閃光が走った。
ガビ・ブラウンが何かを考えるより早く、熱を孕んだ風が横合いから殴りつけてきた。
座席から身体が浮いて世界が縦に回り、背中が硬い段差へ叩きつけられる。そのまま二列ぶんを転げ落ちた。
歓声も、楽隊の音も、拡声器から流れていたはずのタイバー公の演説も遠ざかっていた。
仰向けのまま見上げた空では二本、三本どころではない光の柱が、会場に張り渡された万国旗を突き破るように次々と天へ伸びていた。
綺麗だ、と一瞬でも見惚れた自分に、遅れて怖気が走った。
「……かはっ」
ようやく喉が開き、吸い込んだ空気は埃と血の味がした。
肘をついて身体を起こす。目の前の景色を認識するまでに、数秒かかった。
人が食われていた。
すり鉢状にせり上がる観客席の、五、六列ほど下。座席の背もたれを薙ぎ倒しながら進む無垢の巨人が、通路を逃げる男の脚を掴み、駄々をこねる子供のように振り回してから口へ運んだ。
反対側の階段では、別の巨人が女の上半身だけを咥え、残りを座席の列へ落として、それにはもう見向きもしない。
獲物を選んでいるわけでも、狙いを定めているわけでもない。そこにあるものを、ただ順番に口へ入れている。
(なんで……なんで急に巨人化したの?)
疑問を抱えたまま、身体だけが動いていた。
姿勢を低くしたまま、跳ね上がった座席の陰へ滑り込み、次の列までの距離を測った。巨人の視線が逸れた一瞬で段差を駆け上がり、また身を伏せた。
四人で座っていた席は、この先だ。
(巨人化薬……ううん、違う)
あの薬は軍が厳重に管理している。万博の見物客が、何百人も一斉に打てるようなものではない。
ならばこれは何なのだ。
階段の手すりに沿って身を屈めながら、ガビは思い出した。
いつだったか、ピークが眠たげな声で話してくれたことがある。昔の戦士隊には、叫ぶだけでユミルの民を無理やり巨人に変えてしまえる人がいたのだと。
冗談か、寝ぼけた昔話だと思って笑い飛ばした。ピークもそれ以上は語らなかった。
(じゃあ、さっきの……あの音は)
閃光の直前、拡声器が吐き出したあの音。
言葉ではなかった。喉を裂くような、高く細い『叫び』はまるで悲鳴のようだった。
背筋を這い上がってきたものを、ガビは考えないことにした。今はそれどころではない。何より先に確かめなければならないことがある。
(ファルコ……!)
最後の列を回り込んで、ガビは自分たちの席へ辿り着き──足を止めた。
二体の巨人がそこにいた。
一体は痩せ細った六メートル級で、大きすぎる目玉が濁ったまま宙を向いている。少し困ったように下がった目尻の形だけが、そっくりそのまま残っていた。
もう一体はそれより小さい。四メートルほどしかない。長い髪がばらけて背中へ垂れ、そのすぐ足元に、赤いものが落ちていた。
千切れた髪飾り。今朝「綺麗でしょ。母さんに買ってもらったの」と自慢しながらゾフィアが結んでいたものだった。
ガビの膝から力が抜けた。
「……嘘だ」
嘘だ。何かの見間違いだ。だって二人とも明日も明後日も訓練場にいるはずで、いつか『九つの巨人』を継いで、悪魔の末裔なんかじゃないと世界に証明するはずで──。
濁った目がガビを捉えた。小さいほうの巨人が四つん這いのまま、座席を蹴散らして驚くほどの速さで迫ってくる。
「っ!」
咄嗟に身体が跳んだ。頬のすぐ横を歯が掠め、背後で座席が支柱ごとへし折れた。
転がるように受け身を取り、立ち上がって走る。だが二歩目で、爪先が瓦礫に引っかかった。
視界が傾いた。
段差へ叩きつけられ、振り返ったときには、影が真上まで来ていた。逆光の中で、口の端から涎が糸を引いて落ちてくる。
逃げられない。
それだけを、ガビははっきりと理解した。
立て。マーレの誇りあるエルディア人として、戦って死ね。悪魔の末裔などではないと、この身で証明しろ。
この四年、毎朝鏡の前で唱えてきた言葉だ。だが、その一つも口をついて出なかった。
出てきたのは、たった一言。
