エレンの妻です   作:ホワイト3

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09:柄にもない

 クサヴァーさんの一件は、やはりというべきかマーレ社会に大きな衝撃を与えた。

 

 政府お抱えの著名な巨人学者が、実はマーレ人に成りすましたエルディア人だった――その事実は、彼の妻子が後を追うように心中したという悲劇的なニュースと共に、瞬く間に国中を駆け巡った(もちろん、息子のニコラスが今も生きていることは軍と治安当局によって闇に葬られている)

 

 ちなみにクサヴァー親子の処遇だが、クサヴァーさんは現継承者の中で最も任期が近い『獣の巨人』の継承者となり、ニコラスはエルディア人の養護機関に送られる手筈となった。

 運命の収斂に空恐ろしさを感じずにはいられないが、親子の命は繋ぎ止められた形となり、今は安堵するしかない。

 

 この一件は社会に根深く巣食う疑心暗鬼を煽り、見えざる敵への恐怖を増幅させるのに十分すぎた。

 

 各地でエルディア人を摘出する動きが加速し、血液検査はますます広く、そして半ば強制的に利用されるようになった。ここ一週間で、私の知る限りでも何人ものエルディア人が身分を偽っていたとして、治安当局に捕まった。

 その一方で、血液検査の精度の低さから誤った検査結果がしばしば検出され、それに端を発したトラブルが多発しているとも聞く。

 

 マーレの混乱はまだまだ収まりそうにない。

 

 そうした世間の騒ぎを、私はどこか遠い世界の出来事のように感じていた。

 もちろん、勤めている軍病院でも全職員の血液検査が義務付けられたが、そんなものは問題にならない。同じ病院に潜り込ませている同志の手を借り、書類の数値を改竄するのは造作もないことだった。

 

 私がこの病院に勤めだしてから二年が経つ。殺伐とした空気に満ちていたこの場所にも、今ではどこか慣れてしまった自分がいる。

 ハンスや、彼を通じて知り合った気の合う一部の同僚とは良好な関係を築けており、私の『白衣の女神』という大げさな肩書きも日々の業務に忙殺されるうち、次第にただのあだ名へと風化しつつあった。

 

 もっとも、それはあくまで水面に映る穏やかな景色に過ぎない。水面下では軍内部の政争という濁流が日に日に激しさを増していた。

 

 一部の連中は未だに私を『悪魔に与する裏切り者』『魔女』と見なし、棘のような視線を向ける。巨人化学の研究が主業務になりつつあるというのに、彼らにとって私は好ましからざる存在であり続けていた。

 

(まあある意味間違ってないんだけども……)

 

 革命軍の任務は順調だった。血液検査の結果を改竄し、あるいはそれとない口利きで、これまで何人もの同志をマーレ軍へと送り込んできた。

 私は着実に、この病院の中枢に根を張り巡らせていたのだ。

 すべてはエルディア復権という大義のため。そして何より、私がこの狂った世界で生き延びるため。

 

 私は、あの楽園送りの日を必死に頭から離そうとするように、仕事と任務に邁進していた。

 

 そんな綱渡りのような平穏が静かに終わりを告げようとしたのは、乾いた風が冬の到来を告げるようになったある日のことだった。

 

 政争の波がついに決定的な形でこの病院を飲み込んだ。

 院長が更迭され、その後任として新たな院長が就任するという。院内に不穏な噂が駆け巡る中、発表されたその名前に我が耳を疑った。

 

「新院長、マイヤー・ベルクマン医師」

 

 その名を聞いた瞬間、背筋を氷の刃でなぞられたような悪寒が走った。

 中東戦線で私を目の敵にしていた、あの男。彼の歪んだ自尊心と選民意識、そして私に向ける侮蔑の視線を思い出すだけで、この病院での未来がゆっくりと閉ざされていくような感覚に陥った。

 

 私のささやかな平穏は終わりを告げた。

 

 案の定、マイヤーが院長の椅子に座ってからというもの、私の立場は面白いように悪化していった。これみよがしに回される膨大な量の雑務。重要な会議からの意図的な除外。そして廊下ですれ違う彼の、隠そうともしない嘲りと侮蔑に満ちた視線。

 

 じりじりと真綿で首を絞められるような日々に、私の神経はすり減っていく。

 

