穏林高校 怪奇譚   作:山下敬雄

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第12話 彼女は化物

『カツん────』

 

 小さな音が今、木目の上へとかるく落ち、さっきまで互いの舌と舌を結び合っていた小さな塊が、赤く濡れて、そこに黙り佇む。

 

 静まる壇上で、寄せ合っていた体は、離れた。

 

 重なり合っていたスポットライトの光が遠ざかる足音に移ろい、絡まっていた二人の影を分かつ。

 

「私の舌を噛むなんて。悪いことを、ふふふ」

 

「だっ、誰だ……オマエ……」

 

「ふふふふふ」

 

 舞台衣装のベージュのコートを羽織る。後ろへと突き飛ばされた美しき化物は、垂れ下げた舌先に滴る赤い水滴を平手にゆっくりと拭いながら、微笑う。すすり嗤うその行為を抑えられない。なおも静かにそこに突っ立ち、その存在はワラいつづけている。

 

 後ずさった彼は、未だ痛み痺れるその舌で言を放ち、それが誰なのか問うていた。しかし答えは見つからない。探偵役の衣装を見に纏い不気味に笑う柳しおりの面相がそこにあるだけだ。何故そんなことを咄嗟にも問うてしまったのか。彼は動転し震える己の黒目を凝らしていた。するとアメジストのようにミステリアスで、妖しい紫の眼、艶めく爽やかな黒髪のショート、その月光のような白肌、長くてしなやかなその指つき、柳しおりという人物を構成する美しきそれらがどこか、今は合わぬそれぞれの欠片をかき集め合わせたように、どこかチグハグに映って彼の視界に不快にぼやけて見えた。

 

「……!」

 

 紫の眼光、吊り上がる口角、あやしい佇まい、まるで面相の定まらない〝混沌〟に、じっと見られている。金閣寺歩は背筋まで凍らせるような目の前の冷たく歪な視線を嫌い、訳も分からずにその場を駆けて逃げ出してしまった。

 

 駆けてゆく、駆けてゆく、ソイツから背を見せ、舞台袖の中を急ぎ脱してただただ出口を求めていく。

 

 やがて、息を切らしいつしか躍り出た暗中に、突然、天から光が差し込んだ。

 

 眩しい、その目を開けると──なぜかまた同じ壇上の舞台にもどってきている。気味が悪くて見たくもなかったソイツが、舞台上でさっきと同じように笑っている。

 

「……!? ……くそッッ!!!」

 

 対面した再度付き纏うソイツの絡みつく眼差しに、ゾッと肝を冷やした金閣寺は、鬱陶しい視線を顔を振り切り払い、もう一度舞台袖を引き返し急ぎ逃げていく。

 

 しかし、再び暗中を抜けた先は────今度は校舎の中になぜか迷い込んでいる。穏林高校の校舎とは直接繋がらない別館の体育館から外へと確かに繰り出したはずなのに。しかも、彼が迷い込んだこの校舎は、窓の大きさ、教室の扉、褪せた床の色、鼻腔に流れるカビ臭い空気──ありとあらゆるところまで、彼の知らない雰囲気、彼の知らないものであった。

 

 明らかに穏林高校とは異なる様相と気味に、駆けていた金閣寺歩はその足を止め、得体の知れない恐怖の只中に、怯え立ち止まっていた。

 

『なにをそんなに恐れている、きみは。せっかく繋がれたというのに』

 

 いきなりどこからか聞こえた声に、金閣寺は前後左右、狼狽えるように確認するが誰もいない。

 

『きみをとめたい、きみを誘いたい、きみを支配するその恐怖を(ほど)きたい』

 

 頭に念仏のようにヤツの声が聞こえる。頭が痛い、思考がまどろむ。茶髪を掻きむしっても、纏わりつくその声と実態のない気配を振りほどけない。

 

 囁くように流れつづける妖しげな声に、おかしくなりそうな頭をかかえながら、金閣寺はふらつく体を引き摺るように歩いては、どこかへと逃げようとする。

 

 すると、向かっていた暗がりの廊下から雨音が聞こえた。

 

ぽつ、ぽつ、ぽつ────

 

 速まる音は外の雨足ではない。反響する縦横無尽に跳ね回る音の正体が、暗がりの向こうから彼の目に怒涛のように流れ込んできた。

 

