エレンの妻です   作:ホワイト3

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今話も独自設定多めです。


56:悪魔の子

「そして、あとは知ってのとおり」

 

 不意にジルケの声が聞こえた。

 

「前の晩に聞かされた話を抱えたまま、周りが見えなくなっていたあなたを、あの子は身を挺して助けた」

 

 月明かりに照らされた野営地が、ゆっくりと輪郭を失っていった。

 

 焚き火の向こうに座っていたフェリスの姿が遠ざかるにつれ、代わりに壁時計の硬い音だけが耳へ戻ってくる。ヴィリー・タイバーの演説も、窓の下で湧いているはずの拍手も、水の底で聞くように遠かった。

 

 目の前には、フェリスの実の母親が座っている。

 

 その事実を認識した途端、全身から力が抜けた。椅子から滑り落ちるようにして絨毯へ両膝をつき、掌で床を支えたものの、息の吸い方さえ分からなくなり、胸だけが激しく上下した。

 

 忘れていた記憶が堰を切ったように押し寄せてくる。

 

 あの夜、フェリスが泣いていたことを。彼女がマルセルを愛していたことを。血のつながらない母へ感謝していたことを。

 

 そして呆然と立ち尽くす自分を押しのけて、彼女が身代わりとなったことを。

 

 銀を溶かしたような灰色の髪が風に翻り、フェリスがこちらを振り返る。背後には巨人の影が迫っていた。次の瞬間、小さな手がライナーを強く突き飛ばした。

 

 あれほど外したがっていた腕章だけを地面に残し、フェリスは巨人に食べられてしまった。

 

 そのすべてを思い出してしまった。

 

「う……あ……」

 

 喉から漏れた声は、自分のものとは思えなかった。

 

 額を床へ擦りつけるように身体を丸めても、あの日の光景は消えてくれない。むしろ、失われていた歳月を埋め合わせるように、記憶は次々と鮮明になっていった。

 

「まだよ。私が聞きたいのは、ここからなんだから」

 

 次の瞬間、ライナーの頭へ水が浴びせられた。何が起きたのか分からず顔を上げると、ジルケは空になった花瓶を逆さにしたまま手にしていた。

 

 机の上には、抜き取られた紫の花が並べて置かれている。

 茎の向きまで揃えられたその置き方は、たった今この人がしたことと、どうしても結びつかなかった。

 

「記憶の継承を通して、私はあの子の視点で世界を見た。何をどんな風にどう考えて見ていたのか……あの子の心を余すことなく知ることができた」

 

 冷たい水が濡れた髪を額へ張りつかせ、頬から顎を伝って絨毯へ落ちていく。ジルケは花瓶を持ったまま言葉を重ねた。

 

「あの子が最期に見たのは、恐怖、驚愕、混乱、罪悪感……あらゆる感情でぐちゃぐちゃになっている、あなたの顔だった。まあ突然巨人に襲われたんだもんね、そうなるのが当然よ」

 

 でもね、とジルケは言葉を区切る。

 

「その中に、混ざり得ないはずの感情(もの)がほんの少しだけど、確かにあった」

 

 傾いた花瓶の底から、残っていた水滴がぽつりとライナーの頭に落ちた。

 

「ねぇ、ライナー。あの子が巨人(わたし)に食べられた瞬間さ。『ざまあみろ』って思わなかった?」

 

 時計の針が止まったように感じた。

 

「あの子が……自分じゃなくてマルセルを選んだあの子が、目の前で無様に死んでいく。その光景を見て、せいせいしなかった?」

 

「ちが……」

 

 否定しようとしたが、声はその先へ続かなかった。

 ジルケは花瓶を机へ置いた。硬い音が室内へ響く。

 

「……ま、あなたが何と答えようとね。少なくともあの子の目には……心にはそう映った。あの子は最期の瞬間、あなたの中に潜む悪魔を見て死んだのか――それを確かめるために、私は遥々海を渡ってきた」

 

 ジルケは膝を折り、床に伏せたライナーと同じ高さまで降りてきた。

 