「……助けて」
その瞬間、視界が暗く閉ざされた。
布だ。緑色の布が頭からすっぽりと被せられた。同時に何かが正面から飛び込んできて、ガビの身体を強く抱き込み、そのまま座席の間へ押し倒す。
硬い。抱き締めてくる腕の下には、ごつごつとした金具があり、肋骨へ容赦なく食い込んでくる。鉄の鎧に抱き潰されているようだった。
「しーっ。じっとしててください」
若い女の声だった。囁くような小さな声なのに、不思議なほど落ち着いていた。
「安心してください。こうしておけば、巨人達は襲ってきませんから」
「……っ、は、離して!あなた、誰なの!?」
布一枚を隔てた向こうで、足元が揺れている。巨人の足音が、確かに近づいてくる。真上まで来て止まった。
叫び出しそうになった口を、女の手が塞いだ。
「……大丈夫。大丈夫ですから」
食べられる。そう思った。だが、いつまで経っても歯は降ってこなかった。
揺れが遠ざかっていく。
興味を失ったように、あるいは初めからそこに何もないかのように、巨人はガビたちの真横を通り過ぎていった。
「……ほら、言ったとおりでしょう」
得意げに囁く声が、耳のすぐ上から聞こえた。
自分の鼓動がうるさい。だがそれ以上に、抱き込んでくる相手の心臓の音が、すぐそこで鳴っていた。
血の臭いが濃く漂う中、その奥にほのかな麦の香りが混じっていた。
パンを焼くときの、あの匂いだ。それに気付くと、どういうわけかガビの震えは少しずつ収まっていった。
どれくらいそうしていたのか分からない。周囲の物音が薄れたのを見計らって、女が短く息を吐いた。
「よし、今のうちに行きますよ!舌を噛まないようにしてくださいね!」
「え?」
布が跳ね上げられた。
視界が開けたと思った次の瞬間、ガビの身体は宙に投げ出されていた。
「──っ、わぁ!?」
腰に腕が回されている。頭上で金属音が鳴り、何かがアーチの鉄骨へ食い込んだかと思うと、身体が凄まじい勢いで引き上げられた。
浮遊感。内臓が置いていかれる感覚。ひしゃげた座席の列が、燃える売店が、視界の下を高速で流れていく。
何が起きているのか分からなかった。
この人は飛んでいる。翼もないのに、会場を跨ぐ鉄骨のアーチを渡り、支柱から支柱へと身を投げている。腰から伸びた細い線の先端が、鉄骨へ突き刺さった。
同時に装置が白い蒸気を噴き上げ、身体ごと空へ引っ張り上げていった。
こんなものは、ガビの知る世界のどこにもなかった。
「ちょっと!!暴れないでくださいって!落ちちゃいますから!」
「だ、だって……!」
「目を瞑っていればすぐ着きますから!」
展示館の裏手、積み上げられた木箱の陰へ降ろされたとき、ガビの膝はまだ笑っていた。
女が身をかがめ、さっきの布を広げてみせる。緑色のマントだった。その背に、白と青の翼が重なった印が縫い取られている。
「このマント――『自由の翼』を見せれば、巨人達は襲ってきませんから。あなたが持っていてください」
言いながら、女はガビの肩へマントを回した。
「絶対に脱いだらいけませんよ。いいですか、絶対です」
肩にかかった感触が妙に気になって、ガビは無意識にそれを胸元へ引き寄せた。
その顔を、ガビはようやく正面から見た。
赤みがかった髪を、無造作に後ろで束ねている。頬に泥と血が跳ねていて、思っていたよりずっと若い。
息が止まった。
覚えている。忘れるはずがない。
収容区の外れで銃声が響いたあの日。倒れた自分たちの前に立ちはだかった、三人組。坊主頭の男と、馬みたいな顔の男と、そして──赤い髪をこうやって結んだ、この人。
あのとき、名前も聞けないまま消えた恩人だった。
「……あなた、あの時の」
ずっと探していた。お礼を言いたかった。まさかこんな場所で会えるなんて、ガビは思ってもいなかった。
「サシャ!」
声が割り込む。
搬入路を跨ぐ連絡通路の欄干から、男が一人滑り降りてくる。坊主頭だった。この人もガビは覚えていた。あの日の三人組の、もう一人。