 碁石を打ちつけるような音を重ね立て騒ぐ、廊下の窓、天井までを打ち鳴らし跳ね回る数多のボタンの風が、押し寄せてきた。

 

 金閣寺は慌てて進んでいた道を引き返す。そして見えてきた曲がり角へと、走るその身を転がり込むように流れた。

 

 イナゴのように大量で押し寄せた、けたたましい音が廊下の行き止まりの壁にぶつかり鳴り響く。

 

 青い段差を勢い余り転がり落ちていった彼は、階段の踊り場の壁へと衝突した。

 

 壁にぶつかり痛む後頭部を抑えながら、鳴り止んだ上階の音に、恐怖と緊張で詰まっていた息をやっと吐く。

 

 何も分からずただ押し寄せてきた恐怖の集合体から彼はただただ条件反射するように必死に逃れた。階段を落ちていった膝や、体、全身の痛みが、べったりと床に座り吐く落ち着かないその呼吸音と共に、鈍く引いていく。

 

 冷たい壁際にもたれ、青い床の踊り場に座り込んでいた金閣寺歩は、まだ鬱陶しくも尾を引く体の痛みと酷い頭の酔いに、ぼやける己の意識をそれでもなんとか取り戻していく。

 

 やけに、右肩側が重い────

 

 身を潜め休めていた金閣寺はそっと、今、気になった自分の身の右方に視線を下げた。

 

 その本来赤い右肩には、びっしりと知らぬボタンたちが縫い付いていた。

 

『チカチカチカチカチカ……』

 

 嗤うようにイマ蠢きざわめいた、赤袖を覆い隠すほどのボタンの集合体に、彼はその力ない目を見開いた。

 

 男の情けない悲鳴が、褪せた青い階段に、叫びこだました────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目の当たりにした身の毛のよだつ生理的な嫌悪感に、息を荒げる彼は己のその右肩を滅茶苦茶に掻きむしった。

 

 皮膚や肉にまでいつの間にか縫われ食い込んだ奇妙な感覚が、『ぷつぷつ』と千切れる。肩を、袖を、肌を必死に掻きむしり、彼の右肩に集った異物の集合体が鱗のように剥がれ落ちてゆく。

 

 血がシャツにブレザーの袖にまで滲み浮かぶ。払い落ちていく謎の黒い毛、床に落ちたボタンの踊り鳴るような音から、逃げるように彼は青ざめた表情で、階段を下った。

 

 耳を閉じてもヤツの声が理解不能な念仏を唱え勝手に聞こえてくる。いつまでも寒気のする奇妙な感覚が纏わりつき追ってきている。

 

 不快な囁きを置き去りにするように急いで階段を降りていく。しかし彼があてもなく降りゆくその先は、底なしのように無限につづく。

 

 降りていた階段の中途で突然足を止めた金閣寺歩は、手すりに掴まり階段の下を見つめた。

 

 下方で蠢きざわめくただならぬ悪寒に、上へと慌て、震える身を反転させ彼は引き返した。

 

『なるほど、きみという人間が醜く顔を顰めるほどに、僕という存在がきみに馴染む。きみがとめるのは僕だけでいい。そうだ、こっちだ、底じゃない、きみの進むべきは──ふふふ』

 

 頭を左右に激しく振り、幾度も幾度も勝手にまやかしを囁く薄気味の悪いその声を振り払う。

 

 耳内にこびりつくソイツの声に気が狂いそうになる。恐怖と不気味の板挟みに、寒い肌から汗がだくだくと絞り出され、ただならぬ焦燥が募る。

 

 やがて、焦燥に駆り立てられ逃れようと、逃れようと、ひた走る廊下で、また────でくわした。

 

「ウワァッ!??」

 

 進む暗がりから突然現れた、ベージュのコートを羽織る柳しおりらしき姿に、後ろへと、金閣寺は情けなく尻餅を着いた。

 

 ゆっくりと指を一つ一つ折り畳み、手招くソイツの妖しい手つきに、茶髪の彼は驚き叫び恐怖する。

 

 天にぶらさがる蛍光灯がチカチカと点滅を繰り返す。

 

「怯えれば怯えるほどに魅力的なもの、──ナァーんだ?」

 

 ソイツは形相を歪めて嗤う。さらに暗中に点滅する光のリズムに合わせて、見知らぬ顔から見知らぬ顔に瞬間瞬間、変貌していく。おどけた本性を表した。

 

