革命軍:マーレ社会に溶け込んだエルディア人で構成。
復権派:収容区内のエルディア人で構成で構成。
マーレ軍直属レベリオ中央病院。
その白亜の巨塔は超大国マーレの威光を体現するかのように、一点の曇りもない青空を傲然と突き刺していた。長年勤めた市民病院とは比較にならない規模と、そこから放たれる無機質な威圧感に、私は知らず身を固くする。
ここが私の新たな職場。そして新たな戦場だ。
「ようこそ、クルーガー女史。いや『白衣の女神』殿、とお呼びすべきかな」
出迎えた病院長は、爬虫類を思わせる薄い唇に腹の底が見えない笑みを浮かべていた。その一言が合図だったかのように、周囲にいた医師や看護師たちの視線が一斉に私へと突き刺さる。
好奇、嫉妬、侮蔑、そしてほんのわずかな畏敬。それらが粘り気のある塊となって肌を這い、私の全身にまとわりつくようだった。数日前に開かれた温かい送別会がまるで遠い過去のように色褪せていく。
(……最悪の滑り出しね)
プロパガンダによって作られた偶像の末路とはこういうものだ。人の口の端にのぼる英雄譚は時として本人を苛む呪いとなる。
しかし私はその役を演じなければならない。顔に笑みを貼り付け、恭しく頭を下げた。
「とんでもないお言葉です。これからご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
その時だった。
「先生! お待ちしておりました!」
人垣をかき分けるようにして現れたのは懐かしい顔だった。以前よりも幾分か精悍になったハンス・マイヤーが、再会を喜ぶ子犬のように目を輝かせて駆け寄ってくる。
その純粋さに満ちた表情はこの淀んだ空気の中ではあまりに異質で、私の心をわずかに軽くした。
「戦争以来ね、ハンス。あなたが元気そうで何よりだわ」
「はい! まさか先生と同じ職場で働けることになるなんて、夢のようです! さあ、私が院内を案内します。こちらの皆さんは先生の名声に気圧されているだけですから、お気になさらず!」
悪気なく言い放つハンスに、周囲の空気がさらに音を立てて凍てつくのを肌で感じる。目の前の若者はどうやら処世術というものを母親のお腹の中に忘れてきたらしい。
だがそのおかげで、私はひとまずこの針の筵から解放された。
ハンスに導かれ、長い廊下を歩く。磨き上げられた大理石の床に私たちの足音だけがやけに大きく響き渡った。
平日の昼間だというのに院内は驚くほど閑散としている。すれ違う患者の姿もまばらだった。
「軍の病院といっても平時はこんなものなんです。マーレ人の兵士が怪我をすることなんて滅多にありませんから」
「では普段の業務は?」
「ああ、主な仕事はデスクワークと……あちらです」
ハンスが指差した窓の外。広大な中庭で驚くべき光景が繰り広げられていた。
数十人の男たちが泥水の中を匍匐前進し、丸太を担いで走り、教官らしき男の罵声を浴びながら限界を超えた訓練に喘いでいる。誰もが腕にあの九つの星が描かれた腕章を巻いていた。エルディア人だ。
「……酷いね」
思わず心の声が漏れた。彼らの扱いはまさに家畜同然だった。マーレのために戦い、使い物にならなければ「巨人兵器」としてここで育成されているのだ。
「彼らは『戦士隊』。九つの巨人を継承するに値する者を選抜するために徴兵されたエルディア人たちです。負傷すれば我々が治療しますが、それもすべてはより優れた兵器として完成させるため……。正直、医者として時々自分が何をしているのか分からなくなります」
ハンスは悔しさを滲ませた声で言った。彼の善良さがこの歪んだシステムの中でどれほど彼自身を苦しめているか、痛いほど伝わってくる。
「この病院も一枚岩ではないんです」と、彼は声を潜めた。
