夫、エレン・クルーガーが語った「地獄」という言葉の意味を、私は真の意味では理解できていなかった。
あれは比喩ではなかった。いや、あれは目の前で見ないと。多分生涯わからないだろう。
この物語の結末は、既に血塗られた終着駅へと向かうレールの上に固定されているのかもしれない。
ならば、私のこの日々は破滅までの猶予期間に過ぎないのだろうか。
そんな無力感に苛まれる中で、私は時折あの少年のことを思い出す。
原作では描かれなかった、しかし確かに存在した地獄の一片を。
◇◇◇◇
軍病院での日々は静かな澱みの中にあった。変わらない消毒液の匂い、規則正しく響く足音、そして窓の外から聞こえるエルディア人兵士たちの怒声にも似た掛け声。
私の日常はその中で淡々と繰り返されていく。一日一日が昨日と同じ景色のコピーであるかのような、色のない時間。それがこのマーレ軍病院での私のすべてだった。
そんなある日の午後、医局の淀んだ空気が些細な出来事でさざめいた。訓練中に負傷したエルディア人兵士が運び込まれてきたのだ。
マーレ人医師たちの間に、あからさまに面倒そうな空気が流れる。誰もが視線を合わせず、手元の書類に目を落とすふりをする。エルディア人の治療など手間がかかる上に何の評価にも繋がらない。彼らにとっては、ただの厄介事でしかなかった。
「クルーガー君」
年配の医師が私を呼び止めた。その声には有無を言わせぬ響きがある。
「例のエルディア人だが、君が担当したまえ。訓練中に足を滑らせたそうだ。大したことはないだろうが、一応見てやれ。君は、悪魔の末裔にすら慈悲をかけるという『白衣の女神』様なのだろう?」
その言葉に含まれた毒に、周囲からくすくすと嘲笑が漏れる。戦場での功績は面倒事を押し付けるのに格好の理由となっていた。
私は何も言わず、ただ静かに頷きカルテを受け取った。
病室のベッドに横たわっていたのはヒルフェンという名の少年だった。まだ子どもと呼んで差し支えないほど、その顔にはあどけなさが残っている。素朴な瞳の持ち主だった。
診断の結果、足の骨に軽いヒビが入っており、しばらくは病棟での生活を余儀なくされることになった。
彼の主治医になってからというもの私は頻繁に彼の病室を訪れた。それは、他の医師たちがエルディア人の病室に足を踏み入れたがらないのと対照的だった。
「先生は優しいですね」
私が包帯を取り替えていると、ヒルフェンがぽつりと言った。
「他のマーレ人の医者は俺の顔も見ようとしない。ちゃんと俺を人間として扱ってくれるのはジル先生だけです」
私は何と返せばいいのか分からなかった。優しさなどではない。これは私の自己満足だ。この歪んだ世界で見て見ぬふりを続ける自分への、ささやかな抵抗に過ぎない。
「別に優しいわけじゃないわよ。ただ、自分の職務を全うしているだけ」
そう答えるのが精一杯だった。
足の怪我は幸い順調に回復へと向かった。病棟での生活にも慣れてきたのか、ヒルフェンの口から少しずつ彼自身のことが語られるようになった。
収容区に残してきた身重の母親と幼い妹の生活を支えるため、自ら志願して従軍したという。
収容区での暮らし、母親の作るスープの味、裁縫が得意な妹が作ってくれたお守りのこと。
そのどれもがささやかで、けれど温かい光に満ちていた。
「先生はずっとレベリオに住んでらっしゃるんですよね。収容区の外ってどんな所なんです?」
治療の合間に、彼は壁の向こうの世界を夢見るように羨望の眼差しで私に尋ねた。
マーレ軍の宿舎から一歩も外に出ることを許されない彼にとって、私が語る他愛もない街の話は唯一の娯楽のようだった。
彼の質問はいつも子供のように純粋で、だからこそ私の胸を締め付けた。