 赤と青の双眸が、真正面からライナーを捉える。逸らそうとしても逸らせなかった。頭蓋の裏側まで手を差し込まれ、隅に押し込んだものを一つずつ引き出されているような感覚だけがあった。

 

「ねぇ、ライナー。全て思い出したんでしょう?あなたの言葉で聞かせてよ」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

「……全部、先生の言うとおりです。あの夜、フェリスからマルセルへの気持ちを聞かされた時……俺は、裏切られた気分になりました」

 

「ガキの頃からずっと一緒にいたのは俺なのに。あいつと家族ぐるみで付き合ってたのも、二人だけで特訓したのも、一緒に花見をしたのも、あいつの夢を知ってるのも……数え切れないくらいの思い出を残してきたのに、なんでポッと出のマルセルなんだって」

 

「だから……あいつが食べられるのを見た時。俺を裏切った罰だと内心スカッとしました……同時に、少しホッとしたんです」

 

「もう、あいつと思い出を作らなくて済むって」

 

「一緒に過ごした過去でさえ、あの時の俺には呪いでしかなかった。だからもう思い出が増えなくて済むって……そう、思ったんです。一瞬だけ」

 

「そして、俺はアニやベルトルトを残して逃げました。そんなことを考えた自分がどうしても許せなくて……あいつが死んだ場所にはこれ以上いたくなかった」

 

「……(アギト)を失って帰れば、責任を問われることは分かっていました。ガリアード家みたいに、一族全員が巨人にされるかもしれない。保身の意味でも俺は故郷に帰れませんでした」

 

「でも、それ以上に俺を動かしたのは……あいつの分まで英雄にならなきゃいけない。いや、あいつに誇れる男にならなきゃいけないという使命感に似た何かでした」

 

「だから作戦を中止しようとするアニとベルトルトを説得して、始祖奪還計画を強行したんです。壁を破壊し、大勢の人間を殺した時も俺は何も感じなかった。ずっとフェリスの最期の目が俺に語りかけてきて、それどころじゃなかったんです」

 

「壁の中で同期の皆に兄貴面していたのも……全部、あいつに認めてほしかったんです」

 

「ほら、俺は頼りになるだろうって。フェリスが好きだった男(マルセル)と同じように振る舞えば、今度こそ選んでもらえると思って……同じ青い瞳をしたクリスタに、あいつを重ねながら。俺は居もしないフェリス相手にずっとアピールして……」

 

「同期達を……マルコを地獄に叩き落としたのは俺なのに。自己満足のために、兄貴分を気取っていた」

 

「英雄になりたかったんです。世界の英雄になって母さんと暮らして、そして――ただ、一言『見直した』って。あいつにそう言ってもらえるだけで、俺は……」

 

「……違う」

 

「認められなくてもよかった。俺はただ、あいつが隣にいてくれるだけでよかったのに」

 

「選ばれなくたって、あいつと他愛のない話をするだけで、俺は満たされたのに」

 

「そんな思いすら……俺は、いつしか忘れました。あいつが死んだことを認めたくなくて、ありもしない妄想に逃げ込んでたんだ。マルセルもポルコも故郷にいると思い込んで、誰も欠けない物語を作った」

 

「……もう嫌なんです、自分が……先生。俺を、殺してください」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

「うん。殺してあげる。あなたの中に眠る『始祖の巨人』を継承して……ね」

 

「……は?」

 

 何を言っているんだ、この人は。

 言葉の意味を組み立てようとして、途中で崩れる。ライナーは口を半分開いたまま、濡れた顔でジルケを見上げていた。

 

 その様子に気付いたジルケが、可笑しそうに笑った。

 

「報告を聞いた時は、俄には信じられなかったくらいよ。まあ……自分の手で同期を喰い殺したわけだもんね。この世界のあなたは原作に比べて弱ってるし、罪の重さに耐えられなかったのかな?上手い嘘のつき方は時折真実を混ぜることだと言うけれど、あなたはもっと上手ね。嘘そのものを消してしまったんだもの」

 

「原作……?」

 

 また、意味の通らない言葉だった。それでも、彼女が言おうとしていることだけは分かった。

 