「拒めば拒むほどに苛立たせるもの、──ナァーんだ!」

 

 野太い男の声に甲高い女の声、大人しい女の声に馴れ馴れしい男の声、変わるがわるに七変化させ、ソイツは語気を強めてのたまう。狂った狂った本性を露わにした。

 

 今、金閣寺歩の視界に飛び込んだ姿、そこに立っているのは、もはや彼の知る柳しおりではなかった。

 

 明滅する闇の狭間に浮かび上がる────

 

 両手を重ね合わせたその小さな器には、溢れんばかりの数多のボタンたちが蠢きつづける。『チカチカ……カツカツん──』と奇怪な鳴き声を上げながら、まるで口を閉じたまま、ワラいつづけている。

 

 顎先から口元、口元から──金閣寺は下からなめるように、おそるおそるも、人の目に到底理解不能なその明滅するシルエットを見上げていく。

 

 そこに突っ立ちあるのは────

 

 足底までつくほどに長く伸びつづける漆黒の髪、

 

 白紙のように嘘めいた肌艶をした、

 

 誰かも知らない誰でもない【無貌(むぼう)の化物】の姿であった。

 

 

 

 

 

 

 

 真っ白な顔のキャンバスに、ボタンをひとつひとつその手で取り付けていく。

 

 ボタンを付ける度にその肌は生命を帯びたように血色が良くなる、やがて、最後に目に留めたそのボタンが紫の冷たい眼光を宿した。

 

 彼の見知った柳しおりなるものが、そこに完成していった。

 

『怯えれば怯えるほどに、僕の存在を際立たせる。拒めば拒むほどに、真なる感情を呼び覚ます。きみが求めるほどに美しさを増し、やがて禁忌にも触れることができる。さぁ、こっちに────もう一度、あの、つづきをシよう、ふふふふ』

 

 まぎれもない柳しおりの面がそこで微笑んでいる。完璧なその顔が、明滅する電光に照らされている。

 

 こんな恐ろしくも美しい化物に一介の存在である彼が立ち向かうことはできない。蛇に睨まれたように、体を動かすことができない。逃れようとする意思さえも自由でなく、見つめる眼光、その魅力に溶かされ絡め取られてしまう。

 

 一歩、一歩、近づいてくる。美しき化身がいる。まるで曇りなき満月のように、その面立ち、存在そのものが煌々と輝いている。

 

 その見入る白肌の輝きと見つめる紫眼の妖気に、彼もまた誘われる。一歩、一歩、その足を前へと踏み出してゆく。

 

 もはや逃れることに意味はない。まどろむ思考に、囁く声にしたがい、柳しおりともう一度重なり合うことが至上だと知る。

 

 逃げることもない、迷うこともない、ただ身を委ね、彼は前へ進むだけでいい。

 

 それ以外の選択肢など、どこにもなく────

 

 その時、彼の左指が〝ズキズキ〟と疼いた。

 

 疼いたこの指の痛みを彼はどこか知っている。それは彼が恐怖と対面した時に色濃くあらわれるものだ。何故、今まで剥がしもせずにそのことを忘れていたのか。

 

 選択肢はある。与えられている。自らのその手の中に。もっと恐ろしく渦巻き続けるものが自分の中にはある。

 

 彼は何も覚悟を決めたわけではない。ただ、楽な方に己の運命なるものを委ねる前に、一度、確かめてみたかった。

 

 彼は纏う衣ごと引き寄せられていた、己の足を止める。

 

 一歩、一歩、ずけずけと足音を立てては近付き、一つ、一つの電灯に照らされた暗い道を闊歩する美しき化身。

 

 彼の視界に顕れたその完璧な面相に向かい左の指を差し、示した。

 

 まどろむあやふやな思考の中、ズキズキと響くその痛みだけを頼りに、金閣寺歩は今その封を思い切って引き剥がした。

 

 待ち侘びていたかのように、怒涛の風が吹き出る。

 

 完璧だった柳しおりの顔は吹く風に歪み、白肌に癒着したボタンは流され、その真の本性が露わになる。

 

 やはり、彼女は化物だ。頭に澱む、目に霞む、まやかしを吹き飛ばした金閣寺歩は腹を括った。

 