 そして変化はあまりにも唐突に訪れた。

 

「クルーガー女史。院長室へ」

 

 内線から響いたのはマイヤー自身の、温度のない声だった。

 心配そうに見つめる同僚たちに曖昧な笑みを返し、私は重い足取りで院長室の扉を開けた。彼は豪華な革張りの椅子に深く身を沈め、獲物を前にした爬虫類のような笑みを浮かべて私を待っていた。

 

「まあ、そこに座りたまえ。君に名誉な話がある」

 

 その言葉とは裏腹に彼の目には底意地の悪い光が宿っていた。私は黙って、来客用の椅子に腰を下ろす。これから何を告げられるのか、嫌な予感があった。

 

「単刀直入に言おう。君にはヒィズル国に行ってもらいたい」

 

「……ヒィズル、ですか」

 

「そうだ。我が国の友好国であり、マーレの優れた医療技術の提供を熱望していてね。その使節団の代表として、君を推薦しておいた。なにせ君は我がマーレが誇る『白衣の女神』だからな。これ以上の適任はおるまい」

 

 マイヤーは私の反応を心底楽しむかのように、言葉を続ける。

 

「派遣期間は今のところ一年を予定しているが、ヒィズルの医療が近代化を遂げるまで君の力が必要になるだろう。五年……いや、十年以上かかるかもしれん」

 

 体の良い左遷。いや、それ以上に悪質な追放宣告だ。

 仮に軍から帰国命令が出てもマイヤーは邪魔をするに違いない。彼の深みを持たせた言い方がそれを物語っている。

 

 表向きは輝かしい栄転を装いながら、その実態は厄介払いに他ならない。

 

「無論、君が既婚者であることは承知している。旦那を残して長期間国を離れるのはさぞ心苦しいことだろう。だから特別に二、三日、考える時間をやろう。まあ、ここでこの名誉ある任務を断るというのなら、それはそれで構わん。国への貢献を拒むような非国民がこの名誉ある軍病院に相応しくないのは言うまでもないからな」

 

「………はい」

 

「なあに。マーレ人を偽ったエルディア人と親しかった君だ、向こうでもよろしくできるだろう」

 

 事実上の国外追放か、退職か。

 その二択の前に私の心は絶望に染まるでもない。むしろ、この命令は天啓とすら思えた。

 

(もう疲れた)

 

 この軍病院でエルディア人たちが兵器として扱われ、使い潰されていく様を目の当たりにする日々。

 そしてヒルフェン、クサヴァー家の悲劇。

 革命軍の任務も今の私には重い。元の病院に戻り、ただ同志を送り込むだけの作業したい――可能ならば足を洗ってしまいたい。

 

 もう全てが嫌で仕方がなかった。前の病院の皆に、セラに会いたかった。

 

 マイヤーは私に最大限の屈辱を与えたつもりだろう。だが皮肉なことに、彼は私に望んでいた逃げ道を与えてくれたのだ。

 

(問題は長老がなんと言うかだろう……)

 

 その夜、私は革命軍の集会所にいた。重苦しい空気の中、マイヤーから突きつけられた理不尽な辞令を報告する。

 幹部たちの顔に動揺と怒りの色が浮かんだ。だが、中央に座る長老だけは眉一つ動かさず、静かに私の話を聞いていた。

 

 すべてを話し終えた私が内心の期待を押し殺し、絶望的な状況を演じきったその時だった。

 

「……良い機会だ」

 

 長老は意外な言葉を口にした。

 

「その話、受けろ。ジルケ」

 

 一瞬心臓が安堵に跳ねた。だが、続く言葉がその淡い期待を氷のように砕いた。

 

「ヒィズル国はかつてのエルディア帝国の同盟国だった。今でも彼の国には我らユミルの民の血を引く者が多く暮らし、エルディア人に対する扱いも、このマーレよりは幾分かマシだと聞く。我らのネットワークを、マーレの外にまで広げる絶好の機会ではないか。新たな拠点をお前が築いてこい」

 

 長老の目は狂信的な光を宿しながらも、冷静に先の先まで見据えていた。

 私の疲弊も、逃げ出したいという願いも、すべてはこの男の狂気的な大義の前では何の価値も持たない。

 

