エレンの妻です   作:ホワイト3

61 / 62
アンケート結果を踏まえ、今後も現状どおり内容のまとまりを優先したいと思います。
ご協力いただきありがとうございました。


59:あの日

 掌の中で小さな貝殻を転がした。白地に淡い桃色の筋が入り、表面には幾重もの細い溝が走っている。

 

 初めて海へ辿り着いた日、波打ち際で拾ったものだ。

 

 答えの出ない問題に突き当たるたび、アルミンはいつしかそれを手元で遊ばせるようになった。

 

「この四年は、本当に色んなことがあった」

 

 返事はない。だがアルミンは気に留めることなく、掌の中で貝殻を握り直した。

 

 起きたことを一つずつ振り返れば、どこから話しても長くなる。それでも、最初に語るべきことだけは決まっていた。

 

 四年前のあの日。自分達が負けたところから、すべてが狂い始めたのだから。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 四年前、シガンシナ区決戦。

 あの日、兵団にはほとんど退路が残されていなかった。

 

 ベルトルトは超大型の巨人となり、熱と炎を撒き散らしながら壁際の馬へ迫っていた。馬を失えば、たとえ敵を退けてもシガンシナ区から帰還できない。

 エレンは超大型に蹴り飛ばされ、壁の上で動かなくなっていた。雷槍で仕留めたはずのライナーも復活している。

 

 このまま何もしなければ、調査兵団が敗北するのは目に見えていた――そんな絶望的な状況下で、アルミンは一つの策を思いついた。

 

 エレンの巨人体へ剣を突き立て、意識の底へ届くように呼びかける。

 

「エレン、海を見に行こう」

 

 ウォール・マリア奪還作戦へ出発する前夜には、二人の間に気まずい空気が残っていた。それでも、幼い頃から何度も語り合い、いつか必ず実現させようと約束してきた夢まで失われたわけではない。

 

 その言葉を聞いたエレンは目を覚まし、アルミンの策を受け入れた。

 

 やること自体は単純だった。アルミンが超大型の正面で熱風を引き受け、その間にエレンが硬質化させた巨人体を囮として残し、生身で背後へ回る。隙を突き、死角からうなじを断つ作戦だった。

 

 超大型は全身から凄まじい熱風を放つことができる一方、それを続けている間は筋肉を大量に消耗し、満足に身体を動かせなくなる。したがって、アルミンが長く熱風に耐え続ければ、それだけエレンが気付かれずに接近できる時間も増える。

 

 すなわち作戦の成否は、アルミンがどこまで耐えられるかに懸かっていた。

 

 作戦は、あと一歩のところまで成功していた。

 

 ベルトルトは壁際に残されたエレンの巨人体を本人だと思い込み、その背後で迫りくる生身のエレンに全く気が付いていなかった。

 

 あと数秒、アルミンが耐えていれば作戦は成功していたかもしれない。

 

 しかし、その僅かな時間が足りなかった。

 

 それまで絶え間なく熱風を浴びせ続けていたベルトルトに、周囲を確かめる余裕が生まれた。

 

 そして気付いてしまった。壁際に佇むエレンの巨人体が硬質化で作られただけの抜け殻だということに。

 

 ベルトルトが振り返った先には、立体機動で迫るエレンがいた。

 

 再び凄まじい熱風が放たれる。エレンの身体は弾き飛ばされ、そのまま壁の下へ落ちていった。

 

『ねぇ、アルミン。あの時、あなたは本当に海に行ってみたかったの?』

 

 左右で色の異なる瞳を向けながら、アルミン本人にも分からない何かを確かめようとするようにジルケは語り掛けた。その問いは、心の隙間へ入り込むように響いた。

 

『あなたが手を抜いたなんて思ってない。ただあの作戦は、あなたがどれだけ長く超大型の熱風に耐えられるかに懸かっていた――そして私は、黒焦げになるまで耐え抜いたあなたを知っている』

 

 作戦決行時のアルミンの心境など、報告書に載っていない。だというのに、彼女は全てを見たかのように内面へ踏み込んできた。

 

『もちろん、ジルケ・クルーガー(わたし)なんて異物がいる時点で、状況も前提も何もかも違ってる。それまでに経験したことも、知ってしまったことも違うんだから、絶対に同じ結果になるなんて言えない』

 

 そこで一度言葉を切ったジルケは、少し考えるような間を置いてから続けた。

 

『でも、私はこう思う。(あのひと)から壁の外のことを色々聞いて、あなたの中で海が昔ほど特別なものじゃなくなったんじゃないかって』

 

『要するにね』

 

 言葉を探すような、ほんの短い間があった。

 

『――外の世界にガッカリしなかった?』

 

 その言葉が耳の奥へ落ちた。

 

『夢見ていた景色が、実際にはそれほど素晴らしいものじゃないって、心のどこかで少しでも思ってしまったら……どう?心当たりはない?』

 

 否定はできなかった。

 

 ジルケと出会ってから、自分達は憧れていた壁の外についてあまりにも多くを知ってしまった。

 

 海の向こうには自分達と同じ人間が暮らし、見たこともない街や未知の文化があり、それまで想像もしなかった社会がある。

 

 その中で自分達は悪魔として憎まれていた。

 