 指先から吹く風は止まらない。目の前の美しきその恐怖を取り除くまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 廊下を駆け抜けた強風に、ベージュのコートは彼方へと飛ばされ、ひどく乱れたその髪を、彼女は今おもむろにかきあげた。

 

 荒れていた風がしずかに止む。

 

 足元に落ちていた数多のボタン群の中から紫のボタンを一つ摘み、彼女は自分の目元をゆっくりとなぞった。長い睫毛の下に妖しき眼光が、灯る。

 

「まるで理性のない風、それか、きみが恐れ隠していたものは。さぁ、きみを脅かすものはもうここにはない。僕がきみについたその穢れを完全に取り払ってあげよう」

 

 そのこぼれ落ちていた美貌面相を整え留めた彼女は、恐ろしい風が凪いだ廊下を、また進みだした。

 

 点った同じ電灯の下、足音を止める。そして、まるで愛しいものに向けるようにそのしなやかな手を伸ばし、

 

 怯え後ずさる彼のその汗ばむ首を、片手で掴みながら持ち上げる。人間の枠を逸脱したそんな力で、悠々と、一介の男子高校生のことを彼女は持ち上げた。

 

 とても強い力で掴まれた首が絞まる。金閣寺歩は呻めき苦しみながらも、まだ、じたばたとその身でもがく。

 

「大丈夫、殺したりしない。それどころか、きみとぼくは唯一、一つになることができるんだ。オモテとウラの世界がぴったりと重なり合う、こんなにも素晴らしいことはない。だから、そんなものは捨ててッ、僕ともっと仲良くなろう!!!」

 

 もがきつづけた金閣寺の身は、彼女が片手でかかげたその足の浮くほどの高さから、床へと激しく突き飛ばされた。

 

 深く爪が食い込み引っ掻かれた右手の甲に滲んだ赤を、柳しおりなるものは、だらりと出した己の舌先で舐めずり、微笑った。

 

 激しく背を打ち、廊下に倒れた金閣寺はなんとか立ち上がる。

 

 そして彼はよろめきながらも、背の痛みを堪え、酷く荒げた息遣いでもう一度、左の指を差した。

 

 だが、巻きついていた絆創膏はもうその指先にはない。

 

 再びあの風を呼ぶ術など金閣寺歩は知らない。

 

 もしかすると絆創膏を引き剥がすという恐ろしい行為そのものが、彼の中の奇怪なトリガー代わりになっていたことに、今更に気付いてしまった。

 

 そんなことに気付いたからといって、どうにもならない。焦燥に駆られた金閣寺は必死に、柳しおりなるものに向かい、ただただその左指を突き刺すように差し示しつづけた。

 

 そんな彼の無様な様を見て、柳しおりなるものは、また嗤った。

 

 すると、急に金閣寺の息が詰まった。

 

 何かが喉元に張り付いて離れない。ソレが、喉を覆う皮膚から侵入しめり込もうとしている。ボタンのように縫い付け留められた血色のソレを、手で掴み金閣寺は必死に拒む。

 

 だが、彼の汗ばんだ指先を引き剥がし、血色のボタンは、喉から彼の中へと入っていった。

 

 息が詰まる、息ができない。得体の知れない異物が彼の体の奥に留まり、蝕もうとする。

 

 汗が流れる。涎が滴る。首を爪で掻きむしる。

 

 声にぬらない詰まる鳴き声で、酷く悶え苦しみながらも、彼は漸く、己の口からソレを吐き出した。

 

 吐瀉物が床を汚す。その反応とともに、彼を苦しめていた血色のボタンが一つ、床に落ちた。

 

 酷く体力を消耗した金閣寺は、中腰の姿勢で汚れた地面を見ていた、その重い首を上げた。

 

「こぼすなんてダメじゃないか。じゃあ、もう一度────」

 

 数多の血色のボタンが、柳しおりなるものの、周りに浮かぶ。

 

 彼が必死に抗い吐き出した気になっていた恐怖など、ほんの欠片にすぎないとでもいうのか。

 

 今、目の前に披露された想像を絶する赤い赤い恐怖の量を、飲み込むことなどできやしない。

 

 息の詰まる苦悶の色さえも塗り替える、赤い赤いその恐怖。

 

 美しい彼女の面が狂気の笑みを浮かべながら、露わになったさらなる恐怖に、彼は絶望する。

 

 無力に指を差したまま、彼は突っ立つ。

 

 彼の面は汗にまみれながら青ざめる。

 

