羽音は誰にも届かず 作:パピヨン
朝の教室は、ざわめきとともにいつもの空気を取り戻しつつあった。だが、白崎透花の心は、まだどこか引き裂かれたまま、音のない静寂に沈んでいた。
──助けられなかった命。
あの旧校舎での戦い、救えなかった生徒。あの子のことを思い出すたびに、胸の奥に重い石が落ちるようだった。
「……ごめん」
透花は小さく呟き、視線を落とした。教室の喧噪の中で、その声を拾う者は誰もいない。
そんな透花に、加賀美との言葉がふとよぎる。
――「お前があの場に駆けつけたことが、誰かを守る一歩だったって、俺は信じてる」
そして天道の、あの真っ直ぐすぎる視線も。
――「お前は、誰かのために動いた。その意味を忘れるな」
ゆっくりと息を吸い、吐く。
心の奥の痛みを完全に消すことはできない。でも、それでも――動かなければ、何も変わらない。
そんなとき、クラスの女子が声をひそめながら話しているのが耳に入った。
「ねえ、聞いた? また近くの中学生が行方不明になったって……」
「○○中の子でしょ? しかも、先々週も似たような失踪事件あったって……」
透花の目が、微かに見開かれた。
失踪事件。近隣で起きている不可解な出来事。しかも、それが複数回。何かがおかしい。
目線を本に向けるふりをしながら、透花は耳を澄ませる。場所は学園からそう遠くない、駅近くの雑居ビル周辺。目撃情報も曖昧で、保護者の間では心配の声が広がっているという。
透花は思い出していた。かつて、冴子の真実を調べると決めた日を。そして、樹花との平穏を守るために戦うと決めた日々を。
その原点を、もう一度見つめ直すべきなのかもしれない。
「……行こう」
教室を出て、職員室に向かう。放課後に外出するための許可を取り、駅前へ向かう算段を立てる。
誰かの命を背負うことに、もう怯えたくない。
──自分の中にある「恐れ」に打ち克つために。
透花は、再び動き出した。
雑居ビル周辺を一通り歩き、人気のない路地に立ったまま、透花は空を見上げていた。
手がかりはなかった。妙な胸騒ぎだけが、消えない。
「……焦っても、仕方ないよね」
唇を引き結び、歩き出す。
ちょうど通りに出たところで、目に入ったのは小さなレストランの看板だった。
Bistro La Salle(ビストロ・サル)──趣のある外観と、柔らかな灯り。
扉の前には、手書きのメニュー看板。その中には「本日のおすすめ:鯖のみそ煮定食」の文字が目立つように書かれている。
(たしか、加賀美さんがバイトしてるって言ってたっけ……)
透花はふと、加賀美から聞いた言葉を思い出す。
以前の雑談の中で、「あそこの鯖みそ、マジでうまいから」と加賀美が熱弁していたのを思い出し、透花は小さく笑ってしまった。
午後も遅くなったこともあり、少しだけ休もうと扉を押す。
店内に入ると、落ち着いた照明と温かみのある内装が迎えてくれた。カウンターの奥では、店員らしき女性が黙々と作業をしている。その繊細な横顔に、透花はふと目を留めた。
(……綺麗な人)
「いらっしゃいませ。ご注文は」
エプロン姿の先ほどの女性。少しぶっきらぼうな声と、どこか静謐な雰囲気を持ったその人に、透花は思わず目を奪われた。
「あ……じゃあおすすめの鯖みそでお願いします」
「かしこまりました。こちらどうぞ」
それだけ言うと、少女は黙って水を置き、注文を取りに戻っていった。
(なんだろう……どこか、似てる)
透花は、少女の背を見送りながら思った。言葉が少なくても、伝わるものがある。それは天道にも通じるものだった。
やがて運ばれてきた定食は、丁寧に盛り付けられていて、香りも見た目も食欲をそそるものだった。
一口、口に運ぶ。
(……おいしい)
素朴だけど、優しさのある味。誰かに「食べてほしい」と願って作られた、そんな料理だった。
料理を口に運びながら、ふとカウンター奥に目をやると、厨房にはエプロンを着けた天道総司の姿。変わらぬ無駄のない所作で、黙々と料理を仕上げていた。
天道はこちらを一瞥しただけで、特に声をかけてくるわけでもなく、再び作業へと戻った。
誰に見せるでもなく、誰に媚びるでもなく。
ただ、自分のなすべきことを完璧にやりきる男の姿がそこにあった。
(……この人は、変わらない。どこでも、誰の前でも)
それが、透花にはまぶしかった。
自分は、少しのことで揺れてしまう。迷って、後悔して、それでもまた立ち止まってしまう。
でも、彼は違う。
(――どんな恐ろしいことがあっても、常に前を向いている)
その背中を、透花は黙って見つめた。
目の前に運ばれた料理の湯気が、ほんの少し心をほぐしていく。
厨房からふと顔を上げた天道と視線が合い、無言のまま頷かれた。
それだけで、何かを認められたような気がして、透花の心にひと筋の光が射し込む。
(……わたしも、やるよ)
恐れはまだある。傷も、完全には癒えていない。
けれど、だからこそ。
堂々と前を向いて立つ者が、すぐそこにいる。
その背中を見て、透花は、もう一度だけ拳を握った。
(……そういえば、なんであの人ここにいるんだろう)
それはそれとして、天道という人間の謎がまた深まったような気がした。
(ひよりの鯖みそはうまいだろう。わかるぞ)
全然違うことを考えていた天道。イケメンはただ頷くだけで様になる。
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