 幼い頃に本を覗き込みながら思い描いていた『誰も知らない未知の世界』は、いつの間にか純粋な憧れだけでは語れない場所になっていた。

 

 本当にそれが作戦失敗の原因だったのかは、今でもアルミンには分からない。ジルケ自身も、そうだったと断言したわけではなかった。

 

(それでも、僕がもう少しだけ耐えていれば――)

 

 その考えだけは、今も振り払えずにいた。

 

 熱風に焼かれたアルミンは、その後の戦いを直接見ていない。

 後から聞いた話では、炎をまといながら落下するエレンの姿を目にしたミカサは取り乱し、追い詰めていたライナーの討伐にも失敗したという。兵団は雷槍が残っておらず、再び動き出した鎧を止める戦力もなかった。

 

 そして辛うじて生き延びたライナーがエレンを確保し、そのまま壁の外へ撤退した。

 

 ウォール・マリアを取り戻すために始めた戦いで、兵団は最も失ってはならないものを奪われ、『始祖の巨人』はマーレの手へ渡った。アルミン自身も、本来ならあの場で命を落としていたはずだった。

 

 ただ、あの日は生き残るための条件が偶然にもいくつか揃っていた。

 

 瀕死のアルミンをジャン達が回収して間もなく、リヴァイがフロックとともに戻ってきた。二人が連れていたのは、頭部を失ったエルヴィンと意識を失ったジルケ、そして壁の外で捕らえた『獣の巨人』の継承者だった。

 

 アルミンは全身に重度の火傷を負い、いつ息が止まってもおかしくない状態だった。ジャン達は何とか彼を生かせないかとリヴァイへ訴えたという。

 

 皮肉なことにリヴァイには仲間を巨人化させた経験があった。かつてエルヴィンにそうしたのと同じように、『獣の巨人』によって生み出された巨人から脊髄液を採取し、気化してしまう前にアルミンへ摂取させればいい。

 

 『獣』の継承者をいつまでも生かしたまま拘束しておくのは危険が伴う。エルヴィンはすでに『女型の巨人』を継承しており、傷も時間さえあれば再生する。

 

 なにより、救える部下をみすみす死なせることを、リヴァイは良しとしなかった。

 

 継承前後の記憶は残っていない。

 だが目覚めた後、頭の奥には自分が経験した覚えのない景色や感情の断片が紛れ込んでいた。

 

 壁内人類を恐怖のどん底に陥れた『獣の巨人』は、こうしてアルミン・アルレルトの中へ宿ることとなった。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 シガンシナ区決戦が終わってから、数週間が経った。

 

 兵団は、ウォール・マリアの奪還とともにエレン・イェーガーが作戦の最中に戦死したと公表した。

 一方で、『始祖の巨人』がマーレの手へ渡ったことは、壁内の混乱を避けるだけでなく防衛上の観点からも伏せられることになった。

 

 結果として人々へ伝えられたのは、多くの犠牲を払いながらも五年ぶりにウォール・マリアを奪還したという事実だった。街ではエレンを含む戦死者を悼む声が上がる一方、長年失われていた故郷を取り戻したことを喜ぶ者も少なくなかった。

 

 もっとも、広大なウォール・マリア内には依然として無垢の巨人が残されており、自動式巨人伐採装置は昼夜を問わず、引き寄せられてくる巨人を処理し続けていた。

 

 故郷を追われた人々が実際に戻れるようになるまでには、まだ相応の時間が必要だった。

 

 もう一つの目的だったグリシャ・イェーガーの地下室へ辿り着くことにも成功した。しかし、そこに残されていた手記の多くはアルミン達にとって既知の内容であり、何より兵団が求めていた『不戦の契り』を破る方法については答えがなかった。

 

「ねぇ、アルミン……本当に、その女性は『不戦の契り』を破る方法を知っているって?」

 

「は、はい。エレン本人が、確かにそのような記憶を見たと言っていました」

 

 ジルケはしばらく返事をしなかった。その後、絞り出された呟きだけがやけに耳に残った。

 

「……ありえない」

 

 方法そのものは、記憶を取り戻したジルケが知っていた。だが、肝心の『始祖』を失った今となっては、その答えを確かめる術もなかった。

 

 同期達も、戦いの前と同じではいられなかった。

 

 ミカサはシガンシナから帰還して以来、ほとんど兵舎の自室から出てこなくなった。アルミンが部屋の近くを通りかかると、扉の向こうから押し殺したようなすすり泣きが聞こえることがあり、何度か声を掛けようとは思ったものの、その度に足を止めるだけで、結局扉を叩くことはできなかった。

 

 ジャンやコニー達もエレンを失ったことに大きな衝撃を受けていた。それでも兵士としての仕事がなくなるわけではなく、気持ちの整理などつかないまま、それぞれに割り振られた任務を淡々とこなしていた。

 

 獣への特攻から生還したフロックは、少し違っていた。

 

 戦いについて多くを語ろうとはしなかったが、街でウォール・マリア奪還を報じる新聞を見かける度に、どこか冷めた顔をするようになった。

 

「……あれを勝ったことにするんだな」

 

 一度だけ、アルミンはそんな呟きを耳にした。

 