「マーレ軍でも、知っている人間は数えるほどしかいなかったわ。復権派が情報を掴んだのもつい最近だし。ま、アルミン達の話を聞けば、大体の見当はついたけど」

 

 マガトが見抜いたとおり、マーレ軍内にエルディア復権派は潜んでいた。しかし、今のライナーにとってそんなことはどうでもよかった。

 

「そして、ここであなたに会って確信に変わった。『始祖』……いや、『進撃』の特性を考えれば、あなた以外に考えられない」

 

 脈打つ音が、耳の奥で大きくなっていく。

 

「俺が……始祖(エレン)を……」

 

「ええ。でもね、ライナー。罪悪感を抱く必要はないわよ」

 

「え……?」

 

 ライナーは意味を理解できず、濡れた顔を上げた。

 

「悪いのは――」

 

 言葉の途中で、ジルケの身体が傾いた。

 

 机へ伸ばした指先は縁を掠めただけで、そのまま膝から崩れ落ちる。

 

「先生!」

 

 ライナーは反射的に身体を起こした。

 

 ジルケは床へ片手をつき、もう一方の手で口元を押さえた。激しく咳き込んだあと、耐えきれずに胃の中のものを吐き出す。

 

 熱があるようには見えなかった。血の匂いもしない。

 ライナーは考えるより先に、その背中へ手を伸ばした。

 

「やめて」

 

 触れる寸前で、手が払われた。

 

「もうあの子はここに居ないのにさ、いつまでもマルセルの真似事をやらないでよ。見てて本当に腹が立つ」

 

「そ、そんなつもりは……っ!」

 

「……ごめん、取り乱した」

 

 ジルケは口元を手の甲で拭い、机の縁を掴んで自分の力で立ち上がった。足元はまだ覚束なかったが、汚れた床から目を逸らそうとはしなかった。

 

「ねえ、ライナー。さっきの話だけどね。あなた、クリスタにあの子を重ねてたって言ったでしょう」

 

 なぜ今その話なのか、ライナーには分からなかった。

 

「……私もよ。壁の中で初めてあの子を見た時からずっと。青い瞳がよく似ていたから……最初に手を差し伸べた理由なんて、それだけよ」

 

 自嘲するように「まあ原作をこれ以上壊したくないってのもあったけどさ」と言った。

 

「あの子はね、優しくしてくれる人が私しかいないと思い込んで、何度も私の部屋へ来たわ。悪い夢を見た夜も、自らの運命を切り開こうとした日も。私はあの子に自由に生きろと説いた」

 

「……」

 

「立派でしょう?でも私が見ていたのは、あの子じゃない。海の向こうに置いてきた娘なの。私は自分の穴を埋めるために、十歳の子供を使った」

 

 白い髪の隙間から、乾いた笑いが漏れた。

 

「本当なら、あなたを裁く資格なんてないのにね。私がやってること、グリフィスと同じ……いや、それ以下だもん。自分の夢のために、信じてくれた人も、愛した人も、何も知らない人たちまで捧げようとしてる」

 

 また、ライナーの知らない名前だった。

 それでも、その名の人物がよほど度し難い何かであること、そして自分はそれ以下だと、ジルケが心の底から信じていることだけは伝わった。

 

「こんな人間、生きてていいわけがない」

 

「さっきから……本当に何を言っているんですか」

 

「理解しなくていいわよ。ま、教えたところで私の本名すら知らないあなた達なんかに、わかるはずもないけど」

 

「ジルケ・クルーガー……だろ。何を言って――」

 

「ぶっぶー、外れ」

 

 ジルケは自分の掌へ目を落とした。

 

「私はあなた達が知らない壁の向こう側からやってきたの。あなた達とは……所詮は紙の上のインクに過ぎないあなた達とは、在り方が根本的に違う」

 

「あなた達は与えられた役割を演じているだけ。でも私は違う。何をするのも、どこへ行くのも、誰を愛するのかも、自分で選べた」

 

「そう。私は自由だったのよ」

 

 そう言ってから彼女は掌を握り込んだ。

 