「おい、サシャ!なにマント脱いでんだよ!それだとお前が巨人に襲われるじゃねぇか!」
「わかっとるばい!ばってん、子どもばそのままにしとくわけにゃいかんやろ!」
噛みつくような声だった。さっきまでの穏やかな言葉遣いはどこにもない。港湾で働く男達がよく使う、南方マーレの訛りだ。
「この馬鹿野郎……いや、いい。とにかく急ぐぞ」
坊主頭の男が言葉を呑み込む。サシャと呼ばれた女は小さく肩を落とし、それからガビへ向き直った。
その目にはうっすら涙が浮かんでいた。
「ごめんなさい……あなたは何も悪くありませんから」
それだけ言って、彼女は跳んだ。
先端の金具が鉄骨を噛み、白い尾を引いて、二つの影は炎の照らす空へ吸い込まれていく。あとにはガビ一人が残された。
何も悪くない。
その言葉の意味を、ガビは掴みかねていた。助けてもらったのはこちらで、謝られる筋合いなどどこにもない。
あの人は何を詫びたのか。誰の代わりに、何について。問い返す相手は、もういなかった。
マントを抱えたまま、ガビは呆然と空を見上げていた。
鉄骨へ突き刺さる金具。噴き出すガス。人が鳥のように飛ぶための装置。
いつだったか、マガト隊長が話していた。パラディ島の悪魔共は、巨人と戦うための独自の装備を持っている、と。人の身で巨人のうなじを断つための、
ガビの指先が冷たくなった。
(じゃあ、あの人達……)
この会場を燃やし、ウドとゾフィアを化け物に変えた側の人間だというのか。
地響きがした。搬入路の入口を、無垢の巨人が塞いでいた。
ガビの思考が止まる。だが、迷っている時間などどこにもなかった。
唇を噛み、マントを頭から被って、その下で身を丸める。
粗い布地の内側で、白と青の翼がガビの背を覆っていた──『自由の翼』。あの人はそう呼んでいた。
目を固く閉じたまま、ガビは自分でも訳が分からないほど強く、その翼にしがみついていた。
◇◇◇◇
「ひぇぇぇぇ」
情けない声が車力の巨人の口から漏れた。
瓦礫を蹴散らし、燃え落ちた展示館の残骸を飛び越えながら、四本の脚が石畳を叩き続ける。巻き上がった火の粉が目の端を流れていった。
だが、その声とは裏腹にピーク・フィンガーの頭は驚くほど冷えていた。
右手の柱廊は塞がり、左には無垢の巨人が三体。ならば正面の旧式給水塔を回り込んで大広場へ――そう進路を定めた直後、うなじの上で金属の擦れる音がした。
振り返るまでもない。ワイヤーが空を裂く音も、ガスを噴かす間隔も、四年前のシガンシナで嫌というほど覚えさせられたものだった。
(いくらなんでも速すぎるって……!本当に人間?)
もう一人のアッカーマンが現れたのは、ほんの数分前のことだ。
連絡通路でベルトルトの胸から刃が生えた。続く二本目が首筋へ返されるのが見えた瞬間、ピークは考えるより先に巨人化していた。
閃光が狭い通路を内側から食い破り、硝子も鉄骨もまとめて薙ぎ払った。その衝撃は女とベルトルトの双方を吹き飛ばし、崩れた床ごと外壁側へ叩き落とした。
瓦礫を押しのけて立ち上がったとき、ベルトルトはもうどこにもいなかった。
下層へ落ちたのか、それとも鉄骨の下敷きになったのか。前脚で瓦礫を退かそうとした。まだ間に合う。あの傷でも彼なら――。
煙が薄れ、その向こうから黒髪の女が真っ直ぐこちらへ歩いてきた。ベルトルトのほうではない。ピークのほうへ。
迷ったのは一秒にも満たなかった。それでもピークは彼の捜索を諦め、踵を返して走り出した。
心臓を貫かれていようが、巨人化さえできれば傷は塞がる。だからベルトルトは生きている。そう信じることしかできなかった。
ただ問題は、生きていたとしても、今ここで超大型になることはできないということだ。
この狭い会場で巨人化すれば、熱で何もかも消し飛ぶ。マーレ人だけではない。収容区から出てきた同胞も、ガビ達戦士候補生も、レベリオで暮らす彼自身の家族も巻き込まれる。
(ベルトルトがここで巨人化できないことまで計算して――?)