「心配せずともこの国の活動に支障はない。お前がこの一年で優秀な駒をいくつも送り込んでくれたからな。お前がいなくとも回るように出来ている」

 

 その言葉は私の功績を讃えながらも、同時に「お前の代わりはいくらでもいる」と冷たく突き放しているようだった。

 私はただの道具だ。使い潰され、捨てられるための。その事実を改めて突きつけられる。

 

 結局私の自由意思が介在する余地など、どこにも存在しなかった。

 マーレにも革命軍にも、ただ都合よく利用されるだけ。私は操り人形のように頷くことしかできなかった。

 

 そしてヒィズルへの派遣は驚くほどスムーズに進められた。

 

 出発を明日に控えた夜。がらんとした自室で最後の荷造りを終えた私は、静まり返ったダイニングの椅子に一人座っていた。

 やがて玄関のドアが静かに開く音。いつものように無表情なクルーガーが音もなくリビングに入ってきた。

 

 彼は私の向かいに腰を下ろすと、ただ黙って煙草に火をつけた。

 

 二人の間に言葉はない。だが、その沈黙はこれまでのどんな会話よりも雄弁に、互いの胸の内を語っているようだった。

 

 別れの時が来た。この男だけは私の道具としての価値ではなく、その奥にある苦悩や葛藤を、ほんの少しでも理解してくれているのではないか。

 ジルケ・クルーガーの記憶か、はたまたこの数年間での生活がそう思わせるのか。分からない。

 でもそんな淡い期待が私に柄にもない言葉を紡がせた。

 

「私が居なくなって、寂しくならない?」

 

 自分でも驚くほどか細い声が出た。感傷的な問い。

 そんな私を見てクルーガーは心底呆れたように、ふっと息を吐いた。

 

「……柄にもないことを聞くな」

 

 その声にはいつものような冷たさはなかった。むしろ、その無表情な仮面の下で何かを押し殺しているのが伝わってくる。

 

「お前が行くのは新たな戦場だ。感傷に浸っている暇などあるものか」

 

「分かっている。そんなことは分かっている。でも……」

 

 言葉が続かなかった。この男の前で弱さを見せたくないという意地と、抑えきれない孤独感が胸の中で渦を巻く。

 するとクルーガーは立ち上がり、私の隣に来てそのごつごつとした手で私の震える手を握り締めた。

 

「……俺は近々、新たな組織を結成しようと考えている」

 

「そ、組織?」

 

「ああ、マーレ人に成りすます我々革命軍とは別に、収容区の中から反体制の炎を燃え上がらせる組織が必要だと長老に進言するつもりだ。革命軍のように過去の栄光に固執するだけではマーレに勝てない。壁の内側で燻る怒りを束ねるんだ」

 

 組織の名前は『エルディア復権派』。クルーガーの口から語られた言葉には鈍器で殴られるような衝撃があった。

 

「ジル。以前お前に、この終わりのない戦いに最後まで付き合う必要はない、と言ったし今でもそう思っている……。だがな、お前自らが望むものがあるならーー戦うしかない。戦って、戦ってーーいつかここへ戻って来い」

 

 その声には不器用な温かみが滲んでいた。

 

「戦え、ジル」

 

 重ねられた手から、彼の体温が伝わってくる。この男もまた孤独なのだ。復讐という名の地獄をたった一人で歩き続ける、孤独な戦士。

 

 私はこみ上げる熱いものを必死にこらえ、ただ彼の言葉をーーその温もりを心の奥深くに刻みつけるように小さく頷いた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

 頬を撫でる潮風がやけに生々しい。昨夜のクルーガーの不器用で、けれど力強い指先を思い出してしまって、一人顔に熱が集まるのが分かった。

 

 無意識に左手の薬指に触れる。これまでただの偽装のための小道具でしかなかったはずの冷たい金属が、今は昨夜の彼の体温を宿しているかのように、じわりと熱を持っている気がした。

 

(……本当に柄にもない)

 

 船の甲板の手すりに全体重を預けるように寄りかかり、どこまでも広がる青い海を睨みつける。

 この旅立ちの寂しさを紛らわすには、昨夜の記憶はあまりに甘く、そして切なすぎた。

 

「戦え」という言葉が呪いのように、そして救いのように私の心を締め付ける。

 