「……なのに、どうしてこうなったのかしらね」

 

「先生……」

 

「もう後戻りできない」

 

 ジルケは机の縁から手を離した。支えを失っても、今度は倒れなかった。

 

「正しく生きることも、誰かに赦してもらうことも、自分だけ綺麗に死んで償った気になることも……もう全部どうでもいい。悪魔になり果てようと、私は進み続ける。自分の選んだ道を、最後まで」

 

 黒い靴が、床の汚れを踏み越える。

 

「――これは私が始めた物語だから」

 

 言い終えた直後、机の上に置かれた黒い電話機が鳴り響いた。

 硬く事務的な音が、それまで二人の間に流れていた空気を断ち切った。

 

 ジルケは一度だけ目を閉じると、机へ片手をつきながら受話器へ手を伸ばした。足元にはまだ十分な力が戻っていなかったが、電話へ出た声は平静だった。

 

「はい……はい……ああ、よかったです。放送局の制圧は完了しましたか。キヨミさん達や東の方々も避難済みなんですね。安心しました。ええ、恩人(スポンサー)を巻き込むわけにはいきませんからね」

 

 受話器の向こうから返される声は、ライナーのいる場所までは届かない。ジルケは報告を聞きながら窓辺へ顔を向けた。

 

「ありがとうございます。さすがはキース教官だ。あなたは、やっぱり特別な人です。本当に尊敬します」

 

 受話器の向こうから何か訂正されたらしく、ジルケが僅かに口元を緩めた。

 

「え、もう教官じゃない?やだなあ。私にとってはずっと教官ですよ……そんなに嫌ですか。わかりましたって、キースさん。はい、これでいいですか?」

 

 受話器の向こうの声が続くにつれ、ジルケの口元から笑みが消えていく。

 

「……前にもお話しした通りです。私、やめませんから」

 

 感情を抑えた声だった。

 

「初めてお会いした時に言いましたよね……私には夢があるって。何物にも代えがたい、決して諦められない夢が――その為なら、心臓を捧げる覚悟はできているって」

 

 ジルケは短い沈黙を挟むと、窓の外へ目を向けた。

 

「それでフロックたちの班はどうです?ああ、動いてくれてますか。非常に良い(ディ・モールト・ベネ)です。完了したらまた連絡してくださいね」

 

 ライナーはいつの間にかヴィリー・タイバーの声が聞こえなくなっていることに気づいた。

 

 壇上ではヴィリーが何かを話し続けているが、会場の拡声器はその声を流さず、耳を刺すような高い不協和音だけを吐き出していた。

 

 観客席にはざわめきが広がり、人々は頭上の拡声器を見上げながら、互いに顔を見合わせている。塔の周囲では係員や兵士が慌ただしく動き、壇上にも警備の人間が集まり始めていた。

 

 もっとも、大半の者はただの機材トラブルだと思っているらしく、席も立たずに放送が復旧するのを待っている。

 

 やがて壇上のヴィリーが自ら拡声器を見上げ、片手を挙げて聴衆へ何かを詫びた。笑いが起こり、ざわめきが少しだけ和らぐ。

 

 視界の隅で、ジルケが受話器を戻した。だが、その手は電話機から離れなかった。次の報せを待つように、指を添えたままだった。

 

「169人」

 

「……え?」

 

「私の実験で亡くなった人の数よ」

 

 聞き間違いだと思いたかった。だが、彼女の言葉がそれを否定する。

 

「巨人の力は、分からないことばかりでね。当たり前の話だけど、原作知識があったところで、書かれていないことまで把握することはできない。だから確かめたの。分からないものを理解するために」

 

 電話機へ添えたままの指先が小刻みに震えていた。

 

「距離を変えて、人数を変えて、声を届ける方法も変えた。一度失敗するたびに条件を組み直して、また次の人で試した」

 

「人で試す……?」

 

「ええ。ま、所詮は王政編で役目を終えた中央憲兵(モブキャラ)達なんだけど」

 

 会場から目を離したジルケがライナーへ顔を向ける。

 

「何度も言ってるでしょう。私はもう、後戻りできないって」

 