アンカーが鉄柱へ食い込む音が背後で鳴った。
「しつこいなぁ!もう!」
思えば連絡通路でもそうだった。ベルトルトが身を挺して間に割り込んだだけで、最初からあの女の狙いは自分だったように思える。彼を刺したあとも、とどめを刺すより先にこちらへ向き直っていた。
わけが分からない。
少なくとも今の車力を潰したところで、戦局が大きく動くとは思えない。武装もなく、できることといえば速く走って長く巨人でいられる程度だ。超大型を捨て置いてまで、自分を優先する理由がどこにあるのか。
(いや、今はどうでもいい……!とにかく開けた場所に逃げないと……!)
四年前のシガンシナ区で、ピークは嫌というほど学んでいる。
アッカーマンには勝てない。
だから勝つ算段など最初から立てず、逃げ切ることだけを考えた。
うなじの中で、生身の身体が軋みを上げている。喉は焼けつき、肺は苦しい。四本の脚を動かしているのは巨人の肉なのに、疲弊していくのは中にいる自分だった。
それでも行き先は決めてある。噴水と石畳しかない、だだっ広い大広場。展示館も鉄骨のアーチも遠く、アンカーを打ち込む場所さえなくなれば、立体機動装置など無用の長物だ。
(我ながら悪くない判断だと思うんだけど)
石畳へ躍り出る途中、宙を舞う緑のマントが目に入った。
調査兵団だ。
巨人が取りこぼしたマーレ兵を高所から銃撃し、地上では無垢の巨人が逃げ惑う人間を追い回している。まるで互いに示し合わせたかのように、兵士と巨人が役割を分担していた。
(……おかしい)
無垢の巨人が、調査兵を一度も襲わない。目の前を横切っても、視界へ入っても、初めからそこに誰もいないかのように素通りしていく。何十体もの巨人が同じ反応を示している以上、偶然ではありえなかった。
人間を襲えと命じられているのではない。それなら調査兵団まで食われる。
(だとすれば……あのマントを羽織った者だけを、捕食対象から外しているってこと?)
紋章なのか、布の色なのかまでは分からないが、あれが識別標識になっていると考えれば辻褄が合う。
大広場へ出た。
開けた石畳の上には、身を隠せるものが何ひとつない。ここまでは計算どおりだった。
その直後、背後でアンカーが肉へ突き刺さる音がした。
「──っ」
追いつかれた。
振り返ると、黒髪の女が無垢の巨人の肩から跳んでいた。
建物がないなら巨人を使えばいい。そう言わんばかりに次の一体の背へアンカーを撃ち込み、巨人から巨人へ支点を移しながら距離を詰めてくる。
右の前脚を斬られた瞬間、ピークはうなじから飛び出した。
粉塵の中を生身で走り、立ち込める蒸気へ紛れたところでもう一度巨人化する。それでも息をつく暇すら与えず、刃は再び追いすがってきた。
再生が追いつかない。
駄目だ、殺される――。
ピークがそう観念しかけた瞬間、会場中央が真昼のように白く弾けた。ヴィリー・タイバーが立っていたあたりから眩い光が夜空を貫き、その中から巨大な影が立ち上がる。
光の中から現れた巨人は、その手に途方もなく巨大な槌を携えていた。硬質化した塊が横薙ぎに振るわれ、群がっていた無垢の巨人が紙屑のように蹴散らされる。
二撃目はピークの周囲へ。正確には、ピークへ群がる巨人と、その頭上を跳んでいた女へ向けて叩きつけられた。
『車力の巨人』
声が地面を震わせて届いた。
『ここから離れて、今すぐ
(やっぱり、タイバー家も掴んでたか)
驚きはなかった。
この国の根幹に食い込んでいる一族が、軍でも数えるほどの人間しか知らない事実を握っていたところで不思議はない。
むしろ心強かった。今この会場で、状況を正しく把握している味方は他にいないのだから。
「戦鎚か……」
女が着地しながら短く呟いた。
槌が再び唸りを上げる。女は身体を捻ってその一撃を避け、着地点を変えた。
視線がピークから外れた隙を逃さず、巨人体を捨てた。
うなじから転がり落ち、瓦礫の隙間へ潜り込む。折り重なった鉄骨と石材の底で息を殺し、僅かな隙間から広場を覗いた。
槌が石畳を叩くたび、砕けた破片が雨のように降り注ぐ。