 全身で震え味わうのは絶望という名の極大の恐怖。そのただならぬ色が、金閣寺歩の面相にじわりと滲み浮かび上がっていく────。

 

 

 

 

 

 

 

 

 逆立ち伸びた黒髪が揺らめく、紫の瞳は獲物の息の根を止めるほどの眼光を放ち、浮かぶ幾多の血色のボタンは逃れられない恐怖を表している。

 

 その赤い赤い恐怖の数を、美しく佇み嗤う存在を、風に吹き飛ばすことはできない。

 

 震える彼の左指の先には、風は起こらない。

 

 形だけ見せたちっぽけな勇気や抵抗など、この舞台では意味を成さない。

 

 もう打ち破ることのできない目の前の恐怖に、彼が縋る術はなく絶望の色を黒い瞳に宿していった、その時────

 

 柳しおりなるものの周りに、これ見よがしに浮かんでいた赤い赤い軍勢が、一斉に弾け飛んだ。

 

 何が起こったのか。

 

 彼の真横から突如飛び出した黄色い風が、何かが乗り移ったように跳ねまわり、なんと、浮かんで待機していた血色のボタン、その全てを弾き落としたのだ。

 

 何が起こったのか分からない。だが何であったとしても──

 

 足元に転がってきた金色の欠片を握りしめ、金閣寺は薄ら笑いから驚いた目に変わった彼女の隙を見て、走った。

 

 前へ前へとよろめきながらも猛進した彼の身は、柳しおりなるものの面を、前のめりに殴りつけた。

 

 なけなしの力を振り絞り、金閣寺歩は前を疾る己の左の拳を、振り抜いた。

 

 とらえた美しき面が歪み、遠くへ吹き飛んでいく。廊下に背を打ち付けながら、静まり返る。

 

 だが、今倒れた柳しおりなるものは、背を床についたまま手を使わずに、不思議な力でゆっくりと起き上がっていく。

 

 疲弊した金閣寺歩は、もはや、立ち上がれない。殴りつけた勢いのまま前のめりに倒れ、冷たい床に臥した。

 

「殴られるのなんて、死んでからもはじめてだ……。ふふふふ、まだまだきみに染みついた穢れが抜けていないようだ。ふふふ、だがもう少しだ。本当にきみは、僕を──ア?」

 

 柳しおりなるものは、痛む右の頬を愛おしそうに撫でた。しかし、今撫でたその手の感触に、何かがつっかえた。

 

 変哲のない金色のボタンが一つ、彼女の頬、その肌に留められていた。そのなんてことのない一つのボタンを、外してしまったその時──

 

 ほんの僅かな綻びから風穴が空いたかのように、突然、風が吹き出す。ボタンを外した右の頬から崩れていく、彼女の顔がかわるがわる面相を変えながら醜く崩壊していく。

 

 生気のあったその美しい目が、無機質な紫のボタンへと変貌する。内側から吹く激しく奇妙な風音は止まらず、その肌から柳しおりなるものの容貌を構成していた、ボタンの数々がこぼれおちてゆく。

 

 いくら落ちたものをかき集めても、それ以上に落ちてゆく。その身の内側に蓄えていたカラフルなボタンの数々が、風に吹き出て、散乱する。

 

 頭を抱えて髪を乱しながら、風船のようにその化物の輪郭が萎んでいく。

 

 それでも執念へと前へと這う。廊下を前へ、前へと、這いながら、尻餅をつき後ずさる彼の右袖を掴もうとした。

 

 だが、縋りつこうとした穢れたその手は届かない──

 

 はがれ落ちた爪先は五つのボタンとなり、ぽとりと落ち、ミイラのように痩せこけた化物の手が、実体を保たずに、やがて黒い気となり霧散していく。

 

 

 やがて、手を伸ばし悶え苦しむ人の形をした姿は、消えてゆく。

 

 金閣寺歩は、必死に恐ろしい化物の手から逃れた。

 

 荒げたその呼吸音さえ、『カツんカツん』と鳴り響きつづける音の中に、潜みまどろんでいく。

 

 狂ったように激しく明滅を繰り返す電灯の下、彼の視界はかすれ、ぼやけゆく。

 

 もはや、開くその瞼すら重く、冷たい床が濡れた体をさらに冷やし、その冷気に同化していくようだ。

 