 赤い瞳が静かに細められた。

 

「『叫び』の力はね、距離なんて関係ないの。ラジオや無線機を通した音でも、座標を刻まれたユミルの民に聞こえさえすれば効果が及ぶ――それを確かめるためだけに、どれだけの人命を奪ってきたことか」

 

 ライナーの視線が、窓の外にそびえる勝利の塔へ向いた。

 

 たった今聞かされた話と、マーレ全土へ整備された放送網。それらが、ある一つの悍ましい結論につながった。

 

 十年ほど前、マーレは敵国の首都を一晩で落とした。ある晩に何百もの巨人が街中に湧いて出たからだ。

 ある人物の脊髄液を服用した何百ものエルディア人を、予め街中に忍ばせておけば、彼がただ一声叫んだだけで街は壊滅した。

 

 その戦術はマーレ兵なら誰でも知っている。

 

「まさか……」

 

「仕方なかったのよ」

 

 ジルケの声は、驚くほど平坦だった。

 

 さっきも、同じ言葉を聞いた。壁を壊したことを責めるつもりはないと言ったとき、彼女はまったく同じ顔で「仕方なかった」と口にした。

 

「原作と違って、私達は超大型(ベルトルト)の力を奪えなかった。あれさえこちらにあれば、もう少しましな脅し方ができたのに」

 

 窓の下では、まだ人々が席を立たずにいる。

 

「ただ私も座して死ぬつもりはない。だから……これしかなかったの」

 

 何が起こるのかを理解しかけた時、電話機が再び鳴った。

 短いやり取りをしたあと、ジルケは受話器を肩と耳の間へ挟み、机の上へ手を伸ばした。

 

 その手が掴んだのは、先ほど外したサングラスだった。

 

 ジルケは異色の双眸を一度閉じ、黒い硝子で再び覆い隠す。眼鏡の位置を指先で整えると、窓の外に広がる会場へ顔を向けた。

 

「やめろ……」

 

 ライナーは床へ手をつき、立ち上がろうとしたが脚にはまだ力が入らなかった。

 

「先生、もうやめてくれ……!」

 

 伸ばした指先は、ジルケへ届かない。

 ジルケは受話器を握り直すと、回線の向こうにいる者へ静かに言った。

 

「やりなさい」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

(あ、飛行船)

 

 ピーク・フィンガーは窓の外に、レベリオの街を横切っていく飛行船を見つけた。

 

 万博に合わせて飛ばしているのだろう。科学の時代が来たと壇上で謳うのなら、あれ以上分かりやすい見本もない。

 

 子供の頃、収容区の空をゆっくり渡っていく影をよく見上げていた。あの高さから見下ろせば、壁も検問も、紙に引いた線程度にしか見えないだろうと思った。

 

 展示館と会場を繋ぐ二階の連絡通路を、革靴の音が二人分と少し重い軍靴の音が一つ、前後に連なって進んでいく。先を歩くマーレ兵は一度も振り返らない。先ほど声をかけた時も、「エルディア人の無駄話に付き合う気はない」とだけ返された。

 

「ノリ悪いね」

 

 隣を歩くベルトルトに囁くと、彼は困ったように眉を下げるだけだった。

 

 天井の拡声器から、ヴィリー・タイバーの声が降ってくる。これからの世界は巨人の力ではなく、人類の叡智たる科学が中心となる。丁寧で、穏やかで、聞く者を安心させる響きだった。

 

「巨人の時代が終わるんだってさ。私たち廃業だね」

 

「……これからその尻拭いをするのにね、僕たち」

 

「ねー。巨人兵器の価値が無くなったのなら、今更パラディ島に行く必要なんて無いのに」

 

 始祖奪還作戦は成功した。それは嘘ではない。

 ただしその実態は、世界が思っているものとまるで違う。

 

 四年前のシガンシナ区。あの日ピークが見たのは、リヴァイ・アッカーマンによって獣のうなじから引きずり出されていくジークの姿だった。

 

