羽音は誰にも届かず 作:パピヨン
翌朝、透花はいつもより早く登校した。昨日の出来事が、頭の中をまだ離れなかった。
──命を救えなかった。
──自分の力では、何もできなかった。
肩に乗せたカバンが重く感じるのは、教科書のせいではない。歩きながらふと見上げた空は、晴れているのにどこか遠かった。
「……透花?」
校門の前で声をかけられて、透花は立ち止まった。振り向けば、そこには樹花がいた。いつも通り制服のリボンは少し曲がっていて、髪も跳ねている。けれど、その目だけは真っ直ぐだった。
「昨日、あの後……どこ行ってたの?」
問いかける声は柔らかいが、隠せない心配がにじんでいた。透花は返事に困って、小さく首を横に振る。
「……少しだけ、外にいたの。ごめん、心配かけて」
「ううん、でも……泣いてたでしょ?」
透花は言葉に詰まる。目をそらそうとしたが、樹花はそれを許さなかった。
「……私、何もできないけど。でも……昨日のこと、誰かに話さないと、透花、壊れちゃうよ」
その一言が、胸の奥に突き刺さった。
──壊れる。
それは、透花が誰よりも恐れていたことだった。
今の絶妙なバランスのもとに成り立つこの平穏が、自身の力不足で破壊されようとしている。
誰にも話せず、ただ自分の中で抱えていたものが、もう限界なのかもしれない。
「……誰かを、助けたかったのに」
「うん」
「でも、間に合わなかった……見つけたときには、もう……」
途切れ途切れに漏れた言葉を、樹花は黙って聞いていた。そして、何も言わず、透花の手をぎゅっと握った。
その温もりに、ようやく涙が流れた。
校庭の隅で、二人はしばらく立ち尽くしていた。通り過ぎる生徒たちはいたが、二人の小さな世界に、誰も踏み込まなかった。
* * *
放課後、透花は一人で帰路についた。樹花は「今日は一緒に帰らない」と言って、何やら職員室の方へ向かっていた。
日の傾きかけた住宅街を歩く。蝉の声が耳に残る中、ふと──視線を感じた。
振り返る。
街路樹の陰。電柱の先。視界の端に、確かに誰かの姿があった。女性だった。制服ではない。長い髪、静かな佇まい。どこかで、見たことがある──
──冴子先輩?
思わず名前を呟いた瞬間、その姿は角を曲がって消えた。
追いかけるべきか、迷った。けれど足は動かない。
(……なんで、今……?)
かつての先輩。行方不明とされていた人が、なぜこんな場所に? いや、本当に冴子先輩だったのか?
「透花ちゃん……?」
背後から再び声がした。今度は、加賀美だった。
「よかった、まだ帰ってなかったんだ。……昨日の件、少し話したいことがあって」
透花は最後にもう一度だけ、先ほど冴子がいた路地を見た。しかし、そこにはもう誰もいなかった。
──見間違いか、それとも。
揺れる想いを胸に抱えながら、彼女は加賀美の方へと歩き出した。
加賀美に導かれ、静かなカフェの奥の席へと通された透花。窓際の席には、既に一人の青年が腰掛けていた。その佇まいは、変わらず堂々としていて、何もかもを見通すような目をしている。
「……よく来たな」
静かに告げた天道総司は、珈琲のカップを傾けたまま、わずかに口元だけを動かした。けれど、その声音には、どこか今までにない温度があった。
「昨日のこと……知ってたんですね」
透花が問いかけると、天道は一度だけ頷いた。
「必要な情報は入ってくる。だが、お前がどう感じたかは、誰かが教えるものではない」
彼の言葉は、慰めでも説教でもなかった。ただ、静かに彼女の存在を肯定するものだった。
「……助けられませんでした。間に合わなかったんです。あの子も、きっと……怖かったと思います」
俯きかけた透花に、天道は言葉を投げた。
「人を助けるというのは、簡単なことじゃない。誰かを救うということは、他の誰かの選択を奪うこともある。それでもやるかどうかを、問われるだけだ」
言葉に力はなかった。しかし、その言葉の意味は、深く、重い。
加賀美は、隣でそのやりとりを黙って見守っていた。
「お前は……お前のやり方で進め。迷った時は、思い出せばいい。お前が信じるものを」
天道はそう言い残し、立ち上がった。カップにはまだ半分ほどの珈琲が残っていたが、未練もなく、彼は背を向ける。
「また何かあれば訪ねてくるといい。樹花をよろしく頼む」
「あっ、おい待てよ天道!」
バタバタと立ち上がる加賀美を残し、天道はゆっくりとカフェの出口へ向かった。
その背中を、透花は黙って見送っていた。背を向けてなお、彼の言葉が胸の奥で響いているようだった。
カフェを後にした透花は、加賀美のあとを小走りで追いながら、心の奥に残るざらついた感情を無理やり押し込めていた。
ほどなくして、加賀美に追いついた。どうやら天道のことは見失ってしまったらしい。
これで良かったんだろうか。
私は、ちゃんと命と向き合えたんだろうか――。
「……なあ、透花ちゃん」
「…透花でいいですよ。天道さんに対してみたいな感じで」
先を歩いていた加賀美が、ふいに足を止めて振り返った。
その表情には、どこか困ったような、けれど温かい眼差しが浮かんでいる。
「……責任、感じすぎんなよ。お前、ちゃんとやってた。俺、見てたから」
「……加賀美さん……」
「誰かが助けられなかった時、それを全部自分のせいにしてたら、きりがないよ。そうじゃなくて……そうじゃなくてさ。忘れないってことが、たぶん一番大事なんじゃないかな。死んだ人の分まで、生きる。お前が背負いすぎたら、きっとその人も悲しむ」
透花は言葉を返せなかった。
代わりに頷くと、胸の奥でつかえていたものが少しだけ溶けるような気がした。
不思議だった。
加賀美の言葉は、慰めでも説教でもない。けれど、ちゃんと心に届いた。
彼自身も、きっと何度も命と向き合ってきたからこそ、そんな言葉を持っているのだろう。
「……ありがとう、加賀美さん。私……、もう少しだけ頑張ってみます」
「おう。にしても、腹減ったな。帰りにどっか寄ってこうぜ。飯ぐらいおごってやる」
「遠慮しときます。というか、そっちこそ財布大丈夫なんですか?」
先ほどの店で、天道と透花の分まで払ったのを知っている。天道が指定するだけあって、中々に高価な店だった。
「ちぇっ、ばれたか。……って、おい、笑ったな?」
くすっと笑った透花の表情に、ようやくほんの少し、昨日までの日常の色が戻っていた。
だがその背後では、すでに新たな影が忍び寄っていた。
昨日、旧校舎で巻き起こった事件について、学校側は一切の言及を避けていた。
原因不明の事故――とだけ報道され、巻き込まれた生徒たちはすでに記憶処理を受け、亡くなった生徒についても「不慮の転落死」と処理された。
あまりにも静かな幕引きに、透花は言い知れぬ違和感を覚える。
(あの子の死が、こんな風に葬られてしまうなんて……)
誰かの犠牲の上で、保たれる日常がある。
リュミエールとして戦うこと、それはその日常のためだと信じてきた。
けれど、心のどこかで叫びたくなる。
(私は、まだ強くない。もっと強くならなきゃ……)
その思いは、風に吹かれる木の葉のように脆くも揺れていた。
――それでも。
歩き出した透花の背中は、昨日までのそれよりも、ほんの少しだけ、前を向いていた。
毎日投稿はそろそろきつくなってきてます。気長にお待ちください。