それでも女は、一撃ごとに身を捻り、跳躍し、立ち昇る蒸気を縫って間合いを保っていた。槌は一度として彼女を捉えず、掠りさえしない。
埒が明かないと判断したのか、戦鎚は女そのものではなく、立体機動の支点を片端から潰し始めた。無垢の巨人が薙ぎ倒され、屋根から降りようとしていた兵士達が、槌の一振りでまとめて宙へ弾き飛ばされた。
それでも、この会場には足場が多すぎた。
一体の無垢を潰せば隣の巨人へアンカーが飛び、屋根を砕けば別の壁面を兵士が駆け上がる。戦鎚が右側を薙いでいる間にも、左では三人の兵士が既に高度を稼いでいた。
ピークは視線を外した。
あそこへ飛び込めば、次の一秒で身体が二つになる。
ワイヤーが風を切る音が頭上を掠め、やがて遠ざかっていった。
「ピークさん!」
「パンツァー隊!生きてたの!?」
瓦礫の隙間から顔を出すと、煤だらけの隊員が一人、腰を屈めてこちらを覗き込んでいた。軍服の肩は焼け焦げ、片方の袖が千切れている。
「はい、なんとか……!ですが、軍は壊滅寸前です。被害はレベリオだけではありません!」
「……どういうこと?」
「司令部から緊急通信が回っています。北のカリファ軍港から南のスラトア要塞まで……各地の主要軍事拠点で同時に巨人が発生し、すでにいくつも陥落したと!」
ピークは瓦礫へ手をついたまま、しばらく声が出なかった。
同時に。各地で。
軍の崩壊どころではない。国家存亡の危機だ。
(止めるには、叫んだ本人を見つけるしかない……!)
だが、これがジークの力なら、本人をわざわざ戦場の真ん中へ晒すはずがない。どこか安全な場所に潜み、こちらが同胞に食い荒らされるのを待っている。敵なら当然そうする。
(戦鎚の言うとおりだ。敵の目的はまず間違いなく
だったら、今できることは一つしかない。
「聞いて!まず調査兵を仕留めて、マントを奪って!あれを着れば巨人には襲われない。ライフルで牽制しながら、対立体機動用の重機関銃を準備して──」
ピークが言い終わる前に、会場上層、貴賓室の並ぶあたりで閃光が弾けた。
白い蒸気が夜空へ真っ直ぐ伸びていく。
シガンシナで姿を見せた女型か。
それとも――軍上層部が悪魔と呼び恐れる
「……悪魔」
ピークの唇から、ひとりでにその言葉がこぼれた。
◇◇◇◇
その報告書を最初に読んだとき、テオ・マガトは執務室で一人「ふむ」と短く唸った。
中東戦線の野戦病院から上がってきた文書だった。感染者と死亡者の推移が日ごとに几帳面な数字で並んでいるのに、紙そのものは端が黒く汚れ、指の跡がいくつも残っている。血であろうと察しがついた。
要求しているのは物資の追加供給。だがその論拠は、人道でも慈悲でもなかった。
軍を動かすには何を言えばいいのか。書いた人間はそれを正確に理解していた。
汚れた紙が伝える現場の惨状と、上層部の急所を撫でる政治の勘。その二つが、一枚の紙の上に同居していた。
(会ってみたいものだ)
そう思ったのが、すべての始まりだった。
実際に対面した女は、想像とはまるで違っていた。
線が細く、目の下には深い隈が刻まれていて、一見すれば気弱にすら映る。白衣の袖から覗く手首は、厳しい野戦病院を回しているとは到底思えない細さだった。
だが、話してみて分かった。
この女の内側には、一本の芯が通っている。しかもそれは『ただ損も得もなく、他者を尊ぶ』というだけの、酷く単純で頑丈な芯だった。
軍部では、久しく見ていないものだった。
彼女の要請を呑んだのは、軍事的な合理性があったからだけではない。この志を絶やしてはならないと、理屈より先に確信したのを覚えている。
それから十年以上、マガトは彼女を見続けた。
最初の印象は、時間をかけて少しずつ剥がれていった。
ジルケ・クルーガーは、思ったよりずっと俗っぽい女だった。手当の等級や福利厚生には人一倍うるさく、軍の不合理な命令に憎まれ口を叩き、無駄に長い会議の日にはあからさまに機嫌が悪くなる。報告書の締切は、決まって最終日の夜だった。
良くも悪くも、どこにでもいる平凡な感性の持ち主だとすぐに分かった。
だが、人の生命を前にしたときの懸命さだけは、比類がなかった。
