穏林高校 怪奇譚   作:山下敬雄

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第10話 魅力的なその人

 先日、グループ内でちょっとした話題に上がった幻のイケメンの話を、今日も懲りずに始めた山﨑もより。仰々しくも得意気に話す彼女を、皆でそのイケメンの詳細について、徐々に徐々に、問い詰めていった結果────

 

 山﨑は、しきりに頬を指でかき、目は右上と左上を行ったり来たり泳ぎだす。はぐらかしたり、さっきまで言っていたことと食い違っていたり、どこか回答に困っているような様子を見せ始めた。

 

 なんと、山﨑はその者の面をはっきりと見た訳でもなく、その背姿しか見ていないのだと白状した。

 

 それなのに彼女は折れず自信満々に「めちゃくちゃイケメンを見た!」とのたまっていた、そんなどうしようもないオチであった。

 

 これではまるで実のない話の聞き損である。当然の如く、そんなトーンダウンしてしまった山﨑の元へと、彼女の友人たちから厳しいご指摘が入ってしまうが──

 

「モヨ、それ背中がイケメン風なだけじゃない。ひっぺがえしたオモテはある種のゴリラだったり」

 

「どの種のゴリラかによるな?」

 

「マウンテンゴリラ?」

 

「君はゴリラの種を知らない」

 

「なんの曲だよ。売れる気あんのか」

 

「2ndシングル-ゴリラはバナナをもう食べない」

 

「食べるな解散しろ」

 

「ごっ、ゴリラさんは、本当はやさしいらしいです……」

 

「たしかゴリラは人間より繊細ないきものだっていうな」

 

「じゃあこれ知ってる? ゴリラの学名はゴリラゴリラゴリラ」

 

「正気か」

 

「大丈夫、ゴリラゴリラゴリラは正気」

 

「ゴリラゴリラゴリラは正気だと……?」

 

「ゴリラゴリラゴリラが正気ならゴリラゴリラさんのお気持ちは?」

 

「大丈夫、ゴリラゴリラもゴリラゴリラゴリラも正気だったみたい」

 

「ちがうちがう、だ・か・ら、その人は背中からもうっ、なんというか、とにかく滲み出てるイケメンなの! ──っていかげんゴリラから離れろコラーー!!!」

 

 今怒鳴るように上げた山﨑もよりの大号令を受けて、七人一行は一箇所に集っていた椅子から立ち上がり、どこかに潜んでいるゴリラを見つけるべく、教室の中を散ってゆく。

 

 教室内を自在活発に動き出しては、各々好き勝手にターゲットを追いかけながら指を差す。

 

 やがて、元の席にもどり見つけた──金閣寺と中川は息を荒げるお互いの面に、激しく指を差し合った。

 

 

 

 

 

 脱線し収拾がつかなくなったゴリラの話題と無駄なお遊びを終えて、山﨑もよりが彼らグループに持ちかけてきていた一応の本題へとまた戻った。

 

「よし、じゃあ見つけたらそのイケメン、写真撮っちゃおうよ──パシャリ」

 

「あぁー、もうそれでいいな。この際、背中だけでもいいから。それで山﨑の無念を晴らすか」

 

「え、まじありがとう!! うんうんっ、無念ハラスハラス!!」

 

 中川が山﨑のためだと笑いながら、湊の案に賛成する。山﨑もまた活力を取り戻した様子で同調した。

 

「まるで珍獣扱いかよ。勝手に見つけておいて無念だとかは何言ってるか知らねぇが。──なんかやめとけよ、そういうの」

 

「なんだ金閣寺びびってんのか?」

 

 宗が弱腰をみせた金閣寺を揶揄(からか)うように言う。だが、多少揶揄われようとも金閣寺はそのまま動じずにつづけた。

 

「イケメン一人見つけるのに、びびるもくそもねぇよ。ただ……俺はお前らの小ボケに絡まれるような被害者を、積極的に増やしたくはないってのもあってな」

 

「「「あぁー、やきもち」」」

 

「ちげぇわ!」

 

「ちょっと何言ってるか分からない」

 

「それはッ、すまん……」

 