「先の戦争で巨人の優位性が揺らいだことで、軍内部は大きく二つに割れています。マガト大尉のように通常兵器の近代化を推し進める改革派と、あくまで巨人の力を信奉する保守派。その政争が、この病院にも影を落としています。どちらの派閥に取り入るかで、院内での出世も決まる……馬鹿げた話です」
聞かされる内情はどれもこれも腐臭を放つものばかりだった。長老は色々な思惑を抱いて私をここに送り込んだが、この権力争いの渦中で、情報を盗むなど正気の沙汰じゃない。気苦労は増えるばかりだった。
そんな重苦しい空気を切り裂くように前方から快活な声が響いた。
「やあ、ハンス君。それから……クルーガー女史じゃないか」
現れたのは人の良さそうな笑顔を浮かべたクサヴァーさんだった。その手には分厚い研究資料が抱えられている。
「ご無沙汰しております」
「いやあ、驚いたよ。今日から君が軍の病院に移籍したという噂は聞いていたが……まさかすぐに会えるなんて。私は例の研究でね、こちらに足繁く通わせてもらっているんだ。なにせここには『現物』が揃っているからね」
『現物』が何を指すのか、私にはすぐに分かった。この病院は『九つの巨人』の継承者たちの健康管理も担っているのだ。
「そういえばクルーガー女史は『九つの巨人』の継承者と直接話したことは? 巨人化学を研究する上で彼らとの対話は不可欠だからね」
「いえ、まだそのような機会はありません。それに最近は臨床にかかりきりで、研究の方はすっかりご無沙汰しておりますので……」
「そうか、それは実に良い機会だ。ぜひ紹介させてくれ。今、私の研究に協力してくれている継承者だよ。カミル!」
クサヴァーさんが手招きすると、廊下の隅にある休憩室のソファから一人の男が気だるそうに立ち上がった。年の頃は四十代半ばだろうか。伸び放題の無精髭に、すべてを諦めたような濁った瞳。
その男の姿を見た瞬間、私は彼の背後に巨大な猿の影を見た気がした。
「……どうも」
男は、面倒くさそうに片手を上げた。その態度はクサヴァーさんのような研究者に対しても、『白衣の女神』と持て囃される私に対しても一切変わらない。
「カミルは『獣の巨人』を継承していてね。ご存知の通り、獣は継承者によって大きく形態は異なるだろう?それが継承者の記憶とリンクしているのかが今の研究テーマなんだが――」
「クサヴァーさんよぉ。何度も言ってっけど、オカピなんて動物に思い入れはねぇって」
「……とまあ、あまり結果は芳しくないんだがね」
クサヴァーさんはバツが悪そうに笑った。
「へっ、どうせ俺ァ役立たずだよ」
男は自嘲気味に笑い、煙草に火をつけた。その指先が微かに震えている。
「早いもんだ。俺がこいつを継承してもうすぐ三年になる。ったく、あと十年もやってらんねぇぞ」
その言葉には、死への恐怖はない。自分の命に何の価値も見出していない、投げやりな物言いだった。
「少しよろしいですか?」
「あ? ……えっと、あんたは?」
「ジルケ・クルーガーです。本日よりこの病院に異動して参りました」
私の名前を聞いた途端、カミルは虚ろな瞳をわずかに見開き、やがてフンと鼻を鳴らした。
「……ああ。エルディア人を助ける奇特な女医がいると聞いていたが、あんたか」
「こら、カミル。クルーガー女史になんて口の利き方をするんだ」
クサヴァーさんが慌てて間に入るがカミルは意にも介さない。
「で、そんな大層ご立派な先生が一体俺に何の用だよ?」
「あなたの継承について、お伺いしたいことがあります。失礼ながらあなたは軍事訓練を受けたように見えません。どのような経緯で『九つの巨人』を継承したのですか?」
私の問いに、カミルは一瞬遠い目をしてそれから吐き捨てるように言った。
「親戚のガキがよ、始祖ユミルの再臨だかなんだか喧伝する怪しいカルトにハマっちまってな。ガキとその両親は即刻楽園送りよ」
こともなげに語られる、一つの家庭の破滅。カミルは続けた。
