羽音は誰にも届かず 作:パピヨン
放課後の図書室。
窓から射し込む夕陽が、机の上のページを赤く染めていた。
静まり返った空間の中、白崎透花は文庫本をめくる手を止める。
(……この時間、好きだったな)
校庭から聞こえる部活の歓声。その熱気とは対照的な静寂のなかで、透花は一冊の本を見つめていた。
表紙には『変身』の文字。
かつて、彼女が文芸部の先輩と一緒に読んでいた一冊だ。
——小坂冴子。
「透花ちゃんの文章、好きよ」
記憶の中の声がよみがえる。
優しくて、静かで、でも芯が強くて。
先輩は、透花が心から尊敬していた人だった。
けれど、一年前の春——透花の目の前で、“先輩の命”は突如として崩れ去った。
学校の裏手、雨の日の旧校舎跡。人通りのない空間に冴子が呼び出されたことが、事件の始まりだった。
透花は偶然、その場に居合わせてしまった。
誰かが冴子に近づき、何かを囁く。冴子は怪訝な表情を浮かべ、そして——
その身体が崩れた。
正確には、“冴子”が崩れたのだった。
皮膚のような何かが剥がれ、灰色の甲殻が覗く。
透花はその場に崩れ落ちた。
理解が追いつかず、言葉も出ない。ただ、喉の奥からこみ上げるものを必死に飲み込んだ。
体が震え、涙があふれ出そうになる。
心の支えだった人が、目の前で、自分の知っていた存在ではなかったと示された現実。
それでも、頭の片隅では理解していた。
それが“冴子ではなかった”と——
——擬態。
テレビや噂、都市伝説のような話で聞いたことがあった。
“ワーム”と呼ばれる、人間に擬態して生活に紛れ込む異形の存在。
(本当に、いるんだ……)
それが、透花が“ワーム”という言葉を初めて現実のものとして受け止めた瞬間だった。
その後まもなく、冴子は“事故死”と報道された。
火災による身元不明の遺体が発見され、家族もそれを受け入れたという。
だが透花は、心の底から信じていなかった。
自分が見たものが真実であると、確信していた。
それから数日後。
透花の家に、銀色の蝶の髪飾りが届いた。
箱に添えられていたメモは、冴子の筆跡によく似ていた。
『あのとき見たものを、忘れないで』
それが冴子本人によるものだったのか、擬態していたワームによるものだったのか、透花にはわからなかった。
けれど、その髪飾りの中には、蝶のような姿をした機械のゼクターが潜んでいた。
あの日から、透花は“戦う”ことを選んだ。
彼女は聖華学園に通う中学二年生。
父は単身赴任中。母とは必要以上の会話をしない、静かな家庭環境だった。
だからこそ、気づかれずに行動するには都合がよかった。
自室でゼクターのメンテナンスを行い、情報を集め、異常な動きを察知した場所へと足を運ぶ。
ZECTにも所属していない。
なぜ自分にゼクターが届いたのかも、わからない。
それでも——自分だけが見てしまった“真実”を見過ごせなかった。
***
図書室の奥、貸出カウンターの陰で、小さな物音がした。
——カタッ。
何かが崩れ落ちる音。
だが、司書も生徒も気づかない。
透花は静かに席を立ち、カウンターへと歩み寄る。
男子生徒が、倒れた本を拾い上げていた。
その背後——
——皮膚が、裂けた。
瞬間的に透花の中に、戦慄が走る。
灰色の甲殻。
(擬態を解除しかけた……?)
だが次の瞬間、甲殻は消え、再び人の姿へ戻る。
完全に変身する前だったのか、それとも一瞬の警戒を解いただけか。
(図書室じゃ、戦えない)
透花は髪飾りに触れるが、変身はしない。
目だけで、標的を追う。
そのときだった。
窓の外から、白銀の閃光が射し込む。
——キィィィィンッ!
ゼクターが飛来。
蝶の姿をしたそれは、音もなく舞い、擬態を解きかけたワームへと急襲した。
衝撃で擬態が完全に崩れ、異形の姿が露わになる。
ドンッ!
小さな爆発。灰が舞う。
ワームは即座に無力化され、残された痕跡は何もない。
男子生徒の姿も——なかった。
そう、あれは“すでに”擬態された存在だった。
その生徒自身は、おそらく数日前に命を奪われていたのだろう。
透花は、ただ席に戻った。
誰にも気づかれないように。
何もなかったように。
床には、一枚の光の羽根が落ちていた。
***
その夜、
部屋の窓際にて、透花は髪飾りをそっと外し、ゼクターを見つめる。
言葉は交わさない。
ゼクターはただ、静かに羽根を震わせる。
それでも、透花にはわかっていた。
(……ありがとう)
机の脇には、冴子とのツーショット写真が置かれている。
冴子が本当に死んでいたのか。
それとも、擬態されていた本人はどこかで生きていたのか。
あるいは、あのメモを書いたのが、ワームではない“何か”だったのか——
答えは出ない。
だが、透花はそれを追い求める。
(私は、見過ごさない)
静かに、心の奥でそう呟いた。
日常の中にひそむ異形の存在。
その真実と向き合い続ける、孤独な戦い。
それはまだ、誰にも知られぬまま——
静かに、続いていく。
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