 その感情はやきもちでは断じてないが、同時に彼が何を言っているかも分からないものだ。

 

 要点の微妙に定まらないことをのたまった金閣寺は、阿部加奈に淡々とツッコまれた。そしてツッコまれたままに、さっき発したぼやけたその発言を、彼は反省したようだ。

 

 

 

 

 

「じゃ、てことで校内のイケメンを撮ってこよう」

 

「趣旨が変わってねぇか。その、がついてないだけで随分……」

 

 湊がそう言い一見、仕切り直したように見えたが、結局校内を探し撮りにいくことは変わっていない。だが、少しばかりさっきの話とイケメンという言葉の持つニュアンスが違うようだ。

 

 やんわりと趣旨がぶれているそのことを指摘した金閣寺は、突然、湊にスマホのカメラを向けられた。

 

 スマホに設定されたデフォルトのシャッター音が、一度、鳴り響いた。

 

「パシャリ──バヤ高イケメン珍図鑑第一号、1-D【金閣寺歩(カクジ)】ふふっ」

 

「はぁ? おい、何してくれてんだ、おい」

 

 不意打ちを食らった金閣寺は即座に反応し、許可なくいきなりスマホのカメラに撮られたことに抗議を開始するが。

 

「ちょうどいいスタート」

「まぁまぁのクオリティ」

「ちょうどいいハードル走」

 

 湊のスマホに保存された一枚の写真。その写り具合を確認すべく、顔々を湊の後ろ近くに詰めるように寄せていく。やがて、寄ってたかり鑑賞をし終えた奴らが、好き勝手なご感想を、一言、一言、次々と加え述べだした。

 

「後続が飛び越えること前提かよ……。おい、1-B【湊天(みなとそら)】、スタートさせねぇぞ、んなもん。んな企画。だいたい、バヤ高イケメンチン図鑑ってなんだよそのネーミン──っておい待てッ!!」

 

 

 結局、湊天が何気なく唱えたその〝バヤ高イケメン珍図鑑〟などの恐ろしい企画は、【第一号】に選ばれたとある男子生徒のみの仮登録に留まり、それ以上、実行には移されなかった。

 

 湊の悪ふざけは、そんな金閣寺からの激しい抵抗と説得もあってか、企画段階で頓挫されることとなった。

 

 平日の穏林高校、隙間すきまの休み時間に、七つの影が仲良く重なり集う。いつもの笑い合う彼らの声が、日の射す明るい教室に響いていく────。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼休みの教室。いつもの四人で机をかこみ飯を食べる。

 

 金閣寺歩、阿部加奈、柳しおり、富宮麗華。この四人で椅子を囲む。

 

 いたって普通の日々を送っている。今日もまた、すっかりナワバリのように陣取る左奥の窓際席、一年D組の教室で──

 

 

 金閣寺は昼飯がわりにしていたパンをちぎり己の口に頬張っていく。

 

 だが、突然、そのパンの欠片を摘んだ絆創膏の巻かれた指先に目を留めながら────彼は、ぼーっとし始めた。

 

「どうしたの(あゆむ)くん」

 

「いや、なんでもない?」

 

 いつもの四人で、こうして近く椅子と机を並べてすごす昼休みの時間。だが、こんなに静かな雰囲気だったものなのか。

 

 阿部加奈は、どちらかといえば普段は優等生タイプ。お笑いの知識やツボも豊富に心得ているものの。あまり不用意にはっちゃけたりはしないものだ。

 

 富宮麗華は、根っからの大人しいタイプ。積極的に騒いだりは滅多にしない。グループ皆の癒しのような存在だ。

 

 柳しおりは……そう──どこかミステリアスな。今見つめてくるその紫の瞳が、そうとても深い、底なしにも思えるほどの魅力に溢れていて。黒いその短めの髪が、とても爽やかに艶めいている。ミステリアスなだけでなく、いたずらっぽく、そう、こんな風に自然と笑いかけたり。

 

「そうだ、歩くん。今度やる演劇部の劇の死体役のことなんだけど。準備はいいかな」

 

「あぁー、なんだっけ。って死体役? 俺が?」

 

