羽音は誰にも届かず 作:パピヨン
昼休みの聖華学園中等部。
陽光はゆるやかに差し、緑の揺れる中庭を照らしていた。
静けさとざわめきの狭間にあるような空気の中で、白崎透花はベンチに腰を下ろしていた。
手には、文庫本。タイトルは『変身』。
フランツ・カフカ。誰かに薦められたわけではない。ただ、その言葉に惹かれた。
(……変わるって、どういうことなんだろ)
ページをめくる指先が、ふと止まる。
空気の流れが変わった。風が一瞬、逆巻くように巻き込んだ気がした。
(……いや)
目を閉じて、静かに息を吐く。
風は、気まぐれに吹くだけだ。
意味なんて、あるわけじゃない。……たぶん。
「ほら、もっと腕伸ばして! 天道流・絶品弁当のためには、体力づくりからだって言ったでしょ!」
校舎裏手の木陰。明るい声が響く。
天道樹花がクラスメイトを引き連れて、筋トレをしていた。
「うわあ、また始まった……」
「天道さんマジで本気だよね……」
周囲の女子たちはやや引き気味に見守っていたが、樹花は意に介していない。
その姿を、透花は本を閉じながら見つめていた。
(ああいう強さ……羨ましい)
誰かを巻き込むほどのエネルギー。
それは、透花にはないものだ。
(私は……選ばれただけ)
戦うことも、自分で望んだわけじゃない。
ただ、「見過ごせなかった」だけ。
あの時、目撃してしまったから。
自分だけが知ってしまった“世界の裏側”。
そして——
そのとき現れたのが、“それ”だった。
ひときわ強い風が吹いた。
透花の髪飾りが、カチリと鳴る。
まるで、微かな警鐘。
(……来てる)
日常の音に紛れるようにして、異質な気配が近づいていた。
空気が震える。
視線を巡らせると、校舎の裏門へと続くフェンスの向こうに、人影があった。
掃除道具を引いた年配の男性。
だが、その歩き方は不自然だった。
足音がない。重力を無視するような、滑るような足取り。
(また……ワーム)
透花は静かに立ち上がった。
遠くから、樹花が手を振っている。
「とーか! 一緒に戻ろ!」
「……ごめん、ノート……提出し忘れてたの。先に戻ってて」
「えっ? ……あ、うん、了解〜」
ごく自然に交わされた会話。
けれどその裏で、透花はもう“覚悟”を決めていた。
学園裏手。通用門のそば。
木立の陰で、さきほどの「清掃員」が立ち止まった。
その姿は、すでに“人間”の皮を脱ぎかけていた。
皮膚が裂け、甲殻が覗く。
そして——視線が、こちらを見た。
だがその瞬間。
金属の蝶が空からひとひら舞い降りるように現れ、透花の頭上を一周旋回した。
バタフライゼクター——擬態を解き、戦うために飛来してきた小さな相棒。
その羽音が、静寂を切り裂く合図になる。
[Stand by]
「変身」
透花の表情は変わらないまま、頭部にゼクターが止まり、白と紫の装甲が身体を包んでいく。
変身完了。仮面ライダーリュミエール・マスクドフォーム。
地面を踏みしめる音すら、静かだった。
対峙するのは、すでに“皮”を脱いだ完全な戦闘体のワーム。
灰色の甲殻。鋭利に伸びた四肢。
空気を舐めるように身構え、低くうなりを上げる。
そのまま、跳ねた。
踏み込みからの突進。
振り下ろされる爪を、リュミエールは身体を反らして回避。
すぐさま腕を振るい、重厚な装甲のまま一撃を返す。
だが——鈍い金属音。弾かれる。
敵の甲殻は厚く、マスクドフォームの攻撃では決定打にならない。
透花は後方へと一歩退いた。
地面を滑る爪。足元に刻まれる爪痕。
ワームはさらに跳躍。壁を蹴って斜め上から襲いかかってくる。
その動きに、透花は反応する。
左腕を盾に構え、右腕の装甲を展開——衝撃を受け止め、受け流す。
反撃の猶予はない。敵の攻撃は止まらない。
スピードと重量を併せ持つその一撃一撃を、リュミエールはギリギリでかわし続ける。
「……キャストオフ」
かすかに息を吐きながら、彼女はそう告げた。
肩口のゼクターが青白い光を発し、装甲が爆ぜる。
[Change Butterfly]
光の羽が弾け、軽量かつ鋭利なライダーフォームへと変化する。
背から展開される半透明の羽根は、まるで本物の蝶のように空気を揺らしていた。
その瞬間、ワームが再び突っ込んできた。
地面を抉るような勢い。振り上げられる爪。反応の猶予は少ない。
透花の指先が、ゼクターに触れる。
[Clock Up]
空気がひしゃげるような音と共に、世界が変わる。
木の葉が空中で止まり、車の音が遠のき、すべてが緩やかになる。
だが——ワームもまた、動く。
敵の爪が、鈍く、しかし確実に迫る。
クロックアップに対応する能力を持った個体。
透花の動きに合わせて、微細な動きで応じてきた。
(こいつ……この速度に、慣れてる……)
間合いが詰まる。
リュミエールは小さく姿勢を落とし、真横に回避。
ワームの腕が空を裂き、外壁を粉砕する。
その間隙に、透花は切り込んだ。
左腕でワームの脚を払いつつ、右腕でウィングブレードを展開。
素早く繰り出した刃が、敵の肩甲に食い込む。
ギィ、と金属がこすれる音。
完全に貫けなかった。
次の瞬間、ワームが反転してカウンターを繰り出す。
咄嗟に地面を蹴り、跳び下がる。背後の壁に後頭部をかすめる衝撃。
(焦らない……まだ、焦らない)
呼吸を整える。心拍を落ち着ける。
敵の攻撃パターンは読めた。リズムも見えてきた。
ふたたびワームが仕掛けてくる。
斜め下からの跳躍。振り下ろす爪。振り回す尾。
その一つ一つを、最小限の動きで受け流す。
そして——
敵の一撃がわずかに甘くなった、その瞬間。
(……今)
背中の羽根が開く。蝶の光が集束する。
空を裂く軌跡が、彼女の周囲に広がっていく。
「ライダーウィング」
蝶の軌道を描くような光刃が、ワームの身体を縦に裂いた。
時間が元に戻ると同時に、遅れて炸裂する爆発。
熱と灰が巻き上がり、敵の姿は音もなく霧散していった。
静寂。
闘争の気配が消え、透花は装甲を解除する。
ゼクターは、どこからともなく滑空し、再び透花の掌に舞い降りた。
少女はそっとそれを受け止め、髪に装着し直す。
「……ありがとう」
風が抜ける。
羽音だけを残して、戦いは終わった。
放課後。学園前。
「透花ーっ! 遅かったねー」
門の前で樹花が手を振っていた。
透花は息を整えながら、いつもの調子で歩み寄った。
「ノート……先生に渡すの、ちょっと待たされちゃって」
「そっかそっか〜。先生、話長いもんね!」
樹花はすぐに笑って受け入れてくれる。
その優しさが、今は少しだけ苦しかった。
彼女はまだ知らない。
この学園に、世界に、どれだけ“異質”が潜んでいるのか。
でもだからこそ、守りたい。
「……帰ろうか」
「うんっ!」
夕暮れの道を、二人並んで歩いていく。
どこにでもあるような、ありふれた帰り道。
その時間のかけがえのなさを、透花は誰よりも知っていた。
仮面の裏に、決意を宿して——
少女は再び、羽ばたき始める。