それがたとえエルディア人であろうと、目の前の一人を助けるためなら、彼女は平気で自分の立場も体裁も投げ捨てた。
内なる良心に気づいていながら、国家の都合で数え切れないほどの人間を戦場へ送り出してきた自分にとって、彼女は眩しすぎた。
罪悪感を容赦なく照らし出す光であり、同時に心が芯まで冷え切ってしまうのを防いでくれる、たった一つの温もりでもあった。
――ある日、忽然と姿を消すまでは。
ジルケ・クルーガーが、夫と共にエルディア復権派を裏から率いていた。
最初にその報告を聞いたとき、マガトは何かの冗談だと思った。
だが、状況証拠は次々と積み上がり、後年島から帰還した戦士隊の証言が彼女の生存を決定的なものにした。
それでもマガトは、この目で見るまで信じるつもりはなかった。
「二十二年ぶりですね、マガトさん」
半壊した貴賓室の中央に、女が立っていた。
目の下には巨人化の痕が生々しく残っている。長い髪は白く染まり、片方の目は青く、もう片方は赤い。黒い装いの上から緑のマントを羽織り、背には双翼の紋章が縫い取られていた。
容姿も、雰囲気も記憶の中の女とはまるで違う。それでもマガトは一目で分かった。
あの光を見たのは、ほんの数分前だ。会場上層のこの一角が光った瞬間、彼は走り出していた。
始祖だけは渡すわけにいかない。全土同時にテロを仕掛けてくる連中だ。あれを手にすれば、何をしでかすか分かったものではない。その一心だった。
そうして辿り着いた瓦礫の只中に、二十二年ものあいだ胸の底へ居座り続けた女が、当たり前のような顔で立っていた。
「レベリオの空気、綺麗になりましたね。私がいた頃からだと、考えられないほど澄んでいます」
「……ふん」
マガトは腰の拳銃に手を掛けたが、抜かなかった。
「誰かさんのおかげでな。ま、その誰かさんが、今度は血の海に変えてくれたわけだが」
「いえ、想定より被害は少ないですよ。戦鎚がかなりの数の無垢の巨人を殲滅してくれたおかげで。まさか開会式にタイバー家が来るなんて……」
懐かしいものでも眺めるように、女は燃え盛る街並みへ目を細めている。
「軍に潜んでいた鼠から聞かされてなかったのか?」
「ええ、あの子達からは何も。まあ逆に考えれば、戦鎚を奪えるチャンスでもあるわけです。何事も前向きに捉えないといけませんね」
悪びれる様子もなく、女は頷いた。
脅されているのだと思いたかった。復権派に名前だけ利用されているのだと、あるいは別人が彼女を騙っているのだと。マガトはその可能性ばかりを追っていた。
なのにこの女は、差し出された逃げ道を一つずつ自分の手で塞いでいった。
「ジルケ……お前が本当にこれをやったのか。お前の故郷だろう……?」
「私の地元、埼玉なんで別に。そもそもレベリオって街……好きじゃないんですよねぇ。空気悪いし、差別主義者だらけだし」
心底うんざりしたという顔だった。
二十年以上前と、何一つ変わっていない。会議が長引いたときや、書類仕事が溜まったときに見せていた、あの俗っぽい表情そのものだった。
この地獄を演出しておきながら、何ひとつ感じていないかのように。
「世界が黙っちゃいない!」
気づけば、マガトは怒鳴っていた。
「じきに世界連合軍が組まれ、島への侵攻作戦が始まる……そうなることくらい、お前なら分かるだろう!?」
なのに、どうして。
そう続けるより先に、ジルケが答えた。
「すぐに世界連合軍は結成されませんよ。少なくとも一部の国は、マーレではなくパラディ島を選びましたから」
「……は?」
「反マーレを標榜する主要国と、不可侵条約を結びました。以前から革命軍……ああ、今は復権派か。とりあえず我々と懇意にしている国がありましてね。マーレに一矢報いるためならと、悪魔に縋ってくれました」
事務連絡でも読み上げるような口ぶりだった。
「もっとも、始祖奪還を前提にした
「馬鹿を言え!」
マガトは吐き捨てた。
「そんな条約など、都合が悪くなれば明日にでも破棄される!まして……この惨状を見ろ。民間人を巨人に変え、都市を食い荒らさせる連中と、いつまでも手を組もうと考える国があると思うか!?」
「それをマーレが言いますか?」