「どうも数が足りなくて、おねがい」

 

「あぁー……いいけど──って死体役のしかも数合わせかよ! ふざけんな、藁でも敷いとけ!」

 

 死体役の数合わせ、柳しおりから当然のように打診されたその役に、金閣寺歩は不服か、声のボリュームを上げた。

 

 すると、彼が柳しおりに怒った素振りをみせた隙に、阿部加奈が富宮麗華にひっそりと何かを耳打ちしだした。

 

「き、金閣寺さんなら、でっ、できるとおもう!」

 

「お、おぅ? ってそりゃ黙ってりゃ誰でもできる!! ってなに富宮に吹き込んでんだよ阿部……」

 

「がんばって」

 

 暗躍していたのがバレた阿部は悪びれる様子もなく、淡々と「がんばって」と彼に告げる。まるで棒読みの他人事だ。

 

「おう、じゃねぇよ。死体役がどうがんばんだよ。むしろ一番がんばっちゃ駄目なんだろそこは、がんばる死体ってなんだよ、ゾンビかおい。まったく……なぁ?」

 

 ただの死体役が頑張れといわれて頑張る要素など特段ない。阿部加奈の放ったたった一言から、考え得る意図をあらかたしゃぶり尽くした金閣寺は、呆れたようにその人に目を向けた。

 

「ふふ、期待してる。頑張って」

 

 問いかけられた柳は、金閣寺の鼻をつんと、そのしなやかな指先でつついた。

 

 施された手慣れたスキンシップに、金閣寺は茶髪をかきながら、照れ臭そうに反応した。

 

「おう──? ってだから、がんばんないんだろ。それに期待してる奴にフる役じゃねぇよ、ははは」

 

 さらりと冗談を言う柳に、さらりと返す金閣寺。期待してるなど意味のない言葉も、二人の間で、誘われる笑いに変わってゆく。

 

「飯抜きの役作りしてみたら」

 

「おっそれいいな。ってだから、がんばんねぇの」

 

「歩くん。舞台を舐めちゃだめだ、食べ過ぎるといざ本番で動けなくなるよ」

 

「それもそうか……。って動かねぇ!! 死体役ぅ!!」

 

「「「あはははは」」」

 

 重なり合う三人の笑い声が彼の耳に聞こえてくる。

 

 

(そうだ。こんな感じの──俺たちだった。ふざけあって、語りあって、疑うことはない。そんな普通の──心地いい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 困った時の雑用事とは、やはりこの男が請け負うものだ。柳しおりから劇での死体役の打診を受けた金閣寺歩は、通常授業が終わる放課後、その友人との約束を果たすべく演劇部の部室にやってきていた。

 

 金閣寺の友人である柳しおりは演劇部の部長を務め、部員たちからの厚い信頼をすでに得ている。気品を纏った容姿端麗な人物で、演技力は変幻自在の一級品と評されている。演劇部の顧問の先生からは、なんと自身がパイプのあるプロの劇団へと紹介・推薦されるほどに、その将来を気にかけられ熱望されているのだとか。

 

 そして今回、彼ら演劇部がリハーサルする劇はとあるミステリーもの。犯行現場には必ず血濡れた壺がひとつ置かれてあることから【壺隠れ】という題がつけられている。恐ろしい連続怪奇殺人事件の真相とその犯人を、柳しおり扮する一介の探偵が追いかけつづける物語だ。事件現場のシーンが幕とともに次々と切り替わっていき、その中の犠牲者の一人を今回、金閣寺歩が演じることになる。死体の数が足りないとはそういう意味であった。いくら台詞のない死体役でも同じ部員を使い回すわけにはいかない。そんな細部までこだわって作られているようだ。

 

「お疲れ」

 

「──! ……おう」

 

 流れていく台詞を耳に聞きながら、何かを考え耽り──天井を見つめていると、冷たい感覚が不意に彼を襲った。

 

 冷たいスポーツドリンクを寝転ぶ額に当てられている。仰向けで大の字に寝転んでいた死体役の出番は、気付けば終わっていたようだ。

 