 国家を守るために伏せなければならない情報があることは、アルミンにも理解できた。それでも、死地から戻ったフロックが壁に貼られた『勝利』の二文字をどんな気持ちで眺めているのかは、想像に難くなかった。

 

 一方、ヒストリアは、シガンシナから戻ったジルケとの再会を素直に喜んでいた。

 

「本当に……ジル先生なんだよね!」

 

 顔を合わせた時、ヒストリアは何度も確かめるようにそう言って笑った。

 その日、彼女が振る舞ったのは、数種類の乾燥させた香草を煮出した茶だった。

 

「これ、ジルに……もう一人の先生に教えてもらったの。疲れて眠れない時に飲むといいって」

 

 ジルケは差し出されたカップをしばらく眺めてから、一口だけ口に含んだ。

 

「うん。記憶にはあるよ。でも、自分が教えたって感じはしないかな」

 

「……ジルはもう、いないんだね」

 

 ヒストリアは少しだけ寂しそうに笑った。

 

 シガンシナ区決戦以降、アルミンは折に触れてアニ・レオンハートのことを思い出していた。

 アニはマーレの戦士として、壁内に多くの犠牲をもたらした。その力を兵団の戦力に変えるという選択も、仕方のないものだとアルミンにも理解できる。

 

 それでも、彼女がもうこの世のどこにもいないと思うと、胸の奥が妙に落ち着かなかった。

 

 なぜなのか、自分でも分からない。

 

 ただ、壁の中で彼女のために祈りを捧げてくれる者は、きっといないのだろう。だからせめて自分だけは、その死を悼み、彼女が生きていたことを忘れずにいようと思った。

 

 誰もが、それぞれにシガンシナで失ったものを抱えていた。

 しかし、彼らが自分の悲しみだけに向き合っていられる状況ではなかった。個人の傷とは別に、壁内全体の行く末を左右する問題がいくつも残されていたのだから。

 

 とりわけ兵団上層部にとって、戦後の情勢は依然として最悪と言ってよかった。『始祖』を奪ったマーレが、今度は王家の血筋を求めて再び島へ攻め込んでくる可能性もある。いつ訪れるとも知れない次の戦いに備え、兵団は防衛体制の立て直しを急いでいた。

 

 だが、いくら時間が経っても、解決の糸口すら見えない問題がなおも調査兵団に重くのしかかっていた。

 

 エルヴィン・スミスの意識は、未だ戻らなかった。

 

 身体の傷そのものは『女型の巨人』の再生能力によってすでに塞がり、失われた頭部も元の形を取り戻していた。それでも瞼が開くことはなく、名前を呼んでも、痛みに対する刺激を与えても、明確な反応は見られない。

 

 トロスト区の兵舎に設けられた治療室には、連日のようにハンジやリヴァイが足を運んでいた。アルミンも折を見て何度か様子を見に来ていたが、寝台の上のエルヴィンは深い眠りに落ちているようにしか見えなかった。

 

「身体は、もう治ってるんだよね?」

 

 ハンジが尋ねると、診察を終えたジルケはエルヴィンの瞼から指を離した。

 

「はい。外傷は既に完治しています」

 

「だったら、意識もそのうち――」

 

「それはまた、別の話かもしれません」

 

 ジルケは寝台の上のエルヴィンへ視線を落とした。

 

「エルヴィン団長の頭部は、投石によって一度吹き飛びました。本来なら、その時点で即死していたはずです。それでも生き残っているのは、石が当たる寸前に意識を脳から全身の神経網へ逃がそうとしたからでしょうね」

 

 リヴァイが僅かに目を細めた。

 

「ライナーがやったアレか?」

 

「はい。おそらく団長は自分の死を悟った瞬間に、一か八かで試したのでしょう。完全ではなかったにせよ、部分的に成功して即死を免れた。だからこそ、『女型』の力で頭部そのものを再生するところまで持ち堪えられたんだと思います」

 

「だったら、どうして目を覚まさない?」

 

「生き延びることと、意識まで完全な形で元に戻ることは別だからでしょうね。そもそも意識を神経網へ移すなんて、方法を知っているからといって簡単にできる芸当ではありません。巨人の力を扱い慣れているライナーでさえ、確実に成功する保証はない。それを継承して間もない団長が、咄嗟に試したんです」

 

 そう答えたジルケは、自分の右目を指した。

 

「なにより……巨人の再生能力が万能でないことは、もう十分にご存じでしょう?」

 

 かつて空のように青かった右目は、今では血を溶かし込んだような赤へ濁っていた。もともと色素の薄い灰色だった髪も、根元から毛先まで色が抜け落ちたような白一色へ変わっていた。その姿には、アルミンもいまだ目が慣れなかった。

 

「なんか……大人しいジルケってのが気持ち悪いんだけど」

 

「結構酷いこと言いますよね、ハンジさんって」

 

 もっとも、ハンジやリヴァイが戸惑っていたのは、そうした外見の変化以上に中身の方だったのだろう。二人は、かつて兵団で医師をしていた頃のジルケを知らない。

 

 シガンシナ区決戦を境に、彼女は傍目から見るとまるで別人になった。正確には、前の人格へ戻ったのだ。

 

『仮説ですが、強い精神的な衝撃を受けることが、人格が切り替わるきっかけになるんでしょうね。(あのひと)は私の記憶を見た……いえ、追体験したのが引き金になったんだと思います』