やがてヒルフェンの足は完治し、彼は再び訓練へと戻っていった。だがその後も私は「経過観察」という名目で、彼を定期的に診察室へ呼び出した。
それは建前だった。この冷たい病院の中で、彼と話す時間は私が人間らしい心を取り戻せる瞬間だったのだから。
患者を救うつもりが、救われていたのは私の方だなんて皮肉な話だった。
◇◇◇◇
ある日診察室に現れたヒルフェンは、ひどく落ち込んでいた。頬には痛々しい痣があり、その瞳はいつもの輝きを失っていた。
「どうしたの、その顔」
「……訓練でヘマをやらかしまして。教官に『悪魔の血はどれだけ薄めても汚れたままだ』って……死ぬほど殴られました」
彼は俯いたまま、か細い声で言った。
「俺、頑張ってるつもりなんです。家族のために、少しでも多く稼がないといけないのに……。でも今度また失敗したら、収容区に強制送還されます。このままじゃ、何をしても無駄なんじゃないかって。そう思ったら、なんだかもう……」
彼の肩が小さく震えている。その瞳から光が消え、かつて見た『獣の巨人』継承者の、全てを諦めた虚無の目が重なった。
ダメだ。この子を、あっちに行かせてはならない。
かける言葉が見つからなかった。どんな慰めも、この残酷な現実の前では空虚に響くだけだろう。だから私は――。
「この前、仕事帰りにね。アイスクリームを食べたの」
衝動的に、私は精一杯明るい声を作ってそう切り出した。彼の沈んだ顔を見ていると、前世で救えなかった小さな命の記憶が蘇り、何かせずにはいられなかったのだ。
「ここの近くに新しくできた店でね。ミルクの味が濃くて、舌の上でとろけるように甘いの。夢中になって食べていると、不意に頭がキーンと痛くなるんだけど、それがまた面白くて」
収容区では決して口にできない、ささやかな贅沢。ヒルフェンの目は、少しずつ光を取り戻していった。彼は顔の痣も忘れて身を乗り出し、まるでその味を想像するかのように、ごくりと喉を鳴らした。
「どんな味なんでしょう……俺には想像もつきません。俺、砂糖くらいしか舐めたことなくて」
私はとっさに白衣のポケットを探った。指先に硬い感触が触れる。
長い勤務の合間に口に放り込むために常備している、小さなキャラメルだ。
「……ほら」
私はそれを彼の掌に、そっと乗せた。
「アイスクリームじゃないけど、甘いもののおすそ分け」
「い、いいんですか!こんな貴重なもの!」
「……全然貴重じゃないわ、その辺の店で適当に買ったものよ。だから遠慮せず食べちゃいなさい」
「でも…」ヒルフェンは掌のキャラメルをどうしたものかと転がしている。
「いいのよ。辛くなったら、これを食べて。そして思い出すの。あなたが何のために歯を食いしばっているのか。いつかあなたの家族に、もっと甘くて美味しいものを食べさせてあげなさい」
ヒルフェンは掌の中の小さな包みを、まるで宝石でも見るかのように見つめていた。やがて、それを壊れないようにそっと握りしめると、深く頭を下げる。
「ありがとうございます……!俺、もう一度頑張ってみます。ここで稼いで、母さんと妹に絶対にアイスを買ってやります!」
ヒルフェンの瞳に宿ったのは、以前よりもずっと強く、烈しい光だった。
その輝きが、彼の身をも焼き焦がすことになるなんてこの時の私には知る由もなかった。
◇◇◇◇
事件が起きたのはそれから数週間後のことだった。
その報せは、喧騒に満ちた医局の中で、まるで私にだけ聞こえる不協和音のように響いた。
ヒルフェンが宿舎から脱走したのだ。
もちろん付け焼き刃の計画などすぐに露見し、彼は壁の外に出ることもできず、あっけなく捕らえられたという。
軍法会議は、他のエルディア人兵士への見せしめとして彼に最も重い罰――「楽園送り」を宣告した。判決は、まるで壊れた機械の部品を取り替えるかのように、淡々と事務的に言い渡されたそうだ。