 どうやらこれが今回の報酬らしい。金閣寺は起き上がり、柳しおりからそのドリンクの気遣いをありがたく受け取った。

 

「どう、歩くん。今回の経験で、少しは入部する気になったかな?」

 

「いきなりだな? はぁ、入部かあ。つっても、演技力の方がまだ課題かなぁなんて、ははは」

 

「君にはあるよ。演技力」

 

「俺に……? まさか。んなわけねぇだろ、ずっとそこで寝転んでただけだぞ」

 

 死体役で演技力など測れやしない。それがただの冗談やリップサービスだと分かり、もちろん金閣寺はいちいち間に受けはしなかった。

 

 それにしても、とても魅力的に見えてしまう。友人であっても、柳しおりという人物はまるで、髪や目、うなじ、その一つ一つのパーツが、どれも美しく磨きぬかれた贅沢な宝石をあしらえたように、輝きを放っている。

 

 演じては男の役も女の役もどんなに難しい役も、何かが憑依したように様になる。役にのめり込むいわゆる憑依型の役者は世に数多くいれど、演劇部の顧問の先生が評するには柳しおりはその中であっても比較し埋もれることのない別格であり、とりわけ異彩を放つほどのレベルらしい。

 

 演劇部の部員もすっかり柳しおりの魅せるそんな演技に心酔している。柳しおりに是非見てもらいたいという演技のチェック依頼が、部員たちから後を絶たない。

 

 それほどのオーラや魅力がその人には詰まり溢れんばかりに備わっている。そう言わざるを得ない。まるで皆が思い描く〝憧れ〟そのものが天から具現したような、柳しおりはそんなかけがえのない存在であった。

 

 金閣寺は、今もすっかり囲まれてしまった、部員たちと熱心に話す柳しおりの人気ぶりに、じっと目を凝らしながら────

 

「歩くん?」

 

「あ? ん? なんだ?」

 

「さっきから良くない視線、バレてるよ」

 

「な!? 別にんなことは」

 

「君は、やはり観察癖があるのかな?」

 

「観察癖? いやいや、ただ死体役が思いの外長くてぼーっとしてただけだろ」

 

 柳しおりは微笑みながら疑いの目を向けている。金閣寺がどういう目でその人のことを見ていたのか、もちろん問われたからといって、詳らかに話せるはずはなく。

 

 金閣寺は仰々しくも一つ大きなあくびを垂れながら、その場を誤魔化した。

 

「ふふっ。あ? ところで、ずっと気になっていたんだけど、それは?」

 

「あ? これは……」

 

 突然、何かに気になり近づいた柳しおりが、そこに突っ立つ金閣寺の左の指先に触れようとした。

 

 だが、金閣寺はその人の指先が絡む前に、自分の手を引っ込めてしまった。

 

「あぁ、まだちょっと治りが遅くてさ」

 

「ふぅん、──そう」

 

 左指に巻かれた絆創膏のことを金閣寺はそう慌てず淡々と説明する。

 

 すると、クールな仕草で構え考える、柳しおりの視線が突き刺さる。その紫のアメジストのような深い輝きを放つ瞳に一度でも目を留められると、何故か留まる──。ついつい見入ってしまう。

 

 だが、何度じっくりと拝み見ても、その色の真の価値をどこか解き明かせない。

 

 その目が見ているのは、表面ではないどこかもっと深くにあるもの──そう金閣寺は感じてしまった。

 

「あのぉー……ひょっとして、探偵役がぬけてない?」

 

「かもね、ふふっ」

 

 顎に手を当てていた探偵は、かぶっていたチェック柄の探偵帽を手に取った。どうやら柳しおりは、さっきの今まで演じていて目の前の茶髪の男子生徒のことを試していたようだ。

 

 今、口元を隠すようにその人は笑う。そのような笑い方さえ、その人の中にある一匙のお茶目さを表すようで、金閣寺にとっては好きな笑い方だった。

 

 柳しおりは笑っている。お得意の憑依型の演技を解いてみせて、今脱いだ探偵帽で上品かつ無邪気に笑う口元を隠しながら。

 