 

 本人は自分の変化について、そう説明していた。

 

「ともかく、今は待つしかありません」

 

 ジルケは再びエルヴィンへ視線を戻した。

 

「脳なんて、あと百年経ったところでブラックボックスのままですから。いつ目を覚ますのか、そもそも目を覚ますのか、今の私には判断できません」

 

 そう言った後、アルミンに辛うじて聞こえる程度の声で「……脳波も測れないんじゃあ、脳死判定もできないなあ」と呟いた。

 

 意味は分からなかったが、それも彼女が持つ海の向こうの知識なのだろうと、アルミンは納得した。

 

 結局、目を覚ます可能性が残っている以上、兵団にできるのは待つことだけだった。『女型の巨人』をその身に宿したまま、エルヴィン・スミスは眠り続けた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 昔のジル先生が戻ってきた。少なくともアルミンには、そう見えていた。

 

 けれど、以前とまったく同じだったわけではない。

 

 かつてのジルケはどちらかといえば控え目で、上に立つより誰かの傍らで手を動かしている方が似合う人だった。

 

 それがシガンシナから戻って以降は、まるで何かに追われているかのように兵団の各所へ顔を出し、自分の知る限りのことを伝えた。これから起こり得る事態についても、積極的に意見を述べるようになった。

 

 中でも彼女が繰り返し口にしたのが、マーレはすぐには島へ攻め込んでこないという予想だった。

 

 シガンシナ区決戦から数か月が過ぎても、敵は一向に姿を現さなかった。単に戦力の再編や作戦準備に時間を要している可能性もある。だが、ジルケの見方は違った。

 

 マーレは島へ来ないのではない。来ることができないのだと。

 

 『始祖』を獲得したことはマーレにとって大きな戦果でも、周辺諸国にとっては脅威でしかない。ただでさえ巨人の力を背景に他国を圧倒している国が、最も強力な『始祖の巨人』まで手に入れたとなれば、警戒する国が出るのは当然だった。

 

 さらに、海の向こうには今もエルディア復権派が残っている可能性が高い。先代の(アギト)から継いだ記憶によれば、彼らはマーレ国内だけではなく、国外にも協力者を抱えているという。

 

 復権派が『始祖』の脅威と秘密を周辺諸国へ流せば、緊張を煽ることもできる。それをきっかけに戦争が始まっているのなら、敵がパラディ島へ割ける戦力も時間も限られる。

 

「あくまで可能性に過ぎません。しかし、数か月にわたってマーレが姿を現さないという現実も無視すべきではありません」

 

 そして彼女は、復権派が健在ならいずれ島へ接触を試みるだろうとも言った。

 

「『始祖』をマーレに奪われたままにしておきたくないのは、私達だけじゃありませんから」

 

 その言葉に、リヴァイは呆れたように息を吐いた。

 

「……要するに、来るかもしれねぇ復権派を当てにするってことか。神頼みもいいとこだな」

 

「彼らなら、きっと来てくれます」

 

 その根拠を兵団が確かめることはできないが、彼女が持つ壁外の知識は、現状の兵団にとって他に代わりがなかった。まして国家そのものが存亡の危機に立たされている以上、その言葉をただの憶測として切り捨てる余裕もない。

 

 かつてジルケを警戒していた憲兵団の者達も、次第に彼女の意見へ耳を傾けるようになっていった。

 

()()を絶対に殺してはいけません」

 

 そうした中で、ジルケはある特徴を持つ巨人を発見した場合には絶対に討伐せず、生け捕りにするよう兵団へ強く求めていた。

 

 口頭で特徴を伝えるだけでは足りないと考えたのか、人相書ならぬ『巨人相書』まで自ら描き、各城門都市の駐屯兵へ配布する徹底ぶりだった。

 といっても、壁内に残る無垢の巨人は、当時数え切れないほど存在していたし、兵士達の多くも念のため頭の片隅へ留めておく程度に考えていたのだと思う。

 

 その報せが届いたのはシガンシナ区決戦から季節が一つ移り、壁沿いの麦畑が刈り取られた頃だった。朝晩の風には、もう冬の匂いが混じり始めていた。

 

「巨人相書と酷似した個体が、トロスト区外門に現れました!」

 

 伝令が飛び込んできた瞬間、ジルケは椅子を蹴るように立ち上がった。

 

 普段の彼女なら、まずその真偽を確認したはずだろう。しかし、その時ばかりは詳しい報告を聞くよりも早く兵舎を飛び出した。

 

 アルミン達が後を追って壁上へ辿り着くと、眼下には一体の巨人がいた。

 

 その巨人は、遥か頭上にいる自分達へ向かって両腕を伸ばしていた。到底届くはずもない高さだというのに、何とか掴もうと太い指を開いては閉じ、時折壁面へ爪を立てている。不気味の一言だった。

 

 短い金髪。緩んだ目元。そして歯茎まで剥き出しにした、笑っているようにも見える大きな口。

 

()()はダイナ・フリッツ。大陸に残った王家の末裔です」

 

 その名には覚えがあった。グリシャ・イェーガーの手記に記されていた、彼の最初の妻。マーレによって楽園送りにされ、無垢の巨人へ変えられた女性だった。

 