 助けに行くべきか、一瞬だけ迷った。だがあの平原には、身を隠せるものが何一つない。四足で駆け寄れば、地響きも土煙も、あの男なら容易に気付くだろう。事実リヴァイは、ジークを引きずり出したあとも刃を構えたまま、地平線を舐めるように見渡し続けていた。

 

 即位式で自分がジークを咥えて逃げたことを、あの男は苦々しく覚えているに違いなかった。

 

 だから諦めざるを得なかった。それきりジークの消息は途絶えている。

 

 その後ピークは、シガンシナ区から脱出してきた鎧の巨人と合流した。ベルトルトが憔悴し切った顔で、鎧の肩に捕まっていたのを覚えている。

 

 そして鎧の巨人の、開いた口の中。全身を焼かれたエレン・イェーガーが、確かにそこにいた。

 

「まさか錯乱して始祖(エレン)を食べちゃうなんてねぇ」

 

 先を歩く兵士に聞こえぬよう囁くと、ベルトルトは苦笑した。

 

「……まあ、ライナーは仕方ないよ。あの時、僕を見る目が完全に敵のそれだったからさ。喰われたのが僕じゃないだけマシだと思うことにしてる」

 

「えー、まさか。いくらライナーでもやらないって」

 

「冗談で済まなそうなのがね……」

 

 通路が緩やかに折れ、会場が大きく開けた。埋め尽くされた観客席の中の誰も、世界の英雄ライナー・ブラウンが何を抱え、何を宿しているのかを知らない。ライナー本人でさえ知らない。

 

 島から帰還した男の頭は、五年ぶりの再会を果たした時点で既にめちゃくちゃになっていた。

 

 レベリオへ帰るなり、共に旅立ったはずのフェリスの姿を探して収容区を歩き回った。凱旋式では彼女の母親を捕まえて、故郷での近況を平然と尋ねていた。

 

 あれを狂気と呼ばずに何と呼ぶのか、ピークには分からなかった。

 

 近頃は落ち着いている。少なくとも、会話が途中で噛み合わなくなることは減った。

 

 それでも危うい。

 

 事実を伏せているのはマガトと上層部の判断だ。器の精神をこれ以上乱さないため、とマガトは言っていたが、上層部は同じ結論に別の理由で辿り着いている。

 

 鎧を存分に使いこなす手駒に、下手な自覚を持たせて妙な動きをされては困る。諸国との四年にわたる戦争を戦い抜かせるためには、何も知らないままでいてもらう方が都合が良い。

 

 そうして今、マーレは次の一手を打とうとしている。始祖はもう手元にあるのだから、あとは鍵となる王家の血さえ確保すればいい。そう考えている。

 

 中身の壊れた器を、誰も直せないまま。

 

 この四年、ピークはライナーへずいぶん甲斐甲斐しく接してきたつもりだった。多少は支えになれたのかもしれない。でも、彼を元に戻すことはできなかった。

 

 彼を継ぎ直せるのはフェリス・シュタイナーだけだ。だが、彼女はもうどこにもいない。

 

(結局のところ、私がやってたのはフェリスの真似事だった。毒にも薬にもならなかったのね)

 

 そこまで考えたところで、耳が妙な静けさを拾った。ヴィリー・タイバーの声が聞こえない。

 

 直後、拡声器がキーンと甲高い音を吐き出した。思わず耳を塞いだ。音は喉を絞められたように途切れ、そのまま消えた。

 

「……機材の不調かな」とベルトルトが呟いた。

 

「ねえ、ちょっと」

 

 先を行く兵士にピークが声をかけようとした、その時だった。雑音の底から、別の音が浮かび上がってきた。

 

 言葉ではない。空気を裂くような甲高い『叫び』が通路の拡声器から、そして眼下の会場中から一斉に吐き出された。

 

 ――直後、観客席のあちこちに雷が落ちた。

 

 悲鳴が起きるより先に蒸気が噴き上がり、人の形をしていたものが座席をなぎ倒しながら膨れ上がっていく。骨の軋む音と、肉の裂ける音が、硝子越しにも届いた。ピークは窓へ駆け寄った。

 

 街の方角にも、蒸気が立ち込めていた。一本ではない。塔の向こう、収容区の方角、駅前の広場。レベリオのあらゆるところから、光の柱が生えていく。

 

 間違いない。ユミルの民が強制的に巨人化させられたのだ。

 そして『叫び』で人を巨人に変えられる者を、ピークは一人しか知らない。

 

(ジーク……!)