私は抜け殻のように自分のデスクでヒルフェンのカルテを眺めていた。そこへ心配そうな顔をしたハンスが近づいてくる。
「先生、お疲れのようですね。また徹夜ですか?」
「……ああ、うん。大丈夫。少し、寝不足なだけ」
力なく笑ってみせるが、口の端がひきつるのが分かった。
「ねえ、ハンス。あなたは『楽園送り』の現場を見たことがある?」
「いえ、直接は……。ですが、治安局にいる友人から話だけは聞いたことがあります」
ハンスは記憶を手繰り寄せるように、わずかに眉をひそめた。その声は恐怖を押し殺すかのように低く、潜められている。
「なんでも……壁の上に並ばされたエルディア人は一斉に注射を打たれ、瞬く間に人の形を失うそうです。友人は言っていました。『エルディア人は人間じゃない。化け物だ』と」
ハンスの視線が私に向く。異物を見るかのような目だ。
「医者ですからエルディア人の治療はやりますし、危害を加えようなんて思いません。でも先生のように彼らと親しくするのは……自分にはできません。これまで何度か巨人が敵兵を蹂躙する光景を見ましたが、
「……まあ私が変わってるのは認めるよ」
ハンスは慌てて「お気に障ったらすみません!」と頭を下げる。だが、彼の言葉は、私の胸に冷たく突き刺さっていた。
この世界において、私の振る舞いは異常なのだ。この世界で生き延びるためにはもっとうまく立ち回らなければ。
そう頭では理解しているのに、心が追いつかない。
その時だった。同僚たちの下世話な会話が私の耳に届いた。
「おい、知ってるか? 例のエルディア人、脱走した理由がこれまた傑作なんだぜ」
「ああ、あの女神様お気に入りのガキだろ? それがどうしたってんだ?」
「さっき治安局の奴らが話してたんだが……あのガキ、どうしてもアイスクリームが食いたかったから兵舎を抜け出したんだとよ! 馬鹿みたいだろ?」
「ははっ、たかがアイスで楽園行きか! まさに悪魔の末裔、考えることが違うな」
アイスクリーム。その単語が鼓膜を打った瞬間、世界から音が消えた。全身の血が急速に凍りついていくのを感じる。
グリシャとフェイは飛行船を見るため、あの日壁の外へ出た。
ヒルフェンにとっての飛行船は、私が語ったあの他愛もないアイスクリームだったのだ。
私の軽率な一言が、あの純粋な青年の運命を取り返しのつかない場所へと突き落としてしまった。
私が殺したようなものだ。
後悔と罪悪感が熱い鉄塊となって胃の腑に沈み、呼吸すらままならない。
「先生……? どうかしましたか?顔色が……」
私の異変に気付いたハンスが、訝しげに眉を寄せる。その声も今は遠い。
私は、彼の心配を振り切るように、壊れた人形のようにかろうじて言葉を紡いだ。
「……ねえハンス。後学のために、私も『楽園送り』に同行したいのだけど……手配できるかしら?」
「ええっ!?悪魔の島に行くつもりですか!?」
「巨人学者の端くれとして、エルディア人が巨人化する瞬間はどうしてもこの目で見ておきたくてね。この前クサヴァーさんにもそう勧められたわ」
ハンスは目を丸くしたが、すぐに何かを納得したように頷いた。
「相変わらず研究熱心ですね。分かりました。治安当局にいる友人に、僕から掛け合ってみましょう。ただ、あちらの管轄なので許可が下りるかどうか……」
「お願い。旦那の名前も使っていいから。治安当局のエレン・クルーガー。彼に便宜を図ってもらったことにして」
「承知しました。それなら話が早いかもしれません」
ハンスは恭しく頷くと、足早に医局を出ていった。彼が戻ってくるまで、私は過呼吸になりそうになるのを必死に抑えた。