「そんで親族の俺にまで飛び火してきた。その時、ちょうど次の継承者が決まっていなかった『獣』に俺が割り当てられたってわけだ」
(……なんてこと)
息が詰まる。これがマーレの闇。これがエルディア人というだけで強いられる、名もなき人々の悲劇。
戦士でもなく、スパイでもない。ただ平凡に生きていただけの人間が、ある日突然理不尽な暴力によって人生そのものを根こそぎ奪われる。
目の前の男はその生々しい証人だった。
「まあ、俺の時はまだマガトみてーな改革派が少なかったからな。こんな無茶が通ったんだろうよ」
カミルはそう言って、ふと何かを思い出したように私の顔をまじまじと見た。
「……クルーガー、か。その苗字、思い出したぜ。あんたエレン・クルーガーって男を知ってるか?」
心臓が氷水に浸されたかのように冷たく、そして大きく脈打った。
「……主人がどうかしましたか?」声が震えなかったのは奇跡に近い。
「はっ、こりゃあ面白れぇ!」
カミルは愉快そうに手を叩いた。その濁った瞳に、一瞬鋭い光が宿る。それは長年虐げられてきた者だけが持つ、歪んだ喜びの光だった。
「あんたの旦那にはしこたま指をちょん切られたからな。忘れたくても、忘れられねぇよ」
そう言って、カミルは自分の手をひらひらと振って見せた。
今は何の傷もない、ごつごつとした指だった。巨人の力で再生したのだろう。
同胞の復権を願いながら、同胞に拷問を科す治安局の犬。知っていたはずの事実が今目の前の男の言葉によって血肉を伴った現実として私に突き刺さる。
私が共に暮らす男は一人の人生を破壊したのだ。私たちが掲げる大義の裏側で、こんな痛みが生まれていた。
その事実に吐き気がした。
「おっと。言っとくが、あんたに恨みはねぇよ。それに今となってはもうどうだっていい」
カミルは自嘲気味に笑い、懐から新しく取り出した煙草に火をつけた。ふっと紫煙を吐き出す。その煙が、彼の諦めそのもののように見えた。
「先生、別に俺にゃあ家族なんていねぇからよ。いつでも楽園送りなり次の継承者へ『獣』を引き渡してもらって結構なんだが」
男は、私とクサヴァーさんを交互に見た後、その視線を窓の外に向けた。その先にはさっき私が見たのと同じ、泥にまみれて訓練に励むエルディア人の同胞たちの姿があった。
「なあ先生」
その問いは私に向けられたものだった。
「
◇◇◇◇
その日の夜。クルーガー家のダイニングは息が詰まるほどの静寂に支配されていた。
向かいに座るエレン・クルーガーはいつも通り音も立てずに食事を機械のように口に運んでいる。カトラリーが皿に触れる、乾いた音だけが時折響く。
その無機質な音の一つ一つが私たちの間に横たわる見えない壁をより一層厚く塗り固めていくようだった。
私の目の前では手付かずのシチューが冷め、表面に薄い膜を張り始めている。昼間に聞いた『獣の巨人』の継承者の言葉が鉛のように胃の腑に沈んで、食欲というものを根こそぎ奪い去ってしまっていた。
『
あの虚無に満ちた瞳が瞼の裏に焼き付いて離れない。
戦場で命を救うこと。その行為に、私は確かな意味と手応えを感じていたはずだった。だが、それすらこの巨大で歪んだシステムを回すための些細な歯車の一つに過ぎないのではないか。
マーレの兵器を修理し、また戦場へ送り返す。その繰り返し。私のやっていることは本当に『救う』ことなのだろうか。
考えれば考えるほど、自分の立っている足元がぐらぐらと崩れていくような感覚に襲われる。
ふとクルーガーが食事の手を止めた。
「食わんのか」
その低い声に私は呪縛から解かれたようにはっと顔を上げた。
「いえ……少し、考え事を」
「……グロスの件はすまなかった。不快な思いをさせた」
予想だにしなかった謝罪の言葉に私は目を見開く。
復讐に取りつかれたこの男が、私に?