 同時に、白くて細いその喉元が、乾いた唾を飲み込むように、わずかに蠢いた────。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東山優(ひがしやますぐる)、穏林高校に在籍する三年生の彼は、文芸部に属する冴えない学生だ。誰にもとりわけて注目されない、それがこの学校の文芸部、ひいては彼のことであり、他に三人いたはずの部員もみんな知らぬ間に辞めてしまった。だが、彼だけは、今もなおそこに属しながら自身の小説を書き続けていた。

 

 彼の書き上げたものは、何か大きな出版社のコンクール賞にかかるわけでもない。箸にも棒にもかからないのが実情だ。しかしおかしい事にそれしか能がないもので、彼は、執着し何かを書き続けることだけには長けていた。

 

 しかし今日という日はいつもとは違う。長年日陰で無駄なインクを減らしながら燻っていた彼に、とある優秀なる編集者がついたのだ。もう彼は独りではない。

 

 東山優はいま完成したプロットを眺め、その出来栄えに、にやりと笑った。書き続けていたその筆を止めても、溢れんばかりに湧いてきた高揚感を止めることは彼自身にもできない。

 

 さっそく、この出来栄えをあの方に見て貰わなければならない。

 

 夕暮れの図書室で待つその待ち人の元へと、東山優は出来立ての原稿を握りしめ、カビ臭い部室を抜けて廊下を走り急いだ。

 

 赤い衣を身に纏い窓辺に佇む待ち人は、今やって来た慌ただしいその足音に振り向いた。

 

 すると、待ち人は柔らかに微笑みかける。紫の眼差しが、息を荒げては整える彼のことを見つけた。

 

「柳さん。これが次のプロットだ! あなたは天才だ! 僕の中にないものをこんなにもどんどんと高めてくれる! やはりあなたの助言どおりだ、あなたの勧めるあのミステリー作品の断片に手をかけてからというもの、まるで冴えた月の光をこの全身に浴びたように、自分でも信じられないくらいに筆先にのるアイデアが溢れて止まらないんだ」

 

「ふふっ、それはきみの才能だよ。木陰でひっそりと休んでいたところを、私がちょっと起こしてあげた、優くん、きみのね」

 

「あぁ! 僕にも眠っていた一抹の才能というものがあったのか! あったというのならばそれでいい! しかしそんなことはどうだっていい! だろう? さっそく読んでみてくれ! これはただの作品ではない、捧げる、あなたのための舞台なのだ!」

 

「────────うん。今回もよくできているね」

 

「だろうさ!」

 

「でも、いささか。これは、つまらない」

 

 柳しおりは受け取って読んでいたその原稿の束を破いた。

 

 白く散り散りと落ちていく。突然下されたまさかの残酷なまでの行為に、落ちたその塵、役立たずになった欠片を、必死に東山は地を這いかき集めた。

 

「なっ!? なにをするんだあああ!? そ、そんなはずはない。まさか……ッ────見捨てないでくれ!! 嫌だ!! またあの冷たい日陰の場所にもどってしまうのは!! それだけは!!」

 

 地を見下すその冷たい紫の視線が、彼をいたぶる。足元に転がっているのは、破り捨てられた足りぬ物語と、悲惨に足に縋りつき何かを乞う失格者の泣き面であった。

 

 静かにしゃがみゆく。その人は、目の前の首元にそのしなやかな手を伸ばす。そして、息が詰まりそうに留められていた、男の白シャツの一番上のボタンを、そっと一つ一つ外していく。

 

「たとえきみがオモテで満足しても、私はそのウラで満足しない。大輪の花を咲かせるためには、時に、間違った道を進もうとするいけない枝葉の剪定をしないといけない────。大丈夫、きみがまだ囚われている、その青春を捧げた小説という真っ直ぐで淡くて小さな枠組み。それを私が壊してあげよう、もっと……心ゆくまで」

 

 彼の汗ばむうなじを過ぎた白いその手が、肩に置かれる。やがて、耳元で囁かれるその甘美な声には抗えない。

 

 黒い髪の匂いが近くあやしく薫る。

 

 寄り添う月のように美しい化身が、冴えない彼の心を鷲掴み、熱く芯までくすぐった。

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