 

 ジーク・イェーガー。四年前のシガンシナを最後に消息が途絶えた男。

 

(まさか生きていたの?それだけじゃない。『叫び』の力を使うなんて……壁内勢力に寝返って――)

 

 辻褄は合う。合いすぎるくらいだ。

 

 それでも、何かが噛み合っていない気がした。

 

 いや、今はそれどころではない。早くパンツァー隊と合流しなければ、軍の指揮系統ごと潰される。

 

(――レベリオだけで済む?)

 

 背筋を冷たいものが伝った。

 

 もし仮に、マーレの各都市へ脊髄液を接種したエルディア人を配備しておき、今の『叫び』がラジオによって全土に届いていれば。

 

(ラジオの声でも巨人化させられるのなら、今この国にいる無垢の巨人は数千どころじゃ済まない)

 

 しかし、そんなことを可能にするなんて。敵の規模はいったいどれほど――

 

「ピーク!!」

 

 考えがそこへ届いた瞬間、肩を強く突き飛ばされた。

 視界が流れ、床に手をつく。掌に硬い床の感触が伝わった。何が起きたのか分からないまま顔を上げる。

 

 突き飛ばした主……ベルトルトの胸から、刃が生えていた。

 

 黒い戦闘服と緑のマントを纏った人影が、ベルトルトに刃を突き立てていたのだ。

 

 足音はなかった。衣擦れも、装置の駆動音も、風を切る音すら。

 この通路は真っ直ぐで、隠れる場所などない。それでもピークは、この人影がどこから来たのかを言い当てられなかった。前を歩いていたマーレ兵も、いつの間にか居なくなっていた。

 

「ミ……カ、サ?」

 

 ベルトルトが唇の端から血を流しながら、呟く。人影はベルトルトから視線を離し、チラリと見下ろす。

 

 目が合った。どこまでも暗く、黒い瞳がそこにあった。

 

 ――アッカーマンは島に二人いる。ライナーとベルトルトが持ち帰った報告の、その一行を思い出した。




ライナーがヘラりすぎてますが、進撃の可哀想担当は……まあ我慢強いブラウンが合っているので仕方なかったってやつです。

なお、今話も新情報と独自設定多めのため以下補足します。

・花瓶必要あった?
⇒ あの部屋に活けてあったのはタチアオイという花で、本作ではヒィズルの国花であるという設定です。ヒィズルとの関係を感じ取れていただければなと思って用意しましたが、理由の九割は「ライナーの頭に突然冷や水をぶっかけたかったから」です。
花に罪はないので、せめて茎の向きを揃えて置いてもらいました。

・キース教官もレベリオ来てるん?
⇒ 自称無能風有能おじさんの活躍を乞うご期待ください。

・ラジオの『叫び』でも巨人化するの?
⇒ 原作でジークが巨大樹の森で叫んだ際、遠く離れたファルコやピクシス達にも電流のようなものが走る描写がありました。つまり『叫び』の影響そのものは、距離に関わらず及んでいると読めます。

その場で巨人化した面々と、ファルコ達との違いは何だったのか。本作では「ジークの声が届く距離にいたかどうか」の一点だけだと解釈しました。
その前提に立つと、王家の人間の命令が聞き取れているか否かが重要なので、肉声である必要性はなく、ラジオでも無線でも音として届きさえすればいい、という設定にしてもそこまで違和感ないかなと考えた次第です。
どうやって脊髄液ばら撒いたのか等は今後明かしていくつもりですが、まあカスみたいなムーブしたことはなんとなく察していただけると……

・エレン、喰われたん?
⇒主人公はよ、乗り換えることにしたんだ。

・ジルケ、ちょっと大丈夫そ?
⇒自認がグリフィス以下のカスなんで色々察してください。
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