 その発見から間もなく、ダイナの処遇を決めるための会議が開かれた。

 

「ダイナは、このまま捕らえておきましょう」

 

 ジルケは強く主張した。

 

「今すぐ彼女をどうこうするわけではありませんが、王家の血を引く巨人が必要になる時は、いずれ必ず来ます」

 

「肝心の『始祖』はマーレに持っていかれたままだろうが」

 

 リヴァイが割り込んで言う。

 

「王家の巨人だけ確保したところで、今の俺達には何もできねぇ。それでも残しておくべきだって言うのか?」

 

「王家の血を絶やしてはなりません。なにより、ここでダイナを失えばいずれ『始祖』を奪還できたとしても、その時はヒストリアを巨人にするしかなくなる――そんなの……耐えられない」

 

 その言葉が決め手となった。ダイナの討伐は見送られ、無垢の巨人のまま兵団の管理下に置かれることが決まった。

 

「……その女を人間へ戻す時は、誰を喰わせるつもりなんだ?」

 

 ただ、会議が終わった後、リヴァイが独り言のように漏らした問いだけはやけにアルミンの耳に残った。

 

 あの時点で、ジルケが眠り続けるエルヴィンを犠牲にすると決めていたとは思えない。ましてダイナの脊髄液を利用し、海の向こうへあれほどの地獄を広げる未来まではっきりと思い描いていたはずもない。

 

「先生には、何が見えていたんだろう」

 

 四年を経た今も、その問いは答えのないまま、アルミンの中に残り続けていた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 トロスト区の門から、巨大な槌が巨人を叩き潰す音が聞こえなくなったのは、雪が降り積もる頃だった。

 

 自動巨人伐採装置による処理は着実に進み、雪解けを迎える頃には、兵団からウォール・マリア内に残された巨人の駆逐完了が発表された。シガンシナ区を皮切りに住民の帰還と入植が認められたのは、トロスト区襲撃から一年が経った851年のことだった。

 

 一度目の超大型巨人襲来から六年。調査兵団はウォール・マリアの外へと調査範囲を広げ、その過程で()()()()()()()()()()()()()()()のち、海へ辿り着いた。

 

 しかし、幼い頃から追い続けてきた夢を叶えても、その余韻に浸っている暇などアルミンにはなかった。

 

 海の向こうにはマーレがある。そして『始祖』を持ち帰った彼らが、いつまでも島を放置しておくとは考えられなかった。

 

 ジルケは、いずれマーレから調査船が来るだろうと言った。ハンジやリヴァイも、彼女ほど断定的ではなかったものの、敵が島の状況を確認しに来る可能性は高いと判断した。そこで調査兵団は、海岸付近に監視のための拠点を設けることになった。

 

 その予想が現実となったのは、とある新月の夜だった。

 

 暗い海の向こうから現れたのは、アルミンがそれまで見たどんな船よりも巨大な鋼鉄の塊だった。壁内に存在する帆船とは形も大きさもまるで違い、暗闇の中を自ら進んでくる姿を目にしただけでも、壁の内と外の技術差を嫌でも思い知らされた。

 

 そして、その船からやって来たのは敵だけではなかった。

 

「まずは、ご丁重に出迎えていただいたことに感謝を申し上げます」

 

 慇懃無礼にも聞こえるほど丁寧な口調でそう告げたのは、イェレナと名乗った長身の女だった。つい先ほどマーレ兵の頭を撃ち抜き、自分達にはパラディ島と敵対する意思がないと告げた人物である。その隣には、オニャンコポンという黒い肌の男が座った。

 

 二人の背後には、念のためミカサを立たせている。ジルケの指示だった。

 

 シガンシナ区から戻った直後こそ部屋に閉じこもっていた彼女も、今では任務へ復帰していた。ただ以前と異なり、ジルケの言葉へ従う姿には、アルミンは時折言い知れない違和感を覚えていた。

 

「……本当にこの島にいらっしゃったのですね、ジルケ・クルーガーさん。こうして実際にお会いしても、まだ信じられません」

 

「え!ジルケ、この人と知り合いなの!?」

 

 身を乗り出したハンジに、イェレナは苦笑しながら首を横に振った。

 

「いいえ。私が一方的に知っているだけです。彼女は外の世界では、なかなかの有名人でしてね。もっとも、エルディア人としてではなくマーレ人としてですが」

 

 そこでイェレナはジルケへ視線を戻した。

 

「さて、クルーガーさん。あなたは今、どちらでしょうか?」

 

「……そうね。『女神』呼ばわりされてた方なんだけど、ガッカリした?」

 

「むしろ安心しました。回答次第では、色々と話が変わってきますから」

 

 イェレナが最初に示したのは、現在のマーレがどれほどの軍事力を持っているかだった。持ち込んだ銃器を手に取りながら、ジルケが大陸を離れた頃より兵器は進歩し、今では航空機が実戦投入されていることを簡潔に説明していく。

 

 壁外の技術に改めてアルミン達が言葉を失う中、ジルケだけは武器を触りながらぶつぶつと呟いていた。

 

「……思ったほど進んでないな。やっぱり史実と違って、覇権国家が巨人の力に胡座をかいてるから技術の発展が遅れてるのかな……」

 