 ここはマーレからヒィズル国へ向かう船の上。見渡す限り、空と海が溶け合う青一色の世界。レベリオの煤けた空とは大違いだ。このどこまでも続く水平線は、まるで私の新しい門出を祝ってくれているみたいで……それと同時に、もう二度と後戻りはできないのかもしれないと静かに現実を突きつけてくる。

 

 ヒィズル国。その国名を聞くだけで、転生前のオタク心がむくむくと顔を出す。

 

 ここは原作じゃほとんど描かれなかった東洋の島国だ。あのミカサ・アッカーマンのルーツであり、マーレやパラディ島とは全く異なる歴史を歩んできた国。『進撃の巨人』ファンとして興味が尽きない聖地だ。

 

 スパイ任務だとか、体のいい国外追放だとか、そんなクソみたいな現実は一旦忘れてしまおう。

 今はただ未知の世界への期待に胸を躍らせていたい。一体どんな文化が、どんな人たちが、私を待っているんだろう。

 

 新天地で新たな価値を、私自身の生きる意味を見つけ出してやる。そんな思いをしていた。

 

「先生、ここにいらしたんですね」

 

 背後からのんびりした声がして振り返ると、ハンスが人の好い笑みを浮かべて立っていた。彼も今回のヒィズル派遣団の一員として、私に付いてきてくれている。彼の屈託のなさは、この息の詰まるような旅における唯一の救いだった。

 

「海、綺麗ですね。宝石みたいです」

 

「ね、本当に綺麗。吸い込まれそうだわ」

 

「はい……先生の瞳と同じ色ですね」

 

 真顔でとんでもないことをサラッと言う。

 

(……こいつ、人妻(わたし)を口説こうとしてんのか?妙に距離感近いし)

 

 言葉に詰まっていると、彼の隣に立つ二人の男が視界に入った。

 

 ああ、そうだ。この旅は決して物見遊山なんかじゃなかった。私の心を現実に引き戻すには、彼らの存在は十分すぎた。

 

「しかし、ヒィズルとはな。先の巨人大戦の敗戦国に、わざわざ俺たちが医療技術を教えに行ってやるとは。マーレも随分とお人好しだ」

 

 ほら、始まった。ホフマンが隠そうともしない侮蔑を込めて吐き捨てる。他国の船員が通り過ぎるたびに、わざとらしく大きな声でマーレの偉大さを語り、自分の存在を誇示しようとする姿はもはやマーレの恥ですらあった。

 

「ホフマン先生、ヒィズルはマーレの友好国ですよ。それに、彼の国では独自に発展した医術があると聞いています。我々が学ぶべき点も多いはず」

 

「若造は気楽で良いな。旅行気分だからそんな綺麗事が言える」

 

 ハンスが穏やかに、しかしはっきりと反論する。険悪になりかけた空気を察して、もう一人の男ラルスが明るい声で割って入った。

 

「まあまあ、お二人とも。船の上でまで喧嘩なさらずに。ヒィズルの地酒は美味いらしいですよ?着いたら美味い酒でも飲んで、仲良くやりましょうや」

 

 一人は、ヨーゼフ・ホフマン。マイヤー院長の息がかかった見るからに傲慢そうな男だ。その目は常に私に向けられ、何か落ち度はないかと探っている。お目付け役なのは見え見えだ。

 

 もう一人は、ラルス・ガリアード。人好きのする笑顔を浮かべた、お喋りな医療機器の技師だ。表向けは私が「ヒィズルの医療設備は旧式と聞きます。円滑な技術指導のためには、専門の技術者が不可欠です」とマイヤーに進言し、潜り込ませた男。

 そして裏の顔は革命軍の同志であり、エルディア人であった。長老からの指示を受け、ヒィズルでの諜報活動と拠点作りを担う重要な裏方だ。(ちなみにあの(アギト)の兄弟と関係があるのかは不明)

 

 しかし私の勘が告げている。この軽薄なほどの明るい男は有能なスパイであると同時に、長老が私に付けた「目」なのだろうと。

 

「技師ごときが口を挟むんじゃない」

 

「いやいや、技師だからこそ分かるんですよ。機械も人間も、油を差してやらないと上手く回らないってね。その油が美味い酒ってわけです!」

 

