どうせまた、英雄という肩書を珍しがっている誰かだろう。今日はこれで二人目だ。既に気が重くなっていた。

 

 さりとて無視するわけにもいかず、いまだ騒ぎ続ける候補生たちに呆れながら背を向け、ライナーは上層階へ向かった。

 

 廊下へ足を踏み入れると、階下の喧騒は急速に遠ざかっていった。厚い絨毯が人々の声も足音も吸い込み、人気のない通路では自分の靴音だけが妙に耳についた。

 

 足が止まる。

 教えられた貴賓用の個室は、廊下へ向けて開け放たれていた。中から話し声は漏れてこない。人の気配もない。

 

「失礼します」

 

 声をかけても返事はない。しばらく待ってから、ライナーは扉の縁へ手をかけ、慎重に中へ入った。

 

 広い個室のガラス窓からは開会を待つ会場と、観覧席を埋める人の海が一望できた。だが厚いガラスに阻まれて、歓声はひどく遠い。

 

 部屋の中央に、女が一人、豪奢な椅子に腰かけていた。

 

「お待ちしていたわ。世界を救った英雄さん」

 

 女が椅子ごと振り返る。その声には、かすかな覚えがあった。

 

 だが、目の前の姿とはどうしても結びつかない。答えられないまま行き場を失った視線が部屋の中をさまよった。

 手前の机には、真っ直ぐな茎に大ぶりの紫を連ねた、背の高い花が活けられている。その隣に、華やかな式典の場には不似合いな、無骨な黒い電話機が置かれていた。

 

 女は黒いドレスを纏っていた。つばの広い帽子を目深に被り、顔の半分は黒硝子の眼鏡に隠されている。

 

 帽子の下から零れる髪だけが異様なほど白く、血の気の失せた肌とともに、喪服めいた装いの中で冷たく浮かび上がっていた。

 

「ああ、ごめんなさい。この姿じゃ分からないわよね」

 

 女が椅子から立ち上がった時、その背後に隠れていたものがライナーの目に入った。

 

 壁際の長椅子に、深緑色のマントが無造作に掛けられている。折り重なった布の隙間から覗いていたのは、青と白の二枚の翼を重ねた紋章――調査兵団の『自由の翼』だった。

 

 なぜ、そんなものがここにある。

 

 問いかけるより先に、女はつばの広い帽子を外し、その下でまとめていた髪を解いた。白い髪が肩へ流れ落ちた。続いて黒硝子の眼鏡へ指をかけ、今度はそのまま顔から取り外した。

 

 その奥から、左右で異なる色の瞳が現れた。

 

 ひとつは海のように透き通った青。もうひとつは、乾ききらない血を思わせる濁った赤。

 

「これでどうかしら?」

 

 分かった。分かったからこそ、すぐには声が出なかった。

 

 髪も肌も、片方の瞳も、記憶の中の姿とは違っていた。何よりその身に纏う空気は、かつて医務室で自分たちを迎えてくれた女医の面影とは、まるで重ならなかった。

 

 それでも間違いようがない。

 

「ジル……先生」

 

 外した眼鏡を片手に持ったまま、ジルケ・クルーガーは静かに微笑んだ。

 

「改めまして――四年ぶりね、ライナー。あの子のいない故郷はどう?」




癖を詰め込んだようなキャラデザになってしまいました。
また、次話以降、賛否が真っ二つに割れそうな地獄みたいな展開がしばらく続きますが、お付き合いください。
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