 ジルケは時折、アルミンには理解できない言葉を口にすることがあった。ただ、この頃の彼女は自分にしか通じない言葉を不用意に口にしない程度には、周囲へ歩み寄ろうとしていた。意味の伝わらない独り言は、なるべく声を潜めるようにしていたのだ。

 

 だが、運悪くイェレナの耳には届いたらしい。

 

「二十年近く大陸を離れていた方から『進んでいない』と評されるとは思ってもみませんでした。クルーガーさんの想定では、我々はどこまで進歩しているはずだったと?」

 

「あ、ごめん。聞こえてたんだ……別に嫌味で言ったわけじゃないわよ。ただ、少し安心しただけ。例えば……そうね。音よりも速い航空機まで実用化されていたら、地を這う巨人なんて上を眺めていることしかできなくなるでしょう? そこまで進んでいたら、正直お手上げだった」

 

「音より速い?」

 

 イェレナは一瞬呆気に取られた後、声を上げて笑った。

 

「面白いことを言いますね。砲弾ならともかく人間を乗せた航空機で、ですか? 衝撃に耐えきれず機体がバラバラになってしまいますよ」

 

「……なるほどね。そういう構想すら出ていない段階なわけか」

 

 それだけ言うと、ジルケは一人納得したように銃器を机へ戻した。

 

 イェレナはまだ半信半疑といった顔をしていたが、やがて笑みを引っ込めた。兵器の話はそこまでにして、今度は彼女の方からジルケへ確認したいことがあるらしい。

 

「一つ、お尋ねしても?」

 

「ジーク・イェーガーのことでしょう?」

 

 初めて、イェレナが明確に驚いた顔を見せた。

 

「よくお分かりになりますね」

 

「まあね。あの子とあなたのことなら、よく知ってるから」

 

「……ジークはともかく、なぜ私までご存じなのかは今は敢えて置いておくとしましょう。それでは改めて尋ねます。『獣の巨人』の継承者、ジーク・イェーガーはどこにいますか?」

 

 室内の空気が変わる。やがてジルケが口を開いた。

 

「……ジークならもういない。一年前のシガンシナ区決戦で死んだわ」

 

「そう、ですか」

 

 イェレナはそれ以上何も言わなかった。しばらくの沈黙の後、その右手が机上に並べられた小型拳銃へ滑った。

 

「ミカサ!」

 

 ジルケが鋭く叫ぶ。

 

 ほとんど同時に、背後からイェレナの腕が捻り上げられ、その身体が机へ押さえつけられた。床へ乾いた音を立てて転がったのは、どこに隠し持っていたのか小型の拳銃だった。

 

「お、おい! イェレナ、一体なんの真似だ!」

 

 オニャンコポンが椅子を蹴るように立ち上がった。

 

「……本当によくわかりましたね。正直、不気味なくらいです。長年一緒に活動してきたオニャンコポンでさえ、気付かなかったのに」

 

「言ったでしょう。あなたのことならよく知ってるって。念のためミカサに後ろを任せておいて正解だったわ」

 

 ジルケは短く溜息をついた。

 

「ジークの死を告げれば、あなたが何かしら思い詰めた行動に出る可能性は考えていた。でも、まさか自ら命を絶とうとするなんてね」

 

「……この一年、ジークがこの島で生きているかどうかも分からないまま、私は彼を連れ帰ることばかり考えていました。ようやくここまで辿り着いてみれば、彼は既に死んでいた」

 

 僅かに間を置いて、イェレナはジルケを見た。

 

「あなたになら……会いたいと思っていた相手が、もうどこにもいないと突き付けられた時の気持ちを分かっていただけると思いましたが」

 

「痛いほど分かるわ。でも、あなたを死なせるつもりはない」

 

「意外とサディストですね。私が生きる目的をほぼ失っていることに気付いておきながら、まだ生きろと言いますか」

 

「ええ。私がそうしてるんだから。イェレナ、あなたもそうしなさい」

 

「……そうですか。ジークや『フクロウ』があなたを信奉する理由が、なんとなく分かったような気がします」

 

 小型の拳銃は回収され、イェレナは両手首を拘束されたうえで、改めて椅子へ座らされた。

 

 そして観念したように、自分達が島へ来た理由を語り始めた。

 

 現在、マーレは周辺諸国との戦争状態にあり、すぐにパラディ島へ大軍を向ける余裕はない。しかし戦争が終われば、王家の血を求めて再侵攻する可能性が高いという。

 

「クルーガーさんなら、マーレが『始祖』の力を万全に使えるようになれば、どれほど恐ろしいことが起こるか想像がつくでしょう。単に『地鳴らし』という強力無比な兵器を手に入れるだけではありません」

 

 たとえば、とわざとらしくイェレナは間を置いた。

 

「巨人学者の中には、『始祖』がユミルの民の身体を自在に作り替えられるのなら、軍事利用も可能ではないかと考える者がいます。死を恐れず、病にもかからず、食料すらほとんど必要としない兵士――そんな軍隊を作り上げられる可能性さえある、と」

 

 ハンジが思わず身を乗り出した。

 

「ね、ねぇ……ジルケ。『始祖』ってそんなことまで可能なの?」

 