一人残された医局で、私は椅子に深く沈み込んだ。張り詰めていた糸が切れ、指先が氷のように冷えていくのが分かる。ハンスの「研究熱心ですね」という言葉が悪意のない刃となって心に突き刺さり、抜けない。
これは罰だ。私が私自身に下す、罰。
あの少年の最期から目を逸らすことだけは、決して許されない。私の言葉が彼を地獄へ突き落としたのなら、その地獄の光景をこの目に焼き付けなければならない。
あまりにも身勝手で、独りよがりな加害者としての義務。彼の命を奪った私が、せめてその死の証人になるというただそれだけのこと。
私は震える手で顔を覆った。これから自分が目にするであろう光景を想像し、吐き気がこみ上げる。それでも行かなければならない。
この罪を背負って生きていくためにも。
◇◇◇◇
許可はあっけないほど簡単に下りた。その日、私は楽園行きの蒸気船に同乗した。
眼下には、私と同じように壁の上に立つ、感情を失くした人形のようなマーレの兵士たち。そして、これから「罪」を償わされる十数人のエルディア人たち。エルディア人たちの指は、反逆の意思を削ぐように無残に切り落とされていた。
目隠しの下から絶望に満ちた嗚咽が漏れている。彼らは自分の待ち受ける罰に絶望し、一様に目隠しの下から涙を流していた。
その中に、恐怖で骨と皮ばかりに痩せこけたヒルフェンの姿があった。かつての素朴な面影はどこにもない。込み上げる吐き気に、私は奥歯を強く噛み締めて耐えた。
やがて兵士の一人が鈍い銀色に光る注射器を手にして、ヒルフェンへと近づく。彼の目隠しが、無造作に引き剥がされた。虚ろな瞳が久々の光に慣れずにか細く開かれる。
その彷徨う視線が、壁の上に立つ私の姿を捉えた。彼は恐怖で震えながらも、最後の力を振り絞るように私に向かって叫んだ。
「先生……ッ!」
その声は、風にかき消されそうなほど、か細かった。まるで迷子の子供が母親を呼ぶような悲痛な響きだった。
「母と妹を助け――」
それが、彼の人間としての最後の言葉だった。
壁の下へ落とされた次の瞬間、彼の体は雷光に包まれ、肉が裂け、骨が軋むおぞましい音と共に、人間としての輪郭を失っていく。
皮膚が風船のように膨れ上がり、背骨が有り得ない角度に折れ曲がる。絶叫はもはや言葉としての意味をなさず、ただの獣の咆哮へと変わっていた。
そこに立っていたのは、かつてのヒルフェンの面影などどこにもない、理性を失った一体の無垢の巨人だった。巨人は虚ろな目でしばらく周囲を見回した後、生まれたての赤子のようなふらふらとした足取りで、島の中央へと歩き去っていった。
私は、その光景をただ瞬きもせず見つめていた。あまりに些細な、けれど切実な願いのために一人の人間の尊厳が、記憶が、未来が、跡形もなく奪われていく。この世界のどうしようもない残酷さ。
これが「地獄」の正体。
不意に隣に立つクルーガーの横顔を見る。彼の目にはこの地獄が一体何度映ってきたのだろう。
同胞を、仲間を、その手で化け物に変えるという想像を絶する痛みを、たった一人で背負い続けてきた。彼の心の奥底に澱む絶望の深さを、私はほんの少しだけ分かった気がした。
彼が時折見せる、全てを諦めたような静かな瞳の理由がようやく身に沁みて理解できた。
マーレにいる限り、私もこの地獄から目を背けることはできない。これからも、この狂った世界の片棒を担ぎ続けなければならないのか。私が救った命すら、結局はこの巨大な殺戮システムを維持するための些細な延命措置に過ぎないのではないか。
帰りの船へと向かう壁の上で、私はただ吹き抜ける風の中に立ち尽くすしかなかった。
胸に突き刺さるのは消えることのない罪悪感と、この世界そのものに対する静かで、しかし底なしの怒りだった。
曇らせ展開ですがまだもうちょっとだけ続きます