皮肉を返したものの、ジルケはマガトの指摘そのものを否定しなかった。僅かに首を傾け、崩れた壁の向こうで燃えるレベリオへ目を向ける。
「……まあ、その点はマガトさんの言う通りでしょう」
あまりにもあっさりした返答に、マガトは言葉を失った。
「明日になれば態度を変える国もあるでしょう。半年後には条約そのものがなくなっているかもしれない。今日はこちらに笑いかけている相手が、来年には銃口を向けている可能性だって十分あります」
「なら――」
「それでも、すぐには来ない。そこが重要なんです」
初めてジルケが言葉を遮った。
声は穏やかなままだった。それでも、その一言だけは妙にはっきりとマガトの耳に届いた。
彼女はそこで言葉を切り、思い出したように付け加えた。
「それにマガトさんが思っているより、巨人の被害を受けている地域は少ないですよ。義勇兵の力も借りなきゃいけませんし、反マーレ国の旧領まで荒らせば、それこそ不可侵条約も即座に白紙になりますから」
背筋を冷たいものが伝った。
この女は何を焼き、何を残すかを、すべて事前に線引きしている。目の前で燃えている街は狂気の産物ではない。冷徹に計算された戦略上の一手なのだ。
「……これだけの規模のテロ行為を、島に居ながら組み立てられるとは思えん」
奥歯が軋んだ。
「全てはジークの掌の上か?」
幼い頃からあの子供を鍛えてきたのは、他ならぬ自分だ。
だからこそ知っている。ジーク・イェーガーがこの女に親以上に懐いていたことを。異常ともいえる執着を持っていたことを。
九年前、島への潜入作戦を組んだとき、軍内ではひとつの噂が囁かれていた。ジルケ・クルーガーが『進撃』の継承者と共に島へ逃げ込んだ可能性がある、と。
だからマガトは、ジークを作戦から外した。もしそれが事実なら奴は必ず亡命する。そんな予感があったからだ。
その予感が、最悪の形で当たったのだ。
だが、返ってきたのは間の抜けた声だった。
「はい?」
ジルケがきょとんとした顔をしている。
「……ああ、そうか。あなた方目線だと、そう見えるのか」
肯定でも否定でもなかった。女はそれきり、その話題への興味を失ったように息を吐く。
「とにかく渡りに船です。『地鳴らし』を止めるメンバーがこうしてノコノコ来てくれたんですからね」
「動くな!」
乾いた金属音が続いた。マガトが拳銃を抜き、撃鉄を起こした音だった。
「マガト隊長……マーレ側の精神的支柱であるあなたが居なければ、ピークちゃんもガビもファルコも……原作よりずっと動きづらくなるでしょう」
銃口を向けられているのに、彼女は瞬き一つしなかった。撃鉄の音など聞こえなかったかのように、崩れた壁の向こうへ目をやっている。
「まあ、そもそも今も生きてるか分かりませんけど」
三人の顔が、順に頭をよぎり――撃った。銃声が崩れかけた天井へ跳ね返る。
弾丸はジルケの左肩を穿ち、赤い飛沫が背後のマントを汚した。白い蒸気が、傷口から音を立てて噴き上がる。
「――っ、ぐ、あっ……!いった……!」
女は膝から崩れ落ち、肩を押さえて身を丸めた。
「痛い痛い痛い、無理、駄目だ……
取り繕う余裕もない、ただの人間の声だった。
銃口がわずかに揺れた。あの野戦病院で、汗を拭いながら兵士の腕を縫っていた女が、そこにいるように見えた。
だが、彼はすぐに構え直した。
「次は頭だ。いますぐ、この大量殺戮をやめろ」
言いながら、撃てないことは自分でも分かっていた。巨人達を操作しているジークの居場所を聞き出すまでは殺せない――それだけが理由ではないことも、認めたくはなかったが分かっていた。
「……いいんですか?」
蒸気の向こうから、含みを持たせた声が返ってきた。
「せっかくマーレ軍が多大な犠牲を払って手に入れた宝を……みすみす捨てる気ですか?」
引き金にかけた指から力が抜けた。
犠牲を払って手に入れた宝。この国でその条件に当てはまるものは、一つしかない。そして、それがどこに眠っているかを知る人間も数えるほどしかいない。
「ラ、ライナーはどうした!?」
「ああ、それなら――」
上空を影が横切った。