「実際にどこまで可能なのかは、私にも分かりません。ただ、かつて『始祖の巨人』の力によってユミルの民の身体構造が変化し、特定の疾病に罹患しなくなったという言い伝えがあります。不可能だと一笑に付すことはできないでしょうね」

 

「はい。クルーガーさんのおっしゃる通りです。ある巨人学者の言葉を借りれば、『ユミルの民』はどこまで行っても『始祖』の一部なのです」

 

 イェレナは続けた。

 

「もちろん、今お話ししたことも現時点では可能性に過ぎません。ですが、その可能性をマーレ軍が研究しないとも思えない。さらには無垢の巨人という殺戮兵器まで、現在より遥かに自由に運用できるようになるでしょう」

 

 マーレが絶対的な力を手にする前に、その企みを阻止しなければならない。イェレナ達マーレ打倒を目指す義勇兵がパラディ島への接触を図ったのは、そうした考えからだった。

 

「その義勇兵の活動を導いていたのがジークでした」

 

 それだけではない。ジーク・イェーガーは『フクロウ』率いるエルディア復権派とも通じており、今回の任務には二つの目的があったのだという。

 

 一つは、復権派の代わりに島と交渉すること。

 そしてもう一つが、この島にいるはずのジークを回収することだった。

 

「もっとも、後者は失敗に終わりましたがね」

 

 冗談めかした口ぶりのわりに、目は一切笑っていなかった。

 

「『フクロウ』は、ジルケ・クルーガー――あなたを頼れと強く仰っていました。畏れ多くもオリジナルを僭称する別人格はともかく、『白衣の女神』たるあなたなら、必ずや『始祖』を奪い返せる。そしてエルディア復権への道を開くことができると」

 

 話を一通り聞き終えたところで、ジルケは何かを確かめるようにイェレナを見た。

 

「ねぇ、イェレナ。一つ聞いていい?あなたは……安楽死計画に賛同してるわけじゃないのよね?」

 

「安楽死計画?」

 

 イェレナは露骨に眉を寄せた。

 

「えらく後ろ向きな計画ですね。退廃的かつ敗北主義的で、何より楽しくなさそうです」

 

「じゃあ、どうしてジークに従ってたの?」

 

「ジークは神ですので」

 

 ジルケがぴくりとも笑わないのを見て、イェレナは溜息交じりに言った。

 

「なんてことはありません。彼に命を救われ、マーレを倒すという道を示してもらったから。それ以外に理由なんてありませんよ」

 

 その後、義勇兵の扱いを巡って兵団内部の議論は紛糾した。素性の知れない壁外の人間を受け入れるべきか、そもそも彼らの言葉をどこまで信じるべきか。

 

 円満とはとても言えない過程を経て、それでも最終的に兵団は義勇兵と、その背後にいる復権派との協力を選んだ。

 

 選択は早々に実を結ぶ。義勇兵の無線通信を利用することで、マーレの調査船は島へ近付くたびに拿捕されるようになった。彼らや捕虜を通じて、壁外の技術も少しずつ島へ入り始める。やがて海辺では、まだ見ぬ国々と繋がるための港が造られるようになった。

 

 港の建設が進む中で、アルミンは一度だけイェレナに尋ねたことがある。

 

「どうして君は手伝ってくれるんだい?」

 

「おや。まだ信用していただけませんか?」

 

「いや、だって……最初に会った時は死のうとしていたじゃないか」

 

 イェレナは一瞬だけ目を丸くした後、可笑しそうに笑った。

 

「マーレへの天誅を諦めたわけではありませんし……ジークがあれほど信奉したジルケ・クルーガーが、この先どう生きていくのか。少し見てみたくなりましてね」

 

 イェレナは建設途中の港へ目を向けた。

 

(ジーク)を失った私は、以前ほどこの世界に価値を見出せなくなりました。人生から彩りが薄れて、目に映るものまでどこか色褪せてしまったような感覚です。思えば、マーレへの復讐心だって些細なものだったのでしょう。私は(ジーク)と一緒に、胸を高鳴らせるような夢を見たかっただけなのかもしれません」

 

「意外とロマンチストなんだね」

 

「海を見るために命を賭けたあなたが言えることではないでしょう」

 

 さらりと返すと、イェレナは海へ視線を戻した。

 

「ただ、クルーガーさんが感じた喪失感は、私の比ではないでしょう。なにせ実の娘を、自分自身で喰い殺したんですから。比べることすらおこがましい」

 

 それでも、あの人は折れなかった。島を守るため、進み続けている。

 

「アルミン。私は見てみたいんです。世界に意味を見出せない人間が、何を求めて戦い続けるのか。その先で何を選ぶのか。ジークが崇拝した彼女の結末を、私は見届けたい」

 

 口元には笑みが残っていたが、その目には不思議なほど熱がなかった。

 

 記憶を辿り、アルミンは懐かしむように呟いた。

 

「あの頃は楽しかった」

 

 掌の中にある貝殻へ視線を落とし、淡い桃色の筋に沿って、親指で表面の溝をゆっくりとなぞる。

 

 『始祖』は依然として敵の手にあり、マーレとの戦いもいずれ避けられないだろう。それでも、外の世界からやって来た者達と共に働き、海の向こうへ続く港が少しずつ形になっていく。それを見るたび、壁の外にいる者すべてが敵ではないのだと思えた。