 つくづく、悪意と策謀に満ちた人選だと思う。マーレの目と革命軍の目。これから先、私の一挙手一投足が双方から見られているのだ。息が詰まるような構図に、私は内心で乾いた笑いを浮かべた。

 

 船旅は一週間ほど続いた。

 最初の数日はホフマンの嫌味とハンスの反論、そしてラルスの仲裁が繰り返されたが、代わり映えのしない船上生活は、その緊張感すらも凪いだ海のように穏やかにしていった。

 

 そして七日目の朝。水平線の向こうに、うっすらと陸地が見えてきた。

 

「見えますか、先生! あれがヒィズルです!」

 

 ハンスが子供みたいにはしゃいで指を差す。近寄るにつれて、その姿がはっきりと見えてきた。

 

 レベリオの角張った石造りの街並みとは全く違う。緩やかな曲線を描く屋根が波のように連なる優美な光景。港にはマーレでは見たこともない形の、色鮮やかな帆を張った船がいくつも停泊していた。

 香辛料のようなエキゾチックな匂いと魚の焼ける香ばしい匂いが混じり合って、潮風に乗ってくる。

 

 船が港に着くと、タラップの下にはすでに出迎えの集団が待っていた。その中心に立つ一人の女性の姿に私は思わず息を呑んだ。

 

 黒く艶やかな髪を優雅に結い上げ、豪奢な金糸の刺繍が施された絹の着物。凛として気品に満ちた立ち姿。彼女がこちらに手を振った途端、港の喧騒が嘘のように静まり、全ての視線が彼女一人に集まった。

 

「あれは……」

 

「身なりからしてアズマビト家の方じゃないでしょうか。わざわざ出迎えてくれるなんて親切ですね」

 

「アズマビト?ハンスさん、なんすかそれ?」ラルスが横から聞く。

 

「ヒィズル国の政治と経済を牛耳る一族です。特に彼の家が有する造船技術は世界でもトップクラスだとか」

 

 間違いない。キヨミ・アズマビト、その人だ。

 

(原作で見た時より、ずっと若くて綺麗ね……)

 

 この気品と瞳の奥に宿るしたたかな光は、確かに年を重ねれば、原作のように腹の読めない老獪な淑女になるだろう。

 

 やがて私たちがタラップを降りると、キヨミさんは穏やかな笑みを浮かべて一歩前に進み出た。その所作一つ一つが、洗練されていて無駄がない。

 

「ようこそ、ヒィズル国へ。マーレからの使節団の皆様を心より歓迎いたします。私はアズマビト家次期当主のキヨミと申します」

 

 鈴を転がすような、美しい声。なのに有無を言わせぬ威厳が体に響く。

 

 彼女はまっすぐ私の前に立つと、その涼やかな瞳でじっと私を見つめてきた。その瞳はただ私を見ているのではない。私の価値を、利用できるかどうかを瞬時に見極めようとしている。そんな鋭さがあった。

 

「貴女がジルケ・クルーガー先生ですね。お噂はかねがね」

 

 そう言って、キヨミはそっと右手を差し出した。白くしなやかな指先。握り返すと彼女の手は見た目よりもずっと力強く、そして温かかった。その温かさの奥に、鍛え上げられた鋼のような意志の強さを感じる。

 

 この人はただの深窓の令嬢ではない。一国の未来を背負う、したたかな女傑だ。

 

 その瞬間、不思議と私の心に光が差した。この女性はマーレ人のように血統や思想で縛られず、また革命軍の長老のように大義という名の狂気に憑かれてもいない。

 

 私が望むものはなんだろう。あの人には何が見えたのだろう。自分の事なのに私にはいまいちピンと来ていない――でも、彼女のその姿が教えてくれる。

 望むものは逃げているだけじゃ決して手に入らない。たとえそれが何であろうと、自らの意志と力で勝ち取るしかないのだと。

 

()()()、見ててね。私、頑張って戦ってみるわ……そして帰ってみせるから)

 

 エレンと一緒なら私の望むものが見つかるかもしれないーーなんて柄にもない事を考えながら、私は一人ヒィズルでの戦いに思いを馳せた。




次回からヒィズル編です。
原作でほとんど触れられていないのでほぼオリジナル国家みたいになりますがご了承ください。
また、更新ペースちょい落ちます。
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