飛行船ではない。もっと速く、もっと不規則な軌道で、それは会場の上を滑っていく。輪郭の左右に翼のようなものが一瞬だけ見えた気がした。
(……あれか)
ようやく腑に落ちた。
あれだけ目立つ装備の集団が、なぜ会場から湧いて出たように現れたのか。港から敵が侵入したとも、検問を突破されたとも報告はないのに、どうやって。
おそらく翼の巨人が兵士達を運んできたのだろう――その思考を地響きが断ち切った。
壁が消えた。
巨大な手が外側から貴賓室を掴み、残っていた壁ごと引き剥がしたのだ。無垢の巨人が、餌を探して建物の縁によじ登ってきていた。
床が抜けた。マガトの身体は崩れた石材の雪崩に呑まれ、天井の梁が背中へ落ちてきた。銃は手を離れ、どこかへ滑っていく。
風が吹き抜けた。
ジルケの肩から滑り落ちた緑のマントが、留め具ごと外れて宙へ舞い上がる。翼の紋章が一度だけ大きく翻り、そのまま炎の照らす夜へ流れていった。
「……あちゃあ」
瓦礫の上で身を起こしたジルケが、遠ざかっていく布を目で追いながら呟く。手を伸ばしかけてやめた。
「無垢とはいえ、大群で襲ってこられたら鎧でも危ないしねぇ……帰るか」
そう言って懐から筒状のものを取り出し、無造作に空へ向けた。乾いた音とともに、緑色の煙が真っ直ぐ昇っていく。
「お別れする前に、さっきの質問の答えを教えてあげますね」
石材の下で、マガトは指先だけを動かしていた。銃はまだ遠い。届かない。
「――待て」
声にならなかった。
ジルケは壁の破れ目へ歩み寄ると、こちらを一度だけ振り返り、何かを口にした。崩落の音と炎の唸りに紛れながら、その声だけははっきりとマガトの耳を打った。
そして彼女は、そのまま夜へ身を投げた。
落ちていく白い髪を、上空から降りてきた影が掬い上げるように抱き止める。巨大な影は、ゆっくりと高度を上げ、煙の切れ間に浮かんだ飛行船の白い胴へ、吸い込まれるように滑っていった。
背後で床板が軋んだ。振り返るより先に、頭上が翳る。
壁を剥がした無垢の巨人が、瓦礫に埋もれた人間をようやく見つけたのだ。指が石材ごとマガトの身体を掴み上げようとした。
その巨体が横合いから吹き飛んだ。
四足の巨人が突っ込み、無垢の巨人を建物の縁から突き落とす。二体分の重みが階下へ落ち、地響きとともに何かが砕けた。
「マガト隊長!」
崩れた床の上へ、車力の巨人が這い上がってくる。
「ピークか……どうしてここへ」
「巨人化の光がしたからに決まってるじゃないですか!それより早くここを逃げましょう! 戦鎚が時間を稼いでいる間に、隊長には軍の指揮を――」
言葉が途中で止まった。
マガトが、動かなかったからだ。半身を埋めたまま、瓦礫をどけようともせず、彼はまだ空を見上げていた。飛行船の輪郭が、煙の向こうで少しずつ小さくなっていく。
「……隊長?」
返事はない。
「一体、何がありました? 翼の生えた巨人が誰かを連れて行ってましたが……」
マガトの喉がようやく動いた。
「ライナーが……」
「え?」
「――食われた」
耳の底には、あの声がまだ張りついたままだった。
『始祖』は私が継承しました――と。
やったね、ライナー!これでもう苦しまなくて済むよ!
また、今話も独自設定が含まれるので、以下補足です。
・自由の翼が縫い付けられたマントを着ている人間は襲わないって、巨人の操作でそんなことできるん?
⇒原作のシガンシナ区決戦では、ジークが一度の叫びだけで、小型の巨人には「馬を狙いつつ、兵士が前方へ集まるように追い込む」、大型の巨人には「周囲を取り囲んで逃げ道を塞ぐ」といった、かなり複雑な指示を出していました。
そこまで細かく行動を制御できるのであれば、「特定のマントを身につけた人間は襲わない」程度の識別も可能なのではないか、という本作独自の解釈です。
あと単純に、マーレ側にとっての『自由の翼』を、希望や自由の象徴ではなく、殺戮をもたらす恐怖の象徴として刻み込みたい――という薄暗い欲求を満たしたかった側面もあります。
・サシャの日訛り、なんか変じゃない?
⇒今後もちょこちょこ日田弁が出てきますが、雰囲気だけ楽しんでください。