「軍病院はどうだ?……神様ごっこは息苦しいか」
彼の口から紡がれたのはまたしても意外な言葉だった。皮肉のようでいて、どこか私の内面を試すような響きがある。
私はあの獣の継承者の濁った瞳を思い出しながら、ぽつりと答えた。
「……エルディア人の窮状を、はっきりと理解できた気がするわ。みんな何かの為に必死に戦っているようだった」
その言葉に彼の纏う空気が変わった気がした。壁のように感じられた無関心がわずかに揺らぐ。
その隙間を逃すまいと私は続けた。
「ねえ、あなたはどうなの? 『楽園送り』……あなたも、たくさんの同胞をあの島に送ってきたんでしょう……何を感じてるの?」
禁忌に触れる質問だった。クルーガーは答えず、ただ静かに私を見つめ返す。探るような、試すような、冷たい視線が私を射抜く。
「そうか……お前はまだ見たことがないのか」
彼はまるで世界の真理を告げるかのように静かに、しかし断言した。
「地獄だよ。紛れもなく」
その一言がダイニングの空気を凍てつかせる。彼は持っていたフォークを静かに置くと、煙草に火をつけた。
「マーレも俺も、結局は同じだ」
「え……?」
「長老率いる革命軍は『エルディアの復権』という名の妄執に必死で、マーレの連中もエルディア人を利用して都合の良いように支配しようと必死だ。どちらも等しく醜悪だよ。俺は、その間で道化を演じているに過ぎない。お前と違ってな」
紫煙が、二人の間の見えない壁を曖昧にするように、ゆらりと立ち上る。
「以前のお前は俺と同じ目をしていた。以前のお前なら、リスクを犯してまで戦場のエルディア人を助けようとしなかったはずだ。だが今は違う……俺の方こそ聞きたい。お前に一体何があったのか」
問い詰めるようで、それでいてどこか穏やかな響き。彼がなぜ急に本音を語り始めたのか私には分からなかった。ただ、その瞳は私が決して裏切らないと確信しているようだった。
「進めば進むほど、袋小路に迷い込んでいるような気分になる。本当にこの先に光はあるのか、時々分からなくなる」
弱音と呼ぶにはあまりに静かだが、それは間違いなく彼の本心だった。私は驚き、ただ彼の顔を見つめた。
マーレへの復讐に突き動かされた機械だと思っていた男。その内側にも、血の通った人間が確かに存在していたのだ。彼もまたこの矛盾に満ちた世界で、先の見えない戦いに摩耗している。
クルーガーは燻らせていた煙草を灰皿に押し付けると、再び私に視線を向けた。その瞳の奥には深い絶望と、それでもなお消えない烈火のような炎が同居していた。
「だが、止まるわけにはいかない。俺の命は長くないんだ。この身が燃え尽きる前に道筋だけは作ってやらなくちゃならない。たとえ、その先に待っているのが地獄でもな」
その悲壮なまでの覚悟に、私は息を呑んだ。するとクルーガーはふっと、その鋭い眼光を和らげた。
「……お前は無理をするな」
その言葉は私の心の最も柔らかな部分に、静かに沁み込んだ。
「お前が戦場でやったことは、革命軍のためでもマーレのためでもない。ただ、目の前の命を救いたかっただけだろう。その心を忘れるんじゃない。俺たちのような狂信者に染まる必要はない」
見透かされている。私の本質も、葛藤も、すべて。この男はただの狂信者ではなかった。復讐という名の業火に身を焼きながらも、その中心には私個人を慮る良心が残っていた。
偽りの夫婦。契約で結ばれただけの関係。そのはずなのに、今この瞬間、私たちは確かに繋がっていた。同じ痛みと、同じ孤独を分かち合う共犯者として。
言葉が出てこなかった。私はただ彼の目を見つめ返す。
ゆっくりとスプーンを手に取り、冷めきったシチューを初めて自分の意志で口に運んだ。味などしないはずの冷たい塊が喉を通り、腹の底で確かな熱に変わっていく。
生きなければ。無性にそう思った。
食事が終わると、クルーガーは音もなく席を立った。リビングから去る間際、彼は亡霊でも見たかのようにふと足を止め、私に背を向けたまま絞り出すように言った。
「マーレ軍お抱えの巨人学者トム・クサヴァー……そいつの近辺で何か変わったことはあったか?」
「え……?」
思考が停止する。なぜ、その名前を?
「……いや、なんでもない。妙な白昼夢を見ただけだ。忘れてくれ」
返事を待たず、彼の姿は闇に溶けるように消えた。
一人残されたダイニングで私は凍り付いていた。先ほど灯ったばかりの熱が、急速に凍てついていく。
進撃の巨人。その特性は過去の継承者の記憶だけでなく、未来の継承者の記憶をも垣間見ること。
それを踏まえると、クルーガーの発言はまるでクサヴァーさんの一件が既に未来で確定していることを暗喩しているようで――
原作通りの破滅への道筋。
とてつもなく大きな、抗いようのない運命の奔流に、飲み込まれていく感覚。私は不安を抱えたまま、重い体を引きずるようにして眠れぬ夜の闇へと沈んでいった。
本作では、グリシャが参加していた復権派はまだ組織されていません。
また今後革命軍と復権派の両方が登場して混同してしまうかもしれませんが、革命軍は親会社、復権派はその子会社みたいな関係だと理解していただけるとイメージが付きやすいかなと思います。
※今後の展開次第で、上記関係は原作のように復権派が革命軍の正統後継者みたいな立ち位置になるかもしれません。