 冷たい、冷たい、朦朧とした意識を彷徨う中、

 

 黒い傘をさし、激しく舞うボタンの雨に打たれながら、近づく一人の影が────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 暗がりにオちた深い意識に、白い光がさす。

 

 白くぼやけていく視界が明けてゆき、やがて色付いてゆく。目が覚めるとそこには────

 

 冷たい廊下、だが、右の頬はあたたかく。白い絹を見上げ辿っていくと、黒く流れた長い艶髪。

 

 紫のかがやきと、天と地で今、目が合った。

 

 そんなお目覚めの彼を見つめて、上から見守っていた彼女がつぶやいた。

 

「おはよう、金閣寺歩くん」

 

「おは、よう……? 藤乃ぉ……春さん……?」

 

 紫の眼をじっと見下げ、そこにいたのは同じクラスの女子生徒、藤乃春だった。

 

 切れかけの頼りない電灯があやふやな光で照らす廊下の中、彼女の膝の上で、金閣寺歩は目覚めていた。

 

 金閣寺はそのことに気付き、借りてしまっていた彼女の膝の上から頭を起こした。

 

「あなたならまた、剥がすんじゃないかと思っていたわ」

 

 そう藤乃春は呟く。

 

 剥がすものといえば──金閣寺は、ふと、その目を見下げた。彼の左の人差し指には新たな【絆創膏】が巻かれてあった。きっと、彼女がまたサービスをしてくれたのだろう。

 

 床にだらしなく尻を着けたままでいた金閣寺は、己の顔を上げて、正座をしたままの藤乃の顔をもう一度見た。

 

 だが、すぐに返す言葉は見つからず。状況をまだ飲み込めずにいた金閣寺は、見つめていた視線を外し、とりあえず辺りを見回した。

 

 廊下の彼方暗がりの方には、1-Dと書かれたプレートが見える。A組、B組、C組と一年生階の教室が同じよう暗がりに静まる中、そんな彼の見慣れたD組の教室から明るい光が漏れているのを見つけた。

 

 金閣寺は立ち上がり、光の射すその教室の方へと誘われるように歩いていく。

 

 やがて、彼は立ち止まり目撃する。

 

 明るい教室の中で、次々と眠りから目覚めていく生徒たちがいる、そんな不思議で突飛もない光景を目の当たりにしてしまった。

 

 目覚めていく生徒の中には、山﨑もよりや湊天の姿、宗海斗や中川透の姿までそこにあった。

 

 目覚めたみんなも状況が分からずに、どうやらひどく困惑しているようだ。

 

 そして、廊下に突っ立って覗き見ていた茶髪の彼の視線に気付いたのか、彼の見知った仲間たちが無邪気に手を振っている。

 

 どこか久々に彼らに会ったような気もする。金閣寺は安堵し、何故かこぼれそうになったものを、開いていた己の両手を握りしめ、ぐっと堪えた。

 

 あの美学生、柳しおりが何だったのか分からない。今回、藤乃もあの恐ろしい化物の作り出す何かに巻き込まれてしまっていたのか。何故、彼の友人たちや、穏林高校の生徒たちがここにいるのか。

 

 今となっては、彼のおぼろげなその記憶では、とても判別がつかない。

 

 金閣寺歩には結局分からない。自分が助かったことや、その身に酷く経験したことさえ。ただ、彼は並ぶ友人たちの顔ぶれに混じり、いつもの笑みを浮かべていく。

 

 そんな夜の校舎の一室が明るくざわめているのを、傍目に眺めていた紫の眼差しが、今、前を向く。そして、手に持った黒い番傘を開きながら、彼女は静かに廊下を渡り始めた。

 

 仄かに光照らされた廊下を流れてゆく黒い毛先が、やがて、遮る1-Dの白いドアの向こうに見えなくなり、どこかへとまた消えてゆく。

 

 金閣寺は、今さらりと流れていったような気配に振り返った。だが、そこには何もない。ただ、教室のドアから漏れ出た光が、暗闇に横たわるように、ぼやけ射しているだけであった。

 

 また騒ぐ仲間の声に呼ばれた彼は、とても疲れた欠伸をしながら、その呼び声に振り返った。

 

 

 

 

 破れた赤い右袖に留まる、くすんだ金色のボタンが、ひとつ、

 

 『チカっ』と、静かに音を鳴らし、揺らめいた────

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