 

 まだ、自分達は世界との関わり方を選べる。

 

 あの頃のアルミンは、本気でそう信じていた。

 

 そんな日々がしばらく続き、港の完成が目前に迫った頃だった。

 兵団の主要な人間を集めた席で、ジルケは唐突にこう切り出した。

 

「ダイナ・フリッツに『女型の巨人』を継承させることを、検討していただけませんか?」

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

「……あの時は、本当に揉めたよ」

 

 リヴァイは最後まで反対した。まだ回復の可能性が残っているのに、エルヴィン・スミスという人類の希望を自ら手放すのは早計だと。ハンジもまた、エルヴィンの価値を誰より理解していただけに、簡単には決断を下せなかった。

 

 同期達の多くも、ジルケの提案を受け入れられずにいた。眠っているだけの人間を別の巨人へ与えるという選択そのものに抵抗があったし、あの優しいジルケがそんな道を示したことに戸惑っていたのだと思う。

 

 ただ一人、フロックだけは最初から彼女を支持した。いつ目を覚ますか分からない人間を待ち続けて島ごと滅びるより、勝つための道を示した者に従うべきだ――彼はそう主張した。

 

 事実エルヴィンは二年近く『女型の巨人』をその身に宿したまま、ただ眠り続けていただけだった。調査兵団の団長代理として、ハンジもいつまでも決断を先送りにはできなかったのだろう。

 

「……なにより、兵団は先生が示した未来に賭けたんだ」

 

 王家の血を引く巨人を二体も確保し、壁外の復権派や義勇兵からも信頼を置かれているジルケは、『始祖』を奪還するためのマーレ襲撃案まで具体的な形で示していた。

 

 二年経っても、エルヴィンが再び立ち上がる日を待ち望む者も多かった。

 

 けれど島を守るために兵団が選んだのは、いつか目を覚ますかもしれない英雄を待つことではなく、今を生き、前へ進み続ける悪魔の手を取ることだった。

 

「……結局、ダイナさんが『女型』を継いだ」

 

 それきりアルミンは口を閉ざす。梢を揺らした風が、頭上を通り過ぎていった。

 

「最近さ、よく夢を見るんだ」

 

 しばらくして、アルミンは話題を変えるように口を開いた。

 

「身に覚えのない景色や、自分のものじゃない感情が、前よりもはっきり見えるようになった。これが記憶の継承なんだと思う」

 

 夢の中では、視界がいつもよりずっと低かった。

 

 俯けば、頼りなく細い腕と小さな手が見える。その手を、白衣を着た女が両手で包み込んでいた。

 彼女は幼い子供と目線を合わせるように膝をつき、ただ静かに見つめてくれた。

 

『この世界は残酷で、この先辛いこともたくさんあると思う。でも――生まれてこなければ良かったなんて、決して思わないで。この世界に生まれてきてくれただけで、あなたはもう十分に偉いんだから』

 

 その声を聞くたび、胸の奥へ自分のものではない温かさが広がった。同時に、その人へ縋りつきたくなるような寂しさまで流れ込んでくる。

 

「ジーク・イェーガー……記憶の中で先生に手を握られていたのは、君のお兄さんだった」

 

 記憶の中のジルケは、目の前にいる一人の子供だけを見ていた。その言葉にも、差し伸べた手にも、何か別の目的があったようには見えない。

 

 今の彼女も、兵団の者達には変わらず穏やかに接している。けれど、その優しさの向こうで彼女が何を見ているのか、アルミンには分からなくなっていた。

 

 島を守ろうとしたことも、兵団へ知識を与えたことも、王家の巨人を残したことも、すべては何かへ辿り着くために必要だっただけなのかもしれない。

 

「先生は変わった」

 

 一人の子供が生まれたことを心から喜んでいた女と、目的のためなら誰かの命を切り捨てることさえ選ぶようになった女。

 

 その二つを、アルミンはうまく重ねることができなかった。

 

「そろそろ行くよ」

 

 アルミンは立ち上がり、服についた土を軽く払った。

 

 そこは、シガンシナ区郊外の丘に立つ一本の木の下だった。

 

 太い根元には、小さな墓石がひっそりと置かれている。その前にはまだ新しい花が数本供えられ、見覚えのあるマフラーが風に攫われないよう静かに巻きつけられていた。

 

 けれど、その下で眠る者はいない。

 

 アルミンは最後にもう一度だけ屈み込み、小さな貝殻を墓石の傍らへそっと置いた。

 

「またね、エレン」




恒例の補足です。

・エルヴィン、意識を神経網に逃す方法なんてどこで知ったん?
→『47:屍の道』でクルーガー人格がさらっと語っています。
エルヴィンなら、一度聞いただけでも土壇場である程度は再現できそうな気がしたので、今回はその設定を拾いました。
ただライナーほど創造主の寵愛を受けていないので、完全には成功しませんでしたが。

・義勇兵と復権派の関係ってどうなってるの?
→ざっくり言えば復権派が親会社、義勇兵が子会社、ジークがその子会社の社長みたいなイメージです。

・さらっと流されてるけど、もう一体の王家の巨人って誰やねん。
→その辺りは、次話以降で触れていく予定です(種明かし回なのに意味不明な謎を生やしてすみません…)
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。